エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

呼び集めてのパーティー

2024-11-06 | メッセージ
ルカ15:8-10 
 
失われたものを見出す神の愛を教えるために、ルカは15章で三つのたとえをまとめました。このとき、徴税人や罪人がイエスと共に食事をしているシチュエーションでした。ファリサイ派の人々や律法学者たちがこれに文句をつけたことで、イエスがそれらのたとえ話を持ち出したのです。百匹のうちの一匹の羊を探す話を、最初に話しました。
 
「あるいは」と切り換えてから、次にイエスはもう一つのたとえを付け加えます。登場するのは「ドラクメ銀貨を10枚持っている女」です。ドラクメというギリシア語の銀貨は、ローマのデナリオン銀貨に相当するそうです。だから1ドラクメは、1日分の労賃と見なされます。ルカは、ギリシア文化の中にこの福音書を届けているつもりなのでしょう。
 
十日分の蓄えで生活していたのでしょうか。そのうちの一日分が見当たりません。探すにも力が入ります。灯をつけ、時間も労力も費やします。そうして見つかったとき、「女友達や近所の女たちを呼び集めて」共に喜んでもらうことを望むだろう、とイエスは言っています。確かに一日分の収入があるのとないのとでは、ずいぶん違うでしょう。
 
しかし、女は見つけて得をしたというわけではありません。元々自分の不注意か何かが招いた事態です。見つかると、損をしなかったというだけのことなのですが、隣近所に知らせて人々を呼び集めるほどのことでしょうか。大喜びで、パーティーするような勢いです。羊のたとえは男でしたが、こちらの銀貨のたとえは女がすべて設定されています。
 
友だちも女、近所から来るのも女。女初回のネットワークのなせる業なのでしょうか。生活を実のところ支える女たちの協力意識というものがあるのでしょうか。羊のたとえでもそうでしたが、「一人の罪人が悔い改めるなら」と前提し、「神の天使たちの間に喜びがある」と話を結んでいます。羊のほうでも、友だちや近所の人を集めていました。
 
確かに、羊も銀貨も、人を表しています。いなくなった一匹の羊、見失った一枚の銀貨は、神の前から姿を消したように見える、一人の罪人のことを意味しています。失われた一人は、悔い改めたということで、実はこの絶大な価値が生まれたようです。神の国での喜びが、同時に生まれてもいるはずです。人間だけの世界の話ではないのです。




言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、
神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ15:10)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪人に照明が当たる

2024-11-04 | メッセージ
ルカ15:1-7 
 
イエスがたとえを語るときは、それを語り始める理由や背景が分かることがあります。ここでは、徴税人や罪人がイエスの近くに寄っていました。「ファリサイ派の人々や律法学者たち」が言うには、イエスがこの罪人たちを受け容れているばかりでなく、「一緒に食事をしている」という点が、えらく強調されているように見えました。
 
共に食事をするのは、仲間であるという意識の上でのことです。例の学者たちは、そこで何をしていたのでしょう。同じ食事の席に居たとしたら、一緒に食べてなどいられません。さっさと退場したのではないでしょうか。14:25からすると、一旦招待の場からは外れていますが、14:1でイエスはファリサイ派の議員の家での食事に招かれていました。
 
教えやたとえがその後並べられているから、必ずしもそのシチュエーションに囚われる必要はないのですが、学者たちはイエスと罪人たちとから、少し距離を置いているようにも思われます。ルカはこのとき「文句を言った」と記しています。イエスだけを招いて少し話を聞こうとしたところ、罪人たちが一緒に加わってきたため非難したのでしょうか。
 
ここから、イエスの有名な三つのたとえが始まります。ルカが知る、同じテーマの三つのたとえを、体よくここに並べることができたわけです。こうして先ず、いなくなった一匹の羊を探すたとえ話が語られました。百匹の羊を飼う人は、羊の所有者ではあっても、羊飼いではない可能性もありそうですが、いまは羊飼いということにしておきます。
 
百匹全部のうちの一匹を見失ってしまいました。他の羊は放っておいてもよいから、いないと分かったその一匹を捜し歩くことになります。探す過程に問題はありませんが、見つかった後が重要です。担いで帰り、「友達や近所の人々を呼び集めて」祝宴まがいの喜びようです。罪人の悔い改めが、天上の喜びであると、ルカらしくまとめ上げています。




徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、
「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」
と文句を言った。(ルカ15:1-2)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一度終末への心を

