エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

私たちの人生がこの瞬間からガリラヤへと移る

2008-10-11 | マルコによる福音書
 何の意図があってこのような形で残されているのか、そこにもまた、神の摂理あるいは意図のようなものが、きっとあったのでしょう。これが残されることによって、私たちに何か益とするところがあった、と。
 
 もう一種類、「短い追加文」と称される別種の末尾補足が存在します。
 それは「婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」というもので、節は与えられていません。
 マルコでは本来、恐ろしくて伝えられなかったとあることが、ルカやマタイでは、伝えたことになっており、その路線での補足だと言えるでしょう。こちらは、明らかにかなり後の時代の追加であることが研究では結論づけられています。
 逆に先の「長い結び」のほうは、2世紀はじめごろにあったとされており、とくにカトリックでは、本来の聖書にかなり近い扱いを示しています。伝統を重んじる立場からでしょう。
 
 マルコによる福音書は、その終わりにおいて、いくつかの謎を残しました。これは、いつか私たちが顔と顔とを合わせるように神の国を見るときに、解けるものでしょう。
 なんだ、そういうことだったのか――まるで、悩み苦しんだクイズの答えを聞いたときのように、私たちは、それを知るのでしょう。ただし、そのためには信仰が必要です。信仰があってこそ、その特権にも与らせてもらえるのです。すべては神の恵みのうちにあり、私たちが何をすでに得ているというものではないことを、改めてここに告白致しましょう。
 そして、ガリラヤに再び戻ったマルコによる福音書のラストシーンを思い起こし、私たちの人生がこの瞬間からガリラヤへと移ることを、信じて歩もうではありませんか。
 それが、「福音」なのですから。


※マルコによる福音書は、今回で終了です。次回からは、ヨハネによる福音書をお届けします。
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あらゆるメモがここに混在している

2008-10-10 | マルコによる福音書
 イエスはこの弟子たちに、宣教を命じます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15とは、マタイによる福音書28章19節を思い起こさせますが、この福音書より後にマタイ伝がまとめられていることを思うと、こちらが原型であるのか、そのあたりは私には分かりません。マタイ伝が先ならば、こちらが要約ということになるでしょう。
 興味深いのは、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16:16)という記述です。ヨハネ20:23が近いと思われますが、ここに「洗礼」がはっきり条件として出されているあたり、初代教会に従うことの重要性が強調されているように見えて仕方がありません。
 
 信じる者には、「しるし」(マルコ16:17)が伴うといいます。ここに列挙されているのは、マルコの記事をはじめ、使徒の働きにあるパウロの働き、またパウロ書簡などにも類似点が見られるものです。「新しい言葉」(マルコ16:17)とは、異言のことかもしれません。というのは、新約聖書における「異言」と同じ語が使われているからです。
 ただ、「毒を飲んでも決して害を受けず」(マルコ16:18)というのは、新約聖書の中に記述が見当たりません。従って、ここにあるメモめいた奇蹟の記事が、他の福音書記事の原版になった、という方向性も、やはりあるものだと考えられるわけです。それだったら、この毒の一件については記事に成されなかった、という理解で済むからです。
 
 イエスは、「弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)と記録されています。まるで教会の定めた信条のような文句ではありませんか。またこのとき、「主イエス」(マルコ16:19)いう呼称が用いられていますが、これもまた、教会の信仰告白に基づく表現であろうかと予想されます。
 また「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)という末尾の文は、使徒言行録を一言で表したようなところがあります。マルコによる福音書が、一気にそこまで拡大しているようでありますが、繰り返すように、なにしろ世界史上初の文学形式としての福音書がここに著されたわけです。あらゆるメモがここに混在させられていても、不思議ではありません。
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「信じる者には次のようなしるしが伴う」(マルコ16:17)

2008-10-09 | マルコによる福音書
 次に「二人が田舎の方へ歩いて行く途中」(マルコ16:12)のエピソードが記されていますが、これはルカによる福音書24章のエマオへの道を意味しているものと考えられています。あるいはこれを基にして、ルカはエマオへの途上での主の顕現を綴ったのでしょうか。
 やはり彼らの言うことも、他の弟子たちには信用してもらえません。
 
