エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

私はある

2010-12-31 | マタイによる福音書
 イエスはまた、かつての預言にあったように、「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:23)というその名のごとく、今「いつもあなたがたと共にいる」というフレーズですべての言葉を結びました。復活したイエスは、その後どうなったのかという点について、ルカはその福音書並びに使徒言行録の中でひとつの説明を完遂していますが、マタイはそのような物語は展開しません。むしろ、復活したイエスがそのままずっといつも私たちと共にいるかのようです。マタイの教会においても、そのようにずっとイエスがいるという意味をもっていたのかもしれません。見えはしないし、触ることもできない。けれども、イエスはたしかに、私たちと共にいるのです。
 この表現は、「あなたがたと共に」というフレーズを挟んで、「私は・ある」の語が配置されています。ヨハネの福音書においてこれはこよなく意味深い大きな言葉として意識されなければならなかったのですが、マタイではそれほどではないのでしょうか。いえ、やはりそれは、ギリシア語であるとはいえ、神の御名としての響きを、もつであろうと思われます。律法にうるさいマタイであればなおさらです。マタイにとっては、イエスに従い教会に属するすべての人と共に、まさに生きた神が存在するのです。
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「いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)

2010-12-30 | マタイによる福音書
 ついに最後の言葉になりました。イエスは満を持して告げます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
 ここでいう「世の終わり」がまた、マタイの真髄を示しているかと思います。それは単に終わりなのではなくて、「完成」です。律法の成就なのです。たしかに文の頭には「そして見よ、私は共に」と始まっているのですが、福音書の最後の最後のフレーズが「世の終わりまで」なのです。この言葉が余韻を残して、読者の胸に、この福音書が何を伝えようとしたのかを響かせようとしているのは間違いありません。
 オリーブ山に座るイエスの姿がかつて描かれていました。「その日、主は御足をもって エルサレムの東にある オリーブ山の上に立たれる」(ゼカリヤ14:4)とあるように、再臨の救い主が立つ場所として相応しい場所です。もちろん、「山」がマタイにとり特殊な意味で用いられていることも周知のことです。そのとき「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(マタイ24:3)と弟子たちが尋ねていました。この問いに対する答えは、そのときには目に見える現象が並べられていただけのように聞こえたかもしれませんが、その締めくくりにこうイエスが、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24:14)と告げていました。まさにこれが、今結論として置かれたようなものです。この時を目指して、イエスの弟子は、ひとつの組織に連なりつつ、地上でこの命令に従った旅を送るのです。多分に、律法の完成を以てすべての終わりと見なして。
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割礼ではなく洗礼

2010-12-29 | マタイによる福音書
 また、本来ユダヤ教の必要条件である「割礼」ではなく、「洗礼」が置かれている点にも注目すべきです。割礼という、ユダヤ教の規定ではない、新たなマークが要求されていたのでしょうか。イエスの教えに、この割礼ということがもはや意味をなさなくなっていたことに、気づいたのでしょうか。それとも、割礼は当然の前提としてありながら、その上になお、水に死ぬことを一つの儀礼として確立していくことが、マタイ教会のアイデンティティとなると見なされたのでしょうか。
 パウロはすでに、この割礼の有無で問題を起こしています。マタイもそれを知らないことはないと思われます。あるいはまた、パウロの問題をすでに解決したものとして、割礼は完全にスルーしているということになるのでしょうか。
 ところで、命じておいたことは、守らなければなりません。ここにも、マタイ教会の権威が感じられます。マタイのグループに、この天においてまた地の上での権威が授けられていることになるからです。このことを、ペトロに結びつけていけば、当然カトリック教会の教義にまっすぐにつながっていきます。マタイの福音書が重視される所以です。
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「父と子と聖霊の名によって」(マタイ28:19)

2010-12-28 | マタイによる福音書
 それからイエスの言葉は、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)と続きます。洗礼を授けるときに今でも使うフレーズ「父と子と聖霊の名によって」がここに根拠をもつことになるわけですが、「名によって」は、原文では、生き生きと運動するニュアンスがわざわざ用いられています。「名において」の原語が、さらに動きを包含する感覚で使われているのです。信じた人々に洗礼を施せ、そうして父と子と聖霊の名の中へと加わらせるのだ、という感覚だと思います。さらに、この洗礼というのは、水に浸すということであり、溺死させるというほどの力をもつ語ですから、これまでの自分に死んでしまい、清められ、新たにこの父と子と聖霊との名の交わりの中へ加わっていくようにせよ、というほどの迫力をもってこの語はぶつけられていることになるはずです。でなければ、マタイがいよいよ最後の最後にとっておきのイエスの言葉として配置するはずがありませんから。
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マタイ教団の運命

