エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

異邦人社会への福音伝道のために

2015-05-07 | 概説
 私たちは、ペトロやパウロの証しや説教から、多くのことを学ぶことができます。しかしまた、ルカ自身が、異邦人にも分かりやすい、人の罪とそこから救う十字架の救い、復活のドラマチックな事実といった展開をしていることについては、他の福音書や証言を併せて理解するとよいであろうとも思われます。旧約聖書の背景がなければこの救いが理解できず、また救いを受けることができない、というようなあり方だけは、どうしてもしたくなかったことでしょう。罪の赦しを強調するルカの筆致は、現代の日本における伝道においては分かりやすい基盤となるかもしれませんから、日本の教会説教では人気があります。使徒言行録もまた、たんに信徒教育というだけでなく、救いへの導きとしても力になるようです。また、福音書には美しく独特の譬えが備えられているところも魅力です。それを、ユダヤの背景から穿った解釈をすることもできますが、他方、素朴に人類普遍の知恵としても見ていくことは、当時基本的に期待されていたのではないでしょうか。私たちは、世界のすべての人が救われていく幻を思い浮かべるとするならば、ルカの福音書やこの使徒言行録は、まだまだ用いられて然るべき文書であるように思います。ギリシア語は美しいと言われることもありますが、たどたどしい使い方をしていないという意味のことであって、表現上説明が足りないところや、文意が曖昧になるところがあることは、仕方のないところでしょうか。航海についてのやたら詳しい叙述があると思えば、いやにあっさりと到着してしまったりと、語彙についても個性があるように見受けられます。しかし、この異邦人社会への福音の伝えられ方については、まだまだ検討する価値のあるものが潜んでいるようにも思われます。私たちは、この最後のパウロの伝道の、延長上に、たしかに生きているのです。(了)
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ローマ

2015-05-06 | 概説
 教会には、ユダヤ人信徒とギリシア人信徒が混じっていました。途中でその不和が記され、教会内で今の執事に当たるような世話人が、使徒とは離れて日常的な生活の面倒をみるように決めたという箇所がありました。教会が始まって間もない時期のことですから、発足当時から、教会には様々なタイプの人種や民族が混ざっていたことが推測されます。しかも、パウロが行く先行く先でクリスチャンが迎えてくれるような描写もあり、すでにクリスチャンがかなり散らばっていたことも予想されるのです。これは、パウロがいて初めて福音が伝えられた、と信じたい私たちからすれば意外なことです。パウロは大きな力になりましたが、パウロがすべての最初だという意味ではないようです。また、パウロはエルサレム教会の前に案外おとなしく従って行動したり、その献金運びを担当していたような向きも見られたりして、深く探ればいろいろな関係が見出されるかもしれません。あるいは、こうしたことがすべて筆者のフィクションであるならば、あらゆる史実については括弧をつけて理解しなければならなくなり、福音書共々、記録文学と歴史的事実との関係は、また様々な立場から究めていく必要があることになるでしょう。しかしまた、ローマ皇帝について非難めいたものがないところは、やはりこれがローマ高官に献上されたことの証左ともなりましょうし、少なくともローマ側の目をごまかす技術となっていたかもしれません。
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エルサレムと異邦人