 それから「十一人が食事をしているとき」(マルコ16:14)のことが書かれています。「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(マルコ16:14)とありますから、ユダを除く十一人の弟子たちが、咎められているように見えますが、ここには、「信じなかった」の言葉がありません。もとより、他人からの伝聞ではなく、その目の前に直に現れたのですから、信じないはずがない、ということも言えますが、逆に、あくまでもここでは十一人ということですから、このキリストの弟子たちに強い権威を与える働きがあった、とは考えられないでしょうか。
 キリストを最初に「信じた」のは、この弟子たちとなるのです。これまでの目撃者たちは、ただ見たことを報告したに過ぎません。見たことを知らせたに過ぎないのです。しかし、ここでは次に示すように、イエスは宣教命令を下します。見たには違いませんが、ここでイエスを伝える使命を与え、その権威を保証することを告げるのです。「信じる者には次のようなしるしが伴う」(マルコ16:17)とあるのは、この弟子たちをおいてまずはほかにありません。事実、使徒言行録においては、ここにある叙述が悉く実現しているのを私たちは見ることになるのです。すでにその伝承も十分定着していたという時代だったのでしょう。
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マグダラのマリア

2008-10-08 | マルコによる福音書
 ここから、主語がイエスになっています。イエスの側からの記述であるという視点に変わります。
 そしてここに繰り返されるのが、「信じなかった」の言葉。ここからも、それまでの文体からの変化と、統一感のなさとが、古来ここから先の箇所の信用性に疑問がなされていました。内容的にも、そうです。妥当な解釈であろうと理解されます。
 
 あれほど女性の名前を幾人も幾度も連ねていたのに、ここから先で登場するのは、女性たちの中でもマグダラのマリアのみとなりました。
 マグダラのマリアは、ともかく初代教会において、重要な人物であったことは確実です。「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた」(マルコ16:9)という記述もあり、イエスを最後まで見届け、そしてイエスの復活に最初に出くわしました。
 しかし、ペトロが最初に復活の主に出会った、というようにだんだん伝えられるようになります。女性には証人としての資格がなかったことと関係しているのでしょうか。だとすれば、それはもはやイエスの教えとは決定的にずれがある、と見るべきではないでしょうか。イエスが命を賭けて教えたことが、こんなにも早く崩れていくのは、見るに忍びない思いすらします。
 この件について、マリアがグノーシス派に用いられるようになっていくことに原因がある、とする研究もあります。だとすれば、女性だから云々というよりも、似て非なる思想を弾くための手段だということで、いくらかは理解しやすくなりますけれども、それにしても、そのようにして福音書が改変されていくものとすれば、福音書そのものの信憑性にも影響しかねません。どちらにしても、この箇所はやはりカノンとしての聖典からは削られてしかるべきだったのでしょう。
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一見中途半端な終わり方

2008-10-07 | マルコによる福音書
 それにしても、この一見中途半端な終わり方に、古来多くの人が困難を覚えてきました。この箇所は、写本に決定的に欠けているものがあることや、他の福音書ができた後にその要点をまとめたと見られること、また、旧い時代の他の著作の中にこの箇所が全く触れられていないこと、さらに文体的にもそれまでのマルコ伝とは著しい相違があることなどから、元来マルコによる福音書にあったとは到底考えられないとされています。そこで、現在の新約聖書でも、そのことを断った上で、この補遺を掲載しているのが普通です。
 ひとつには、復活したイエスが現れた記事が見られないことにより、補われたのではないかと考えられますし、何よりもここでぷっつり終わるのがいかにも唐突であるというのが、その理由でしょう。この部分は元来あったのに、失われた、とする説もあるようです。また、ここで終わってしかるべきなのだ、とする解釈もあるといいます。そのどちらが優れているのかは、決定できないからこそ、今のような状態になっているのでしょう。付加された部分がまた、ひとつの神の摂理として遺されていることを覚え、私たちもそれを参考に致しましょう。
 ここでも、その付け加えた部分にも、少し触れておく価値があろうかと思い、以下でそれを検討してみることにします。
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「だれにも何も言わなかった」(マルコ16:8)

