エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

コリント教会はだめな教会なのか

2018-10-19 | メッセージ
コリント一1:10-15 
 
むずがゆいような挨拶を終えると、パウロは早速本題に入ります。コリント教会への苦言があふれ出すのです。まずは分派騒ぎです。このダメージは大きいとパウロは考えているのでしょう。教会が教会として成り立つために、根底が定まらないと何もできないからです。教会は一体誰を中心に置いているのでしょう。土台が狂えば、もはや建物は建ちません。
 
パウロは主イエス・キリストの名を中央にすべしと宣言します。しかしめいめい好き勝手な主張をして、一つになっていないのではないかと指摘します。意見の対立だけならまだしも、分派となると、崩壊への道となるからです。パウロがここに描いている通りだったとすると、コリント教会はまことにお粗末な教会であったようにしか見えません。
 
手紙ではこの後、結婚問題や偶像に捧げた肉などについて細かく言及します。確かに情けない有様であったというのは本当なのでしょう。けれども手紙の冒頭の挨拶ではあまりの褒めようです。浮いてしまっています。となると、パウロはもしかするとどこか大袈裟に非難して言っているのかもしれない、とも考えました。
 
つまり、私たちがこれを真に受けて、コリント教会は酷いところだ、と蔑むような眼差しを向けるとすれば、そこに罠があるということになります。コリント教会を見下して、私たちはまともだと自負する危険性を知るべしということです。むしろ、これは今の私たちの教会の姿だと捉えたほうが、適切な読み方だと言えるような気がしてならないのです。
 
キリストが幾つにも分けられてしまったとでもいうのか。それほどに教義の差や儀式の仕方で背を向け合い、交わろうともしない。恐らく信徒どうしは、へぇ違うんだね、と笑い合えるような間柄でいられるようなところを、指導者や責任者たちが、礼拝を共にできないとか、教義が納得できないとか、反発しているという図式が生じていないでしょうか。
 
相手の捉え方が間違っているのだ、と自分の教会の説教で語り、あれは違う、許せないとまで信徒に植え付ける。そうしてそちらへ出て行かないように囲むかのように。一体、コリント教会どころでの騒ぎではありません。少なくとも、歴史上の教会は、そのようにして歩んできたと見てもよいのではないかと思うのです。
 
コリント教会では、人を殺したというふうには書かれてありません。ハラスメントや性暴力が横行したようには見えません。金を横領したような気配もありません。パウロも誰も、そんな非難はしていないのです。金銭欲に支配された指導者の姿も見えてきません。現代の教会の中には、そんなことは幾らもあるのに、です。ファリサイ派を見下すのと同様、私たちは何か間違っているのです。
 
 
さて、兄弟たち、
わたしたちの主イエス・キリストの名によって
あなたがたに勧告します。
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、
心を一つにし思いを一つにして、
固く結び合いなさい。(コリント一1:10)
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理想の妻

2018-10-17 | メッセージ
箴言31:10-31 
 
箴言。諺や教訓を集め編集したものですが、それが最後の最後で女性の称賛で終わっていることを、どう見たらよいのでしょうか。美しい女性賛歌です。良妻の姿がたっぷりと描かれています。それがアルファベット詩という形で展開し、後書きもなしに箴言が閉じられます。女性を大切に扱っているようでもあり、付け加えのように見えないこともありません。
 
王たる者が、女や酒に現を抜かしていてはならない、という戒めが直前にありました。それ自体はこの箴言でよくある内容なので驚くことではないのですが、女に気をつけろ、と来てすぐに、妻たる女はこんな者がすばらしい、と掌を返すように褒めています。王であれどうであれ世の男、夫たる者は、別の女でなく、こんな妻にこそ留まれと言いたいかのようです。
 
この女というのは妻の姿です。そもそも女と妻とを区別しないで表現するような文化でしたが、ここにある称賛内容は、家庭の女であり、夫の家のために働く女の労を並べているばかりでした。夫にとり、こんなに都合のよい女はほかにないでしょう。男の理想の女がここにモデルとして挙げられているだけなのかもしれません。
 
