エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

受け継ぐ私たち

2015-05-01 | 使徒
 こうして記録は「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28:30-31)という結末を迎えました。実は、この直前に「パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ人たちは大いに論じ合いながら帰って行った」(使徒28:29)が加えられている写本があります。後世ある系統でここにこの句が加えられたといいます。節番号を付けたときの原典がそれでしたので、番号が振られているのです。説明のために加えられたとされています。果たしてユダヤ人たちは、どうなるんだろうと課題を抱きつつ戻ったのでしょうか。こうなると、パウロのいわば絶縁宣言で終了というわけではなく、いくらかの含みをもたせることができたことにもなるでしょう。ところでパウロの生活は、比較的自由であったように記されています。軟禁状態のようです。しかしその後に、遅いか早いかはさておき、パウロは殉教したという記録が信頼されています。ならばルカはどうしてそれを記さなかったのでしょうか。含みがあるような言い方ではありますが、とにかく書いておりません。この記録は、ローマの高官に宛てて書いたことになっていたことを思い起こしましょう。ローマ側に、パウロの死を突きつけることはこの場合相応しくなかった可能性があります。パウロを殺したのはローマ皇帝であったとされるからです。一説には、ルカはさらにこの続きを書きたかったとも言われています。あるいは、実際書いたけれども遺らなかったのでしょうか。しかし、末尾としてもこの終わり方は悪くはありません。完結は完結だろうと思います。パウロはローマでは大きな影響を与えることはできなかったのでしょう。パウロにしてみれば残念です。しかし、パウロから福音は多くの人に伝えられ、そこからまた拡がっていくことになりました。福音は、様々なルートで、神のしもべたちに受け継がれたのです。私たちもその一人です。私たちはパウロに歓迎され、宣べ伝えられたのです。そして私たちもまた、次の世代へ、次の世界へ、神の国を伝えていくように励まされているのです。(了)
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パウロのその後

2015-04-30 | 使徒
 パウロはだめ押しとして、「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」(使徒28:28)と言い、これで聖書におけるパウロの言葉はすべて幕を閉じます。ここからパウロが語ったことは、具体的にはもう表現されません。パウロの気持ちは、この形でストップし、このことをさらに二年間伝え続けたのではないでしょうか。ルカはこのように、パウロが頑ななユダヤ人に背を向け、異邦人に向かうという図式を好み強調します。ほんとうにパウロがこう言ったのかどうか、それはなんとも言い難いものですが、少なくともルカはそう捉え、この使徒言行録の中でさかんに言い続けたことではありました。福音は、ユダヤ人だけのものではない。人類すべてに渡るはずだ、という確信がルカの中にあったはずです。しかしながら、このローマでの出来事についてはルカは口をつぐんでいます。知らなかったはずはないと思われます。だがルカは、ローマにおけるパウロのその後については、全く記しません。「彼らこそ」と訳されています。「そして」とも訳すことのある見慣れた語を「こそ」と訳しています。ユダヤ人と同様に彼らも、という受け取り方もあり得るかとは思いますが、塚本虎二訳では「彼らならば」となっています。これは味のある表現です。ユダヤ人は聞かないけれども、異邦人だったら聞くのだという気持ちがよく伝わります。ここにあるのは「聞く」という意味だけの動詞ですから、「聞き従う」とまで意味をこめてよいのかどうかは疑問です。「聞く」で十分ですし、「聞く」しかないと思います。
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ユダヤ人を批判する

