エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

主のためと私は受けとめずに

2018-11-12 | メッセージ
ローマ14:7-12 
 
信仰の弱さといった事柄から、食べる、食べないも主のためだ、と言い及んだパウロです。いえ、そもそもすべてのことが、そう、この命すら、主のためではなかったか、と膨らませていくような言葉の投げかけ方をしています。生死すら、自分のためではないではないか、と言うのです。ただ、私はずっとここのところが素直に呑み込めませんでした。
 
原文を見ると、「のため」というような語が明確に置かれているわけではありませんでした。すべて与格になっているだけです。与格の働きは、どうかすると曖昧なところがあります。日本語だと「に」に相当しますが、それに限定もできず、場面によってニュアンスの異なる使い方がなされ、日本語にするときにも様々な訳語が可能です。つまり解釈が入るのです。以下、ど素人の文法の説明は、きちんと学ぶ人は話半分に聞いてください。
 
邦訳聖書は見ると「ために」が並んでいます。この日本語のフレーズは、どうしても目的の意味を連想させます。与格が明確に目的を表すと決められるものでしょうか。いえ、「ために」であれば、手段の意味合いもあるでしょうし、原因を表現する場合があるかもしれません。その曖昧さを訳語は意識しているのかもしれませんが、私は日本語ではどうしても、目的だと解するほかないと感じていました。原文を見る前は、ずっとです。
 
生死はどちらもキリストが支配するように、と結論のようにも言われています。ここもよく見ると、生きる者を、死ぬ者を主人たる支配をするように、のように読めますが、この「を」の部分は属格です。属格もまた厄介です。「の」で片づけられないからです。私たちは主のものとして主に属する、という言い方だと「として」が属格になります。
 
この結論のような部分には、あの与格は使われていません。私たちはキリストを主とする支配下にあります。主に属する者です。このように言っているだけです。ここへ運んでいくようにしたいならば、あの与格の「のために」は、いっそ「に」だけにして訳すのはどうでしょう。「自分に生き、死ぬのでなく、主に生き、死ぬのだ」とでもして。
 
何を言っているのか明確でないと言われそうですが、パウロがそういう書き方をしていることを踏まえると、このような言明を、受け取った各自が、それぞれにその信仰に合わせて受け止めるゆとりがむしろできる、と考えられると思うのです。各人の信仰をそこに乗せてこの言葉を受けるのです。
 
私たちは主の手の中にある。人は自分で自分を支配したり、律したりしているのではない。だからこそ、兄弟を自分の気分や自分が定めた道徳あるいは宗教によって、勝手に評価を決めつける、すなわち裁くようなことをしてはならない、と言えないでしょうか。誰もが神の前に立っているだけです。人から裁きが出るのはよくない、裁くのは神だ、と徹底的に捉える視点です。
 
すべてのものは神に服しています。イザヤ書の引用も、そのことをはっきりと伝えています。できることがあるとすれば、せいぜい自分のことについて弁明するくらいのものです。私の感覚に過ぎませんが、「ために」をこう捉えて受け止めました。「自分を基準にして生きたり死んだりするように考えるべきではなく、生も死も、主を基に捉えようではないか」と。
 
 
生きるにしても、死ぬにしても、
わたしたちは主のものです。(ローマ14:8)
コメント

覚悟のパウロ

2018-11-10 | メッセージ
テモテ二4:1-8 
 
死を覚悟したパウロが言い残す、という形で綴られている書簡です。本当にパウロが書いたとは現代では単純に考えられてはいませんが、パウロと無縁に書かれたのか、何らかのパウロの書いたものや言い伝えに基づいているのか、この辺りはもはや私たちには決めることはできない状況にあると思われます。パウロのスピリットがないわけではないのですから。
 
パウロは死を前にして立っていた時期がありました。刑死したと言われていますから、だとすると人間に意志決定に命を委ねるという思いを懐いていた時があったと考えるべきでしょう。神の手に陥るというふうに考えことでしょうが、人の意志ひとつで生き死にが決まるという状況は確かにあったわけです。パウロはこれをどう捉えたでしょうか。
 
