エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

あなたには見えているではないか

2013-05-18 | ルカによる福音書
 しかしイエスの側では、これらはすべてすんなりと運ぶべき事柄です。「そして」の流れで「そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」」(ルカ24:38-39)と語りました。弟子たちは混乱していました。いわばパニックなのです。イエスはそうなる必要はないことを告げます。疑いが、あなたがたの心の中に起こるのはどうしてか、と問いかけます。ギリシア語の言葉はえらく詳しく丁寧です。まさにそのままの語がたくさんつながれています。私の心の中に疑いがあることを見抜く主は、読者ひとりひとりに問いかけています。あなたの心の中はどうであるのか、と。イエスの手と足を見よ。それは、読者にはできないではないか、と思われるかもしれません。しかしそうではありません。見なければならないのです。聖書を通じて私たちはイエスと出会います。そして、イエスの手と足の傷痕を、実際に見るのです。救いというのはこれを見たことから始まります。それを見なければ、救いは本物ではありません。触れ、とまでイエスは言います。触ることなどできないではないか、と思われるかもしれません。でも、触れるのです。私たちは主の痛みを直に触ります。私もまた、同じ、とまではいかないにしても、その苦しみの一端を担うことができるからです。霊にはない肉や骨があります。この信仰は、抽象的な、妙なスピリチュアルな出来事ではないのです。読者よ、信徒よ、あなたには見えているではないか、とイエスは迫ります。イエスは実際にその肉で以て痛みを味わい、贖いを成し遂げました。この現実に触れてこそ、の救いなのです。「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」(ルカ24:40)の句もまた、一部の写本にはなく、ヨハネの福音書と一致しているために、ヨハネから持ちこんだ疑いが極めて強いとされています。一致とはいっても、その「脇腹」がここでは「足」になっていますが、ルカは直前で手と足を見せたとあったので、変更した可能性が強いと言われています。こうなると、ルカの福音書は、原典がどこかでアレンジを受けて、そのアレンジがかなり受け容れられて広まっている様子が認められます。
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