2015-05-05 | 概説
 ルカは、福音書において、ひたすらエルサレムを目指すイエスを描きました。イエスの眼差しは、つねにエルサレムに向いていました。それは、ルカの眼差しも、イエスの生涯をエルサレムを焦点として結びつけるものであったからです。なぜか。エルサレムからこそ、世界へ拡がる福音が考えられるからです。エルサレムですべてが完結するわけではない、そこから世界へ福音が拡がっていくという確信があります。もちろん、最終的にはまたエルサレムにおいて神のさばきの業が完結するという見通しを、ルカも知っていたかと思います。しかしルカの役割は、世界へ拡がる福音を示すことでした。確かに、異邦人もこの創造の神の福音の計画の中に入っていたことを知らせたいのです。そのためには、イエスが去って後、教会がどのように歩み始めたかを記す必要があります。まずは、当時世界と目されたローマに、この罪の赦しの福音が染み通ることが求められるからです。他方それは、テオフィロと名指したこのローマの役人か何かに献辞をまず示しているように、ローマに対する弁明というか、一つの証拠立ての書類としての役割も担っているものとすれば、教会が信用するに足る存在であることを伝える意図もあったものと思われます。ただ、ルカ自身が異邦人であるとすれば、異邦人世界へ福音が確かに伝わること、そのために使命を覚え尽力したパウロという人物に惹かれていたのは間違いなく、その足取りを確実に記録したいという熱意はあったことでしょう。しかも、ローマ側に危険視されない工夫が必要です。このテオフィロという人物が歴史上確定しないようなので、もしかすると架空の形式でカモフラージュしただけのものではないか、という意見もあるようですが、そこまで考えても恐らく決定は不可能ではないかと思います。
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使徒言行録のルカ

2015-05-04 | 概説
 このルカと呼ばれる著者については、生粋のユダヤ人である可能性は低いのではないかと思われます。エルサレムやガリラヤなどの地理について、直接知らないかのような記述が見られます。もっと言えば、地理に疎いと言えます。ユダヤ人の習慣についても、それをなるべくギリシア人あたりに理解してもらうためにはどうすればよいか、といった配慮をしているように見え、マルコによる福音書の表現を書き換えたり説明したりする場合が目立ちます。同様にマルコによる福音書を参照したであろうマタイの作品と比べても、そのユダヤ的背景に比べて、異邦人社会への適用や解釈といった工夫が随所で見られるので、著者自身もまた、そうした使命を帯びた、異邦人ではないかと理解されています。ただ、パウロとは近い距離にあり、直にパウロと話し合うこともいろいろあったでしょう。パウロの証しや演説のようなものが幾度か集められていますが、実際にパウロが話していたものの記憶や記録、あるいはパウロ本人からの取材という形で、信頼のおけるものになっていると思われます。ただ、かといってパウロが全部その通りに言ったのかどうか、それを調べ上げ、パウロ書簡との食い違いを指摘してこの使徒言行録の価値を下げようとする意図がある者に対しては、それはあまり実りのあるものではないだろうと思います。ルカは、パウロだけではなく、別のルートからも資料を集めたことでしょう。パウロ以外の記事も、たくさん集められているからです。また、エルサレム教会の事情や諍いのようなものについても、適宜記録しています。ルカは、パウロだけをここに書くつもりはなかったことでしょう。
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使徒言行録の執筆時期

2015-05-03 | 概説
 時期としては、神殿についての描写あたりから、紀元70年以前であるとは考えにくくなります。パウロと同年代かいくらか若いとしても、パウロと行動を共にしている以上、この時点から何十年も下るわけにはゆかないと思われます。万一、文書としてのまとめ役が、パウロ世代ではない後の人物であるとしても、元々「私たち」と書くことのできた人物がせめてその草稿を作っていたことは否定できないので、この使徒言行録が元来できた時期としては、ルカによる福音書以降と見なしても、紀元70年代あたりが順当ではないかと考えられています。ただ、記述した場所については情報がなく、決めることは難しいと思われます。また、どこで書いたかということが、内容に関して問題になるということも、まずないものでしょう。
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使徒言行録