これは神の裁きだ、とは考えなかったに違いありません。裁くのは神のみです。人の手により殺されるにしても、神は自分の味方であることを、益々信じたのではないでしょうか。この思いは、後継者や仲間に、神の言葉を如何なる時にも語り伝えよとぶつけたことは大いにありうることでした。私たちもこの叫びを聞いています。このアドバイスを受けています。
 
当時の教会の状況を懸念しているような表現も手紙に診られます。自分の気に入ることばかり語る者を招き、作り話に熱中する教会の歪みを警告しています。これはもしかすると、当時の教会の様子を描いただけなのかもしれません。福音でも何でもないものが壇上で語られることに気づかないどころか、それを喜ぶという有様。これは実際にいまもあります。
 
表向きの姿に、人々はいとも簡単に流されていきます。中身に気づきません。まあ何かしら考えあってのことでしょう、と許すことが美徳とされていくうちに、いつの間にかその少しずつのズレや歪みが、もうやり直せないくらいに福音とは別のところに連れて行かれてしまっている、あるいは別の福音を信じさせられていく、ということは私も見てきました。
 
手紙の中のパウロは、ここから船出します。美しい言い回しなのですが、翻訳では単に「世を去る」と書いてしまいました。勿体ない気がします。紐が解かれて放たれることを意味する動詞です。美しくも悲しい表現です。できるだけのことはやった。その自負がパウロにこの確信を与えているのです。出た舟は、イエスがいれば目的地にほどなく着くことでしょう。
 
誰がこの手紙を綴ったにせよ、パウロの心境としてこれは嘘がないのではないかと思います。主を待つ者は報われるという励ましを送る、静まった境地のパウロが浮かび上がってきます。パウロにしては自分を誇っているかのようにも見えますが、私たちもそれを拒みはしません。私たちそれぞれが、どう腹をくくりこのパウロの覚悟に意志を重ねることができるか、問題はそこに向かいます。


御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい
。とがめ、戒め、励ましなさい。
忍耐強く、十分に教えるのです。
(テモテ二4:2)
コメント

死にゆく者に希望を与えるメッセージ

2018-11-08 | メッセージ
黙示録14:13 
 
今から主にあって死ぬ死者。幸いなりと告げる対象はこれです。ここは新共同訳もフランシスコ会訳も、カトリックの息のかかった訳は「主に結ばれて」と訳して、意味を限定してしまっています。英語のinに相当する語にそこまで過大な期待を背負わせるわけにはゆきません。
 
ヨハネはこれを、天からの声として聞いているのですが、聞いたその時には意味が分からなかったのではないでしょうか。後にこれを書き記している時に、彼なりにですが、意味を解するのです。このタイムラグは、私たち読者は普通意識しませんが、現実にはヨハネが、思い起こして筆記していることを、時に考えてみるとよいかと思います。
 
臨場感の描写も、実のところ想起に基づくという事実は、考えてみれば当たり前のことなのですが、出来事が解釈を経て記述されていくテキスト、それを読者は恰もまさに起こったその場の出来事であるかのように理解して読むという、解釈の構図を反省してみることによって、そもそも聖書の記述をどのように捉えるとよいのか、ひとつのヒントになるでしょう。
 
ヨハネは天からの声のようにして聞きました。霊もまた、そうだと付け加えるのを聞きました。主にあって死ぬ死者は、労苦から解放されるであろう。そして休息を与えられることになるだろう。その行いがついてくるからだ。霊が言ったことを、新共同訳は報いだと解釈しています。そうには違いないのですが、単純に報いと表現してよいものでしょうか。
 
行いが、最終的に神の前に出るところについていく、と言っています。このイメージは捨てずに保持しておくべきですが、しかし行いが救うかのような表現に気づくと、プロテスタント信徒としては少々戸惑いを覚えるかもしれません。救いとは何なにか、問い直さなければならなくなるからです。黙示録の描く救いのレベルは、また別の論理があるのかもしれません。
 