2010-12-27 | マタイによる福音書
 それはまた、マタイ教団の運命をも示唆していることでした。マタイ教団は、もはやユダヤの地域に戻ることができなくなっていたのです。ユダヤの伝統的律法主義を大切なものとして掲げなければならないにしても、それを元のユダヤに持ち帰ることは、二重の意味でできなくなっていました。ローマ軍に神殿が荒らされもはや立ち入ることもできないほう゛の崩壊し尽くしてしまったこと、そして、当のユダヤ教自らが、マタイたちを迫害し追いかけ回していることです。そんなユダヤ教ではない、ファリサイ派が掲げる教えではない、新しいこのイエスの教えに集まる集団こそが、真に神のことを教え、神の心を実現する、天の国の実現のための道であると確信したマタイ並びにその周囲の者たちが、この福音書をまとめ、人々にその正当性を訴えかけているわけです。
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大宣教命令

2010-12-26 | マタイによる福音書
 また、「行く」という語が先頭に立ち、強調されています。まず弟子たちは、行かなければなりません。まず行くのです。それから、すべての民族をイエスの弟子とすべく働くのです。弟子というのは、イエスとそれに従う者との関係を強く示す語です。この文脈では、もちろん十二弟子に限定したものを指しているのではありません。さらにマタイの気持ちを汲んで言えば、すでにユダヤ教とは分離独立したキリスト教の指導者たちが伝える、キリストの教えに従って生きよ、ということですから、このマタイの共同体に従順に属していくことが、弟子としての言葉に相応しく生きていくことを表しているに違いありません。
 これを、「大宣教命令」だとして、教会は、福音を伝えることへの主の指令と受けとめてきました。歴史的に、そのことがあるゆえに、宣教師が世界各地へ繰り出していったことになります。それは人間の望みや、たんなる教派の拡大といった動機だけでは説明できないことです。また、ユダヤ教が民俗宗教に留まり、あくまでも枠内での伝統遵守と選民主義に貫かれた、どこか閉鎖的なあり方を続けていくのとは対照的に、キリスト教が世界宗教と呼ばれるほどに、外部に進出拡大していったことの大きな理由になっているのも事実です。はっきりと、異教徒もすべて含む形で、宣教せよ、出て行け、と命じられているからです。
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「一切の権能」(マタイ28:18)

2010-12-25 | マタイによる福音書
 イエスは、「近寄って来て言われた」(マタイ28:18)とされています。イエスは、恐れながらも喜びをどこかに有している女性たちを、出迎えました。復活のイエスに会いたいと集まった弟子たちに、近寄って来ました。イエスのほうから、近づいてきてくださるのです。
 イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:18-19)と語り始めました。このイエスの言葉でマタイは筆を置くつもりなので、荘重に語られているように見えます。「天と地の」とあっさり片づけられていますが、「天においても、地の上でも」と使い分けていますから、マタイの配慮を味わいたいところです。イエスには、あらゆる権威が授けられています。マタイが21章で幾度か用いた「権威」という語です。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」(マタイ21:23)というユダヤ教権力者たちの問いに対する答えが、いまここになされたようにも見えます。
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「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)

2010-12-24 | マタイによる福音書
 弟子たちは、墓にいないイエスの事実を目撃したことで、信仰を確立することはできなかったものと思われます。大切なことは、「イエスに会い、ひれ伏」(マタイ28:17)すことです。会うというのは、きわめて日常的な「見る」という語ではありますが、ここでは確かに会ったのです。ひれ伏すというのは、やはりその実際の行動が重要なのではなくて、礼拝していることをいいます。イエスに出会い、礼拝すること。イエスを崇めること。マタイは究極のところ、そこに救いを見出します。
 そこには「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)と記されます。何かの資料にあったのかもしれませんが、弟子たちを貶めたくないマタイは、これを詳述することはありませんでした。マタイを読んでいたという確実性のないヨハネが、トマスの疑いのありさまを描いているところをみると、どうやら、弟子たちの中に疑いを挟んだ者がいたことは間違いないようです。マタイのこの疑いを示す言葉は、疑惑や疑念というよりも、二つのものの間をどちらにするべきか迷っているという様子を示していると言われています。それは、読者の姿です。ここまで福音書を読んできた読者は、はたしてイエスを信じるのか、イエスを信じて教会のバプテスマを受けて、教会に従い生きようとするのか、そのあたりの問いかけに対して、どうしようかと迷っている者に対して、ここにあなたが描かれているのだ、というふうに思わせる効果をもっているようにも見えるのです。
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「山に登った」(マタイ28:16)

