コロサイ3:1-4
「あなたがたはキリストと共に復活させられた」ということが、いわば事のすべてです。キリスト者とは、正にこういう人のことをいうのです。復活したということは、一度死を経ていなければ言えないことです。罪に死に、命に生きる。どんな言葉を使っても、そのすべてを伝えることはできません。もどかしいものです。
象徴的な、抽象的な言葉しか人間には与えられないためですが、こうとしか言えないのか、と悔しい気持ちがします。それでも、その言葉でとりあえず何か言えるのか、という体験を有していますから、頷き合えるというのも事実でしょう。「キリストと共に復活されられた」という大前提がある人々へ、次々と言葉がまた投げかけられてゆきます。
「上にあるものを求めなさい」と、顔を上に向けさせ、「上にあるものを思いなさい」と、いつでも視線と心とが神の方に向かうように促されます。「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」という宣言が心に響きます。今日は一日、この強い信仰によって歩いて行ける、と喜ぶことができます。
否、一日限りではありません。キリスト者の一生は、このことで支えられています。キリスト者でなければ、これは理解できないでしょう。心に懐けないでしょう。命が与えられているものの、この肉体の中に納められているようなものではありません。それだったら、肉体が朽ちることで滅びてしまうことでしょう。しかしこの命は滅びません。
永遠の命の輝きをもつために、今は隠されて明らかにされていない、というだけの問題なのです。やがて、キリストが再びこの世界に現れる時がきます。このキリストこそ、命の本性です。私たちにもまた、そのとき「キリストと共に栄光に包まれて現れる」という約束が、ここに示されているのです。本当に、これを見ているでしょうか。
神の内に隠されている命が、キリストの再臨の時には、もはや隠す必要もなく、現れるのです。そして、神の真実を放つために輝き、人々は変えられます。この地上での生き方を、私たちもまた顧みなければなりません。人間由来で、人間から出てくる知恵とやらに、目と心を奪われて、人生を左右される必要はありません。さあ、天を見上げましょう。
あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、
上にあるものを求めなさい。そこでは、
キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)
「あなたがたはキリストと共に復活させられた」ということが、いわば事のすべてです。キリスト者とは、正にこういう人のことをいうのです。復活したということは、一度死を経ていなければ言えないことです。罪に死に、命に生きる。どんな言葉を使っても、そのすべてを伝えることはできません。もどかしいものです。
象徴的な、抽象的な言葉しか人間には与えられないためですが、こうとしか言えないのか、と悔しい気持ちがします。それでも、その言葉でとりあえず何か言えるのか、という体験を有していますから、頷き合えるというのも事実でしょう。「キリストと共に復活されられた」という大前提がある人々へ、次々と言葉がまた投げかけられてゆきます。
「上にあるものを求めなさい」と、顔を上に向けさせ、「上にあるものを思いなさい」と、いつでも視線と心とが神の方に向かうように促されます。「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」という宣言が心に響きます。今日は一日、この強い信仰によって歩いて行ける、と喜ぶことができます。
否、一日限りではありません。キリスト者の一生は、このことで支えられています。キリスト者でなければ、これは理解できないでしょう。心に懐けないでしょう。命が与えられているものの、この肉体の中に納められているようなものではありません。それだったら、肉体が朽ちることで滅びてしまうことでしょう。しかしこの命は滅びません。
永遠の命の輝きをもつために、今は隠されて明らかにされていない、というだけの問題なのです。やがて、キリストが再びこの世界に現れる時がきます。このキリストこそ、命の本性です。私たちにもまた、そのとき「キリストと共に栄光に包まれて現れる」という約束が、ここに示されているのです。本当に、これを見ているでしょうか。
神の内に隠されている命が、キリストの再臨の時には、もはや隠す必要もなく、現れるのです。そして、神の真実を放つために輝き、人々は変えられます。この地上での生き方を、私たちもまた顧みなければなりません。人間由来で、人間から出てくる知恵とやらに、目と心を奪われて、人生を左右される必要はありません。さあ、天を見上げましょう。
あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、
上にあるものを求めなさい。そこでは、
キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)