2015-05-02 | 概説
 使徒言行録が、ルカによる福音書の続編であることについては、ほぼ意見の相違を見ることがありません。内容からしても、語法からしても、それを否定する要素がないとされています。著者名をルカと呼ぶことは、ひとつの便宜上のことではありましょうが、概ねそのようにしておいて差し支えないと見られています。この百年内に、それをも疑ってみる試みがありましたが、少なくとも本文をそのまま受け容れる限り、あまり衒った解釈をする必要はないと見られています。その理由としてよく言われるのが、「私たち」という表現です。16章以後、また20章以後、そして27章以後に、それまでの客観的叙述から一転して、主語が「私たち」に変わります。もちろん作為的にそのようにしたのだというところまで考えるならば疑うことは可能ですが、見渡すかぎり純朴に、主語が自然に入れ替わっていく記述とその内容とから考えても、これは事態を正直に描写している故であると考えるほかはないようです。「私たち」という視点で展開していくとき、この文書の筆者がパウロと行動を共にしていることは明らかであるし、このパウロの様子を目撃しているという前提で叙述を理解して、なんの問題もないと思われます。それがルカという名前であるのかどうか、それは確かに研究の余地はあるかもしれません。が、どういう名前の人物が書いたのであれ、伝統的にその伝わり方から考えても、逆に、この著者を私たちがルカと名づけたものとするならば、結局この文書は「ルカによる福音書」としておいて何ら支障がないということになるでしょう。
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ギリシア語の修正

2013-05-31 | 概説
 ルカのギリシア語は立派だとよく言われます。マルコのたどたどしい、まるで英語学習者が英語で作文をしたかのような姿と比べると、いわばネイティブとしての流暢さは、たしかにルカにあると言えるでしょう。そこでルカは、大筋としてのイエスの言動をマルコから移して写すときに、ギリシア語の修正も施しました。文体や表現を、洗練されたものに変えようとしただけならまだよかったのですが、そのときに自分の意図で、ずいぶんと内容までも書き換えてしまいました。使徒たちのだらしなさを暴くマルコの姿勢には我慢がならず、ルカはそれを使徒として、立派な人々にしてしまいました。そうしないと、後の教会の権威に疵がつくと思ったのでしょう。また、ルカは他の資料を盛り込もうとしたために、マルコの内容を端折らないといけないと思うようになっていました。マルコの二倍の分量を含むルカの福音書です。マルコの詳しい描写のうち、ルカには不要と思われたものを細かに省いていくことをやりました。それはルカの編集です。ルカは、イエスの誕生にまつわる部分を大きく脚色したことは有名ですが、その後、マルコをたどる部分、それからマルコにない他の資料による部分、そしてまた十字架に近づいたときにマルコをたどる部分と、大きく三つの部分に分かれた構成をとっていると言えます。マルコのギリシア語を修正しつつも、どこかユダヤ的なものを伝えようとしたルカは、七十人訳のギリシア語を真似したような書き方をもしています。ヘブライ語のような調子を含んだギリシア語をわざわざ使うようなこともしているということです。それはアメリカのことを記す日本人が、英語独特の表現をそのまま日本語に置き換える直訳をして、英語に由来する文だということを臭わせようとしているのと似ています。
 
福音書についてのコメントは、今日で終了です。
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ユダヤ人ではなかった

2013-05-30 | 概説
 それを論じ尽くそうとするにはあまりにスペースがありません。また、私にはそのような力はありません。それは本文の中で触れていこうかと思います。マルコにはマルコの意図がありましたから、ルカとはそぐわなかったということなのです。そして、もう一つのルカの特徴である、異邦人への伝道ということも、パウロの視点を共有している以上、当然のことであったと言えるでしょう。だからまた、ルカ自身、ばりばりのユダヤ人ではなかったということで、より明確になります。イスラエルの土地勘のなさも叙述の中で暴露されていきますが、宗教的にも、ユダヤ色から、異邦人社会に伝わるようなものとして描かれていく特徴があります。ルカ自身も、実のところユダヤ文化は頭だけのものであったとも思われます。ところがこの点が、異邦人の一部である現代の私たちクリスチャンにとっても都合がよいのです。神の存在と人の罪、悔い改めに基づく救いと、敬虔な祈りによる神とのつながり、といった点は、ユダヤ文化になじみがない人間にも、まだ理解しやすい一連の宗教行為であると言えるのです。
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マルコへの対抗意識