2015-04-29 | 使徒
 それでよかったはずです。しかしパウロにとっては、自分の話を聴いた全員が、イエスをキリストとして迎え入れるようになることを望んでいました。「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった」(使徒28:24)というのは、私などから見れば、受け容れた者がいただけよかったのではないか、という気もしますが、パウロは満足しませんでした。「彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った」(使徒28:25)と、強がりというと語弊がありますが、パウロの悔しさが滲み出るような仕方で、イエスも言ったことのあるようなフレーズを、現地のユダヤ人に対して言ってしまいます。少し大胆すぎるようにも思えますが、パウロの本音ではあったことなのでしょう。イザヤ6章を恐らく七十人訳を用いて引用し、「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない』」(使徒28:25-27)と言ってしまったのでした。聖霊であること、預言者イザヤであること、こうした権威を告げた上で、一見先祖たちを批判しているようでありつつも、今ここにいる、従わないユダヤ人たちに向けて非難する気持ちをこめて、宣言してしまったのでした。マタイ13章の引用とも同じですから、ルカがマタイを見たかどうかは分からないにしても、当時このフレーズを用いてユダヤ人を批判するという方法が、グループの中で当然であったのではないかと思われるのです。
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ユダヤ人に対して

2015-04-28 | 使徒
 パウロの説明を聞いて、「すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです」」(使徒28:21-22)とあるからには、パウロはクリスチャンに対して話をしていたというよりも、現地のユダヤ人に対して伺いを立てるような形で話していた、ということになるでしょうか。彼らからすれば、パウロは「分派」であり、ナザレ派などと呼ばれていたかどうか確実ではありませんが、まだユダヤ教の埒内に位置するものと見られ得る状況にあったということになるでしょう。パウロについて、幸い悪い評判が圧制的ではなかったようでした。「そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである」(使徒28:23)とあるように、ローマのユダヤ人たちが事態に関心をもち、集まることとなりました。エルサレムの方面から直接パウロについて警戒しろなどという知らせがローマに渡っていたのではありませんでした。これは幸いでした。ですからパウロは、熱心に自説を繰り返します。律法など旧約聖書の引用を縦横になし、イエスがキリストであると語り伝えたのでした。もちろん、このとき威圧的ではなかったと思います。パウロは置かれた立場から、やたらと反抗を呼び起こすような方法を望みはしませんでした。ただし、説得という表現を使うあたり、ここは何かしら理詰めで、根拠と共に語っている様子が想像されます。聖霊により救われるという道とは違いますので、ユダヤ人に対して誠意をこめてパウロは、自分の見たこと聞いたことを語っていたのではないでしょうか。
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イスラエルの救いのため

2015-04-27 | 使徒
 パウロはこの弁明を、「だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」(使徒28:20)と結びます。ルカが簡潔にまとめたというところなのでしょうが、ここでパウロは、イスラエルの望みの一環として自分がこのような目に遭っているのだと説明しています。神の計画の中に組み込まれたひとつの出来事だという理解です。このような大きなスケールで自分に襲いかかったことを捉えることができるということは、力強い信仰であるように思われます。古代のクリスチャンは、このようにして、迫害や苦難を乗り越えてきたのでしょう。パウロがその先頭に立っています。この鎖はイスラエルの救いのためである、と。ローマ書で、ローマ人へ書き送った書簡の中に、このイスラエルの救いの計画が書かれていました。ルカはそれをよく理解しています。パウロの心の中にはこのことがいつもありました。ただし、もしかすると、ユダヤ人のいる前でこのような形で取り出す一つの方策であったのかもしれません。しかし、偽りで言っているのとは違います。終末のメシアを思う者は、このパウロの切り出し方に賛同できたことでしょう。
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身の潔白を証し

2015-04-26 | 使徒
 これがたった三日の後だと書かれています。「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました」(使徒28:17)と、パウロは人々にこれまでのことを語り始めます。どういう意図であったのかは想像するほかないのですが、たとえばパウロが捕縛されて連れてこられたということは、パウロが実際何か犯罪に手を染めたためではないかという疑いを消すためであるとも考えられます。ローマにいるクリスチャンたちから見て、パウロが悪人となってしまうことはパウロにとりよろしくありません。もしかすると、ペトロたちとの関係からも、パウロが間違っていたという話になってしまうと、異邦人宣教がストップしてしまうかもしれません。ローマの信徒にはパウロは会いたかったはずですが、こういう形で会うということは、想定していなかったのではないでしょうか。そこで、パウロは身の潔白を証ししなければならないのです。「ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません」(使徒28:18-19)とパウロは経緯を語ります。釈放しようと思った、という記事はここまでありません。そんなに甘いものではなかったと思われます。ただそれは、本来悪を為していない以上、釈放されることは間違いなかったはずだ、というパウロの見解のことをそのような言い方で表したとすれば理解できます。また、それはルカの認識でもあったことでしょう。そしてここに、ユダヤ人を悪辣に言うことを目的とするものではなかった、と語り、ローマ現地のキリスト者たちに弁明を低いところからしているような印象をも与えます。
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番兵