恰も良妻賢母の鑑として、模範の像が掲げられていたかつての神国日本の女性教育の時代をのように、女はかくあるべしと、ありもしない理想像を押しつけられていやしないでしょうか。そんなことを警戒してもよいでしょう。男にとり素晴らしい女性。社会的にはその考えや立場は何ら決定権を持ち合わせない女の姿が背景にありました。
 
町の門のところで公の立場に立てるのは夫だけでした。妻は家庭内の切り盛りに終始します。衣服を誂え、食を確保し提供します。農作業で家計を支え、援助をも施し、商売もします。愚痴を漏らすことはなく、ひたすらよく働きます。見た目の美しさのために浪費するような真似はしません。こんなすごい女性に対して、知恵ある書き手は最後に何と言っているでしょうか。
 
女が自分の手で得た実を報いて公にほめよ、というのです。自分で稼ぐ分を己れの誉れとしてよいぞ、というのが報いだというのです。ほかに祝福はないのでしょうか。男は、口先でその業を素晴らしいと声をかけて終わりです。これが結婚であり家庭であったのでしょうか。箴言が締め括る理想の妻ですが、神は私たち人間一般に、こうあれかしと求めているのではないでしょうか。


有能な妻を見いだすのは誰か。
真珠よりはるかに貴い妻を。
(箴言31:10)
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父母の教え

2018-10-15 | メッセージ
箴言6:20-23 
 
父の教えのみならず、母の教えも重んじる。教育は父の役割とされていたユダヤの伝統の中で、母の教えという扱いが実はちゃんと表に出ていたことに気づきます。この先、悪い女に引っかからないようにというのは、父親が息子に注意を促すものなのでしょうが、二行単位で対比がなされているという理由以上に、父母それぞれの大切さが挙げられているものでしょう。
 
心と首、これらも一つのペアであるから、結局同じことを言っているのだ、という理解をすべきなのかもしれませんが、心に結びつけるというのは、心が決してそこから離れないということを誓わせているのであり、首に巻かれたものは、命を奪わんばかりに頸を締めるものとして、違反したときに働くものだと言えるでしょう。
 
日中に歩み動くときのリードとして父母の教えは作用し、寝起きに伴いアドバイスしてくれるものとなります。こうして対比が続く中で、果たしてそれはただ父母の教えだけなのだろうかという気になってきます。ユダヤの家庭において、これはこれで一つの知恵であり教育として成立するものであったかもしれませんが、異国の現代においてそれは神の霊が導く神の言葉として受け取るべきものと理解されうるものでしょう。
 
果たして私たちの心にそれは結わえ付けられているでしょうか。それは一日中、四六時中そうであるはずのものでありますが、そうなっているでしょうか。「いつも」でしょうか。私が意識をもって目覚めているときはつねにこの呼びかけがあるのです。聖書の言葉が私に投げかけられています。眠っている時には自覚がありませんが、その守護の下にあります。
 
聖書の言葉は、行く道を照らす光となっています。この光なしには人は歩くことができません。暗闇へ迷い出て一歩も先へ進めない人の性を突きつけられます。子にとって、懲らしめられたりサトされたりというのは面白くないものでしょうが、これがあってこそ命が保たれます。命を至る道が分かるというものです。
 
聖書は人にとって、耳の痛いことを告げてきます。痛いと思わなければ嘘です。自己欺瞞の者には痛みが感じられません。神からの言葉は私にとって痛い。そこに甘さや快さを覚える場合があることを否定はしませんが、薬は毒でもあるのです。毒の力がないものは薬として役立ちません。人は皆子どもの立場です。神という父母の教えはありがたいものです。
 
 
わが子よ、父の戒めを守れ。
母の教えをおろそかにするな。
それをいつもあなたの心に結びつけ
首に巻きつけよ。(箴言6:20-21)
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カルト宗教の基本図式

2018-10-13 | メッセージ
フィリピ3:8-16 
 
信仰はよく、委ねることだと言われます。自分から何かを欲し、じたばたとするのは人間的なことであって、神の言うままに従うことこそ信仰である、と。実際聖書を読むと、まさにその通りだと思えるような記事がたくさんあり、自分の思いを優先することは不信仰であると思ってしまうことがあります。また、指導者がそう告げることがあります。
 
