不思議なことですが、使徒たちもまた、復活のイエスに会ったようなことを話していたといいます。ペトロがそれを見たのだ、と。しかしルカはこのペトロの出会いについては語りません。ほかの福音書に書いてあるからでしょうか。ルカはあまりそれは意識していないと思います。できれば、マルコの福音書に引退を言い渡して、代わりに自分の福音書こそこれからの時代に用いられるべきだと考えていたのだろうと推測します。ドラマ性からすると、使徒のもとに現れたというのが一番効果的であるように思われるのに、ルカはその最初の、使徒との出会いを省きます。想像させる目的もあろうかと思いますが、へたに描くと、そこに使徒の失敗を記さないといけないことに気がついたのではないでしょうか。それとも、ペトロを立てるためにひょいと書いてしまったのでしょうか。この後、この現場に復活のイエスが現れることになります。「そして」の流れの中で、「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ24:35)とその場を描きます。二人は、イエスとの出会いを使徒たちに報告します。こうして、必ずしも使徒たちではない人々へも重要な事件があったことが分かります。あるいは、クレオパなる人物が重視されることになるのでしょうか。あるいはそれは、ローマ帝国の方から見て、「あのクレオパなのか」と思わせるようなことがあったのでしょうか。なにもかもが想像ですけれども、無為に名前が出たとも思えません。そしてこのように重要な役割を与えられているのです。ルカにとり、そしてルカの目的の一つである帝国権力への歩み寄りにとって、これは何か意味があったと思われるのです。