エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

恥ずかしいと思っていた

2025-04-01 | メッセージ
マルコ8:33-38 
 
イエスが「殺され、三日の後に復活する」(8:31)と弟子たちにはっきりと教え始めたところ、ペトロは驚き呆れたのか、「イエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(8:32)のでした。ペトロがイエスを叱ったのです。実は大切な、この背景を欠いたところから読み始めていました。そのとき、この情景の演出に目を開かれる思いがしてきました。
 
ここには「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」とありました。わざわざ振り返ったのです。そして弟子たちに視線を送っている状態で、こっそりと自分だけに、そんなことを言ってはならない、というようなことを告げたペトロを、今度はイエスの方が叱ったのでした。
 
イエスをいさめたペトロだけに言ったのではなく、この機会を、弟子たちすべての教育の場として用いたようでした。群衆にも、弟子たちにも、イエスは伝えます。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と。イエスの死と復活を共に否定したペトロの発言を、「サタン、引き下がれ」と強く退けたのです。
 
「神のことを思」うならば、死と復活はひとつの既定路線であり、救いの道である、と知るべきなのでしょう。でも、私たちが後の時代からそう見渡しているのと、現場にいた弟子たちとは、当然違います。私たちは、「答え」を知っているのです。「人のことを思っている」というのは、人間的な論理や思いなしというもののことなのでしょう。
 
さらにイエスは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」のですから、これはパブリックな、つまり公的な教えだったと言えます。この場面で、私はどこにいるでしょう。群衆の一人かもしれません。できれば、弟子のうちの一人でありたいものです。まず、イエスの視線を受けています。イエスから、命の言葉をも受けています。
 
だからこそここに、「自分の十字架を負って」イエスに従い、イエスと福音のために「自分の命を失う者」となることで「自分の命を救う」のだ、という逆説を見ます。この時代は罪深いものです。神に背いています。死と復活を否むのも、そのひとつです。イエスとイエスの言葉を恥じてはなりません。つまりペトロは恥ずかしいと言っていたのです。




神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、
人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、
その者を恥じるであろう。(マルコ8:38)

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過越祭を巡る権利と義務

2025-03-30 | メッセージ
民数記9:1-14 
 
過越祭の日取りは、まず出エジプトの第二年、第一の月の十四日の夕暮れに定められるといいます。モーセは主からそれを聞き、イスラエルの人々にこれを伝えました。日没を以て一日の始まりとしますが、この日は満月ということでしょうか。場所はこのときシナイの荒れ野。すべてモーセが主から命じられた通りに行いました。イスラエル人は従順です。
 
ところが、モーセの前に訴える者たちがいました。律法の書には、時折こうした訴えが現れます。その都度モーセは主に伺いを立てます。モーセ単独の判断で圧政的に決めつけるのではないようです。訴えは、死者を葬ったことで身が汚れたことになり、過越祭の献げ物ができないのは何故か、というものでした。
 
「死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい」(5:2)というような律法により、祭りに加われないことが疑問視されたのでしょう。モーセはそれらの人々に「待っていなさい」と言い、主に問います。ここには、主からモーセに告げられたことと載せるに留まりますが、結論は「主の過越祭を祝うことができる」というものでした。
 
但し、「第二の月の十四日の夕暮れ」に献げられる、ということで、1か月遅れての措置でした。「死者の体によって汚れている者も、あるいは遠い旅路にある者も」できるのです。不在者投票のようなものも可、ということです。これは「できる」という権利規定であって、「しなければならない」という命令ではなかったように見えます。
 
逆に、この過越祭を祝わないなら、「その者はその一族から絶たれる」とされ、「自分の罪を負わなければならない」のでした。祭りは義務なのでした。寄留者も参加の権利があり、同じ規定が適用されます。過越祭をキリストの十字架に擬え、この救いに与ることと重ねて目に映すことを、キリスト者ならばきっと自らもうしているに違いないでしょう。




あなたがた、もしくはあなたがたの子孫のうちで、
死者の体によって汚れている者も、
あるいは遠い旅路にある者も、
主の過越祭を祝うことができる。(民数記9:10)

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あはは、あははとはやす者

2025-03-28 | メッセージ
詩編40:1-18 
 
ダビデの、いったいどのようなときの詩であるのでしょうか。「あはは、あはは」とはやす者がそこにいます。宮殿を追われ、都落ちした頃でしょうか。サウルから逃げるときは、そのように馬鹿にされることはなかったように思われます。息子に裏切られたとき、国の人々がそのように蔑んだということは、考えるに値するかもしれません。
 