自分を捨てること、自我を放棄することが神の祝福なのだ。確かに、修道院でそのような教えがなされることはあるでしょう。少なくとも、ありました。一面の正しさはあります。人が自分で絶対正しい、と言い張ることの貧しさは分かりますし、自分の腹に仕えること、自分を神とすることが戒められて然るべきであることは本当だと思います。
 
私は――と「私」が出てくるとまた問題であるかどうかは別として――、2つのレベル差を意識したいと考えます。自然法的な方面、つまりイスラエルの神の顕現なしにでも人の良心に備えられている善悪の基礎的な判断がもしもあるとすれば、異邦人にも、これはよろしくないと共通に認識されていることはあるのであって、これを犯すことは悪だと見なされます。
 
欲望を最優先して他人や社会を破壊する行為を棄てよ、と命ずることは普遍的に認められることだと言えるでしょう。しかし、そうしたことを守り、純朴に善行に勤しんでいるにも拘わらず、そのことで他人を破壊する、ということも十分起こり得ることだと気づきたいと思います。これがファリサイ派や律法学者など福音書でイエスが闘っている相手たちです。
 
自分は正しい。だから自分の言うとおりにしろ、と威圧します。正しいだけに、言われたほうは逆らえません。カルト宗教と呼ばれるタイプでは、幹部が信徒に委ねよと迫り、信徒を従わせる一方、その幹部は自分を神としており委ねることなくむしろその反対のことをなすという図式になっているのです。
 
残念ながら、キリスト教会というところにも、このような図式が時折見かけられます。それが性暴力の形をとって問題になることも近年しばしばです。だってリーダーは統率を執らなければならない、権威が神から与えられているのだ、そんな言い訳と共に上に立つ者が、自分は神の代理と思い込み、その状態で変質していってしまうわけです。
 
パウロがここで必死に求めている様子に注目します。パウロ自身、救いが与えられているはずなのですが、しかし何とかして復活に到達したいと走っています。賞を目指してパウロも、私たちの横を並んで走っています。カルト幹部にはこれがありません。パウロは完成を信じ期待していますが、だからこそ努めています。キリスト教が律法的にならないための一つの模範でありましょう。
 
 
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、
前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、
お与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13-14)
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キリストの中

2018-10-11 | メッセージ
ガラテヤ3:26-29 
 
ひとはこれまで、養育掛の下で監視されていました。律法の下で閉じこめられていたことをパウロはこのように表現しています。イスラエルの律法はそれほどにひとを枠の中に押し込め、神と人との関係を、がんじがらめの中で動けないように思わされていたというのです。けれども、イエスの出来事が、すべてを変えました。いまはもう違います。
 
「なぜならあなたがた全ての人が神の子なのだ。信を通して。キリスト・イエスにおいて」というようにギリシア語は並んでいます。邦訳は様々です。新共同訳は「キリスト・イエスに結ばれて」といういつもの趣味。「キリスト・イエスと一致して」がフランシスコ会訳。岩波訳が「キリスト・イエスにある信仰を通して」としており、新改訳2017は「キリスト・イエスにあって」となっています。
 
この曖昧さが聖書の魅力でもあります。その都度別の見方で聖書の言葉が自分に働いてきます。一意的に決定する必要はないとも言えます。信じる者が神の子とされるという扱いは共通で分かりやすいですが、その背景には、信を貫いていることがあるのと、キリスト・イエスの内に(en; 英語で言えばin)あることとが前提となっているような書き方です。
 
次の文は「なぜならキリストへと水に浸けられたそれほどにまであなたがたはキリストを着たのであった」のような内容です。キリスト「へと」は、eis; 英語で言えばins が使われていて前文とは違うのですが、フランシスコ会訳は同じ「一致して」としていますし、新共同訳はどちらも相変わらず「結ばれて」と区別しません。鈍感な印象を与えますし、またそれでは限定的すぎるような気がします。
 
