エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

小羊を屠る過越のリアリティ

2025-03-26 | メッセージ
出エジプト12:1-13 
 
小羊の血を「小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」ことが求められています。主は「その血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す」のです。そうでないところは主が打つのであり、「滅ぼす者の災い」が及ぶことになります。この時を以て「一年の最初の月」とするのだといいます。小羊を用意するのは、その月の十日であるそうです。
 
その日は新月から十日ですから、まだ満月にはなっていません。小羊は、家族毎に一匹ずつ用意されます。「家族」と言いますが、「父祖の家」ともいいます。今の私たちが思い描く核家族とは異なるはずです。「火で焼いて、頭も足も内臓も食べなければならない」のであり、「それを翌朝まで残してはならない」のです。
 
相応の人数が想定されているのだと思います。屠られるのは「欠陥のない一歳の雄の小羊」であるというのですが、同時に「羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない」とも言っていますから、少々理解に苦しみます。取り分けておき、月の14日めの夕暮れに会衆が集まり、それを屠ります。このときが満月なのです。
 
そのときに、その血を柱と鴨居に塗るのです。これはもちろん、イエス・キリストの血の贖いのメタファーだと考えられます。イエスは神の小羊となり、洗礼者ヨハネをして、ずばりそう呼ばせました。黙示録でも、栄光の中で、小羊が万権を執ることが描かれています。その小羊は、屠られるだけではなく、火で焼かなくてはならない、と言います。
 
「生のまま、または水で煮て食べてはならない」のだそうです。「それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べ」なければなりません。「これが主の過越である」のです。本当に各家庭で、これだけの準備ができたのでしょうか。今ならきっと、専門の業者がいて、代行してくれるところでしょう。
 
それにしても、モーセという指導者をよくぞイスラエルの民は受け容れたものですし、それに全幅の信頼を寄せて従うに至ったものです。まとまりのつかなかった可能性のあるイスラエルの民の間で、これほどの統率がとれたのには驚きます。「エジプトのすべての神々に裁きを行う」ことは、まるで終末の象徴のようでもあります。




その夜、私はエジプトの地を行き巡り、
人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、
また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。(出エジプト12:12)

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神の計画の中のファラオ

2025-03-24 | メッセージ
出エジプト11:1-10 
 
「私も二度とあなたの顔を見ようとは思いません」(10:29)と、モーセはエジプトのファラオに言い返して、二人は訣別しました。この後、主はモーセにこれからのことを予告します。ふと思うのは、イエスが十字架と復活をどう知ったか、ということです。元々自分の中に幼い頃からそうなることを胸に懐いていたのでしょうか。
 
それとも、このモーセのように、あるとき神から突然聞き知ったのでしょうか。モーセは、さらなる「一つの災い」を聞きます。それは、そこまでの九つの災い締め括る、決定的な災いです。それにより、ファラオの手から完全に去ることになります。このとき、先ず「エジプト人が民に好意を持つように」なり、モーセも「厚い尊敬を受け」るそうです。
 
順序は逆になるようですが、モーセがこの主の声を聞いたのは、ファラオの目の前であったのかもしれません。モーセはファラオに、吐き捨てるように、呪いめいたことを告げます。「エジプトの地のすべての初子は死ぬ」のです。初子を主に献げよ、という、後の律法規定に則るかのようです。そのとき「大きな叫びがエジプト全土に響」くでしょう。
 
「主がエジプト人とイスラエル人を区別されること」を、まざまざと知ることになるでしょう。モーセの脅しが続きます。「こうして、モーセは怒ってファラオのもとを出て行った」のでした。そのとき、主がモーセにまた語りかけます。ファラオが決定的にモーセに反することを。こうなると、ファラオが少し気の毒になります。
 
「主がファラオの心をかたくなにした」といいます。イスラエルをすんなり去らせないようにしたのは、ほかならぬ主自身である、というのです。エジプトの初子を殺すに至るのは、まるで主なる神の自作自演のように見えるではありませんか。このとき、私はユダの裏切りのことを思い起こします。イエスを敵に売った、十二弟子の一人です。
 
ユダもまた、イエスの救いを全人類に実現するために、用いられたキャラクターでした。あの裏切りは、ユダの自由意志であり、悪い意味での自業自得だった、と片付けてよいのでしょうか。主はユダを選び、ユダを滅ぼしたのでしょうか。主はファラオを滅びに定め、実行したというだけなのでしょうか。神の計画とは何か、人には到底分かりません。




