ここに、そうでない弱気な一人の男がいた。からだはとうに成人の体格になっていたが、精神的にはまだ大人になりきれていない、若者だった。厚い胸板をもち、頭一つ人々より出るほどのなりをしていながらも、孤独で、いつもうつむくようにして生きていた。
男は、ミディアン人がいつ襲ってくるかと怯えながら、小麦を打つのにどこに隠れて打とうかと思案していた。なにしろ穀物をどうかしているというのがミディアン人の目に触れると、すぐに襲ってくる。あれだ、と岩を穿ったところに造られたぶどう酒のための酒槽に小麦を持ち込んで、男は小麦を打っていた。
そんな男を周囲の者は、臆病だと笑った。
「ギデオンが、また隠れて仕事をしている」
「いもしない怪物に震えているのか。ミディアン人なんて、めったに来るものじゃないよ。その証拠に、去年も一昨年も、来なかったじゃないか」
「まったくだ。次は、天が落ちてこないかと心配するんじゃないか」
ギデオンは、なんとでも言え、と思った。
『きっと今に、またあの蛮族が来る。そのときは、外に置いた食糧という食糧が、すべて奪われてしまうのだ。こうして山に隠しておきさえすれば、見つけられずにすむかもしれない』
ギデオンは、父ヨアシュの所有するテレビンの木をちらりと見た。丘の中腹に立つ木は、人の背の三倍余りもあり、平原からも目についた。その木を目印として、この洞穴へたどり着くことができる。だが知らない者が木のもとへ来たとしても、この洞穴のことは見えにくい角度にある。
父ヨアシュの属するアビエゼル族は、伝統あるマナセの中の一家系である。ギデオンは、父親にそのことを誇りに思うようにと度々言われてきた。しかしギデオンは、父の語ることと父の行うこととの食い違いに悩んでいた。父の名は、『主が与える』という意味にもつほどにイスラエル的な名前であり、そのようなイスラエルの神、主についての話を小さいころからギデオンに何度も聞かせてくれた。にもかかわらず、父ヨアシュ自身は、家の自分の祭壇で、バアルを祀っているのを知っていたからである。バアル用の祭壇には、アシェラ像もあった。こちらは裸の女の形をした像なので、ギデオンは、物心ついてそれを見たとき、恥ずかしさを感じたのを覚えていた。どちらもカナン人にとっては普通の神像であり、どこにでもあるものだが、ギデオンはあくまでもイスラエル人であったし、耳で聞く話とそこにある祭壇とがまったく違うので、戸惑ったらしい。なにしろイスラエルの神は、あらゆる形ある像を嫌うのだという。
その日、すべてが動き始めた。
仕事に疲れたギデオンが、またふと外を見ると、あのテレビンの木のふもとに、誰か人がいるのが分かった。ギデオンは一瞬緊張した。見慣れぬ姿は、もしかするとミディアン人かもしれない。もしそうだったら、ここで自分は殺されてしまうかもしれない。
ギデオンは手を止めた。腰はもう、洞窟の奥の方へ逃げていた。物音を、できるたけたててはならないと自分に戒めると、よけいに暗がりでつまずきそうになった。再び振り向くと、もうそこに人の姿はなかった。どこかへ去ったのか、それとも別の道からここへ近づいてくるのか、分からない。緊張した面持ちでギデオンは立ち尽くしていた。
「勇士よ」
やや高い男のような声が、頭の中に響いてきた。ギデオンの心臓は拍動を盛んにし、それから顔の血が引いた。
「勇士よ。恐れることはない。主が、そなたとともにおられる」
不思議な響き方だった。空気を通して伝わってきた音なのか、それとも心の中から聞こえる声なのか、判然としなかった。いや、そこまで考慮する余裕すらすでにない。
ギデオンの緊張は極度に達した。ただ、死を前に覚悟してのそれとは異なる性質のものだった。なんだか暖かい空気が漂うような感触がして、その声とその内容に、いくらかの信用を寄せることができたのは、奇蹟だった。奇蹟、それはまさに神の領域である。人のとやかく言うことではない。だから、そうと決まればむしろ腰が据わる。
「主の言葉を携えて、そなたのもとに下った。主の言葉を聞くがよい。主は、そなたとともにおられる」
「ほんとうに、主ですか」とギデオンは恐る恐る尋ねた。「アブラハムに幾度となく御声をかけ、モーセに呼びかけてイスラエルをエジプトから導き出した、あの主なる神が、この私にも御声をかけてくださったというのですか」
「そうだ」
