エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

真ん中に立つ

2013-05-17 | ルカによる福音書
 しかしそれに対して、という流れを作った後に、ルカは「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた」(ルカ24:36)と書いています。話が転換しました。どうもこの近辺、ヨハネの福音書と合致する表現がいくつか見られます。ここではこの、平安あれ、と言った部分です。また、写本によってはその部分が欠けていることもありますから、当然疑いがかかります。ヨハネからもってきたのではないか、と。その証拠として、この日本語訳で「言われた」と訳されている部分があります。ギリシア語では「言う」という現在形なのです。日本語が原文を変えている例ですが、英語でも平然と、周辺と合わせて過去形としているものがあり、邦訳も英語からやっているのだという疑いをもたれて仕方のない事態になっています。まるで、カンニングをして、隣の生徒と同じ間違いをしている、というようなものです。「言う」というやり方は、確かにルカはここまで殆どやっていないことなのです。しかし、ヨハネは、そしてマルコもまた、現在形はしばしばやっていることです。イエスが真ん中に立った記事もヨハネに似ていますが、語法からしてこれはヨハネから持ってきたという証拠にはならないようです。とすれば、こうしたことは、各方面に共通に伝わっていたと理解することができそうです。弟子たちはこれを以外に受け止めます。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ14:37)というのです。新約聖書でも珍しい語が用いられています。怖じ惑うというような語で、他で「恐れる」と訳している語とは違うものが使われています。もっと驚いています。英語の訳語を用いず原語に当たれば、「恐れる」のような安易な訳語にはしないことでしょう。「たまげた」というような響きが相応しくないでしょうか。なお、「亡霊」は「霊」の語です。霊は見えないという前提ですから、霊を見たということは、たまげたことになるのです。それに、神を見た者は死ぬと信じられていましたから、びびったのでもありましょう。ここには二つの動詞があり、まずたまげて、次に恐れています。従って新共同訳の日本語訳は、いわば順序が逆なのです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 復活のイエスに会った | トップ | あなたには見えているではないか »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ルカによる福音書」カテゴリの最新記事