だとすると、王様万歳、と褒めそやす者たちは、そのときの空気に合わせて、権力者にただ寄り添っているだけ、ということになるのでしょうか。世の人々のこの軽薄さに唖然とします。でも、それは私たちの姿なのです。ダビデ自身は、神の方をしっかりと向いています。この揺るぎなき信仰が、ダビデのモットーなのです。
 
普通は、そのダビデの信仰をメインに、メッセージを語ろうとすることでしょう。信仰とは何か。ダビデに学べ。そんなふうに励ましたいものです。もちろんそれは正しいと思います。しかし、そのように恵みを受けた人の事例を並べられたとき、さあ自分も同じようにしよう、というように、聞く人々が単純に勇気を与えられるものなのでしょうか。
 
益々、自分にはできない、自分にはそのようなことは起こらない、と嘆くことにならないでしょうか。「数えきれないほどの災い」が絡みつくダビデ。「見ることができないほどの過ち」が迫るダビデ。そのときになお、主に救いを求めるのです。ここで「あはは、あはは」とはやす者こそ、実のところ、この私ではないかと思わされます。
 
誰かを嘲った。見下した。胸に手を当てて思い返せば、それは自分の姿なのだと示されます。心の中で、あんなヤツは死ねばいいのに、と呪っていた自分を思い知らされたら、私は項垂れるしかありません。「命を奪おうと狙う者」を主が罰してください、と祈るダビデが「苦しむ者、貧しい者」であるならば、私は「苦しめる者、貧しくさせる者」です。
 
自分の豊かな生活が、誰かを貧しくさせているのです。自分の贅沢か、誰かを貧困に追い込んでいます。私がそのままでいたら、私は滅びるしかありません。私はここで気づかされます。気づいたとき、私はそこから神に赦しを乞うでしょう。そこが大切です。そのことにより、幾らかでも私は、ダビデの信仰に近づくことになるかもしれないからです。




私を「あはは、あはは」とはやす者が
自ら恥を受け、うろたえますように。(詩編40:16)

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小羊を屠る過越のリアリティ

2025-03-26 | メッセージ
出エジプト12:1-13 
 
小羊の血を「小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」ことが求められています。主は「その血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す」のです。そうでないところは主が打つのであり、「滅ぼす者の災い」が及ぶことになります。この時を以て「一年の最初の月」とするのだといいます。小羊を用意するのは、その月の十日であるそうです。
 
その日は新月から十日ですから、まだ満月にはなっていません。小羊は、家族毎に一匹ずつ用意されます。「家族」と言いますが、「父祖の家」ともいいます。今の私たちが思い描く核家族とは異なるはずです。「火で焼いて、頭も足も内臓も食べなければならない」のであり、「それを翌朝まで残してはならない」のです。
 
相応の人数が想定されているのだと思います。屠られるのは「欠陥のない一歳の雄の小羊」であるというのですが、同時に「羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない」とも言っていますから、少々理解に苦しみます。取り分けておき、月の14日めの夕暮れに会衆が集まり、それを屠ります。このときが満月なのです。
 
そのときに、その血を柱と鴨居に塗るのです。これはもちろん、イエス・キリストの血の贖いのメタファーだと考えられます。イエスは神の小羊となり、洗礼者ヨハネをして、ずばりそう呼ばせました。黙示録でも、栄光の中で、小羊が万権を執ることが描かれています。その小羊は、屠られるだけではなく、火で焼かなくてはならない、と言います。
 
「生のまま、または水で煮て食べてはならない」のだそうです。「それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べ」なければなりません。「これが主の過越である」のです。本当に各家庭で、これだけの準備ができたのでしょうか。今ならきっと、専門の業者がいて、代行してくれるところでしょう。
 
それにしても、モーセという指導者をよくぞイスラエルの民は受け容れたものですし、それに全幅の信頼を寄せて従うに至ったものです。まとまりのつかなかった可能性のあるイスラエルの民の間で、これほどの統率がとれたのには驚きます。「エジプトのすべての神々に裁きを行う」ことは、まるで終末の象徴のようでもあります。




その夜、私はエジプトの地を行き巡り、
人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、
また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。(出エジプト12:12)

