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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

すでに死に復活の命に生かされている

2025-04-25 | メッセージ
コロサイ3:1-4 
 
「あなたがたはキリストと共に復活させられた」ということが、いわば事のすべてです。キリスト者とは、正にこういう人のことをいうのです。復活したということは、一度死を経ていなければ言えないことです。罪に死に、命に生きる。どんな言葉を使っても、そのすべてを伝えることはできません。もどかしいものです。
 
象徴的な、抽象的な言葉しか人間には与えられないためですが、こうとしか言えないのか、と悔しい気持ちがします。それでも、その言葉でとりあえず何か言えるのか、という体験を有していますから、頷き合えるというのも事実でしょう。「キリストと共に復活されられた」という大前提がある人々へ、次々と言葉がまた投げかけられてゆきます。
 
「上にあるものを求めなさい」と、顔を上に向けさせ、「上にあるものを思いなさい」と、いつでも視線と心とが神の方に向かうように促されます。「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」という宣言が心に響きます。今日は一日、この強い信仰によって歩いて行ける、と喜ぶことができます。
 
否、一日限りではありません。キリスト者の一生は、このことで支えられています。キリスト者でなければ、これは理解できないでしょう。心に懐けないでしょう。命が与えられているものの、この肉体の中に納められているようなものではありません。それだったら、肉体が朽ちることで滅びてしまうことでしょう。しかしこの命は滅びません。
 
永遠の命の輝きをもつために、今は隠されて明らかにされていない、というだけの問題なのです。やがて、キリストが再びこの世界に現れる時がきます。このキリストこそ、命の本性です。私たちにもまた、そのとき「キリストと共に栄光に包まれて現れる」という約束が、ここに示されているのです。本当に、これを見ているでしょうか。
 
神の内に隠されている命が、キリストの再臨の時には、もはや隠す必要もなく、現れるのです。そして、神の真実を放つために輝き、人々は変えられます。この地上での生き方を、私たちもまた顧みなければなりません。人間由来で、人間から出てくる知恵とやらに、目と心を奪われて、人生を左右される必要はありません。さあ、天を見上げましょう。




あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、
上にあるものを求めなさい。そこでは、
キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)

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マグダラのマリアと復活の情景

2025-04-23 | メッセージ
ヨハネ20:1-18 
 
ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子とが、墓まで走ります。二人の男の姿が目を惹きます。大人は、特に男は、人前で走ることがみっともないと思われるからです。ただ、この場面を生んだのは、マグダラのマリアでした。すでに安息日は昨夕明けていたものの、人が外で活動できるのは、実質夜明けからでした。
 
曙が明るく東の空を照らすとき、日の出より先に地平線から上が白んでいたとは思われます。あるいは、朱く明け初めていたでしょうか。エルサレムが高地にあったことを思うと、日の出はむしろ見下ろし加減になるのかもしれません。マリアは、「まだ暗いうちに」墓に行っていました。闇夜ではなかったと思われます。
 
マリアが見たものは、石が取り除けてある墓でした。怖かったなどという心理は描かれていません。マリアはただ走りました。これは一大事だ、と男の弟子たちに知らせました。なぜこの二人だったのかは分かりませんが、とにかく二人は走り、ペトロは途中から少し後れます。でも墓の中に最初に足を踏み入れたのはペトロでした。
 
亜麻布と、頭の覆いを確認しています。二人とも墓の中に入り、イエスの遺体がないことを見て「信じた」といいます。何を信じたのかは、これだけでは明確ではありません。「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」というのです。二人は家に帰りましたが、マリアは再び墓に戻りました。
 
墓の中に入ったのかどうかは記されていません。が、主のからだがそこにないことだけは認識していました。ペトロたちから聞いただけかもしれませんが、二人の弟子たちにしても、まだ「復活」ということは現実味を帯びてはいません。信じているような、いないような。さて、私たちはどうでしょうか。このような状態ではないか、問われます。
 
マリアは立って泣いていました。イエスの遺体の代わりに二人の天使が現れました。マリアが振り向くと、そこに人がいたのですが、まだイエスだと認識できせん。天使もイエスも「女よ、なぜ泣いているのか」と声をかけます。「マリア」と名を呼ばれて、それがイエスであることを知ります。マリアは弟子たちに証言します。「私は主を見ました」と。




イエスは言われた。
「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」(ヨハネ20:15)