2008-10-06 | マルコによる福音書
 この女性たちは、震え上がり、墓を出て逃げたと記されています。この天使に、弟子たちとペトロに告げよと命じられたのに、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)と記し、マルコの福音書は結ばれています。正気を失っていたとも記されています。
 この後、復活したイエスと出会うのは、他の福音書によれば、マグダラのマリアであったり、ペトロであったりします。しかし、マルコは、もしかすると、読者すなわちここにいる私たち自身が、復活のイエスに出会うべきであるという意図をもっていたのかもしれません。
 なにぶん、福音書というのは、世界史上初の文学形式です。マルコにも先入観はありません。神の霊によって導かれている以上、私たち人間の計算や理解とは違う基準で筆が進められていることが容易に想像されます。ここで福音書が終わったからと言って、それがありえないとすることもないかと考えられます。私たちは私たちで、ここで終わって読めばよいのです。私たちは、再びガリラヤに戻ります。福音書のイエスに、出会う旅に、私自身が誘われ、導かれるのです。私が、歩み始めなければならないのです。
 女性たちは、恐ろしく震え上がりました。何も言わなかったことだけで終わったとしたら、この福音書自体も成立していないでしょう。何か伝わっているのです。しかしそれは、記されませんでした。復活ということを信じられないということなのかもしれませんが、それは、最後までイエスにつき従ったこの情厚い女性たちにしても、そうでした。復活を信じるということは、それほどに、人間にとって巨大な壁を越えなければできないことなのでしょう。
 このことを、あなたは信じられるか。福音書の末尾は、そのように問いかけているようにも思えます。
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「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。」(マルコ16:7)

2008-10-05 | マルコによる福音書
 若者は続けます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(マルコ16:7)と、このことを証言するように促されます。弟子たちという言い方に加えて、ペトロという名前が見えます。マルコが、ペトロから託されてこの福音書を仕上げているとすれば、ここにペトロの名を記すのも分かるような気がしますが、それ以上に、このペトロの歩みは、クリスチャンにとって、重く受け止めるべきものがあるのも事実でしょう。とくに、三度主を否んだそのエピソードは、イエスの赦しを示すとともに、私たちの心に深く刻むべきものとして示されました。ヨハネの福音書は、これを最後にとことん追及して描いています。
 弟子たちに、何を告げよと言っているのでしょうか。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ16:7)
 この墓にはおられない。それでは、栄光の主は、どこにいるのか。ガリラヤだといいます。たしかに、14章で、イエスは、復活の後にガリラヤへ行く、と口にしていました。しかし、その内容は誰の目にも隠されていました。今それが実現するというのは分かるとしても、それがどうしてガリラヤなのでしょうか。これは、マルコによる福音書の重要なモチーフとなっているかもしれません。どうしても、それはガリラヤなのです。
 それは、私たちがこのマルコの福音書の、最初の場所に戻ることになるからです。私たちは、イエスに出会わなければなりません。読者の立場からすると、もう地上で活動していたイエスその人に会うことはできません。ですが、その地上のイエスに、確かに出会わなければならないのです。イエスに出会うというのは、ガリラヤから歩き始めた、この物語の中のイエスと、読者一人一人が、直接出会う体験をしなければならないのです。
 しかも、この復活させられたイエスは、私たちの先に行かれます。イエスは、私たちに先立って歩まれているのです。まるで、羊たちの先頭を牧者が歩むように、弱く知恵のない私たちの先頭を、イエスが歩んでおられるというのです。
 このことは、かねてから言われていました。その約束のとおりのことが起こります。そこで、イエスに会えるのです。この福音書の最初に戻り、福音のはじめと称されたそのガリラヤからの歩みを、イエスに従って行くとすれば、私たちは誰でも、イエスに会い、しかも従っていくことができるのです。
 このこと全体が、まさに福音となるのです。
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「御覧なさい」(マルコ16:6)

2008-10-04 | マルコによる福音書
 あくまでも、女性が聴いたというのは、「ナザレのイエス」(マルコ16:6)でした。マルコがこれを、たんに女性だから特別な言い回しを使ったとするならば、あまりにも不用心だと言わざるをえません。イエスは、ナザレ出身です。たとえ産まれたのが、ルカの残すようにベツレヘムであったとしても、育ちはナザレです。このように地名で人物を特定しようとするケースは少なからずありましたから、ありふれた表現方法であったのも事実でしょう。しかし、このナザレが、次にはガリラヤとなって繰り返されます。
 ナザレのイエスは、もうここにはおられない。そのことを、イエスの弟子たちに伝えよ。御使いは、そのように命じます。御使いだから直接ペトロのところにでも言って話せばよいものを、どうして回りくどいことをするのでしょうか。
 また、「驚くことはない」(マルコ16:6)というのも、いわゆる「恐れるな」フレーズなのであり、このときの女性たちの心理を正確に言い当てています。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜している」(マルコ16:6)とは、はたしてこの女性たちにだけ告げられた言葉なのでしょうか。これからイエスを求め、イエスに出会いたいと願う、救われねばならないすべての人に、投げかけられた言葉ではないでしょうか。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6)と若者は言いました。明確に、復活したと語られます。この言葉は、かなり強烈な言葉なのだそうです。神により、「復活させられた」と示されるからです。「ここ」とはどこでしょう。墓です。闇であり死である墓の中に、主はおられないのです。主は、光の中、命の中におられる、ということです。同時に、追いかける私たちも、闇の中や死のほとりに何かを求めているようなところがあったのですが、そこに救いがあるわけではない、ということです。それと同時に、この墓を一度通らなければならない、ということも、隠されてはいません。「御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)と、墓をよく見るように言うのです。罪の中に死んでいた自分の姿を覚えることなしに、神の命に触れることは、ありえないのです。
 この若者の言葉に、福音のエッセンスがこめられています。
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「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6)