迫害の中、不条理な世界に苦しむ信徒たち。そこに希望のメッセージを届けなければならないとヨハネは感じていたに違いありません。それを自分の使命と覚え、苦難の中に同胞たちを励ましたい。この要求が切実であって、のほほんと平和にぼけているような時代の者、信教の自由といったものをぬるま湯のように感じている者とは意識が違うと考えたいのです。
 
当時の教会も、これを肝に銘じて、歯を食いしばって生きていた、あるいは死んでいった、という厳しい状況を、少しでも想像してみます。信仰を捨ててはならない。希望を失ってはならない。今の労は、もうあなたたちを支配し続けない。主に留まっていよ。主の内にいよ。主にあっての死は、第二の死とはならないのだから。それは、今は無縁なのでしょうか。


また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。
「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」
“霊”も言う。
「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。
 その行いが報われるからである。」(黙示録14:13)
コメント

吠え猛る獅子

2018-11-06 | メッセージ
ペトロ一5:6-11 
 
ディアボロス。当時、天使なり悪魔なり霊的な存在については、いろいろな名前を付けられたものが考えられていました。今から見ればオカルト的でマニアックな知識のようにも見えるし、はたまた生活レベルで大変親しい身近なものとして捉えられていたか、実感が湧かないというのが実情かもしれません。
 
吠え猛る獅子のように悪魔が私たちの周辺をうろつき、狙いつつ近づいてくるというイメージが、ここでは鮮烈です。人間を中傷する性格があるとも言われますから、何かと私たちの悪を指摘し、悪を見よと迫り、だからおまえは神に救われるはずなどないのだ、と脅すし、そう思わせるし、また他の人にそのように言いふらしていくことになるのでしょう。
 
だとすると、そもそも他人を中傷する者は、この悪魔と同じことをしでかしているに違いありません。キリスト教信徒が、世の人を嘲り悪と決めつけ軽蔑しているようなことがあるとすれば、悪魔の仕事をまさにしていることになりはしないでしょうか。私たちはどこに立っているのでしょう。何を見て、何を誇っているのでしょうか。
 
へりくだっていると言えるでしょうか。そこにしかクリスチャンの居場所はないのです。私たちは、聖書の中のどこに立っているのか、改めて問い直す必要があります。いえ、常に自らに問うことがあって然るべきでしょう。一瞬たりとも、その気持ちを見失うことがないように。そうでないと、吠え猛る獅子の餌食になり、仲間になってしまいそうです。
 
手紙では、私たちはイエス・キリストに一致する者としてもらっていると言います。私たちが苦しんだからこそ、十全な者として扱って下さるのです。もちろん、それは因果関係で捉えるのではありません。すべては神が先立って愛し、取り扱うのです。けれども私たちは惑うことなく、この恵みの中で揺らぐことがないようにされています。
 
手紙を見ると、すでに教会組織がかなり形作られているであろうことが伝わってきます。その営みがスムーズに進むような配慮をも感じます。上に立つ者の心得から、従う若者への諭しなどが投げかけられていきます。これがやがて教会の規定となっていくのでしょう。手紙自体が規定の書文として機能していたとも思われます。
 
パウロのような具体的な指導というよりは、ずっと抽象的な指示が目立つ文面ですが、だからこそ、どうとでも理解でき、より広い適用が可能になるとも言えましょう。身を慎み目を覚ましていよ、という命令は、私たちの心得としてこれに尽きると思われるようなものです。私たちは眠っています。いつでも襲いかかろうとする悪魔に操られそれに変身しませんように。

身を慎んで目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたける獅子のように、
だれかを食い尽くそうと
探し回っています。(ペトロ一5:8)
コメント

同胞を思うエレミヤ

2018-11-04 | メッセージ
エレミヤ14:1-9 
 
日本に住むとき、特に現代では「旱魃(かんばつ)」というイメージがもてません。でもエレミヤの時代と環境において、それは切実なものでした。雨のない情景が詳細に描かれていますが、ここでは精一杯その苛酷さを想像する思いだけを抱えて、先を急ぐことにしましょう。この状態は私たちの罪のなせる業である、とは当時誰もが思いつく発想だったと思われます。
 