2013-05-29 | 概説
 教会の歩みを記録し、正当化する必要に駆られたであろうルカは、その教会の根拠として最大のものである、イエスの生涯についても、その路線でまとめるべきだと考えたことでしょう。つまり、マルコの福音書をルカが知っていたのは、そこからの引用や構成といったことから間違いのない事実なのですが、どうやらルカは、マルコには相当に不満だったと思われるふしがあるのです。つまり徹底的にそれを改訂しようではないか、という心づもりが感じられるのです。もちろん、神の子イエスの生涯の記録です。その大筋を否定したり作りかえたりすることはできません。しかし、何もそんなふうに描かなくてもいいではないか、とマルコへの対抗意識が強く見られます。いわゆるQ資料と呼ばれる、仮想のルカ独自の、あるいはルカ並びにマタイが用いたであろう、マルコに由来しない別資料の存在も議論されるべき価値があると言えます。しかし、マルコがすべての資料を掲載したとも思えないので、他の資料はいくらでもあったことでしょう。また、マルコが執筆した後に判明した資料もあったでしょう。ですからそうした新しい記事があることについては、それもあるだろうと思いますが、問題点は、マルコから引用しながら、それを細々としたところで書き換えていることです。その書き換えに一定の意図がはっきりしているということで、ルカの心理をあぶり出すことができると思えるのです。
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ルカという名

2013-05-28 | 概説
 実はこのルカという名前も、はっきりと著者が名のっていない以上、どこか仮のものに過ぎません。著者の名をルカというのだ、という証言は、書かれてから百年を待たなければ私たちには見つかっていないのです。しかし、それを疑う資料もありません。パウロはフィレモン書の中で、ルカという人物に触れています。ただ、パウロの弟子としてではなく、同労者としてです。コロサイ書ではルカは医者であったという記述がありますが、コロサイ書そのものはパウロの手によるものであることは疑わしいものですから、信憑性はありません。医者であるとないとも言い難いのです。しかし、使徒言行録の書きぶりからして、パウロと行動を共にしたことがあるのは確実で、パウロの活動を全面的に支援していることは間違いないでしょう。ルカはこの伝道の根拠を記すことに情熱を燃やしました。ローマ当局あるいはその関係者に、この宗教活動がいかがわしいものでないことを説明する必要があったのかもしれません。あるいは、ルカの福音書の様々な描写からほぼ明らかであると言えるのですが、当時はすでにエルサレム神殿が破壊され、ユダヤ人がそこから追放されていましたから、ユダヤ教に迫害されつつあったキリスト教サイドから、ローマに対して、これはユダヤ教とは違うのだということを証拠立てる必要も覚えた可能性もあります。この視点は重要です。時に、ローマのご機嫌を窺うように、ローマの関係者に配慮を払った叙述であるようにも思われるからです。また、福音書のジャンルに入れられる割には、そこに「福音」という言葉が避けられている傾向が見られます。パウロの言葉として重要な「福音」を使わないというのは、一定の意図があると思われます。政治的に、まずかったのでしょう。
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ルカによる福音書

2013-05-27 | 概説
 ルカによる福音書と名づけられた福音書は、かなりドラマチックです。マルコのように素朴に訥々と語り続けた記録性の濃いような叙述と違って、著者の意図や思惑がかなり明確に表に出ているように見受けられます。その特徴はもう一つあり、使徒の活躍を知らせる使徒言行録とセットになっているという点です。巻としては別扱いになっていますが、著者の思いの中では完全に上下で一つのまとまりとなっています。ということは、すでに存在したマルコの福音書をわざわざ改訂するという面倒なことまでやっているのですから、よほどマルコの福音書には不満だったということにならないでしょうか。そしてルカの福音書は冒頭に、怪しげな献辞が載せられています。それも今は本文扱いとなっていますが、本来本文とは別に扱われていたと思われます。こうして、福音書の中でもやや異様な構成になっている特質がそこに見られます。一般に、歴史は、権力をもつ者が、自己の正当化のために綴る、とも言われています。歴史観を定めることにより、現在の自分が正統的な存在であることを内外に示すのです。ルカのこの執筆の中に、そのようなものを強く感じます。ルカは、キリストの弟子たちのことを悪く言いません。その弟子たちから信仰を受け継いだ第2世代が今教会を築き、展開しようとしています。すでにパウロの時代に、多くの地方教会が建てられ、異邦人の信徒も与えられました。ルカはこの異邦人伝道について、正統であるという根拠を求めたのではないか、とも思われます。
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教会

