こうしてイエスは、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)のでした。ここからまたイエスは説いたのです。旧約聖書に記されているイスラエルの救いをもたらす者の姿を。聖書としているのは「書かれたもの」のような言葉ですが、旧約聖書を指してそのように言うことが分かっています。しかしこれは、新約聖書でない時代のものであることを忘れないようにしましょう。この福音書も、果たして聖書という呼び名の下に遺されていくのかどうか、ルカ自身まだ確証はなかったかもしれません。ローマにも配慮し、異邦人へ福音が伝えられていくための道具としてぜひ利用してもらいたいという思いはあったとしても、戦略的にそれが実行に移されていたかどうかは分かりません。またそうなるかどうかも不明であったのではないでしょうか。ところでこの弟子たちは、ここまで話を受けても、それがイエス本人であるとは気づきませんでした。イエスの親族であれば、それがイエスであるということに気づかないはずはないのですが、案外そういうものかもしれません。ヨセフの兄弟たちがエジプトで宰相となったヨセフに気づくことがなかったように、まさかそんなところで生きているかと予想だにしない人物のことは、実際にそこにいたら気がつかないものなのかもしれません。