2024-11-02 | メッセージ
テサロニケ二2:13-17 
 
「あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません」の言葉を、伝道者という立場の人は、いつも心に描くものなのでしょう。自分が語った福音が留まり、生きて働いている、というのは、本当に拝みたくなるほどのありがたさなのではないでしようか。テサロニケ教会の人々は「救いの初穂」だと呼ばれていたので、なおさらです。
 
パウロが手ずから救いの言葉を伝え、実った魂のありかが、ここにあります。語った福音の言葉があなたがたを招き、キリストの許へと連れて行ったのです。この責任は重いものです。魂の重さがそこにかかっているのです。どうかこの言葉、この教えを「固く守り続け」てほしいものです。ここにあるのは、祈りだと言ってよいと思います。
 
呼びかけている相手は確かにテサロニケ教会の人々なのですが、こうして呼びかけている空間というものを感じるとすれば、そこは神に包まれている、と言うべき場なのです。パウロ本人が書いたのか、という点では、本書は疑いの眼差しが向けられています。が、キリストの弟子たちが集う教会への注意書きのやアドバイスであることは間違いありません。
 
内容的に決して劣るものではありません。今もって私たちの信仰の指針として読まれ、信用されているものです。教会の伝統の中で、これは伝えられてきた信仰のために相応しいと信じられたものなのです。キリストが近々再臨するに違いないという信仰が、テサロニケの第一の手紙に満ちていましたが、この第二の手紙もそれを踏襲しています。
 
教会のあり方や進み方を、改めてまとめたものとなっています。再臨に対するパウロ自身の切迫さは、その後薄れていったようですが、後継者は、それで消えてはならないと考えたのでしょう。終末論をもう一度表に立てる信仰の言葉が必要と考えられたのだと思います。十字架と復活で終わりなのではない、神の裁きの日が確かに来るのだ、と。
 
イエス・キリストと父なる神とは、少しばかり異なるスタイルであるかもしれません。でも教会の一人ひとりの「心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように」という祈りは、いまを生きる私たちへも確かに向けられており、届けられています。同じ再臨待ちの信仰が、私たちにも必要ではないでしょうか。




そういうわけで、きょうだいたち、しっかり立って、
私たちが言葉や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。(テサロニケ二2:15)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱り果ててしまわないように

2024-10-31 | メッセージ
ヘブライ12:1-3 
 
「気力を失い、弱り果ててしまわないように」キリストの忍耐を「よく考えなさい」というのが、ここでの奨励です。これが実態であったのではないでしょうか。意気消沈する時代でした。教会というものが成立して、どれほどの時間が断ったのか知りませんが、私たちが、太平洋戦争を思い浮かべ戦後の復興の勢いを考えるのと同じくらいの時間差です。
 
キリストがその時代に救いをもたらす事件がありました。その再臨が伝えられました。しかし、キリストを直接知るような人は、たぶんいません。キリストはいつ来るのか、保証もありません。これについては、正に信仰の問題だと言えます。弱り果てた信仰と指摘することが、ぴったりくるような情況だったのではないかと思われます。
 
そのために、と言ってよいでしょうが、前章で、信仰者の列伝を掲げました。「信仰とは」(11:1)と始めて信じることの意義を伝えるために、旧約聖書の信仰者を拾い出し、例示しました。伝える対象のヘブライ人たちなら当然知っており、信じている物語の人々です。そこに、人々は自分のアイデンティティを見るのが当たり前だったことでしょう。
 
そういう人に向けての文書がこの手紙だと考えられています。かの信仰者たちが神の出来事の証人として、私たちの周りを取り巻いています。先人の信仰がいまここで私たちを助けてくれる、というのも奇妙ですが、大いに励まされて然るべきでしょう。それでも、人間にはどうしても罪があり、罪が「絡みつく」という表現もあります。
 
それはまた「重荷」でもあるでしょう。しかし私には、私のために定められた「競走」があります。人生のコースと言ってもよいでしょう。イエスを見つめながら、走りましょう。イエスは信仰の創始者・導き手です。信仰を完成してくださる方でもあります。十字架を忍んだイエス、そしてその事態を呼んだ私たちの罪。罪との戦いが続きます。




あなたがたは、気力を失い、
弱り果ててしまわないように、
罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、
よく考えなさい。(ヘブライ12:3)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相手を尊重すること