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女たちが復活のイエスに会う

2025-04-21 | メッセージ
マタイ28:1-10 
 
安息日が終わるのは、今でいう土曜日の日没です。ユダヤの一日は、夜から始まります。一日の半分を過ごし、夜明けを迎えるのですが、「明け方」の光がどのくらいの明るさであったのか、それは思う人により異なるイメージをもつことになるのでしょう。曙は、希望をもたらします。「週の初めの日」、ここから新しい時代が始まります。
 
キリスト者は、この日曜日を以て、礼拝日とするのです。場面の主役は女たちです。二人のマリアのうち、マグダラのマリアの方は、他の場面に現れますから、その後教会で何か重要な役割を果たしたものと思われます。復活の場に立ち合ったらしいのですが、他の福音書とは様相が異なります。確かに、墓を見に行ったのは間違いありません。
 
さらに、天使が現れたのを見た証言もありました。「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」という姿の天使でした。「見張りの者」は恐ろしくなり、死人のようになったと言いますが、その配置とその後のことを、マタイはややユーモラスに描きます。キリストにある者でないとき、それは「死人のよう」だというのです。
 
この天使により、女たちは大切なことを告げられます。「十字架につけられたイエス」を捜しても、会うことができません。「復活なさったのだ」という事実を、遺体の場所を「見なさい」と、証人に立てるために促します。女たちには、使命がありました。「急いで行って弟子たちに」告げる伝令の役割です。
 
イエスは、ガリラヤに先に行く。そこで会える。「女たちは、恐れながらも大喜びで」弟子たちの許へ急ぎます。ところが、「イエスが行く手に立って」いました。女たちはイエスと出会います。なんと、弟子たちよりも先に、女たちは復活のイエス本人と会うのです。「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」のです。
 
天使も言いました。そしていま復活のイエスも言いました。「恐れることはない」と。この復活の福音を、私たちも素直に受け止めるのです。女たちはイエスから、弟子たちにガリラヤに行けと知らせるように命じられます。女たちはイエスに会いました。復活のイエスに会いました。逃げた弟子たちと異なり、墓を訪ねた積極性の故かもしれません。




女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、
弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイ28:8)

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空白の一日の準備

2025-04-19 | メッセージ
マタイ27:57-66 
 
安息日を迎える直前から、安息日が明けるまでの、空白の一日を追います。つまりこの間、イエスは死の中にいるわけです。御子は言(ことば)として「初めに神と共にあった」(ヨハネ1:2)とすれば、それが人として生きていたこと、そして復活後は小羊と呼ばれながらも裁きのときまで生きているのは確かだから、イエスが死んでいたのはこの期間だけです。
 
それとも、墓の中ですでに復活を果たしていないとも限らないのですが、納められるまでは遺体の姿を呈していたことは間違いありません。「アリマタヤ出身」「金持ち」との詳しい情報をもつヨセフは、「イエスの弟子」とも言われています。後の教会でも、あのヨセフさんだ、と注目されていたのではないでしょうか。
 
ピラトと会えるだけの立場にありました。神の計画が成就するには、いろいろな立場の、いろいろな役割の人が関わってくることを覚えます。一人ひとりが何かしら役立てられます。神の言葉は確かに実現するのですが、そこに人々が関係づけられてゆくのです。その関係こそが、救いの世界を構成しているのかもしれません。
 
ヨセフは「岩に掘った自分の新しい墓」を所有していました。「入り口に大きな石」を転がしておき、この間イエスと人間との間は、一旦遮断されたことになります。これは暗黒の一日であるのか、希望を育む一日となるのか、どうでしょうか。二人のこのマリアという名の女が、この墓の場所を確かに見ていました。
 
「墓に向かって座っていた」という二人の女の姿は、イエスの死と向き合っていたことを示すようにも読めます。他方、当局側では、どんな策略がまかり通っていたでしょうか。マタイ伝では、たぶん実際に言われていたことなのでしょうが、弟子たちが遺体を盗み出して復活騒ぎを自作自演していたのだ、という説の背景を描いています。
 
ユダヤ当局とピラトとが手を組んで、番兵を出していたのです。しかも後に、偽証をさせたのだ、とマタイ伝は事の裏を発いています。教会に変な噂が漂うのを防いだのでしょうか。しかしよく考えると、この番兵たちこそ、天使たちの出現の目撃者となっているのです。空白の一日、それぞれの人が、神の業の実現の準備を担っていたことになります。




マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、
墓に向かって座っていた。(マタイ27:61)

