ペトロ一3:8-12
「最後に言います」と宣言した割には、ここからまだ後半が始まるという感じで、それなりの長さが控えていることになります。しかも本人は「短い手紙を書」(5:12)いた、というように言っています。「最後に」というよりは、大切なことを告げるような気持ちだったのではないでしょうか。それは「皆思いを一つに」することのようです。
「同情」だの「きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚で」あれだの、教会を一つの心でまとめることの現れのようなものである、と言えるでしょう。ただ、そこへ「悪」の問題が入ってきます。悪を被ったらどうするか。「あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練」(4:12)があります。迫害があったに違いありません。
けれども「裁きが神の家から始まる時が来た」(4:17)という認識があります。するとこの流れを考えるに、教会の内で悪い言葉の応酬があることについての戒めであるように聞こえてこないでしょうか。何かしら悪い言葉、侮辱の言葉がぶつけられています。しかし憐れみ深く謙虚さを以て対せよ、というのが、手紙から受ける命令になります。
争いの発端が生じてしまうことそのものを止めることは、完全には不可能であっても、その発端をエスカレートさせないようにしたいものです。ブレーキをかける術については心得ておいた方がいいし、そうすると争いが進展しないことになります。「かえって祝福しなさい」とは、なんと平和な、おとなの応対でありましょう。
詩編34編から、平和のメッセージが引用されます。「悪から離れ、善を行え/平和を求め、これを追え」とは、対句としてもリズムがいいものです。そこに「正しい者」がいることになります。そして主は、その人を見ます。その人の祈りを聞きます。もし悪に対してそういう態度をとるならば、神が味方をしてくれるといいます。
神が悪を仕掛ける者を裁くことでしょう。いかにも単純ですが、ここから私たちは学ばなければなりません。人が、自分の力で問題を解決しようと躍起になる必要はないのです。人が自分でなんとかしようともがくとき、事態をよけいに悪化させます。人による解決は無力です。本当に悪い者には、主がきつい裁きの顔をそちらに向けてくれることでしょう。
「最後に言います」と宣言した割には、ここからまだ後半が始まるという感じで、それなりの長さが控えていることになります。しかも本人は「短い手紙を書」(5:12)いた、というように言っています。「最後に」というよりは、大切なことを告げるような気持ちだったのではないでしょうか。それは「皆思いを一つに」することのようです。
「同情」だの「きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚で」あれだの、教会を一つの心でまとめることの現れのようなものである、と言えるでしょう。ただ、そこへ「悪」の問題が入ってきます。悪を被ったらどうするか。「あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練」(4:12)があります。迫害があったに違いありません。
けれども「裁きが神の家から始まる時が来た」(4:17)という認識があります。するとこの流れを考えるに、教会の内で悪い言葉の応酬があることについての戒めであるように聞こえてこないでしょうか。何かしら悪い言葉、侮辱の言葉がぶつけられています。しかし憐れみ深く謙虚さを以て対せよ、というのが、手紙から受ける命令になります。
争いの発端が生じてしまうことそのものを止めることは、完全には不可能であっても、その発端をエスカレートさせないようにしたいものです。ブレーキをかける術については心得ておいた方がいいし、そうすると争いが進展しないことになります。「かえって祝福しなさい」とは、なんと平和な、おとなの応対でありましょう。
詩編34編から、平和のメッセージが引用されます。「悪から離れ、善を行え/平和を求め、これを追え」とは、対句としてもリズムがいいものです。そこに「正しい者」がいることになります。そして主は、その人を見ます。その人の祈りを聞きます。もし悪に対してそういう態度をとるならば、神が味方をしてくれるといいます。
神が悪を仕掛ける者を裁くことでしょう。いかにも単純ですが、ここから私たちは学ばなければなりません。人が、自分の力で問題を解決しようと躍起になる必要はないのです。人が自分でなんとかしようともがくとき、事態をよけいに悪化させます。人による解決は無力です。本当に悪い者には、主がきつい裁きの顔をそちらに向けてくれることでしょう。