2024-10-29 | メッセージ
ローマ14:1-12 
 
クリスチャンは◯◯をしてはいけないのでしょぅか。こんな質問をするからには、かなり素直な信徒であるかもしれません。真面目だから、気になるのです。もちろん聖書にはっきりと書いていることなら、わざわざ訊かないのでしょうが、そこまで明確でないとき、つまり解釈の問題となると、答える指導者によって回答が違うことは十分あり得ます。
 
パウロにも、常々こうした質問があったと思われます。そしてよくある問いという弁えがあったからこそ、ローマ教会へも挨拶代わりに知らせておくことにした、とも言えるでしょう。野菜しか食べない、今でいうベジタリアン、あるいはビーガンというところでしょうか。肉食を断つ主義ですが、特に偶像に献げた肉を気にしていた可能性があります。
 
パウロは、その考え方そのものを拒むのはどうか、と考えているようです。この人なりに神を信じて神を思いつつ思案した結果の判断なのです。その論理自体を否定することを軽々しくしてはならないとするのです。もちろん、逆も然りです。肉食肯定派のことを、単純に否定したり人格をなじったりすることは慎まねばなりません。
 
もし議論になったときも、その弱い側を神は支えるだろう、と勇気づける言い方も見られます。ざっくりいえば、「論破」というつまらない愚かなものを退けている、とも言えるでしょう。この時代から見抜かれていたことをいまだにマウントを取るために使う人間がいるとは、情けないものです。それを面白がる人間も、全く進歩が見られません。
 
もうひとつ、日取りの吉凶を占うような考え方も例示されています。よくある質問だったのかもしれません。あるいは、ローマの文化を気にするケースもあったことでしょう。私たちも、方違えこそしないにしても、大安や仏滅を口にし、星占いを気にかけるなど、まるで変わりません。「おのおの自分の考えに確信を持つべきです」が結論です。
 
「主のために」であるなら、それも一つの信仰の形であってよいのです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」なのです。この構造を崩すことはできません。物事に対する判断は自由ですが、ならば相手の自由を否定することも越権になります。考えた末の論理なら、まずは尊重するべきです。私たちは「神の裁きの前に立つ」身です。
 
ところで、旧約の律法をどこまで基準とするべきか、それは現実的に難しい問題です。律法を完成したり乗り越えたりしたとき、イエスも、変更や徹底を述べました。かといって、律法はすべて無視してよい、という開き直りが勧められるわけでもありません。「愛」という言葉こそ見られませんが、私たちは愛とは何か、深く胸に刻もうではありませんか。




信仰の弱い人を受け入れなさい。
その考えを批判してはなりません。(ローマ14:1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危機を逃れて

2024-10-27 | メッセージ
イザヤ37:21-31 
 
「アモツの子イザヤ」という呼称は、イザヤ書の中で七度現れます。ここでは、ヒゼキヤ王の前に出ることで、どこか改まった態度でいることを表しているのかもしれません。王には、できる限り味方をしています。いまエルサレムは危機の中にあります。アッシリア王からラブ・シャケが使わされ、高官に向けてイスラエルを罵倒する言葉を浴びせました。
 
民もそれを聞いていました。ヒゼキヤ王は民に、彼を刺激しないよう沈黙を守らせましたが、愚弄されたことは間違いありませんでした。ヒゼキヤ王は神に祈ります。この屈辱に耐える王は、神との対話の中に生きるしかありませんでした。これに対してイザヤが神の言葉として応える、ここはそういうシチュエーションとなっています。
 
アッシリア王センナケリブは不遜な態度をとります。しかし、エルサレムこそがセンナケリブを蔑み、罵るのだ、と主の言葉をイザヤは取り次ぎます。その高慢は何か。豪語するのは何ゆえか。イスラエルの地に入り込み、それを荒らして、大地を自由に支配したつもりかもしれないが、そんなことは主なる神には幾らでもできる小さなことに過ぎません。
 
イスラエルの町々を破壊してきたアッシリア王も、主の前には小さな者でしかありません。その「立つのも、座るのも/出るのも、入るのも」すべて知られていることに過ぎないのです。さあ、引き返すのだ。エルサレムから離れるのだ。イザヤは、アッシリアへの裁きを宣言し、それから次にイスラエルの慰めを告げ始めます。
 