2010-01-25 | 概説
 教会というものが、マルコに比して強く意識されているのも、マタイの特徴です。そのためには、イエスの伝承を保つマタイのグループがいかに正統的であるのか、そこを定めておくことが重要になります。
 このグループは、ペトロによる伝承を重視します。あるいは、ペトロの存在を、カリスマ的に用いようとします。教会としての結束を促すには、キリストを中心に置くことはもちろんですが、実際の指導者においても、権威をもつ者がいなければならない、と考えたのです。また、すでにパウロの福音も周辺部ないしアジア地域に伝えられていましたが、マタイは必ずしもパウロを好ましく捉えていなかったように見えます。律法を廃して新たに異邦人に自由に受け容れられる福音の姿は、マタイから見れば邪道でした。
 従って、イエスの物語においても、ペトロの地位が自然と高くなります。マルコが、やはりペトロによる伝承をとりまとめている観があるにしても、それはまさにペトロが伝えたせいであるのか、ペトロをはじめ弟子たちは非常に人間味溢れるものでした。つまり偉大にイエスに対して、弟子たちはいつもへまばかりやっています。弟子たちは所詮人間であり、弟子たちを崇めるようなことは断じてしてはならなかったのです。しかしマタイでは、教会を基礎づけるこの弟子たちの地位が相対的に高くなります。弟子たちは、イエスの物語においても、登場するときに、イエスをよく理解し、イエスを助ける役割を果たすようになります。
 もちろん、十字架に向かうイエスを棄てて逃げるところは、史実をねじ曲げるわけにはゆきませんが、すぐに立ち直り、イエスの命令を受けて世界に出て行くところで福音書が閉じられています。
 この弟子たちによって築かれたのが、クリスチャン共同体であり、また教会です。マタイは、この教会生活をスムーズなものにするための、規律のようなものまで、この福音書によって教えようとしました。そこで、形の上ではイエスの口を通して語られてはいるものの、マタイ当時の教会の規則や方針が、随所で示されていることになります。
 さらに言えば、聖書をまとめた当時の、異端との戦いがあるかと思います。グノーシスをはじめ、いくつかの強敵がいました。そのとき、教会の権威を高め、教会の頑とした教えを定めるマタイの福音書は、使徒マタイという権威と共に、力になったものと思われます。教会の看板として相応しい役割を果たすことができたのです。
 こうした事情により、後に新約聖書がまとめ上げられていったとき、教会は、この福音書を冒頭に掲げました。マタイによる福音書は、教会における、教科書だったのです。
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文体

2010-01-24 | 概説
 マタイのギリシア語はスムーズです。少なくとも、マルコのもたもたした文章と比べると、実に流暢で美しいものです。間違いなく、ギリシア語に手慣れた人です。殆ど自由にギリシア語が使える人だったでしょう。マルコは、まるで私の英作文みたいに、どうにも間違いや不自然な語の多い、ひっかかりながら記してあるところがあります。マタイは、そんなことはありません。
 マタイは、マルコを受け継いで福音書の大筋としています。時にマルコを殆どまる写しするようにしながら、時にマルコを全く無視して、マルコにはない別の資料を用いて物語を展開しているところがあります。マルコを受け継ぐことがあるにしても、ギリシア語としては、マタイの方がマルコよりも明らかに能力が上です。そこで、マルコの覚束ない語などを、どんどん修正していく癖が、マタイにはあるように見受けられます。どんどん添削するように、書き直していくのです。細かなところだけを直すのが原則なのでしょうが、どうかすると、目を潰れない表現だということで、思い切った改変を求めていることがあります。
 逆にこのことから、マタイがマルコを参照しているということも、間違いのない事実だとして認識できるのです。
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目的