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裁判から死刑執行まで

2025-04-17 | メッセージ
マタイ27:11-56
 
本欄は、日本聖書協会の「聖書愛読こよみ」を用いた形で日々祈りつつ記したもののうち、2日に1階の割合でこの場所に相応しくまとめたものです。そこで選ばれた聖書箇所を参考に、日々手でノートに綴っているものですが、今日の聖書箇所は、これまでの経験にないほど長いものでした。恐らく最長不倒距離であっただろうと思います。
 
ユダヤ当局の最高法院・サンヘドリンでの裁判では、死刑判決は下せないようになっていました。ローマ帝国の支配下にあって、ある程度の自治は認められていましたが、死刑についてはローマ側の判断を要することにされていたのでした。せいぜい、暴言をぶつけ、唾を吐きかけ、殴る蹴るの暴行でイエスを痛めつけるくらいでありました。
 
イエスは、ローマ帝国に引き渡されました。もはや用なしとなったユダは、絶望の中で自死します。そして今、イエスはピラトの前に立っています。ここから死刑判決を受け、市中引き回しの上獄門、ではなく十字架に架けられて絶命するのです。このピラトの裁判からイエスの死までを、一気に読ませる聖書通読表でありました。
 
正にその受難日、聖金曜日の割り当てに相応しい設定です。もちろんその一つひとつをこの短い範囲で辿るのは不可能です。実は、ここでイエスは、言葉を発さなくなっている点をまず指摘します。当局の裁判の場で、「お前は神の子、メシアなのか」(26:63)と訊かれたときに、人の子が雲に乗って来る、と答えて以降、イエスは沈黙に徹します。
 
ピラトが「日本のお前はユダヤ人の王なのか」と訊いたとき、「それは、あなたが言っていることだ」と声を発したのは確かですが、説明は加えていません。総督と民衆との取引があり、ピラトはイエスを十字架刑へと引き渡します。イエスは、これで三度引き渡されたことになります。ユダから当局へ。当局からピラトへ。そしてピラトから十字架へ。
 
この三つのどれも、流れを止めることはできませんでした。兵士たちから心身に暴力を受け、引き回された末、ゴルゴタで十字架に架けられます。「これはユダヤ人の王イエスである」との罪状書きが掲げられ、「通りかかった人々」からも悪口をぶつけられたと言います。まことに、イエスはどれほどの侮辱と苦痛を受けたことでしょう。
 
いえ、侮辱と苦痛は、人が与えたのです。攻撃を加えた人々がたくさんいますが、私はその、どこにいるでしょう。そのどれもが私であるかもしれません。イエスは絶命の前に、一言だけ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と放った、とアラム語のまま、筆記されています。マタイは、怪異現象をも記録し、女たちの目撃の事実まで知らせています。




神殿を壊し、三日で建てる者、
神の子なら、自分を救ってみろ。
そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)

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ユダはどこへ行った

2025-04-15 | メッセージ
マタイ26:20-30 
 
「都のあの人」(26:18)とは誰のことなのか分かりませんが、過越の食事の準備を、弟子たちが手配しました。早速食事の場面が描かれます。十二弟子とイエスとで食事はとられたらしい。イスラエルの祭りとして最重要と見られます。食事の中でイエスは、「アーメン」との言葉を以て、重大なことを告げます。
 
「あなたがたのうちの一人が」というところで、一旦切っておきます。弟子たちの中に、確実に一人いるというのです。「私を裏切ろうとしている」あるいはこれは「私を引き渡そうとしている」とも読めます。弟子たちはどちらの意味で受け止めたでしょう。「非常に心を痛めた」といいます。「主よ」との呼びかけは、実はあまり多くありません。
 
「まさか私のことでは」と言うからには、ユダが殊更に目立っていたわけではないようです。イエスは「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者」と特定しますが、それを聞いてなお、ユダがまた「先生」と呼びかけつつ「まさか私のことでは」と尋ねているから、自覚がなかったものと思われます。自分のしていることが分からないでいるのです。
 
「生まれなかったほうが、その者のためによかった」とは、曰く付きの言葉です。が、その前に「災いあれ」とぶつけているところは見逃せません。「ウーアイ」というギリシア語で、黙示録で鳴り響く言葉です。まさか私では、とのユダの口先へイエスが突きつけます。「それはあなたの言ったことだ。」イエスはユダをこの場で裁いたのではありません。
 
かと言って、ユダではない、と否定したわけでもありません。マタイ伝では、このときすぐにユダがこの場を去って行ったようには書かれていません。サタンが入ったというような説明もありません。案外冷静です。この後ゲッセマネでの祈り際に、ユダは当局の者たちのところへ抜けたのでしょうか。するとしばらくユダは晩餐の席にいたことになります。
 