作物も、次第に元のような実りがもたらされ、国の経済は回復します。再び人々は、平和を得ることになるでしょう。この後、主の使いが現れ、アッシリアの陣営は壊滅します。センナケリブは退却し、偶像礼拝の最中に二人の息子により殺されます。息子たちも王位には就けませんでした。イザヤは正に神の意を伝え、国は一旦危機を免れたのでした。




アモツの子イザヤは、ヒゼキヤに人を遣わして言った。
「イスラエルの神、主はこう言われる。
あなたはアッシリア王センナケリブのことで私に祈った。(イザヤ37:21)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また見えるように

2024-10-25 | メッセージ
ルカ18:35-43 
 
「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と、盲人は叫びました。群衆の物音に、何事なのか、と物乞いの盲人が周囲の人に尋ねたのです。「ナザレのイエスのお通りだ」との情報を受けて、盲人は色めき立ったのでした。うるさい。人々が叱りつけます。いい歳の男であったであろう盲人は、子ども扱いされています。
 
障害者は一人前の人間とは認められません。不思議なことではありません。今でも同じだと言ってよいくらいです。ようやく少しずつ鎖が緩んできたかもしれない、という程度です。しかしこれにめげる盲人ではありませんでした。ますます叫び続けたといいます。「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と、イエスをダビデの子と告白しています。
 
すでにイエスのメシア性を理解しているような言い方です。言ってしまえば、「信じていた」わけです。イエスはこの騒ぎに立ち止まりました。あの盲人を連れて来なさい。そして尋ねます。「何をしてほしいのか。」これに盲人が応えます。「主よ、また見えるようになることです。」気づかされます。この人は中途失明者であったのです。
 
「また」とは、かつては晴眼者であったからに違いありません。もし、生まれつきの盲であったなら、どうしても見えるようになりたい、という願いが起こらない可能性もあります。盲人としての人生しか知らず、それでいきなり晴眼者になったら、もう自分の手で働かなければなりません。福祉的な扱いも受けられなくなります。躊躇うかもしれません。
 
新たな光の中の生活を受け容れ、慣れるのにも大変な苦労を強いられることになるわけです。しかし、中途失明者であったならば、かつて見えていた体験があります。そこに戻ることは、強い願いであり続けた可能性があります。回復の求めも強いかもしれません。私たちも、かつて有っていたものを失うと、それへの求めや執着は強いものがあります。
 
イエスは「見えるようになれ」と口にします。神の言葉は存在となります。そして「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのは、神こそが救うという意味に聞こえます。盲人はイエスに従って行ったとされています。従うのが許されたのでしょう。この「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」という叫び声は、今も響いています。




「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、
「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。(ルカ18:37-38)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御子イエスと永遠の命

2024-10-23 | メッセージ
ヨハネ一5:10-12 
 
法は、複数の証人によって運用されるのでした。神すら三つの証人をもたらしている、とここでは見ています。霊と水と血とです(5:8)。この神の証しを受け容れるということが、神を信じる者の条件です。神はイエス・キリストを通じて、神の愛と救いの真実を、人に対して示しています。イエスの真実を信じる人は、神を真実な者として認めます。
 
それが、神を信じている、ということになります。逆に言えば「神を信じない人は、神を偽り者として」いるわけです。神の証拠を否み、神の証人であることを認めないからです。御子イエスは蘇ったではありませんか。イエスはすでに永遠の命の中にあるではありませんか。そして、イエスを信じる者にも、その永遠の命を与えているではありませんか。
 
これが、神がこの世界に現した、神の真実です。神の法に則った証拠です。ヨハネの筆致は謎めいています。今の時代、異なる時代の私たちだからこそ、これが分からないのでしょうか。ミステリーなのでしょうか。それとも、やはりヨハネは特別に幻めいたことを言っていると、誰もが思うのでしょうか。「御子を持つ」とは何のことなのでしょうか。
 
信じるということでしょうか。しかし、待つことにより、「命を持って」いることになると言います。ヨハネ伝が、永遠の命を一つの大きなテーマとしていたことは間違いありません。手紙のヨハネ書も、同じ文化の中にあります。ヨハネ伝を標準として成り立っています。「御子を信じる者が一人の滅びないで永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)の言葉です。
 
そのために、キリストが世にもたらされました。神は世を愛されました。「御子を信じる者」こそ「御子を持つ人」であることは確実です。だからこそ「命を持って」いる、と言えるわけです。命が与えられているからです。霊と水と血の三つの証しが、すべてイエスに集約されました。このイエスを、私たちは信じているのです。