2010-12-23 | マタイによる福音書
 そうして女性たちの説明は弟子たちに伝わり、弟子たちは言われたとおりに、ガリラヤに出向きました。いえ、ある意味で、帰りました。「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(マタイ28:16)とあります。どこで指示をしたのか、それは福音書には説明されていません。自然な流れで、実は女性たちにも示されていたのだ、と考えることもできますが、これほどまでに大切な情報を削除する理由もあまり考えられません。たしかにガリラヤに多大な関心を寄せるマルコと異なるマタイではありますが、どの山であるのか、教えてくれてもよさそうなものです。もはやイエスの直接の弟子たちから情報を得ることができなかったのでしょうか。それとも、マタイにとり、「山」というのが、神が何かを語るときに相応しい「座」として用いられていることからすると、これはあの山上の説教のように、実際の山であるかどうかは別として、たとえば小高い丘であるとしてもよいという背景で、ただ神が威厳を以て人間に大切なことを下すために用いている表現であるのかもしれません。
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「この話は、今日に至るまで」(マタイ28:15)

2010-12-22 | マタイによる福音書
 マタイがどうしてもユダヤ人たちに広まっている、復活についての噂話の由来を著そうとしているわけで、そのために若干話の背後に辻褄の合わないところが生じた、というのが実際のところではないでしょうか。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」(マタイ28:13-14)というのが、その内容でした。たしかに、これはローマ兵です。そしてこれは、ユダヤ人たちの間に広まっている、復活に関して弟子たちの工作があったとする噂がどこから来たのか、を明らかにするためのマタイの弁明のような説明でした。これは金により買収されて発された噂なのである、と。「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」(マタイ28:15)と結論づけるのです。
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「数人の番兵は」(マタイ28:11)

2010-12-21 | マタイによる福音書
 マタイは、例のユダヤ人の番兵の件を忘れてはいません。その疑惑を晴らすことは、マタイの福音書の一つの大きな使命でした。
 女性たちが弟子のもとに行く前に、とわざわざ断っています。「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」(マタイ28:11)と、番兵たちがユダヤ教側に情報を伝えます。直ちに、ということなのでしょう。死人のようになったという番兵たちは、気を失っていたのではなく、事態を見ていたのでした。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った」(マタイ28:12-13)のですが、はっきりと「兵士たち」とあるために、前述のこの番兵たちは何者かという議論においては、ローマ側が提供した兵士であるのではないかと思われます。しかし、兵士であればどうして、上司のローマ側ではなく、まずエルサレム場内の祭司長たちに報告したというのでしょうか。それは一つには、囚人を取り逃がした見張りは命をもって責任を取るというのが、よくあるスタイルであったからかもしれません。ローマに知られるとまずいのです。いったいこのことをどうしたらよいのか、ユダヤ側に相談しました。しかも、命乞いに行ったのではなく、逆にユダヤ側から口止め料をもらうというところにまで発展しています。それでも、このことを言えば、命が危ないのですから、どうも事情を鑑みるにこのあたりのやりとりは、判然としません。
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「恐れることはない」(マタイ28:10)

2010-12-20 | マタイによる福音書
 女性たちは、イエスの足に触れたように描かれています。ヨハネは、マグダラのマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」(ヨハネ20:17)と、恰も触れてはいけないような言い方をしますが、マタイはそのあたりのことを気にはしていません。はっきりと、足を掴んだという表現をとっています。また、イエスの前にひれ伏したと書かれていますが、これは「伏す」という意味は本来ない語であり、いわばワーシップという英語に対応するような感じだとされています。神を礼拝したという姿勢をはっきり示しているのであり、崇めている姿を伝えます。足を抱えて土下座しているというわけではないのです。女性たちはそのイエスをイエスと認識し、神として礼拝しているのです。
 イエスは女性たちに「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)と、改めてガリラヤで大切なことを弟子たちに告げることを言い渡します。弟子と言わずに「兄弟たち」としています。復活により、それまでのたんなる弟子が、兄弟たちという関係になる、と理解する人もいます。ただ、もしかすると、読者全般に告げ知らせる意味をこめているのかもしれません。弟子とすると、福音書に描かれたあの弟子たちに限定されて読まれるかもしれません。しかしやがてイエスが宣教命令を下すのは、この福音書を読んでいる読者すべてに対してです。あなたにもこう命じているのだ、とリアルに感じさせるには、弟子たちと限定しないほうがよかったのではないでしょうか。
 幾度も「恐れるな」という意味の言葉が出されます。女性たちは「恐れながらも大いに喜び」とありましたから、恐れることが削除されると、もはや喜ぶことしかありません。
 それにしても、こんなにすぐにイエスが現れるならば、あの天使たちがどうしても登場する必要があったのだろうか、とつい思ってしまいます。イエスが直接墓から出てきてもよかったのではないでしょうか。やはり、「墓にいない」ことを明示することの大切さが、そこに隠されているような気がしてならないのですが、どうでしょう。
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「おはよう」(マタイ28:9)は「喜べ」