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神の計画の中のファラオ

2025-03-24 | メッセージ
出エジプト11:1-10 
 
「私も二度とあなたの顔を見ようとは思いません」(10:29)と、モーセはエジプトのファラオに言い返して、二人は訣別しました。この後、主はモーセにこれからのことを予告します。ふと思うのは、イエスが十字架と復活をどう知ったか、ということです。元々自分の中に幼い頃からそうなることを胸に懐いていたのでしょうか。
 
それとも、このモーセのように、あるとき神から突然聞き知ったのでしょうか。モーセは、さらなる「一つの災い」を聞きます。それは、そこまでの九つの災い締め括る、決定的な災いです。それにより、ファラオの手から完全に去ることになります。このとき、先ず「エジプト人が民に好意を持つように」なり、モーセも「厚い尊敬を受け」るそうです。
 
順序は逆になるようですが、モーセがこの主の声を聞いたのは、ファラオの目の前であったのかもしれません。モーセはファラオに、吐き捨てるように、呪いめいたことを告げます。「エジプトの地のすべての初子は死ぬ」のです。初子を主に献げよ、という、後の律法規定に則るかのようです。そのとき「大きな叫びがエジプト全土に響」くでしょう。
 
「主がエジプト人とイスラエル人を区別されること」を、まざまざと知ることになるでしょう。モーセの脅しが続きます。「こうして、モーセは怒ってファラオのもとを出て行った」のでした。そのとき、主がモーセにまた語りかけます。ファラオが決定的にモーセに反することを。こうなると、ファラオが少し気の毒になります。
 
「主がファラオの心をかたくなにした」といいます。イスラエルをすんなり去らせないようにしたのは、ほかならぬ主自身である、というのです。エジプトの初子を殺すに至るのは、まるで主なる神の自作自演のように見えるではありませんか。このとき、私はユダの裏切りのことを思い起こします。イエスを敵に売った、十二弟子の一人です。
 
ユダもまた、イエスの救いを全人類に実現するために、用いられたキャラクターでした。あの裏切りは、ユダの自由意志であり、悪い意味での自業自得だった、と片付けてよいのでしょうか。主はユダを選び、ユダを滅ぼしたのでしょうか。主はファラオを滅びに定め、実行したというだけなのでしょうか。神の計画とは何か、人には到底分かりません。




モーセとアロンはこれらの奇跡をすべてファラオの前で行ったが、
主がファラオの心をかたくなにしたので、
ファラオはイスラエルの人々をその地から去らせなかった。(出エジプト11:10)

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生ける道への礼拝と故意の罪

2025-03-22 | メッセージ
ヘブライ10:19-31 
 
イエスの十字架の死の際に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51)たという記事があります。神と人との隔てが取り除かれることの象徴としてよく語られますが、ヘブライ書は「垂れ幕、つまり、ご自分の肉」だと理解しているように見えます。これを通って、「新しい生ける道を私たちのために開いてくださった」のです。
 
すると、肉が真っ二つに裂けたことになります。「私たちは、イエスの血によって聖所に入」るのです。その上、そこには大祭司がいて、心が清められるというのです。イエスは大祭司である、とこの書で繰り返し知らせていますから、イエスは幾つもの役を演じていることになります。このことを信頼する、それが信仰というものです。
 
私たちは聖所に、つまり神に近づくことがこうして許されています。そこには「良心のとがめ」は消え去っています。こうして私たちは、「希望を揺るぎなくしっかり保」つことができます。さりげなくここに挟まれた「集会をやめたりせず」に、私たちは過剰に反応することがあります。だから、教会を離れるな、礼拝を休むな、と言いたいのです。
 
コロナ禍に於いても、この砦は切実でした。それまでは殆ど考えられなかったリモートという手法の是非も、議論されました。二千年前のスタイルが現代にそのまま通じるとは限りません。そして、深刻なのは後半です。福音を知り、恐らくは一度は信じた上で「故意に罪を犯し続けるならば」どんなに恐ろしいことになるか、激しく主張されています。
 
それは「どれほど重い罰に値する」のか。それは「生ける神の手に落ちる」ことです。「神の子を踏みつけ」「恵みの霊を侮る」ことを、クリスチャンは自らやっているとはまさか考えません。確かに、びくびくする必要はないのですが、それは慢心とは異なります。私たちに必要な「確信」について、この後語られてゆくことになります。




イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、
新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。(ヘブライ10:20)