新改訳2017は「キリストにつく」と工夫を凝らしていますし、岩波訳は「へと」を適切に使うよういつも心がけています。ダイナミックなものが伝わってきます。私たちは溺死させられるのです。洗礼、バプテスマ、どう言おうと、それは水に沈められかつての自分が殺されてしまうことを意味します。そしてキリストを着せられるというのが奥義です。ミステリーです。
 
それは自由を意味します。もはや地上でどういう人間であるかということは問題になりません。キリスト・イエスにおいて私たちは一つ、あるいは一人であるというのです。そしてキリストのからだに属します。それぞれ個性はありながらも、役割が異なります。それぞれの働きが全体のために役立っています。同じからだの中の存在なのです。
 
かつてイスラエルに啓示されていたアブラハムの約束や相続地といった点も盛り込んで、このまとめに話は収束します。まるで私たちが一つひとつの細胞のように、キリストのからだを構成しており、一人ひとりが生かされています。「一致」や「結ばれ」で囲い込みをする場合ではありません。キリストの世界に私たちは入れられたのであり、いまやキリストの世界を構成しているのですから、共に生かされて生き生きと輝いていられるはずなのです。


なぜならば、あなたがたは、
キリスト・イエスにある信仰をとおして、
すべて神の子たちなのだからである。
実際、キリストヘと洗礼を受けたあなたがたは、
皆キリストを着たのである。
(ガラテヤ3:26-27; 岩波訳)
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妻と夫とが互いに

2018-10-09 | メッセージ
コロサイ3:18-19 
 
原文の表現は、女と妻とを区別しない性質のものなので、日本語でこれを時に女と訳し、時に妻と訳しているのは解釈に基づくものと理解しておきましょう。男と夫も同様です。ぜんぶ女でも、さしあたり読み取れはすると思うのですが、つくづく翻訳というのは難しい作業だと思います。どうしてもひとつに決めてしまわないといけないものですから。
 
社会常識的に、同じ語でもなんら不便ではなかった時代であり文化でした。子どもには性別がないような感覚でもあったのと、子どもはずいぶん早くに大人扱いをされていた、そしてまたとくに女性は若くして結婚させられていたというような中では、確かに変に区別する必要はなかったのでしょう。
 
妻としての立場にある大人の女は、夫の下に立つものなのだとここでも言われています。パウロの考えを踏襲しているとも言えますが、そもそも常識的なことを言っているに過ぎず、わざわざ「聖書」としてこれを言わなければならないのかどうか、分かりません。当然の心得を手紙ないし説教の中に置く必要が何故あったのでしょうか。
 
但し、それはもし付加部分がなければ、の話です。「主において相応しく」と妻に対して告げている意味は大きいものと思われます。これを受け止めるのはもちろんクリスチャンのみです。クリスチャン女性は、それが主にあって望ましいことであるぞよ、と述べているのです。世間的に当然のことでも、主にあってよいことと上乗せするのは珍しいことではありません。
 
御霊の実にしても、望ましくない放蕩の仕業にしても、一般道徳とかけ離れたものではないでしょう。ならば、重要なのは「主にある」ことです。新共同訳はがここで「主を信じる」のように創作して訳す理由は、ちょっと分かりません。フランシスコ会訳が「主に結ばれた者」とするのは、新共同訳にもよくあるタイプの訳でまだ理解はできるのですが。
 
夫の方は、妻にアガペーを注ぐようにと勧告されています。だから妻を辛くさせ惨めな思いを抱くようにさせるな、と注意をしています。夫に従う妻をさらに押しつぶすような仕打ちをするなということでしょうが、もちろんそれはアガペーの精神と対極を成すものでしょう。現実にそんなことをやってしまっていることに気づくのが私たちではありますが。
 
ここにある夫と妻とは、別々に見ることもできようかと思います。つまり、夫婦のどちらか一方だけがクリスチャンである場合にも、それぞれが突きつけられてよいのではないか、ということです。ただ、今は夫婦ともクリスチャンである場合の情景を思い描いてみましょう。エフェソ書の記者はこれを、キリストと教会の関係に展開しました。夫の役割を強調していくことになります。でもここでは、私たちの次元での戒めとして噛みしめておきましょう。


妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
(コロサイ3:18-19)
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奴隷として生きる

2018-10-07 | メッセージ
テモテ一6:1-2 
 
同じクリスチャンだからと言って、この地上で奴隷という立場でいるからには、その主人に仕えるという姿勢を崩してはならない。要はこれです。この世の秩序を破壊するような論理を掲げて、キリスト教がアナーキズムに走ることはよくない、と言いたげです。兄弟という言い方でクリスチャンは神の前の平等を掲げますが、直ちに極論に走るべきではない、と。
 
終末思想が薄れてきました。この書簡が書かれた頃には、いまにも再臨が、終末が、という意識が静まってきています。なかなかキリストは来ない。ならば信じる者たちの共同体、教会はこの世界でどう成り立っていくのか。組織的安定を図らなければ、現実に活動をすることができませんし、人の心を惹きつけることもできないでしょう。
 
キリストの弟子である者同士が、この世界では身分の上下関係にあるときには、至って常識的な判断が下されている、と言わざるをえません。その意味では、わざわざ教えとして神のことばを聴くまでもないものであるのかもしれません。私たちは、聖書の中にあたりまえの倫理を求めているのでしょうか。心が洗われたいだけのことなのでしょうか。自分が正しいと安心したいのでしょうか。
 
イエスは様々な譬えを口にしました。そこからまた、パラドキシカルな言動をぶつけ、人々を驚嘆させ、また敵の憎しみを買いました。思うに、時代が下がるにつれ、そしてイエスとの距離が増すにつれ、この「非常識さ」はどんどん弱くなり、薄らいでいるのではないでしょう。どんな宗教でも言うような教えが平然と告げられ、それに慣らされていく私たち。
 
世で生きるのにそれはもちろん正しいことかもしれません。しかし一言一言がショッキングで逆説的ですらあったイエスの教えとその生き方・死に方が、どんどん「まとも」になっていく。それはそれでよいとは思いますが、それでよいとは思えません。
 
現代でも、この奴隷の図式は成立する、というのが私の持論です。会社の奴隷、家庭生活や人間生活で誰かの奴隷になっている姿があります。学校でいじめられている子がいます。奴隷のような生活に悩む人は少なくありません。自ら命を落とす人さえいます。そこに慰めを与えるのだとすれば、この当たり前の教えも役立つと言うことができるでしょう。
 
けれども、ここに挙げられているのは、主人もキリスト者である場合です。いわば加害側がキリスト者であるならまだしも、この世での辛さはそうでない場合が多いものです。主人の側も奴隷を兄弟として扱うべく使命を帯びているわけではないのです。なお、ここでいう「主人」は、神である「主」を言うときとは違う語です。混同の余地はありません。
 
このように、軛の下にある奴隷の身分の人というのは、現代の私たちにもなぞらえることができますが、読み方によっては、その場合の自分の主人という存在を、キリストに見立てることも可能でしょう。私たちは神の僕です。神が主人です。キリストは私たちを友と呼びましたが、それでもなお、仕える道を見失うことはできないのです。


軛の下にある奴隷の身分の人は皆、
自分の主人を十分尊敬すべきものと
考えなければなりません。(テモテ一6:1)
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アブラハムがイサクを献げた件について

2018-10-05 | メッセージ
ヘブライ11:17-19 
 
ヘブライ書の信仰者列伝は量的に偏っていて、アブラハムとモーセが断然メインとなっています。そのアブラハムの信仰の生涯はいくつかのポイントを挙げることができますが、イサクを献げるシーンはそのクライマックスだとも言えるでしょう。アブラハムの話題が一度終わったかのように見せておきながら、再び「信仰によって」と切り出すのです。
 
イサクを「献げた」と言ってしまいました。イサクは殺してしまっていません。「献げようとした」という表現の方が正確であるはずであり、そのように次には書いているのですが、最初は言い切っています。結果を先取りして言うのは「穴を掘る」「湯を沸かす」のように日本語にもあります。そのような言葉の綾だとこの場合も言えるのでしょうか。
 