つまりユダは、「取って食べなさい」「この杯から飲みなさい」という食事の祝福を受けたことになります。ユダの姿がどう消えたのか、私たちには謎です。「一同は賛美の歌を歌」いました。なにも問題はなかったかのように、弟子たちは食事を済ませ、祈りの場へと動いています。これから起こることの兆しに、まるで気づいていないかのように。




イエスを裏切ろうとしていたユダが、
「先生、まさか私のことでは」と言うと、
イエスは言われた。
「それはあなたの言ったことだ。」(マタイ26:25)

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それぞれの動きの陰でイエスは孤独になる

2025-04-13 | メッセージ
マタイ26:1-16 
 
終末を意識したたとえ話が、幾つか語られてきたように記録されています。マタイとしては、山上の説教のように、イエスの話したことをここにまとめたのであるかもしれません。エルサレムに入り、神殿をバックにして人々に語ってきたことは、多々あったことでしょう。今それが一段落すると、ここからは行動記録が始まります。
 
これらを見ると、イエスが孤独であったに違いないことが窺われます。まず、祭司長たちや民の長老たちが動き出します。このコンビ的な呼び方が、ここまで何度挙げられてきたことでしょうか。彼らは「イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」のでした。何をどう騙したのか定かではありませんが、この後ユダの登場で事態は変化します。
 
彼らは元々「祭りの間はやめておこう」と計画していたのですが、ユダが行動を起こしたために、彼らの企みは直ちに実行されるようになったのです。祭りの最中に片が付くようなことになってしまいました。ユダの登場が筋書を変えたのです。そのユダのことを先ず見ておきます。マタイは、サタンの仕業をそこには交えていないようです。
 
主の晩餐のときにサタンが入ったのではなく、「十二人の一人で、イスカリオテのユダと言う者が、祭司長たちのところへ行」ったのでした。ここまで特に目立った言動をとらなかったユダが、一躍脚光を浴びます。「引き渡せば、幾らくれますか」とは、いかにもさもしいものです。奴隷一人の額ともいえる安上がりな報酬でした。
 
この間イエスは「極めて高価な香油の入った石膏の壺」を持った一人の女から、その香油を注ぎかけられます。弟子たちはこれに憤慨します。イエスは「十字架につけられるために引き渡される」とか「私を葬る準備」とか、相当な覚悟を口にしますが、弟子たちは誰も反応を示しません。こうしてイエスの孤独がいっそう際立つことになりました。




あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。
人の子は、十字架につけられるために引き渡される。(マタイ26:2)

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悔い改めと文化的背景

2025-04-11 | メッセージ
使徒3:17-26 
 
足の悪い男を、神殿の門のところで立ち上がらせました。「立ち上がる」とは一種の「復活」です。当人のペトロは涼しい顔をしています。これは主の力であると知っているからです。イエスは復活した。その名による信仰が、この完全な癒やしを成し遂げた。ペトロは、ユダヤ人たちに、イエスを殺した自覚を促します。それは無知に基づくのだ、と。
 
メシアの受難は、神の計画の中の出来事でした。妙な責任感だけで片付けるべきものではありません。ただ、「悔い改めて立ち帰りなさい」とのみ命じます。でもそうすると、ユダヤ人たちは、これから向きを変えて主の方に転じなくてはならないことになりますが、そもそもここは神殿です。神の方をこれまでも向いていたのではないでしょうか。
 
日本では、特に信仰心がなくとも「仏教徒」であると自覚することがあります。信じるものが特になくても、いつの間にか「氏子」になっていることもあります。このユダヤ人たちも、少しも神について知るところがなく、単なる習俗としてのみ宗教を意識していたのでしょうか。だからちゃんと神の方を向き、生き方を変えよ、と呼びかけたのでしょうか。
 
罪の赦しなど、まるで意識することがなかったなどとは、信じ難い気がします。ペトロはモーセの例も挙げ、預言者たちが悉く、やがて来るイエス・キリストを指し示していたのだ、と告げます。ユダヤの人々は、その預言の言葉を身に受けるべく現れた民の人間ではありませんか。そうした子孫ではありませんか。あなたがたは確かにイエスを殺した。
 
そのイエスが「あなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせる」ことをしました。ここで「悪」とは、主と反対の方向を向くことのをイメージさせるような気がします。ユダヤ文化の中にありながら主に背を向けていた場面です。主をそもそも知らない文化の中では、「悔い改めよ」の指令も、魂の方向転換の含意がまるで違うことになりそうです。