主に対して罪を犯した。エレミヤは暗示はするものの、主がこの旱魃を引き起こしたとは直接言っていません。安易に神罰だと結論づけてはいないことにまず気づいておきたいと思います。ここにあるのは、私たちの背信の大きさが目の前に置かれていることを認識させる預言です。ただ、そこだけ見つめていても何も解決しないし、前進もできません。
 
エレミヤは主を見上げ、主に呼びかけます。イスラエルの希望である主よ。救いをなす方よ。私たちに必要は声がここにあります。自分をのみ見つめるのではありません。己れの愚かさと小ささは知らなくてはなりませんが、そこに留まっているわけにはゆきません。この自分を支えているのは誰か。それは主です。主を見上げてそこに信頼を寄せることこそ、主が求めているのです。
 
主なる神はイスラエルにとり、通りすがりの旅人のような対応をするような方ではありません。もっと人格的に深く関わり、交わってくださいます。思えば人は神に対して、その時ばかりの旅の友のように接していたのかもしれません。苦しい時に頼みとするだけであってよいはずもなく、お参りをして帰って無関心ということでよいはずがありません。
 
ここでエレミヤは嘆きます。主の助けはまだ私たちには見えていない、と。今の私たちのように、どうしてまだ主の手は私を完全に救ってはくださらないのか、と心に懐きますが、これを訴えるところが預言者です。神に向けて問うのです。なぜあなたは、と神に向き合って問いを投げかけます。神に嘆願するというのは、そういうことです。
 
エレミヤはそのとき見出します。主はどこにおられるのか。私たちの直中にいるではないか、と。現に共にいる主をエレミヤは発見します。イスラエルの名自体、ここに主はおられる、という証ししているではありませんか。名は体を表し、イスラエルに神は確かにいます。この信頼は揺るぎません。
 
乾いたこの地に、渇いた神の民。大地は雨を待ち望み、民の心は神の救いを慕い求めます。エレミヤはこの民に罵られ裏切られ、捨てられ、いためつけられ続けていますが、それでもこの民の救いを主に願います。軽蔑したり裁いたりするのではなく、救ってくださいと同胞のことを主に頼みます。私たちは、エレミヤになれるでしょうか。


主よ、あなたは我々の中におられます。
我々は御名によって呼ばれています。
我々を見捨てないでください。
(エレミヤ14:9)
コメント

ダニエル書と新約聖書

2018-11-02 | メッセージ
ダニエル6:17-25 
 
大臣となったダニエルが妬まれるのも、分からないではありません。捕囚の民からその才能を見出されて出世しました。バビロニア帝国の人々からすれば、とくにその高官などダニエルを目の上にもつ政治関係者たちには、面白くないでしょう。ダレイオス王がうっかり彼らの企みに乗ってしまったことが事の因ではありました。
 
ダニエルがその神に、それまでと同じように普通に祈り礼拝していたのが、その企んだお触れに引っかかってしまうのです。獅子の穴へ投げ込まれるという定めに従わなければならなくなりました。王はダニエルに同情的でした。この王に信仰があったとは思えませんが、ダニエルの神に託したような言い方をしたと記録されています。
 
人間の王とて、自ら認めた法に対しては、その法の下に置かれている様子が見てとれます。人が作った法に、その人は支配されるのです。王は寝食をとるゆとりもなくしました。ヨブの友にしろ、心情的にはいたたまれないのです。夜明けに急いで訪ねた王の心は、如何ばかりであったことでしょう。常識的に考えてダニエルはもう死んでいる。しかし神に願いました。
 
イエスの復活の朝に墓を訪ねた女たちの心境と比較したいものです。石の封印など、この場面と重ねられるようなイメージがあるのではないかと思います。福音書記者たるもの、ダニエル書は必ず知っていたわけですから、ここでの描写を参考にしたか、または少なくとも無意識のうちにこの場面の記憶が影響して、福音書を記したとは考えられないでしょうか。
 