2010-01-23 | 概説
 マタイは、律法主義を悪いものとして捉えてはいませんでした。むしろ旧約聖書の律法の結末が、必ず普通ユダヤ人たちの間で言われているのとは違った仕方で、実現するものと、固く信じていました。ですから、このイエスの出来事によって、その伝統的な神の約束がついに実現したのだという理解をし、イエスこそメシアであるのだと訴えます。けれども、そのメシア像は、幾多の偽メシアが現れて叫んだのとは違い、政治的な反逆によるものではありませんでした。もっと心の問題として、神がこれまでも律法や預言者を通じて人間に知らせてきた、ほんとうのメッセージを、改めて定めようと考えたのです。
 そのとき、マルコの福音書がすでに成立したことを意識しました。それはイエスの伝記とも言えるものでした。これを利用して、これまでの聖書の結論として位置づけられる性質の書物の決定版を記述するべきである、とマタイは感じました。
 つまりマタイはおそらく、従来の聖書全体をまとめる、最後の聖書を編纂するという心意気があったのではないでしょうか。それは、先に著されたマルコの福音書を改訂するという作業によりなされました。単なる伝記的性格のマルコとは異なり、一部は説教集を用い、マルコの知らない他の資料を宛うことで、ボリュームあるものにしました。代わりに、マルコが詳しく描写していた奇蹟の情景はいくぶん省略することにしました。イエスがメシアであることが伝わり、読者に対して、このイエスに従うグループに参加しその指導に従うように促すことを、目的としていたのです。
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著者と時代

2010-01-22 | 概説
 著者は伝統的にマタイと称されます。十二弟子の一人であるということでしょう。ただし、それは異論のない理解ではなく、また、古来著者の名というものは、権威づけるために偽書でも平気で掲げることにしていましたから、これを、その呼称のゆえに、マタイが記したはずだ、とするのは早急すぎるように思います。
 マタイという名を借りたのかもしれません。あるいは、事実マタイという人が執筆したとしても、個人一人が執筆できるほど、この福音書記者という立場は簡単ではありませんでした。マタイと呼ばれる人物、並びにその周辺のグループを通して、この福音書は成立していったと思われます。
 そこには、70年前後のユダヤ戦争の有様を反映したと思われる記述がいくつかあるところから、マタイの福音書の完成は、その時代を越えてのことである、とするのが定説になっています。すでにエルサレムをはじめとするユダヤ地域からはユダヤ人が排除されていますから、シリアなど、周辺地域に逃れたユダヤ人としてのクリスチャンたちが、この福音書の編集に関わったものと想定されます。
 とくにこの時代、クリスチャンたちのグループは、それまでユダヤ教の一派と考えられていたのとは状況を変え、散らされたユダヤ人たちにとり、ユダヤ教とははっきりと異なる、別のものだという認識の中に置かれましたから、ユダヤ人たちによる迫害を強く受けるようになっていました。そのためマタイは、ユダヤ伝統の律法を重んじるにも拘わらず、ユダヤ人たちにはもはや絶望を感じることになり、このユダヤの律法の真の精神を伝えるものは、ユダヤ人ではなく、異邦人に託するほかないと考えるようになりました。
 異邦人への宣教を想定するにしても、律法の精神を活かさなければ、律法の完成としてのイエスの救いが成り立つわけがありません。マタイは、ユダヤ人の文化や習慣を十分踏まえた上で、この福音書を作り上げました。それでも、異邦人や社会的弱者に対するマタイの視線は決して温かいものではなく、どこかユダヤ人優越主義の眼差しから逃れられない著者の考え方が強く背景に残っているのも事実です。
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