モーセとアロンはこれらの奇跡をすべてファラオの前で行ったが、
主がファラオの心をかたくなにしたので、
ファラオはイスラエルの人々をその地から去らせなかった。(出エジプト11:10)

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生ける道への礼拝と故意の罪

2025-03-22 | メッセージ
ヘブライ10:19-31 
 
イエスの十字架の死の際に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51)たという記事があります。神と人との隔てが取り除かれることの象徴としてよく語られますが、ヘブライ書は「垂れ幕、つまり、ご自分の肉」だと理解しているように見えます。これを通って、「新しい生ける道を私たちのために開いてくださった」のです。
 
すると、肉が真っ二つに裂けたことになります。「私たちは、イエスの血によって聖所に入」るのです。その上、そこには大祭司がいて、心が清められるというのです。イエスは大祭司である、とこの書で繰り返し知らせていますから、イエスは幾つもの役を演じていることになります。このことを信頼する、それが信仰というものです。
 
私たちは聖所に、つまり神に近づくことがこうして許されています。そこには「良心のとがめ」は消え去っています。こうして私たちは、「希望を揺るぎなくしっかり保」つことができます。さりげなくここに挟まれた「集会をやめたりせず」に、私たちは過剰に反応することがあります。だから、教会を離れるな、礼拝を休むな、と言いたいのです。
 
コロナ禍に於いても、この砦は切実でした。それまでは殆ど考えられなかったリモートという手法の是非も、議論されました。二千年前のスタイルが現代にそのまま通じるとは限りません。そして、深刻なのは後半です。福音を知り、恐らくは一度は信じた上で「故意に罪を犯し続けるならば」どんなに恐ろしいことになるか、激しく主張されています。
 
それは「どれほど重い罰に値する」のか。それは「生ける神の手に落ちる」ことです。「神の子を踏みつけ」「恵みの霊を侮る」ことを、クリスチャンは自らやっているとはまさか考えません。確かに、びくびくする必要はないのですが、それは慢心とは異なります。私たちに必要な「確信」について、この後語られてゆくことになります。




イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、
新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。(ヘブライ10:20)

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試練と誘惑

2025-03-20 | メッセージ
ヤコブ1:12-16 
 
そもそも手紙は、ヤコブを名乗った後すぐに「さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)と始まっていました。忍耐を求め、貧しさを誇れ、とさえ言います。そして今また、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と宣言します。富む者への嫌悪と忍耐の勧めは、最後にもまた念を押されます。
 
そこから、ヤコブの考える「試練」の視野にあるものが見えてくるような気がします。「幸い」というのは、イエスも口にするものでした。詩編が冒頭に掲げたのも「幸い」でした。それは、詩編全体の標題にもなり得るテーマでした。これを約束するのが「試練」ということなのですが、その試練を、人間は自ら招くことがあります。
 
自分から陥ることもありますが、簡単に誘惑に乗ってしまうということもあるのです。この「誘惑」について、警告が始まります。それは、神からのものではありません。荒れ野でイエスは誘惑を退けました。まして自ら人を悪い道へ誘うなどということはあり得ません。誘惑とは、人が「自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて」起こるものなのです。
 
その欲望が「罪を産み」、罪が「死を生」むのだと言います。人の中から、死へのコースが始まることを弁えなければなりません。この点を「思い違いをしては」ならない、と告げます。この「思い違い」というのは、人が二つのことを、あべこべに考え受け取ってしまうことです。ヤコブは他の箇所で「二心」を警戒するようにも教えています。
 
心に二つのことが相反して争うことですが、二つのことを体よく使い分ける点が深刻です。そのこと自体が、道の選択を誤っています。申命記には、二つの道が目の前にあり、君たちはどちらを選ぶのか考えてみよ、と迫りました。世界を二元的に整理してしまったかのようにも見えますが、その指摘が、人にとっては分かりやすいものであったと言えます。
 
人はこの問いかけに、決断をしなければなりません。してみれば、神の方を向くのか、神に背を向けるのか、そのどちらかという結論の分かりやすさが、そこにつながるようにも思えます。そのとき誘惑は、決定的に道を誤らせる原因にもなります。試練は誘惑を呼ぶことがあります。しかし試練のせいにせず、人が道を見極めることが求められています。




試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格な者とされ、
神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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罪の告白と神の赦し

2025-03-18 | メッセージ
ネヘミヤ9:9-21 
 
思い切った政策でした。捕囚から帰還した民は、民族純潔主義とでも言うような政策を断行したのです。捕囚時に、そうした気運が高まったのかもしれません。イスラエルは、やり直さなくてはならない、としたのです。その事の是非を表することはできませんが、新生イスラエルの姿を、とりあえずここに見るものです。
 
「罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した」(9:3)というような一連の告白、あるいは祈りが、ここにあります。一つの詩編の詩だと見てもよいようなものです。主を称えた後、出エジプトの出来事を振り返ります。新しいイスラエルのためには、アブラハムなどの父祖のことよりも、出エジプトの方が大きな問題であったのです。
 
これは、罪の告白と呼んでよいはずなのですが、他方、神の赦しが大いに称えられています。「あなたは恵みに満ち、憐れみ深い赦しの神」という捉え方が、歴史を見つめる眼差しを貫いています。人間のすることが如何に愚かであるか、それを神が如何に忍耐してきたか、その対比が顕著です。それを、出エジプト記の叙述を忠実に辿って表現します。
 
しかし、そもそも出エジプト記自体が、捕囚期にまとめられたのではないか、とも見られていますから、ネヘミヤ記と一体化していて当然だ、と受け取ることもできましょう。「私たちの先祖」のしでかしたことを正面から描いていますが、この調子で、この告白はずっと続きます。「正しいのはあなたです」「私たちは悪を行ったのです」(9:33)と。
 
イスラエルの歴史が「私たちの罪」(9:37)となって現前します。それは私たちのことでもあります。神の「驚くべき業を忘れ」「奴隷の身に戻ろうと考え」「子牛の鋳造を造り」「神だ」と言ったことは、他人事ではありません。この愚かさに対して、主なる神の慈しみが、ここで大きく描かれ、私たちの胸いっぱいに拡がってゆくのを覚えます。




あなたは深い憐れみをもって
彼らを荒れ野に見捨てることは
なさいませんでした。(ネヘミヤ9:19)

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罵りと迫害と悪口

2025-03-16 | メッセージ
マタイ5:11-12 
 
「心の貧しい人々は幸いである」(5:3)に始まる八つの幸福へは、多くの人が言及しています。が、もうひとつ、九つ目がある、との見方もあります。そこへは、もうひとつ注目度が薄いようです。「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである」という箇所です。
 
確かにここも、原文ではそれまでの八つと同じように、冒頭に「幸いだ」から始まっているという共通点があります。でも、八つは皆、こういう人々、という言い方をしていますが、こちらは違います。そこで、普通この「幸い」は八つだとカウントされています。ここではまず「私のために」が目に入りますが、原語の語順は異なります。
 
まずは「人々が……罵り、迫害し……悪口を浴びせるとき」という部分が畳みかけられています。三つの動詞が並ぶのです。キリスト者には、こういうものが次々と押し寄せてくることがありました。いつでも、誰からもそうだったのか、それはよく分かりません。市民の中でも好意的な人はいたかもしれません。
 
しかし、ユダヤ教から異端視されていた信仰のため、ユダヤ人の信仰とは違う教えの中で生活していたとなると、風当たりが強かったのではないか、と思われます。ぬるま湯に浸かっていることはないか、私たち自身への戒めとしたいものです。逆にまた、「正統的キリスト教」の名の下に、私たちが攻撃する側に回っているかもしれないのです。
 
私たちこそが、別の解釈をする派を罵り、迫害し、悪口を浴びせているのではないか、自己吟味が必要です。それから「私のために」と付け加えられています。自らの悪がそこにあるのなら、罵られても悪口を叩かれても、仕方がないでしょう。だから私たちにとり、「イエスのために」であることが肝要です。ここを弁えなくてはなりません。
 
これに続いて、「喜びなさい。大いに喜びなさい」とイエスが言います。「大いに喜ぶ」という一語は、並々ならぬ喜びを表します。ここの他には、ペトロの手紙一にまとまって二度使われるだけの語です。天における報いをイエスの口は約束してくれています。私たちがその約束を信用することにより、イエスの言葉がこの身に命となって及びます。
 
それには理由が加えられています。かつての預言者たちへも、迫害の手が及んでいたからだ、と言うのです。ということは、その預言者たちには、神が豊かな報いを与えている、ということになります。預言者たちの歴史には、悲惨な伝説もあり、不遇なようにも見えることがありますが、神はそこに幸せを与え、彼らは幸せに落ち着いていたと言うのです。




私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、
ありもしないことで悪口を浴びせるとき、
あなたがたは幸いである。(マタイ5:11)

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恵みの座に近づこう

2025-03-14 | メッセージ
ヘブライ4:14-16 
 
好例ではないかもしれませんが、礼拝の席のどこに座るか、という質問を投げかけた牧師がいます。なぜだか、後ろの方から席が埋まるのです。前の方を、と考えた人も、前から数番目に座るのが普通です。一番前を陣取る人は殆どいません。日本人の奥ゆかしさか、とも言っていましたが、恵みの座に大胆に近づくべきです、と話していました。
 
神の言葉を聞こうとするのなら、一番前がよいに決まっています。間に人の背中が見えるでしょう。他人を、神と自分との間に介在させるのは面白くないはずです。大胆に、あるいは「堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」との誘いは、必ずしもこういう意味に相応しいわけではありませんが、気持ちは分かります。
 
「助けを受けるために」神の前に出るのならば、遠慮をする必要はないと思われます。キリスト者は、「憐れみを受け、恵みにあずかって」よいのです。ここでは「大祭司」というイメージの中で叙述されています。手紙の時代、すでにエルサレム神殿は崩壊し、細々と各地のシナゴーグでの礼拝を、ユダヤ人は続けていたと思われます。
 
旧約の大祭司の感覚は、果たしてこのユダヤ人たちにピンときたのでしょうか。「神の子イエス」は「偉大な大祭司」なのだと言います。これに対して私たちは、「信仰の告白をしっかりと保とう」と求められます。但し、これは特殊な大祭司です。イエスは、「私たちの弱さに同情」します。「罪は犯さ」ないが、罪人と共に「試練に遭われた」のです。
 
そのようなイエスですから、私たちはその「恵みの座に近づこう」と呼びかけられます。礼拝説教そのものとは次元の異なる近づき方です。でも、礼拝の中から神は立ち上がります。イエスが近づいてきます。その真実さがある限り、神の言葉が語られる説教の中に身を浸し、イエスの懐に入るのが、きっと正しいことなのです。望ましいことなのです。




それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、
時宜に適った助けを受けるために、
堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

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恵みにも拘わらず逆らう人間の姿

2025-03-12 | メッセージ
詩編78:12-22 
 
良いことがないということで、人は神に対して不平を言います。良いことがあったらあったで、それっぽっちのことなのか、と不平を言います。恵み与えられたことでさえ、もっともっとと欲望が高まるのです。自分はその程度で満足する者ではないのだ、と自己主張を掲げ、恰も己れが神であるかのように威張るのです。
 
イスラエルがその姿をこうして遺してくれました。私たちがそこに、自分自身を見ることがなければ、同じことになってしまうでしょう。「エジプト」が悪の権化のように名指しされることについて、現在その同じ国名がある故に申し訳なく思うのですが、昔の話で、イスラエルがかつてのそこから脱出する必要があった、と言わせて戴きます。
 
すべて主なる神の業です。「昼は雲をもって/夜は夜ごとに火の光をもって彼らを導いた」のは、旧約聖書の中に思いのほかたくさんある言い回しであり、神の霊と光とを象徴する表現となっています。脱出そのものに加えて、こうした導きや、命を支える水の供給によって、神の恵みは荒れ野の旅の間、絶えることはありませんでした。
 
「しかし彼らは神に向かって罪を重ね」ました。それは「心の内に神を試み」る行為でした。「神に逆らって」いたのです。確かに水はありました。しかし食べ物を与えてくれやしないではないか、と呟いたので、「主はこれを聞いて憤った」のでした。神は、光という恵みのものではなく、怒りの発露としての火を、そこにもたらしました。
 
このように、ここでは神に対して逆らったイスラエルの有様が、たっぷりと描かれています。「神を信じず/その救いを頼みとしなかった」ことが、赤裸々に語られています。こうして、この詩は、この後もなお、40年の荒れ野でのイスラエルの姿を、幾度もそこに戻るようにループ状に巡りつつ伝えてゆきます。耳を塞ぎたくなるほどに。
 
恵み深く与え、導く神と、それを受け取りながらも神に逆らい続ける人間の様を、これでもか、と示しぶつけてきます。詩の終わりは、ダビデ王の信仰で結ばれますが、ありあまる恵みを常に不満の種としてしか使えない民の描写に、重ね重ね胸が苦しみつつ読むしかありません。決して、これを他人事として見ていてはならないのです。




しかし彼らは神に向かって罪を重ね
砂漠でいと高き方に逆らった。(詩編78:17)

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祈りを重ねて

2025-03-10 | メッセージ
テサロニケ一3:11-13 
 
教えを受け、その意味を思うのもよいでしょう。だが、手紙の中の祈りをただ聞くのも、またよいものです。その祈りを、共にひたすら祈るというのは、さらによいのではないかと思います。その祈りをここにただ再録して、共に祈って戴くだけで、もう十分であるような気もします。余計なコメントなど、もうしなくてもよいとさえ思うのです。
 
そんな蛇足を覚悟で、少しだけ語ります。テサロニケの信徒への手紙は、パウロの書いた手紙の中で、現存しているうち、最も古いものであると言われています。キリスト再臨の希望や期待に溢れており、今日にでも世の終わりと神の裁きが起こるという切迫感が、そこから感じられます。それでも、浮ついている様子はありません。
 
その後、現在に至る二千年の間、神は沈黙し、パウロが予言したことはまだどうやら起こっていないようです。人間は、パウロの頃には思いもよらなかったような時代を迎えました。神を抜きにした生き方を、当然のことのように見なしています。どうやってあのパウロに心を寄せて祈ればよいのか、分からなくなってもおかしくはありません。
 
でも、神の霊の内を生きる者には、それが簡単にできます。時空を超えて、神の示すままに注がれたパウロの言葉が、今もこの貧しい私の魂にまで、まっすぐにつながり、重なってきます。「私たちの父なる神ご自身と私たちの主イエスが、私たちの道をあなたがたのところへとまっすぐに向けてくださいますように」と、教会の人々のために祈ります。
 
「私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強めてくださり、私たちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共に来られるとき、私たちの父なる神の前で、あなたがたを聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように、アーメン」




私たちの父なる神ご自身と私たちの主イエスが、
私たちの道をあなたがたのところへとまっすぐに向けてくださいますように。
私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、
互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。
また、あなたがたの心を強めてくださり、私たちの主イエスが、
そのすべての聖なる者と共に来られるとき、私たちの父なる神の前で、
あなたがたを聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように、アーメン。(テサロニケ一3:11-13)

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喜びの中のエクソダス

2025-03-08 | メッセージ
詩編105:26-45 
 
「主に向かって歌い、主をほめ歌え。/すべての奇しき業を語れ」(105:2)との宣言は、イスラエルの初めの歴史を振り返る発端です。そこにいま「奇しき業」を見るのです。アブラハムからヤコブ、そしてヨセフへと回想が至り、民族がエジプトで数を増やす点に目を移します。すると、次に登場するのは、モーセとアロンとなります。
 
二人で、エジプトの王を前にして、次々と奇蹟を起こします。これももちろん、主の奇しき業であるに外なりません。モーセが杖を使って繰り広げた異常事態を簡潔に言葉で再現すると、イスラエル民族が喜びの内に旅立つ場面を伝えます。ここにある「エジプトは民が去るのを喜んだ。/恐怖が彼らを襲っていたからである」とはどういうことでしょうか。
 
これは、エジプトが如何に悲惨な情況になっていたか、を裏付けています。イスラエルを留めていると、被害が益々大きくなるので、出て行ってもらうことでほっとした、ということなのでしょう。しかし、初子を打たれて悲痛な国内であったということと、どう結びつくのでしょうか。とても「喜んだ」などとは言えないのではないかと思うのですが。
 
荒れ野を旅するイスラエルの姿を、続いてこの詩は描きます。「主は雲を広げて覆いとし/火をもって夜を照らした」といいますが、この不思議な現象が、旧約の歴史の中で、幾度も繰り返されます。地味な風景であまり注目も検討もされませんが、イスラエルにとってひじょうに大きな出来事であり、信仰の要素であるに違いありません。
 
天からのパン、岩からの水は、人々の生命を保つために必要でした。食という基本だからです。雲と火は、しかし人間の命のために、そこまで必要であるようには思えません。火も、夜を照らすだけであるなら、パンと水ほどには急を要しないし、まして雲となると、その必要性が分かりません。神殿を包む、霊的な意味に専ら受け取るべきなのでしょう。
 
「主は民を喜びのうちに/選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した」というのですが、今度はイスラエルの民が喜んでいます。荒れ野の旅では、民からあれこれ不満の声が挙がっていたことを、私たちはよく知っています。しかし、結果は喜びでした。そうして「主の教えに従う」ようになるべく、詩は結ばれています。




主は民を喜びのうちに
選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。(詩編105:43)

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