王は恐る恐る問います。もう生きた人間のいない洞窟の中へ。すると、ダニエルから返答がありました。獅子は何の危害も与えませんでした。吠え猛る獅子は新約聖書で悪魔に比せられています。悪魔がキリストに何の仕業ができましょう。キリストは何の罪も犯さなかったのですから。ダニエルもここでは冤罪でした。象徴的ですがそのように受け止めてみます。
 
ダニエルを陥れようとした者たちへの厳罰は、あまりにも濃い復讐で、妻子までも獅子の餌になったという、おぞましいものでした。キリストを十字架につけた人々、殊にユダヤ人への憎しみは、このような心理がパラレルに働いた可能性も否めません。福音書や書簡を書いた人もダニエル書を知り尽くしていたのです。そしてその後の歴史上の教会も。
 
私たちも獅子の穴にいるようなものだとしてみましょう。ダニエルのように立ち回れたでしょうか。現実には害を受けるでしょう。しかし、死のダメージは受けません。たとえ殺されても、第二の死には及びません。教会学校でおなじみのダニエル物語ですが、軽く扱ってはなりません。王が永遠に生きるように、との賛辞を、イエスがむしろ私たちに向けているかもしれないのです。


神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、
わたしはなんの危害も受けませんでした。
神様に対するわたしの無実が認められたのです。(ダニエル6:23)
コメント

神の業をイメージする

2018-10-31 | メッセージ
ヨブ36:15-33
 
謎の若者、エリフ。ヨブ記に突如登場する若者と思しき人物は、ヨブの傍らで一週間すわりこんでいた友人たちとは別人のようです。ダニエル書で、人間にひれ伏すことをしなかった三人が燃え盛る炉の中に投げ込まれたとき、王の目には4人目の人物が見えたといいますが、それにも似て、ヨブ記の第四の人物は物語を収束へ導いていく役割を果たします。
 
でも、エリフとは誰かをいま考えるのは相応しくありません。神の代弁をしているかのようなこの人物の言葉を受けてみたいと思います。ヨブが苦難の中にあることは分かっています。神はあなたを聞いています。これを受けてきっとあなたは祝福されることでしょう。但し、富に目を奪われぬよう、またそのために誰かを助ける手を止めぬよう、忠告しています。
 
私たちは、神をただ称えることにまず専念しましょう。神に非を問うようなことは慎みましょう。ヨブとて、口数多くなってきたこの物語の中で、いつしか神に不平を漏らすように傾いてきていないでしょうか。いや、ヨブどころではない忍耐のない私のような者は、ヨブを批判するようなことをするつもりはありません。実際ヨブは大したひとです。
 
ヨブ記では、神の業を示すために、大自然の営みを幾度も持ち出します。私たち現代人の目から、それは少し理解しづらい場合もありますが、このような表現の拡がりが、具体的なイメージを与えることに貢献しています。神を直接見なくとも、そこに神の業が現れているのだ、と一つひとつの現象に注目することができるのは感謝なことです。
 
学者の結論は、どこか抽象化することを目標とするものですから、これは退屈なように見えるかもしれませんが、神は一人ひとりを大切に扱ってくださるのと同様に、一つひとつの自然現象をも気遣っている様子が伝わってくるような気がします。その上で、行動上の注意点については、いくらか抽象的にまとめ上げもしているように見えます。心してほめたたえよ、と。
 
苦悩によって私たちはテストされているのだ、とも言います。賄賂で惑わされるな、とフランシスコ会訳は冷静に訳していますが、新共同訳では、身代金が十分あるからといって道を誤らないように、と丁寧に訳しています。新改訳2017も大体そうです。私たちはイエスの救いを頭に浮かべます。イエスなら知っているぞ、などといい気になることが戒められます。