だから、自分の罪が拭い去られるように、
悔い改めて立ち帰りなさい。(使徒3:19)

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変わらない終末観

2025-04-09 | メッセージ
ペトロ一1:13-21 
 
パウロは当初、強い終末観をもっていました。その思いを受け継いで、パウロ亡き後、信徒たちは、さらなる終末観の継続を求めたと思われます。あるいは、なかなか訪れない終末に信仰が薄くなった教会の人々を懸念して、終末への見通しを立て直す必要を、幹部が感じたのかもしれません。けれども終末預言には、必然的にパラドックスが伴います。
 
それがいつ起こるかは分からない、とイエスが言いました。すると、今日起こらない予言は、明日に修正されます。これを繰り返すならば、いつか当てられることになってしまうのです。いつかは分からないという前提を壊してしまいます。いつと問うことすら止めて、私たちは備えるしかありません。心構えを強くしておくしかないのです。
 
緩んだ終末観は、信仰の筋を弱くします。パウロの思想を受け継ぐ形で、ペトロの名を用いることにより、権威を以て世の終わりへのメッセージを与え、教会を一つにしてゆく手紙です。「心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」との力強い言葉から、この箇所は始まりました。
 
そして「聖なる者となりなさい」とレビ記の規定を、今に生きるものとして突きつけます。生活を、そこを基盤に立て直すのです。神の裁きを掲げ、「畏れをもって生活しなさい」とはつまるところ神の裁きを目の前に置け、ということに外なりません。「この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい」には、襟を正される思いがします。
 
このとき、自分がどういうところから救われたのかを考えさせるのがよいと思います。それは「小羊のようなキリストの尊い血による」のです。天地創造の前から神と共にあったキリストが、「この終わりの時」に現れて、人により、つまり私により殺されました。けれどもそれで終わりとせず、神はキリストを復活させ、栄光を与えました。
 
キリストを通して私たちは、この神を信じています。ここに私たちの「信仰と希望」があります。この勧めは、過去のもの、昔話ではありません。信仰者の次元は、この時と今と、さして変わっていないのではないでしょうか。主の言葉が変わってしまったとは思えません。思えない、と告白するその者こそが、実のところキリスト者という者であるのです。




それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、
ひたすら待ち望みなさい。(ペトロ一1:13)

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一見矛盾したとしても要するに

2025-04-07 | メッセージ
エゼキエル18:21-32 
 
「哲学に興味があるんです。」中学一年生の男子生徒が私に打ち明けました。少し話をしました。友だちと話が合わず、孤立しているような子でした。自説を述べるのに対して釘を刺すつもりで、私が哲学を専門としていたことを告げると、その顔がぱあっと明るくなりました。私は哲学に加えて、宗教のという考えにも軽く触れました。
 
すると彼は、「宗教には矛盾があるんです」と言い始めました。私は、その「矛盾」というのは科学的な前提に基づいていることであり、様々な考え方を学ぶことの大切さを語りました。ここでエゼキエルは、子が親の罪の責任を負うことの矛盾を否定しています。ユダヤでは、律法の解釈として、常識としてそのように考えていたのでした。
 
悪しき者が悪を為せば、もちろんその当人に責任が及ぶでしょう。しかし預言者は言います。「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる」と。この「悪しき」とは何のことでしょうか。「悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う」のです。
 
すると「悪を行った者」が「悪しき者」だと定義されていることになります。他方「正しき者が正義に背を向け、不正を行い、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ」とも言っています。表現がユダヤ文化に於けるものですが、「正しき者」が不正を行えば、その咎で死ぬ、と言っていることになるでしょう。
 
すると「正しき者」は何のゆえにそう呼ばれていたのでしょうか。正しきことを行うがゆえに「正しき者」と呼ばれるのではないでしょうか。あるときまでそうだった者が、その後不正を行った、となると、「正しき者」という表現はもはや当てはまらなくなっていることになります。論理ばかりを追究すると、この辺り矛盾しているようにも見えます。
 
しかし「すべての背きから立ち帰れ」の声こそが、ここにあるメッセージではないかと思います。「すべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ」という言葉が、エゼキエルを通じて私たちにもたらされればよいのです。死ぬな。生きよ。神に対して背を向けていたところから、命の道へ向き直り、振りを正して行動するのです。




あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、
自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。
イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。
私は誰の死をも喜ばない。
立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。(エゼキエル18:31-32)

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