そこで、ただ彼らからすれば意外な展開となるので、けれども、といった形で受け継がれていく中で、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24:31)となってしまいました。不思議なものです。イエスだと見えたとき、イエスは見えなくなります。含蓄の深い出来事です。私たちが、自分で「見える」と思っているときには見えていないのであり、自分では見えていないというときに、実は見えているという、人の思惑の虚しさを覚えます。「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った」(ルカ24:32)のでした。肉眼で見えていなくても、いやむしろだからこそ、二人の心には今真のイエスが共にいます。そう言えば、と話し始め、道での話のとき、書かれたもの、つまり聖書を開いたあのとき、自分たちの中で心は燃えていたのではなかったか、と確かめ合います。信徒同士の結びつきはこういうところに起こります。私たちは共に、神の言葉を聞いたではないか。そして信仰をあんなに燃やさせて戴いたではないか、と確認するのです。ここに教会が生まれます。ルカは、この後教会の発生を描きます。そして福音が、教会を通じて広められていく様子を、むしろこの福音書よりも長い書物を通して伝えようとします。この二人の弟子の記事は、その序章です。そのようなものとして、大きな意味があったのです。たんに復活を証明する証言のために描いたのではなさそうです。