だから注意せよ
富の力に惑わされないように。
身代金が十分あるからといって
道を誤らないように。(ヨブ36:18)
コメント

主が勝利する

2018-10-29 | メッセージ
エレミヤ20:7-13 
 
ヨブの物語は、サタンが道化役を演じていたようにも読めます。災難の原因が擬人化されて、敵がはっきり見えるように打ち出されていました。しかしエレミヤは、そんなおとぎ話めいた解決法を知りません。私たちと同じで、いま置かれた情況にあっては、どうすればよいのか分からず、全く信仰の中に佇んでいるようなものでした。
 
その中でも、エレミヤは主にしっかりと向き合っています。ここが大切です。エレミヤは主と対峙しています。主の前に出ています。あなたの勝ちだ、私は負けだ。他の訳では後者は、私はもうできない、無理だという思いで表現されています。どだい神と戦って勝ち負けを競うなどといった考えが成立するわけがないのです。
 
これだけ大胆な声を神に向ける預言者を私は知りません。それほどエレミヤは主の立てる波に揺さぶられ続けてきました。主に従ってきたのは確かですが、周りの人間は自分を責め立てるばかりです。それは不法だと一日中叫び続けてきたし、批難ばかりを受けてきました。ああ、もう主の名によって語るようなことはやめよう、と何度思ったことでしょう。
 
しかし主の言葉は、火のように燃え上がります。抑えようと意図しても、そんな私の力では適いません。私の負けです。腹心の者たちも、私がしくじるのを待ち構えています。その冷たい眼差しは、どんなにか気味の悪いものでしょう。それならもう預言などやめてしまえばよいのに。エレミヤの中にそんな葛藤があったのではないかと思います。
 
これは誰かに命じられたり強いられたりしてやっているのではありません。私はそうせざるをえないのです。そうすることが私のアイデンティティであるのです。そう思うエレミヤは、もはや孤独ではありません。これほどの辛い経験をしてなお、いやしたからこそ、主が共にいますと断言できるのです。これが信仰というものです。
 
人は私に勝つことができない。私は主には当然負けるが、人に負けることはない。どんなに私を迫害する者がいても、私には勝てないのだ。エレミヤはそう確信します。私が勝つと言いたいのではありません。私と共にいる主が、すでに勝っているのです。エレミヤは主を賛美します。すべての戦いは、神への賛美で幕を閉じることになるのです。


主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。
(エレミヤ20:9)
コメント

孤独な預言者

2018-10-27 | メッセージ
エレミヤ15:10-21 
 
預言者は孤独です。このイメージを強く与えたのがエレミヤかもしれません。旧約聖書の中には、預言者集団を示す記述があり、後継者や弟子がいることも度々でした。エレミヤにもバルクという筆記者がいたものの、社会に対しては完全に孤立していました。しかも相当に辛い目に遭うことが続くので、人生は損ばかりだと思わされても仕方のないところ。
 
エレミヤは社会を敵に回して攻められるもので、神にも駄々をこねるように反抗すらします。そうして立ち上がりますが、それでもまた捕らえられ、命からがら脱出するようなことになります。最後にはエジプトに逃げるなどバカだと叫びながらも、無理やりエジプト行きの列に引っ張られていくなど、災難もいいところです。
 
いままた、身動きが取れない状況にあるようです。あれほど主に従い、敵のためにとりなしをしたというのに、こんな辱めを受けるだなんて。神はイスラエルをどうするか、もう決めていることをエレミヤは知っています。捕囚の運命は避けられないのです。人々にそれを告げるので、また嘲笑され呪われもします。捕囚を先に受けたのはエレミヤでした。
 
エレミヤは、主の言葉を貪り食ったといいます。他に選びようのない中で、することはもうそれしか残されていませんでした。私たちは豊かな選択肢をもちます。目移りします。神の言葉すら、多くの候補の中の一つに過ぎません。神の言葉が自分のものになった、とエレミヤが言うとき、むしろエレミヤが神の言葉に呑まれたかのように見えます。
 
神の名で呼ばれるからには、そこにいるのは単なるエレミヤではありません。たしかに、心に刻まれた傷は重く、深いものです。憤りが治まることはありません。しかしそこに主が現れて呼びかけます。元に帰りたいか。ならばそうさせよう。口を慎め。神の言葉をこそ語れ。余計なことはほざくな。そうすれば神がおまえの口を通して語ろう、というのです。
 