2010-12-19 | マタイによる福音書
 このとき女性たちは、まだイエス自身には出会っていませんでした。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(マタイ28:9)とマタイは記します。ここにも「見よ」という、注意を促す語が混じっています。イエスが出会ったのです。まるで、出迎えるようなイメージを含む語です。イエスは、イエスのほうから、私たちに会おうと待っているのです。そして、その口から言葉が発されました。ちょっと「おはよう」はのんびり過ぎます。「ようこそ、こんにちは」という挨拶です。元来それは「喜べ」という言葉でした。「恐れながらも大いに喜び」(マタイ28:8)の喜ぶ語の動詞形です。パウロがピリピ書で「喜べ」というのは、まさにこの語です。従ってパウロはあの手紙の中でも、「喜べ」と言ったのではなくて挨拶のように言ったのだ、という向きもあるくらいですが、当然大いに喜ぶようにという心が詰まっている言葉であるのは間違いありません。
 これはたんなる想像ですが、イエスはこのとき、「やったね」というふうに、少しばかりいたずらっぽい笑顔を見せて、驚かせたのかもしれません。そんな一コマを思い描いてみるのも面白いものです。
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「恐れながらも大いに喜び」(マタイ28:8)

2010-12-18 | マタイによる福音書
 先に触れましたが、女性たちはマルコではただ驚き恐れただけで、若者の命令に反して、「だれにも何も言わなかった」(マルコ16:8)と語ります。そして世界史上初の福音書の結末は、「恐ろしかったんだから」と結んでいます。その余韻は、ガリラヤへの続きへと読者を誘います。マタイは、律法をこの福音書で完成することが求められていると感じていますから、弟子たちにきちんと後始末をさせなければなりません。その点ルカも、マルコの終わり方に不満だったのでしょう。別の資料を用いて、実にドラマチックに、そしてこちらは異邦人に十分理解できるような演出を以て、イエスの復活を描きました。復活についての証言がいろいろ発見されていったこともあるでしょう。ヨハネのように、また別のエピソードを探し出すこともできました。とにかくキリストに従う人々にとって、この復活ほど重要な出来事はありません。マルコの時にもそうした資料がきっとあったのでしょうけれども、マルコは採用しませんでした。それに不満をもった別の人々が、マルコの福音書の末尾にも、復活のエピソードを我慢できずに書き加えたのですが、それは、たとえばこのマタイの福音書を読んだ者がこれに倣ってまとめたフレーズが含まれていたり、ほかの聖書の箇所を組み込んでメシアの復活に相応しい現象を並べたりしたものとなっています。マルコの福音書が価値あるものとして尊重されたが故の書き加えなのでしょう。
 マタイは「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28:8)と描きました。恐れは当然あるのでしょうが、喜びがそこにありました。これは後のクリスチャンたちの心情を重ねていると言えるかもしれません。また、天使の命令ですからそれに逆らって黙っていることなどできません。私たちは、神の御告げには従わなければならないのです。
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マタイとマルコのガリラヤの差

2010-12-17 | マタイによる福音書
 弟子たちに知らせるように、と命じられるのも、実はマルコにもある言葉でした。ペトロを重視するマタイとしては、マルコにあったペトロの名をわざわざ削っている点が不思議に思われます。たんに弟子たちに知らせよ、と変更しているのです。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』(マタイ28:7)というのがそのメッセージです。マルコと比べ、復活したことが再び強調されています。かねて言っていたのかどうか疑問であるので、マルコにあった「かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ16:7)は表現を変えているのでしょうか。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マルコ14:28)とマルコで触れていた点を、マルコは復活の場面で強く表に出して来ているのですが、それは実はマルコの主張の中心にあるものと見なされうるものでした。マルコのイエスは、ガリラヤが舞台なのです。しかし、マタイにとり、ガリラヤのイエスが救い主の中心ではありませんでした。たしかに、マタイも「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マタイ26:32)と、マルコと同じシーンでこのフレーズを用いています。しかし、マタイはガリラヤから外へ広がっていく宣教を想定しています。マルコのように、ガリラヤにおいてこそイエスに会えるのだ、というメッセージ性は全くありません。ですから、ガリラヤに「先に行く」という言葉も、マルコが、弟子たちの歩みの前をつねに先立ち導くという意味をこめているのに対して、マタイはたんに、今先に着いているよ、という程度の意味しかこめられていないようになっているように感じます。
 マタイの天使はこれに付け加えて「確かに、あなたがたに伝えました」(マタイ28:7)と締めくくっています。なかなか律儀な天使です。「見よ、わたしはあなたがたに言った」という文です。
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