マルコ8:33-38
イエスが「殺され、三日の後に復活する」(8:31)と弟子たちにはっきりと教え始めたところ、ペトロは驚き呆れたのか、「イエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(8:32)のでした。ペトロがイエスを叱ったのです。実は大切な、この背景を欠いたところから読み始めていました。そのとき、この情景の演出に目を開かれる思いがしてきました。
ここには「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」とありました。わざわざ振り返ったのです。そして弟子たちに視線を送っている状態で、こっそりと自分だけに、そんなことを言ってはならない、というようなことを告げたペトロを、今度はイエスの方が叱ったのでした。
イエスをいさめたペトロだけに言ったのではなく、この機会を、弟子たちすべての教育の場として用いたようでした。群衆にも、弟子たちにも、イエスは伝えます。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と。イエスの死と復活を共に否定したペトロの発言を、「サタン、引き下がれ」と強く退けたのです。
「神のことを思」うならば、死と復活はひとつの既定路線であり、救いの道である、と知るべきなのでしょう。でも、私たちが後の時代からそう見渡しているのと、現場にいた弟子たちとは、当然違います。私たちは、「答え」を知っているのです。「人のことを思っている」というのは、人間的な論理や思いなしというもののことなのでしょう。
さらにイエスは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」のですから、これはパブリックな、つまり公的な教えだったと言えます。この場面で、私はどこにいるでしょう。群衆の一人かもしれません。できれば、弟子のうちの一人でありたいものです。まず、イエスの視線を受けています。イエスから、命の言葉をも受けています。
だからこそここに、「自分の十字架を負って」イエスに従い、イエスと福音のために「自分の命を失う者」となることで「自分の命を救う」のだ、という逆説を見ます。この時代は罪深いものです。神に背いています。死と復活を否むのも、そのひとつです。イエスとイエスの言葉を恥じてはなりません。つまりペトロは恥ずかしいと言っていたのです。
神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、
人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、
その者を恥じるであろう。(マルコ8:38)
イエスが「殺され、三日の後に復活する」(8:31)と弟子たちにはっきりと教え始めたところ、ペトロは驚き呆れたのか、「イエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(8:32)のでした。ペトロがイエスを叱ったのです。実は大切な、この背景を欠いたところから読み始めていました。そのとき、この情景の演出に目を開かれる思いがしてきました。
ここには「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」とありました。わざわざ振り返ったのです。そして弟子たちに視線を送っている状態で、こっそりと自分だけに、そんなことを言ってはならない、というようなことを告げたペトロを、今度はイエスの方が叱ったのでした。
イエスをいさめたペトロだけに言ったのではなく、この機会を、弟子たちすべての教育の場として用いたようでした。群衆にも、弟子たちにも、イエスは伝えます。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と。イエスの死と復活を共に否定したペトロの発言を、「サタン、引き下がれ」と強く退けたのです。
「神のことを思」うならば、死と復活はひとつの既定路線であり、救いの道である、と知るべきなのでしょう。でも、私たちが後の時代からそう見渡しているのと、現場にいた弟子たちとは、当然違います。私たちは、「答え」を知っているのです。「人のことを思っている」というのは、人間的な論理や思いなしというもののことなのでしょう。
さらにイエスは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」のですから、これはパブリックな、つまり公的な教えだったと言えます。この場面で、私はどこにいるでしょう。群衆の一人かもしれません。できれば、弟子のうちの一人でありたいものです。まず、イエスの視線を受けています。イエスから、命の言葉をも受けています。
だからこそここに、「自分の十字架を負って」イエスに従い、イエスと福音のために「自分の命を失う者」となることで「自分の命を救う」のだ、という逆説を見ます。この時代は罪深いものです。神に背いています。死と復活を否むのも、そのひとつです。イエスとイエスの言葉を恥じてはなりません。つまりペトロは恥ずかしいと言っていたのです。
神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、
人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、
その者を恥じるであろう。(マルコ8:38)