新共同訳は、「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と、人々こそエレミヤの許に帰るような書き方をしていますが、他の訳では、エレミヤが他の人のところへ「帰ってはならない」と禁止命令のように書かれています。そうなのかもしれませんが、私は新共同訳の訳に味わいを覚えます。
 
人々が神に帰らなければ、預言者としてのエレミヤの存在価値がありません。そして、「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」とは、いかにも逆説めいた表現となっていますが、これにエレミヤ自身、目が開かれたのではないでしょうか。主が共にいて助ける、救い出す、それをリアルに頼もしく感じたのではないでしょうか。


あなたが帰ろうとするなら
わたしのもとに帰らせ
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが軽率に言葉を吐かず
熟慮して語るなら
わたしはあなたを、わたしの口とする。
あなたが彼らの所に帰るのではない。
彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
(エレミヤ15:19)
コメント

危機を叫ぶ者

2018-10-25 | メッセージ
エレミヤ10:17-22 
 
危機を叫ぶのは、かなり愚かなことのように見えます。平穏な中でひとり慌てふためくように見られると、軽蔑されるでしょう。もしその警告が現実とならなかったら、嘘つきだと責められるでしょう。本当にその危機が起こってしまったら、混乱の世となり、語った者のことなど誰も気にする余裕がないでしょう。どうなっても何のメリットもありません。
 
エレミヤはこの役割を請け負ったのでした。まさに、神のことばを預かってしまったのです。しかし頭の良い人だったと思います。損しかない役回りが分かっていましたが、引き受ける覚悟を決めました。神に背を向けようとしたこともありましたが、神はそれを許しませんでした。
 
もしこの危機の警告が良いことであると受け止める者がいるとしたら、それを信頼して備えた人々です。聞き従った人は、神の審きを受けずに済みます。万一警告通りにならなくても、悪い生き方をすることにはなりません。それはよいにしても、やはり預言者はどうにも割の合わない仕事であるような気がします。
 
ただ、神ご自身、こうした不利な立場の大もとであったはずで、いくら人間に警告を与えても無視される、学級崩壊の現場で唖然とする教師にも似た孤独さを味わっていた、とも考えられます。エレミヤのように神もまた孤独で、だからこそエレミヤはその神の立場を味わうことにもなるのでした。
 
シオンの娘よ、と呼びかけます。それでも報われません。それどころか人々に責められ、苦しみを受けます。この警告は現実となりますから、エルサレムは攻撃を受けて崩壊することになります。そのエルサレムを目撃するのも辛いことです。空しさが押し寄せてきます。神から与えられた豊かなイメージを実際に目の前に見てしまうのです。
 
エルサレムは、相応しからぬ指導者たちにより、誤った道を進んできました。エレミヤの忠告も捨てられ、悲しい預言の通りになります。この箇所の直前で、エレミヤは偶像礼拝の愚かさに言及しています。神ならぬものを神として拝むことのばかばかしさを呆れるほどに告げますが、顧みられることはありませんでした。
 
現代の私たちが、同様に木や金属の偶像を拝んでいるということはないでしょう。少なくともキリスト教徒である限りはきっとそうでしょう。いや、本当でしょうか。自分のしていることが分からない人間という生き物のはしくれとして、自信がもてるのでしょうか。本当の神だと思って崇めているつもりで、全く違う方向を見ていないと断言できるでしょうか。
 
エレミヤはその意味では、主と一つの心でいられたのではないかと思います。自分を忘れるほどに、神のことばを取り次ぎました。自分の意見を言うことから遠く離れ、神から受けたものを流す仕事を担いました。このような人は幸いです。主を知ることに没入できる魂は、信の中を生きています。その時、確信を以て、危機を叫ぶことができるのです。


主はこう言われる。
見よ、今度こそ
わたしはこの地の住民を投げ出す。
わたしは彼らを苦しめる
彼らが思い知るように。
(エレミヤ10:18)
コメント