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試練と誘惑

2025-03-20 | メッセージ
ヤコブ1:12-16 
 
そもそも手紙は、ヤコブを名乗った後すぐに「さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)と始まっていました。忍耐を求め、貧しさを誇れ、とさえ言います。そして今また、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と宣言します。富む者への嫌悪と忍耐の勧めは、最後にもまた念を押されます。
 
そこから、ヤコブの考える「試練」の視野にあるものが見えてくるような気がします。「幸い」というのは、イエスも口にするものでした。詩編が冒頭に掲げたのも「幸い」でした。それは、詩編全体の標題にもなり得るテーマでした。これを約束するのが「試練」ということなのですが、その試練を、人間は自ら招くことがあります。
 
自分から陥ることもありますが、簡単に誘惑に乗ってしまうということもあるのです。この「誘惑」について、警告が始まります。それは、神からのものではありません。荒れ野でイエスは誘惑を退けました。まして自ら人を悪い道へ誘うなどということはあり得ません。誘惑とは、人が「自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて」起こるものなのです。
 
その欲望が「罪を産み」、罪が「死を生」むのだと言います。人の中から、死へのコースが始まることを弁えなければなりません。この点を「思い違いをしては」ならない、と告げます。この「思い違い」というのは、人が二つのことを、あべこべに考え受け取ってしまうことです。ヤコブは他の箇所で「二心」を警戒するようにも教えています。
 
心に二つのことが相反して争うことですが、二つのことを体よく使い分ける点が深刻です。そのこと自体が、道の選択を誤っています。申命記には、二つの道が目の前にあり、君たちはどちらを選ぶのか考えてみよ、と迫りました。世界を二元的に整理してしまったかのようにも見えますが、その指摘が、人にとっては分かりやすいものであったと言えます。
 
人はこの問いかけに、決断をしなければなりません。してみれば、神の方を向くのか、神に背を向けるのか、そのどちらかという結論の分かりやすさが、そこにつながるようにも思えます。そのとき誘惑は、決定的に道を誤らせる原因にもなります。試練は誘惑を呼ぶことがあります。しかし試練のせいにせず、人が道を見極めることが求められています。




試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格な者とされ、
神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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罪の告白と神の赦し

2025-03-18 | メッセージ
ネヘミヤ9:9-21 
 
思い切った政策でした。捕囚から帰還した民は、民族純潔主義とでも言うような政策を断行したのです。捕囚時に、そうした気運が高まったのかもしれません。イスラエルは、やり直さなくてはならない、としたのです。その事の是非を表することはできませんが、新生イスラエルの姿を、とりあえずここに見るものです。
 
「罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した」(9:3)というような一連の告白、あるいは祈りが、ここにあります。一つの詩編の詩だと見てもよいようなものです。主を称えた後、出エジプトの出来事を振り返ります。新しいイスラエルのためには、アブラハムなどの父祖のことよりも、出エジプトの方が大きな問題であったのです。
 
これは、罪の告白と呼んでよいはずなのですが、他方、神の赦しが大いに称えられています。「あなたは恵みに満ち、憐れみ深い赦しの神」という捉え方が、歴史を見つめる眼差しを貫いています。人間のすることが如何に愚かであるか、それを神が如何に忍耐してきたか、その対比が顕著です。それを、出エジプト記の叙述を忠実に辿って表現します。
 
しかし、そもそも出エジプト記自体が、捕囚期にまとめられたのではないか、とも見られていますから、ネヘミヤ記と一体化していて当然だ、と受け取ることもできましょう。「私たちの先祖」のしでかしたことを正面から描いていますが、この調子で、この告白はずっと続きます。「正しいのはあなたです」「私たちは悪を行ったのです」(9:33)と。
 
イスラエルの歴史が「私たちの罪」(9:37)となって現前します。それは私たちのことでもあります。神の「驚くべき業を忘れ」「奴隷の身に戻ろうと考え」「子牛の鋳造を造り」「神だ」と言ったことは、他人事ではありません。この愚かさに対して、主なる神の慈しみが、ここで大きく描かれ、私たちの胸いっぱいに拡がってゆくのを覚えます。




あなたは深い憐れみをもって
彼らを荒れ野に見捨てることは
なさいませんでした。(ネヘミヤ9:19)

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罵りと迫害と悪口

2025-03-16 | メッセージ
マタイ5:11-12 
 
「心の貧しい人々は幸いである」(5:3)に始まる八つの幸福へは、多くの人が言及しています。が、もうひとつ、九つ目がある、との見方もあります。そこへは、もうひとつ注目度が薄いようです。「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである」という箇所です。
 