この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。
そして、この命は御子の内にあります。(ヨハネ一5:11)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見張り書き記し待ち望め

2024-10-21 | メッセージ
ハバクク2:1-4 
 
「見張りをしよう」と言って見張り場に立つことは、主から命じられたわけではありませんでした。預言者自身の意志に拘わらず振り回された経験が、聖書にはしばしば記されていますが、それとは対照的に、自ら見張りの砦の上に立ったように書かれています。ハバククは、ずっと主に叫び続けていました。「耳を傾けてください」(1:2)と。
 
正義が虐げられていることを主に訴えても、イスラエルは変わらないのでした。「なぜ黙っておられるのですか」(1:13)と神に問うのですが、神は沈黙します。でも、ハバククは諦めていたのではないでしょう。見張り場について、主の言葉を待っています。「主が私に何を語り/私の訴えに何と答えられるかを見よう」と自分に言い聞かせるかのようです。
 
直ちに、ではないかもしれませんが、主はこれに応答します。「この幻を書き記せ」というところから始まって、それが「終わりの時について告げるもので」あることを伝えます。訳語が聖書によりいろいろ異なるので、訳出が難しいのでしょうが、ここでは「一目で分かるように」板の上にはっきりと記すよう促されています。
 
「それを読む者が走るために」との註が、ここにも入れられています。他の訳では「走りながらでも読めるように」というのもありました。それぞれだいぶ意味合いが違うように見えます。主の言葉が人々に明示され、実現を待つことが求められているのは確かだと思うのですが。ともかく終末の出来事が知らされます。但し、時期は定めません。
 
終末の実現は「たとえ、遅くなっても待ち望め」と言いますが、「必ず来る」と付け加えます。いまの私たちに投げかけられている預言も、そういうものでしょう。「高慢な者」は「正しくない」のであり、主の言葉を受けそれを信じるべきなのです。「しかし、正しき人はその信仰によって生きる」のです。否、信仰に生きることこそ正しいのでしょう。




私は見張り場につき
砦の上に立って見張りをしよう。
主が私に何を語り
私の訴えに何と答えられるかを見よう。(ハバクク2:1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもと神の国について

2024-10-19 | メッセージ
ルカ18:15-19 
 
「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とのイエスの言葉は、大人である私には厳しいものに聞こえます。でも、子どもにとってはどうでしょうか。これを聞いて自慢げに思うでしょうか。子ども時分にこれを私が聞くことがなかったので、永遠に分からない謎であるかもしれません。
 
単なる想像ですが、子どもにとっても決してこれは居心地のよくない教えであるような気がします。それが、罪を知る、ということに関係するからです。イエスの対象は「乳飲み子」なのでした。否、乳飲み子も含まれていた、と言うべきでしょう。弟子たちがこれを叱ったのは、どういうシチュエーションなのか、いまひとつ思い描けません。
 
イエスに触れてもらおうと騒がしくやってきたのか、他に大人たちがいたのか、もうひとつピンとこないのです。それで確証はないのですが、イエスはむしろ、これを呼び寄せたと言いますから、おそらく親たちに抱えられたままであったと推測します。手を引いて歩いて来た子がいるかもしれません。とにかくイエスが呼んだのです。
 
それは、神の呼びかけということです。人にとり、それがどれほど大きなものであるか、旧約聖書を知る私たちは痛感することだろうと思います。召命とまでは言えないにしても、神の召しを受け、祝福されることをそれは意味しています。この呼びかけは、ヨハネの手紙が信徒へ「子どもたちよ」と呼びかけていたことを思い起こさせます。
 
だからこれは、私を呼んでいるのだ、とも言えます。「神の国は、このような者たちのものである」という言葉が、うれしい知らせに聞こえて仕方がありません。マタイと違ってルカは、「天」とは言い換えず、「神」の国だとはっきり言います。神の支配の内にあり、神と結びついた姿を意味します。神と共にあることをもそれは含んでいます。
 
神の愛に満ちている、そこまで思い描くのは、行き過ぎでしょうか。「子どものように神の国を受け入れる人」が、子どもであることを強調しているのか、神の国を受け入れる人であれ、と言っているのか、解釈は分かれるかもしれません。でも神との関係を、自分の弱さや無力感の内に実感できることは、必要であるのだと思います。




よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(ルカ18:17)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする