使徒13:26-41
「会衆のための励ましのお言葉」(13:15)を求められて、パウロが立ち上がりました。そこには、ユダヤ人の他、この神を信じる外国人もいました。ピシディア州のアンティオキアでのことです。手短に、イスラエル史をダビデまで辿り、ダビデの子孫としてのイエスの出現を示します。さて、問題はそのイエスです。
イエスの口から「救いの言葉」が出るというのか、イエス本人が「救いの言葉」であるのか、私たちはどちらも考えたいところです。これは会堂で語られた説教でした。礼拝説教のモデルだとも言えます。これを毎週語れ、というようにここに置かれたのかもしれません。それほどの、安定した内容をもっていることは間違いありません。
かつて「エレサレムに住む人々やその指導者たち」がイエスを死刑に処しました。それは「預言者の言葉」が実現した、ということでもありました。墓に葬られたイエスは、神により復活させられます。イエスはエルサレムでも姿を現し、イエスに会った人々は「今、民に対してイエスの証人となって」います。
イエスはダビデの子孫ですが、そのダビデの口からまた預言されたイエスとその救いが、「私たち」という子孫に及ぶようになりました。ここが眼目です。パウロは、詩編や預言書を次々と引用して、これらのことが旧約聖書で告げられていた神の言葉の実現であることを豊かに示します。ダビデ本人は肉体をもった人間であり、神ではありませんでした。
しかし、イエスはそうではありません。この方によって「罪の赦し」が告げ知らされたのです。この時代は、その赦しが伝えられ、信じる者がイエスを通じて神とのつながりを与えられる時代なのです。これが福音です。モーセの律法は、それを守ることが救いでしたが、人間には、それを完遂することはできませんでした。無理でした。
罪つくりな律法だということは、人々の心に突き刺さったのではないでしょうか。罪の赦しが、だから「解放」となります。あなたがたは「義とされる」のです。この業を信じられぬ者は滅び去る、という預言者の言葉につないで、この説教は閉じられます。人を生かす説教は、その次の週にも求められました。しかしそこでは、事件が起こります。
私たちも、先祖に与えられた約束の福音を
あなたがたに告げ知らせています。(使徒13:32)
「会衆のための励ましのお言葉」(13:15)を求められて、パウロが立ち上がりました。そこには、ユダヤ人の他、この神を信じる外国人もいました。ピシディア州のアンティオキアでのことです。手短に、イスラエル史をダビデまで辿り、ダビデの子孫としてのイエスの出現を示します。さて、問題はそのイエスです。
イエスの口から「救いの言葉」が出るというのか、イエス本人が「救いの言葉」であるのか、私たちはどちらも考えたいところです。これは会堂で語られた説教でした。礼拝説教のモデルだとも言えます。これを毎週語れ、というようにここに置かれたのかもしれません。それほどの、安定した内容をもっていることは間違いありません。
かつて「エレサレムに住む人々やその指導者たち」がイエスを死刑に処しました。それは「預言者の言葉」が実現した、ということでもありました。墓に葬られたイエスは、神により復活させられます。イエスはエルサレムでも姿を現し、イエスに会った人々は「今、民に対してイエスの証人となって」います。
イエスはダビデの子孫ですが、そのダビデの口からまた預言されたイエスとその救いが、「私たち」という子孫に及ぶようになりました。ここが眼目です。パウロは、詩編や預言書を次々と引用して、これらのことが旧約聖書で告げられていた神の言葉の実現であることを豊かに示します。ダビデ本人は肉体をもった人間であり、神ではありませんでした。
しかし、イエスはそうではありません。この方によって「罪の赦し」が告げ知らされたのです。この時代は、その赦しが伝えられ、信じる者がイエスを通じて神とのつながりを与えられる時代なのです。これが福音です。モーセの律法は、それを守ることが救いでしたが、人間には、それを完遂することはできませんでした。無理でした。
罪つくりな律法だということは、人々の心に突き刺さったのではないでしょうか。罪の赦しが、だから「解放」となります。あなたがたは「義とされる」のです。この業を信じられぬ者は滅び去る、という預言者の言葉につないで、この説教は閉じられます。人を生かす説教は、その次の週にも求められました。しかしそこでは、事件が起こります。
私たちも、先祖に与えられた約束の福音を
あなたがたに告げ知らせています。(使徒13:32)