2015-04-25 | 使徒
 そして「ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された」(使徒28:15-16)というようにして、ローマにおける生活が始まりました。ところで兄弟たちが迎えに来た土地の名からするとそれは、ローマからは数十キロメートルあると言われています。一日ではたどり着けない距離のように思われます。この知らせが届いたことも当時としては見事と言わざるをえませんが、迎えに来る歓待ぶりもまた驚きです。有名なアッピア街道の名の入った前者は、市場だったようです。ルカもローマに入りました。パウロには番兵がいました。ルカはフリーだったようにも見えます。パウロの生活は、幽閉と呼ぶか軟禁と呼ぶかは難しいところですし、現代と比較してどうのこうのというのはますます難しいことでしょう。ただ、厳しい禁固や牢獄状態ではなかったかのように描かれています。番兵は必要であり、自由に外出できたようには思えませんが、ここに来るまでのパウロの言動や業績からしても、ローマ市民という身分に添えてそれらが有利に働いたものと考えられます。
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あのローマに着いた

2015-04-24 | 使徒
 しかしここはあっさりと、「わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた」(使徒28:14)と書くということは、この後には難なく旅が続けられたということであるように思われます。ただ、ここに「兄弟たち」がすでにいたという記録は見逃せません。キリストを信じる者のちらばりでありましょう。ローマ近くに、すでに教えは広まっていたのです。イエスの十字架から四半世紀を越えています。キリスト教最大の伝道者パウロが健在です。その他弟子たちも多くが存命ではないでしょうか。このエネルギッシュな伝道とその成果には目を見張ります。もちろん、すでにローマ人への手紙の中で、ローマにいる信徒が前提となってパウロが書簡を送っていたのは分かっていますが、この「そこ」はプテオリのことです。当時重要な大きな町であったそうですが、島にも兄弟たちがいたということがさらりと述べられています。ローマ高官に贈るこの記録書にあっても、ローマ近辺において信頼おける人々が多数いたという報告になっているのでしょうか。七日の滞在という長期の理由は書かれていません。兄弟との交わりということなのでしょうか。他の囚人たちはどうしていたのでしょうか。この後、パウロは一人住まいを許可されていますから、他の囚人たちと同様に行動していたかどうかは不明です。パウロだけが特権的な立場にあったのかもしれません。ローマ市民ですから、犯罪人とされたわけでもなし、手篤く扱われていた可能性があります。ローマまでは船というよりも一定の陸上における道が考えられますが、ルカはそれについては詳述しません。ともかく、ローマに入りました。「あのローマですよ」という調子が窺えます。
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ディオスクロイ

2015-04-23 | 使徒
 この島には長いこと滞在しました。もとより船がありません。また、冬という季節の故に、出航しようにもできません。「三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった」(使徒28:11)というように、ルカは丁寧に事情を説明します。ディオスクロイというのは、ギリシア神話に由来する航海の神の名です。ゼウスの息子という意味で呼ばれるのは双子の二人のことだそうです。船首像あるいはフィギュア・ヘッドとも呼ばれ、今なお船にしばしば付けられます。主に帆船にあるそうですが、こうした習慣は長いこと変わらないものです。迷信などと笑う人は、百貨店の屋上の祠や、地鎮祭などのことを思い浮かべると、笑えなくなるでしょう。この船は、アレクサンドリアから出てきた船だと思われます。ここは越冬をする島でもあったのです。「わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した」(使徒28:12-13)とあり、シチリア島の今もある港町で、その他の町も今なお存する町です。ルカはずっと「わたしたち」と記し、そして航行に関して詳細な記録を遺しています。
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神の導き

2015-04-22 | 使徒
 こうして、「このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった」(使徒28:9)というように、島人からの信頼があつくなり、頼られるようになりました。パウロにとってのみならず、難破した乗組員たちにとっても、これはありがたいことでした。皆が信頼されます。そこにいたのはローマ帝国に捕縛された者が多く、いわば囚人たちではあったのですが、その心も和らいだのではないでしょうか。ぎすぎすした不信感に囲まれているのではなく、互いに心を許す関係の中にいると、悪の心が働こうとしなくなるでしょう。パウロの身の上に現れる神の恵みは、様々な形で周囲に影響を及ぼします。それがまた、福音の力でもあるのです。「それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた」(使徒28:10)のでした。ひょっとしたら、パウロの祈りで加持祈祷的な治療があったというよりも、共にいたルカが関係しないわけはありませんから、ルカによる処置がものをいった可能性もあります。「わたしたちに深く敬意を表し」たのです。パウロだけにではなく、ルカにも。船にいた一同に、という意味もこめると、パウロ一人の業の故に全員が、ということも考えられなくはないのですが、医者であるルカが無関係であるようには思われません。もちろんその場合でも、ルカは自分が治したなどと書くはずがありません。これは神の業であるのです。そして島民も、それに見合う穏やかな心をもった人々であったのではないでしょうか。それとも、こうした難破船が辿り着くということに、慣れていたのかもしれません。また、ローマ帝国の支配がそのようにさせていた、とも考えられます。いずれにしても、パウロにとり好都合なことが起こります。神の導きが、そこかしこにあるのでした。
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手を置いていやした

2015-04-21 | 使徒
 それは「さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた」(使徒28:7)というところからシメされます。「長官」という表現が適切かどうかは分かりませんが、とにかく島の指導者や首長といった存在なのでしょう。所有地が限られている点、王とはまた違う範疇にあるかと思いますが、このプブリウスという名前がわざわざ記されているのは、次の出来事の故でした。「ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした」(使徒28:8)のです。果たしてこれがイエスの癒しの業と同列に並べてよいものであるのかどうかは分かりません。親切に看病をした、あるいは寄り添っていた、というだけでも合理的に説明はできることでしょう。しかし、たとえ知識により恢復がなされたのだとしても、パウロは一切を神の栄光の故になし、神の故に癒されたとしか言わなかったことでしょう。病にある老人を見捨てるようなことはできなかったのです。この病の名は、現代では「赤痢」を表す語となりました。もちろん、これは現代的意味であって、この症状をもつ病として、赤痢について名づけられたという順番であろうと思われます。
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カミ

2015-04-20 | 使徒
 蝮がパウロの手に噛みつきました。「ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった」(使徒28:5)というのです。毒が回ってくるのが遅いのか、と住民たちは息を呑んで見守りました。おかしい、と。そこで、「体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った」(使徒28:6)のでした。人々の反応は極端です。この悪人は罰を受けたのだと言ったかと思うと、その罰を免れたとたんに、今度は神と呼びます。そもそも日本では「カミ」とは、人間の能力を超えた存在を言いますから、悪の力も窮まればカミになるでしょう。この場合も、必ずしも善なる全能の神などという概念とは違い、人間的な能力を超えた力を有する特殊な存在だと驚いた、というところが一番正直な心情なのではないかと思います。古代人の、しかも離れ小島故の迷信と笑えるでしょうか。毎朝テレビで、毎週雑誌で、占いを気にしている現代人に、また黄色い財布や幸運のペンダントや壺を買う現代人に、そんな資格があるのでしょうか。あるいは金が儲かるから、と騙される現代人に。パウロは恐らくこれを否定したでしょう。神になぞらえられることは拒否したと思われます。しかし、神の力を受けていることを隠すことはありませんでした。神を証しするためにも、神の業をその手を用いて現したのです。
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因果応報