2008-10-03 | マルコによる福音書
 女性たちの驚きは、想像に難くありません。今で言うならば、安置された遺体を見るために墓の中を覗き込んだことも特筆すべきですが、そこに、怪しい姿が存在しているのを見てしまうのです。
 おまけに、その白い衣の若者が、喋るのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6)などと話を始めたとき、はたして落ち着いて聴いていられるでしょうか。ですが、女性たちはこの言葉を忠実に、キリストの弟子たちの共同体に伝えたのです。だからこそ、記録が残っているのです。
 これはすばらしい福音です。マルコが伝えたかった、メシアの証しがここに始まります。それは、神のしもべたる天使によって語られたと理解されています。神の証しは、人間によってなされるものではありませんでした。旧約時代のように預言者を用いることもできなかったので、神は御使いという手段をとったのだ、と。
 イエスは復活しました。そのことが、今直接イエスその方ではない存在によって、語られました。それとも、これは復活したイエスだったとでも言うのでしょうか。どうやら、この若者の語る言葉は、イエスその方だとは理解しづらいものとなったようです。
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「婦人たちはひどく驚いた」(マルコ16:5)

2008-10-02 | マルコによる福音書
 それで「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」(マルコ16:5)
 女性たちは墓に入りました。香料を塗ろうというためではありながら、恐ろしくなかったのでしょうか。遺体に対する感覚というのは、当時こうした女性たちにとって、どうだったのでしょうか。
 三人は、墓の中に入ったらしいことが記述されています。大きな穴であることが推測されます。ヨセフの身分に見合うものなのでしょうか。
 そこに見たものは、若者の姿でした。白い衣は、後に黙示録でも、清い聖徒たちの姿を暗示していますが、さしあたり、御使いであることを示唆するものでしょう。また、それは亜麻布のような高級な生地であったことが予想されます。御使い、つまり天使としては、地上の亜麻布そのものであったと呼ぶのは勇気が必要ですが、イエスを包んだ生地もまさにそれでした。
 そして、逮捕のときに、亜麻布を捨てて走って逃げた者へと連想が走ります。あの若者は何だったのでしょう。まさか、この天使ではなかったのでしょうか。人々が捕らえようとすると、裸で逃げたという若者。たんにマルコ自身を登場させたとするには、あまりに唐突で、また無意味なことのように思えてなりません。いくら世界最初の福音書であるが故に、飛び込ませる方法にこの時点でルールがあるわけではないにしても、他の様々な記述において、かなり念入りな記事の並べ方を展開してきたマルコが、不自然な若者の逃走をわざわざ記入したのは、どうしてなのでしょう。
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「目を上げて見ると、石は既にわきへ」(マルコ16:4)

2008-10-01 | マルコによる福音書
 しかし、「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」(マルコ16:4)といいますから、驚きです。
 もちろん、復活しているなどという確信があったとは思えません。ですが、鶏が三度鳴くのを耳にしたときに初めてイエスが自分に投げかけてくれたことのように、女性たちは、イエスがかつて教えていた、葬られて蘇るという言葉を、あらためて思い出すことができたのでしょうか。
 あまりにもここで信仰の卓越した姿を女性たちに冠することは、控えるべきでしょう。ただただ先の計算もなく、いわば感情のままに行動を起こしたというだけにしておきましょうか。
 目を上げて見たというのは、どういうことでしょうか。どこか不自然です。この動詞の元の意味から、見えるようになる、という受け止め方もできるそうです。つまり、あまりに早い朝でしたので、ようやく辺りに光が射し、夜が明けてうっすらと見えるようになってきた、という事実の記述かもしれない、ということです。
 墓の蓋は動かされて、暗い穴の中もうっすら見え始めたのでしょう。このとき、イエスの復活を想定したというよりも、これで蓋の岩を動かさなくてもいい、という安堵感が漂ってきたのかもしれません。これで香料が塗れるではないか。なんと都合がよいことか。
 いや、そんな余裕はおそらくなかったでしょう。何が起こったのか。女性たちは、判断がつきません。とにかく、中を覗いてみましょう。
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「だれが墓の入り口からあの石を」(マルコ16:3)