アブラハムの心的事実で、これはもう献げたのだ、と考えることもできます。だからこそ神は止めたのだ、と。他方、この父なる神は、御子イエスを献げてしまいました。まさに死に至ったのです。それはよみがえりを前提にしたようなことでしたから、アブラハムもイサクのよみがえりを信じていた、とする解釈をこの手紙は提示していますが、さて、そこはどうでしょうか。
 
しかし旧約聖書では復活ということは特に述べられていません。続編の時代になると少し登場しますが、一般に旧約聖書がよみがえりという考え方をもっていたかどうかも分からないわけですから、キリスト教でいう復活を適用してよいのかどうか、いくら予型という考えがあるにしても、検討の余地があるということになるでしょう。
 
神はアブラハムに、その子孫を星の数ほどに増やすと約束し、契約を結びました。それを実現するためには、いま献げて殺すイサクが生き返るのでないと辻褄が合わないではないか、といった合理的な説明で片づけるべきではないと私は考えます。アブラハムが、目覚めさせるようなところまで計算しているとは考えにくい、と思います。
 
信仰は、打算や見込みでもつものではないからです。ひとの命を懸けて試すようなことでもないと理解します。アブラハムは真摯に神に向き合ったのであり、ある意味で手紙の筆記者も、私たちも、このアブラハムの外から見て、こうではないか、と想像しているに過ぎないのではないでしょうか。いわば他人が安心したいために誰かの心を憶測するかのように。
 
私たちの懐くイメージで、ひとの信仰を、そしてそのひとに与えられた神からのチャレンジや祝福を、収まりのよいストーリーでまとめてしまうことは警戒しなければなりません。テストされたアブラハムが、そのテストに応えたということ以上の言及は控えましょう。確かにアブラハムは「献げた」のです。イエスは、心の中でひとを殺す殺人を指摘しました。私たちは別の意味で、もう人を殺してしまっているではありませんか。


信仰によって、アブラハムは、
試練を受けたとき、イサクを献げました。
つまり、約束を受けていた者が、
独り子を献げようとしたのです。
(ヘブライ11:17)
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主の信任と神の霊

2018-10-03 | メッセージ
コリント一7:25-40 
 
現状維持。パウロがコリント教会に、結婚に関することについて述べる原則はこれに尽きます。少し前にも結婚について語ってから、割礼や奴隷の身分についても、そのままがよいと述べた上で、再び結婚問題に戻って、また長々と書き連ねています。問題を多く抱えたコリント教会に対して、かなりカッカきていたパウロですから、筆もやや落ち着きがありません。
 
現状維持の理由は、時が迫っているからです。今危機が迫っている状態だからです。すでに定められた時が迫っています。パウロの表現は、時が縮められてしまっている、というような言葉で、より切迫感が伝わってくるように感じます。そんな時に、のんびりと新しい長期的計画を構えるゆとりはありません。あまりじたばた変えないほうがよいというのです。
 
コリント教会に結婚に関するトラブルがあったことは、すでに述べられていることからも分かります。でもここでは、明らかに終末意識が高いことが伝わります。長い手紙ですので、一日で全部語り記述するのは難しいでしょう。その時の気分によりムラがあることも理解できます。パウロを心理学的に分析しようとは思いませんが、そこは人間パウロです。
 
自分は「主の指示を受けてはいませんが」と断っています。「命令」とよいくらいのものですが、このようなパウロの手紙をいまの私たちは、神の言葉として受け止めるのが一般的です。聖書信仰、福音信仰と呼ばれるとき、聖書は誤り無き神の言葉とするものですが、その書簡が、主の命じたものではないというのは、一種のパラドクスです。
 
私たちは、時に聖書をすら偶像化することがあります。誤り無きという人間の思想はまさに論理的数学的な真偽問題と思い込んでしまいますが、聖書は写本自体無数にあります。当然食い違いも生じます。その意味では誤りはあることになります。また、自分の解釈を絶対無二のものとするのも、実は聖書でなく自分の思想を神とすることになります。このときには、聖書ばかりでなく、自分をも偶像にしていることになりますが、気づかないものです。
 