2015-04-19 | 使徒
 ところがここで「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた」(使徒28:3)のでした。毒蛇がパウロの手を襲ったのです。「住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」」(使徒28:4)という展開は、蛇に噛まれた者を気の毒がるというよりは、天罰が当たったのだと解釈する、ありがちな理解でした。昔の人だからそうなのだ、とは言いきれません。私たちもまた、災難に遭った人のことを、悪いことをしたからだとか、因縁だとか、平気で言うのです。歴史的な記事の中に、古代人の妄想や迷信などを見て嗤うようなことが私たちにはありますが、その殆どは私たちもまた同様であると言わないわけにはゆかないように思います。そういう目で古代文献を読むことは、その文献にこめられた人間の真実を感じることができるための良い方法です。また、それでこそ、罪という問題も分かるものではないでしょうか。因果応報を口に出す私たちは、この住民の言動と何ら変わりがないのです。女神の名が挙げられていますが、世界の秩序なる「テミス」を母とし、平和なる「エイレーネー」を姉妹とする神話の女神です。いやはや、日本でも、なんとか神とか観音とか呼んで、こうした物語が好きではありませんか。
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マルタ島

2015-04-18 | 使徒
 ルカの筆は「わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった」(使徒28:1)と記します。もちろん、ここで何らかの経緯はあったことでしょう。船の中での操作や駆け引きなどを存分に描いているルカでしたが、この島民との関わりは、最小限の描写に留めているようです。続くパウロにおける奇蹟についてのみ、詳細に語っています。マルタの綴りは、昔の地名の綴りに特徴的なことですが、曖昧であり、統一性がない中で解釈されていますが、ほぼ異説はありません。ただ、この航海の経過を見るに、季節風や潮の流れなどの知識から、マルタでない別の似た名前の島ではないか、という考えを呈する学者もいるそうです。なにしろ嵐ですから、私たちの計算通りに船が運ばれるわけでもなく、さして問題視する必要はないというのが一般的な見解です。「島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである」(使徒28:2)というのは、現地における有難い待遇でした。ソフトに書かれていますが、この島の住人とはバルバロイ。何を喋っているか分からないというからかいからついたギリシア語による、外国人のことです。ルカが悪意から書いたようには思えないのですが、そういう言葉を使うことが自然であった時代ということなのかもしれません。ただ、私たちも多かれ少なかれそうしたことは引き継いでいるし、知らず識らずのうちにやっていることなのだろうとは思います。降る雨の中でたき火とはややそぐわない表現ですが、雨はまだこれからだったということなのでしょうか。
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囚人を逃がした場合

2015-04-17 | 使徒
 だから、もう見えていたのかもしれません。「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった」(使徒27:39)と動きがもたらされます。場所は不明ですが、何かしら上陸できそうな場所が見えてきました。このあたり、当然判断ですが、細かな描写が続きます。「そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ」(使徒27:40)と訳されていますが、何を指しているか確信のもてないような語もあるようです。この風はもはや嵐ではありません。通常の風です。「ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした」(使徒27:41)のでした。何かしら船がぶつかって、損壊したことが分かります。もはや船として機能しません。と同時に、困ったことが起こります。「兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した」(使徒27:42-44)というのです。政治的立場と、囚人の立場とが明確に分かります。これは確かに逃走できるチャンスではあるのです。しかし、得体の知れない島においてその船から、あるいはローマ人の支配から逃れたところで、どうなるというのでしょう。あるいはそれほどに、逃げ出した囚人はもはや命がないことが分かっていて、いちかぱちか生きのびるチャンスがあるとすれば、ここしかない、と思わせるものがあったのかもしれません。それとも単なる兵士たちの勘ぐりであり、自分たちの責任にさせられることへの恐れだったのでしょうか。そうだとすれば、囚人を逃がした場合のローマ兵の罰則の厳しさというものが再び思い起こされます。百人隊長は、これをよしとしませんでした。パウロは恵まれました。かくして、全員が無事に上陸したのです。
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