2008-09-30 | マルコによる福音書
 三人は、少し間の抜けた会話をします。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16:3)と。女性の力では、洞穴のような岩壁の墓に蓋をしたあの石を動かすのは不可能に思われました。では、それならそれで、なぜ香料を買ったのかが説明がつかず、また、誰か男手に頼んでおくという方法もあったに違いありません。
 だのに、何の計算もなく、ただそばに行かなければ、という思いだけからであるかのように、イエスの墓に向かいます。何も、すでにそこにはいない、という信仰があったとはとうてい思えませんが、結果として、女性たちの行動は、復活を示唆するものとなってきます。マルコは、この照合を楽しむかのように、女性たちの考えのない行動と、それが神の摂理の中に置かれていることとを、描いているのではないでしょうか。
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「週の初めの日の朝」(マルコ16:2)

2008-09-29 | マルコによる福音書
 安息日が明けました。この一日の空白の中で、どんなドラマが起こっていたのか、マルコは全く関心を示しません。人間の中のドラマではなく、これは神の出来事です。あれほどメシアであることを秘密にしてきたイエスが、ここで最も大切なそのことの答えを示そうとしているのです。
 また女性が集まりました。最後まで十字架を見届けた女性たちです。三人は、香料を買います。遺体に塗るためです。また、油を安息日に購入するということができないので、自然とこの日になったのかもしれません。
 それは、「週の初めの日の朝」(マルコ16:2)でした。さすがに安息日が明けた夜に行動を起こすというのは、避けたようです。それでも、日が昇るのを待ちわびたように、イエスの葬られた場所へ向かいます。彼女たちのうちの二人は、議員ヨセフによって遺体が葬られるところを、よく見つめていました。だから、場所を間違うはずがありません。
 またこれは、イエスがかつて口にしていた、「三日目」に合致することなので、曜日が記述されているのでしょう。
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マリアたち

2008-09-28 | マルコによる福音書
 この様子を、「マグダラのマリアとヨセの母マリア」(マルコ15:47)が見つめていました。「イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(マルコ15:47)というのです。
 女性たちの名は、十字架を見つめていたときにも、埋葬にも、そして次の節で、安息日明けに墓を訪ねるときにも、省略されずにきちんと記録されています。この短い間に三度も登場する名前が二つ。「ヨセの母マリア」(マルコ15:47)は、「小ヤコブとヨセの母マリア」(マルコ15:40)と同一ですから、ここは、サロメだけが不在であったことになります。
 また、マグダラのマリアはいずれも先頭に記されていますから、このクリスチャン共同体の中で重要な名前であったことが推測されます。そのことは、マルコの筆によるかどうかは疑わしい16:9以降にもありますし、他の福音書すべてにおいて、復活の朝に名前が残されています。マグダラのマリアが復活の証言者であることは、間違いありません。
 ちなみに、見つめていたことは、復活の証言が、墓の場所を取り違えたという誤りを排除するためでもあったでしょう。福音書の記事は、細かな配慮をしているものです。
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「墓の入り口には石を転がしておいた」(マルコ15:46)

2008-09-27 | マルコによる福音書
 ヨセフは、「亜麻布」(マルコ15:46)を買いました。これは高級な素材です。取り扱いの丁重さを表します。遺体の処置としては、実に丁寧に扱いを受けたことになります。その上で、墓地を用意されるというのですから。
 墓は、岩肌に彫った穴となりました。これもヨハネは、まだ誰も葬られたことがなかった場所だと説明しています。ヨハネは香料も添えていたとしています。しかしマルコは、復活の朝に女たちが香料をもってくるシチュエーションを守るためか、この時点で香料のことには触れていないようです。
 そして、「墓の入り口には石を転がしておいた」(マルコ15:46)とあります。これは、墓としては普通の形態であったとされています。しかし、犯罪者がこのように扱われることは異例であったというふうに考えられています。通常、そのための共同墓地のようなところに葬られたはずなのに、イエスは、この議員の力で、個別の墓が用意されました。
 それだから、復活が証言されていくのです。すでにその墓の中に遺体や遺骨があるならば、イエスの遺体もその中にあったかもしれませんが、遺体が一度も入れられたことのない新しい墓であれば、そこに何もないということが、イエスの復活を示唆することになるからです。
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