人の論理のほうを根拠として聖書を理解してしまう危険性が、実はあるということを弁えておくことは大切です。聖書は正しいと信じているから聖書によると云々、と語り始めるとき、どこからかすり替えが起こっている場合があるのです。これと、聖書から神の言葉を聞くということとは、全く逆のことであるでしょうから、難しいものです。
 
パウロは「主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」と記しています。私たちもこのようでありたいものです。主の信を得ていること、実はクリスチャンとはそういう人のことを言うはずです。イエス・キリストが私を信頼している、この事実を主に向き合って全身全霊で受け止めた者こそが、クリスチャンであるのではないでしょうか。
 
しかし、人間の方が実は主を従えて、主との信頼関係を蔑ろにしてしまうことが、とくに現代人には多いのではないかと危惧します。申し訳ないのですが、結婚についてのここでのパウロは、特に追究するほどの魅力はありません。しかし「神の霊を受けている」と自らを語るパウロとは、同じ仲間でいたいものだと切に思います。


主の憐れみにより信任を得ている者として、
意見を述べます。(コリント一7:25)
わたしも神の霊を受けていると思います。(7:40)
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独りではない

2018-10-01 | メッセージ
創世記2:18-25 
 
アダムが独りでいるのというのは、よくない。人という一般名詞であると共に、アダムという固有名詞でもあるため、訳し方により印象が変わります。ここは人でよいと思います。けれども人一般と決めてしまうと、心苦しく感じる人がいることは確かです。パートナーのいない人生を歩む人がどう感じるか、ということです。
 
これぞ私の骨の骨、肉の肉と呼ぶような唯一無二の相手という限定さえなければ、人は確かに孤独であるよりは誰かと共に生きる、あるいは誰かに支えられたり支えたりして生きるというあり方のほうがよいはずです。助ける者、それは互いにそうありたいものです。そこに私も参与するために、固有名詞のアダムの身になって考えたい気もします。
 
アダムはここで、名づけることをまず始めています。生き物の名を呼ぶことで、助ける者を探していたのです。神は助ける者を造ろうと言いました。そして動物を造り始めたものですから、アダムはその中に助け手がいるものと思ったのです。名づけるということは、一種の支配を示しますから、その動物たちに意味を与えたのはまさにアダムということになります。
 
神はこの名づける行為をじっと見ています。人は動物たちに呼びかけました。ただし神は、そこに助け手がいないことを知っていました。アダムもそれを感じとります。神はアダムをテストしたのでしょうか。安易に動物たちの中に自分のパートナーを見出すのかどうか、試していたのかもしれません。しかしアダムはそれに満足しませんでした。
 
神はアダムに深い眠りを与えました。アダムの意志でなされたことでないことが分かります。神が主導権をとり、女を生み出しました。神のイニシアチブによりパートナーが造られました。人の中からそれは生まれたにしても、人が造ったのではありませんでした。私の中から何かが生まれたにしても、私が創造したとは言わせないためだと受け止めました。
 
人に対する女という言い方が、男と女の相対性を感じさせず、どこか女という存在の立場を従属的に伝えているのは、古代の特徴であるのでしょうか。フェミニズム神学からはきっと議論が起こるのでしょう。人が同時に男を表すという図式は、英語などからしてもそうなのですが、人間の歴史の根本的なところが問われ、また解決されていないことを痛感します。
 
ところで、人の中から抜かれたのは女でしたが、これは命を表す語感がある語です。人は命を他に委ねたのかもしれません。日本語でも「あばら骨」と訳している語については多少議論があります。原語は「脇」をも意味するからです。神は脇を抜き、そこを肉で塞ぎました。人は息を吹き込まれ生きた者となりましたが、命を抜かれ肉で埋められました。
 
脇は骨の骨であり肉の肉、命をつなぐものとなりました。アダムとエバは、父母という自分を産んだ存在をもちません。ですから彼らが父母を離れてということは比較されようがない事柄です。どう読んでもこの二人は例外中の例外なのです。そしてアダムは女に対するときだけ「男」の語に変わります。どうにも整理がつかない場面です。
 

「人が独りでいるのは良くない。
 彼に合う助ける者を造ろう。」
(創世記2:18)
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