確かにここも、原文ではそれまでの八つと同じように、冒頭に「幸いだ」から始まっているという共通点があります。でも、八つは皆、こういう人々、という言い方をしていますが、こちらは違います。そこで、普通この「幸い」は八つだとカウントされています。ここではまず「私のために」が目に入りますが、原語の語順は異なります。
 
まずは「人々が……罵り、迫害し……悪口を浴びせるとき」という部分が畳みかけられています。三つの動詞が並ぶのです。キリスト者には、こういうものが次々と押し寄せてくることがありました。いつでも、誰からもそうだったのか、それはよく分かりません。市民の中でも好意的な人はいたかもしれません。
 
しかし、ユダヤ教から異端視されていた信仰のため、ユダヤ人の信仰とは違う教えの中で生活していたとなると、風当たりが強かったのではないか、と思われます。ぬるま湯に浸かっていることはないか、私たち自身への戒めとしたいものです。逆にまた、「正統的キリスト教」の名の下に、私たちが攻撃する側に回っているかもしれないのです。
 
私たちこそが、別の解釈をする派を罵り、迫害し、悪口を浴びせているのではないか、自己吟味が必要です。それから「私のために」と付け加えられています。自らの悪がそこにあるのなら、罵られても悪口を叩かれても、仕方がないでしょう。だから私たちにとり、「イエスのために」であることが肝要です。ここを弁えなくてはなりません。
 
これに続いて、「喜びなさい。大いに喜びなさい」とイエスが言います。「大いに喜ぶ」という一語は、並々ならぬ喜びを表します。ここの他には、ペトロの手紙一にまとまって二度使われるだけの語です。天における報いをイエスの口は約束してくれています。私たちがその約束を信用することにより、イエスの言葉がこの身に命となって及びます。
 
それには理由が加えられています。かつての預言者たちへも、迫害の手が及んでいたからだ、と言うのです。ということは、その預言者たちには、神が豊かな報いを与えている、ということになります。預言者たちの歴史には、悲惨な伝説もあり、不遇なようにも見えることがありますが、神はそこに幸せを与え、彼らは幸せに落ち着いていたと言うのです。




私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、
ありもしないことで悪口を浴びせるとき、
あなたがたは幸いである。(マタイ5:11)

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恵みの座に近づこう

2025-03-14 | メッセージ
ヘブライ4:14-16 
 
好例ではないかもしれませんが、礼拝の席のどこに座るか、という質問を投げかけた牧師がいます。なぜだか、後ろの方から席が埋まるのです。前の方を、と考えた人も、前から数番目に座るのが普通です。一番前を陣取る人は殆どいません。日本人の奥ゆかしさか、とも言っていましたが、恵みの座に大胆に近づくべきです、と話していました。
 
神の言葉を聞こうとするのなら、一番前がよいに決まっています。間に人の背中が見えるでしょう。他人を、神と自分との間に介在させるのは面白くないはずです。大胆に、あるいは「堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」との誘いは、必ずしもこういう意味に相応しいわけではありませんが、気持ちは分かります。
 
「助けを受けるために」神の前に出るのならば、遠慮をする必要はないと思われます。キリスト者は、「憐れみを受け、恵みにあずかって」よいのです。ここでは「大祭司」というイメージの中で叙述されています。手紙の時代、すでにエルサレム神殿は崩壊し、細々と各地のシナゴーグでの礼拝を、ユダヤ人は続けていたと思われます。
 
旧約の大祭司の感覚は、果たしてこのユダヤ人たちにピンときたのでしょうか。「神の子イエス」は「偉大な大祭司」なのだと言います。これに対して私たちは、「信仰の告白をしっかりと保とう」と求められます。但し、これは特殊な大祭司です。イエスは、「私たちの弱さに同情」します。「罪は犯さ」ないが、罪人と共に「試練に遭われた」のです。
 
そのようなイエスですから、私たちはその「恵みの座に近づこう」と呼びかけられます。礼拝説教そのものとは次元の異なる近づき方です。でも、礼拝の中から神は立ち上がります。イエスが近づいてきます。その真実さがある限り、神の言葉が語られる説教の中に身を浸し、イエスの懐に入るのが、きっと正しいことなのです。望ましいことなのです。




それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、
時宜に適った助けを受けるために、
堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

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