声の主は、洞窟の入口のところから深く入ろうとはしなかった。ただ、ギデオンは光の加減で判然とはしないものの、その主が白く輝いているように見えた。また、半透明なふうにも感じられた。とすれば、それはまさしく主の御使いであろう。神は、自ら姿を現されることはなく、人に出会うときには御使いを遣わして言葉をかけるといわれている。逆に言えば、人間は神の姿を見たとすれば、命を取られるものと伝えられている。ギデオンは、それがイスラエルの神、主からのものであることを認めた。が、それならそれで、尋ねたいことがある。おそらく誠実な人間ならば、誰でも一度は神に訊いてみたいこと……。しかしこんなことを神に申し上げてよいものかどうか、気弱なギデオンならばもっと怯えるべきだったことだろう。それでも、どんな理由からか、彼は御使いに堂々と尋ねた。勢いなのか、それともギデオンの中の精一杯の勇気からか、彼は御使いに向かって尋ねた。
「わたしの主よ。それではお尋ねいたします。主なる神が、私たちとともにいらっしゃるというのならば、なぜ……どうしてこのようなことが私たちの身に降りかかることになったのですか」
相手は黙っていた。ギデオンは、言葉を制されることがなかったのを知って、さらに続けてよいと判断した。いや、自分の中にあふれる熱情が、堰を切ったようにこぼれた。
「主は、イスラエルの民を、エジプトから導き上られました。私も聞いております。『主は、我々をエジプトから連れ出された』と、代々伝えられてきました。あの驚くべき御業は、今どうなっているのですか。主よ、イスラエルはミディアン人に、ひどい目に遭わされております。主は私たちを見放してしまわれたのでしょうか。もう、ミディアン人の虐げに屈し、このまま滅んでいかなければならないのでしょうか……」
一瞬の沈黙の後、御使いの声は今度は低い威厳のある声となって、ギデオンに向かって一直線に飛んできた。
「おまえの持つその力をもって、立ち上がるがよい。そなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる力をもっている。そのために、すべてのイスラエルの民から選ばれた。このわたし、主が、おまえを遣わすのではないか」
ギデオンは思わずのけぞりそうになりながら、その言葉を受け止めた。しかしあまりにも突然に、そして意外な御言葉。頭の中にがんがん鳴るばかりで、冷静に受け止める余地がない。
「私の主よ。どうかお願いいたします」とギデオンは切実に訴えた。「イスラエルを救うなど、そんな大それたことは私にはできません。私の一族アビエゼルなど、マナセの中でも最も貧弱なものではありませんか。それに、私ギデオンは、家族の中でさえ最も小さな弱い者ではありませんか。私に何ができましょう」
「わたしがおまえとともにいる」と主の声は返された。「おまえは、ミディアン人を打ち倒す。あたかも一人の人間を打ち倒すように、軽々と打ち倒すことができる」
「なんと……」
ギデオンは戸惑った。と同時に、だんだんその気になっていったのも、不思議なことだが事実である。主の言葉を真っ向から否定してよいはずはない、ということは分かっていた。それでも、どうしても自分にそんなにも重大な何かができるなどとは、とうてい信じられるものではなかった。
「主よ。もしも主の目に適うことでありましたら、ひとつ『しるし』を示していただければ、と願います。たしかに主が私にお告げになっているという『しるし』を、ぜひとも教えてください。……そうだ。どうか、ここでお待ちください。供え物を用意して、私が再びここへ戻ってきますので、それまでここでお待ちください。御前に供えさせていただきとうございます」
「よろしい。おまえがここに戻ってくるまで、ここにいよう」
しかしその御使いの姿は、そのとき見えなくなった。ギデオンは、夢から醒めたように、洞窟から外に一歩出た。今ここに、御使いがいた。その地に立つと、不思議な気がした。が同時に、御使いが立っていたのはここではない、という気もした。ギデオンは、やはりあれはたんなる夢であるとは思わなかった。たとえ夢であったとしても、主が示した夢の大切さは、昔の話でよく聞いている。ヤコブやヨセフには、主は夢で大切なことを知らせた。もし今のが夢だとしても、自分は自分の言葉に誠実に従うべきだ。ギデオンは直ちに家に戻り、供え物の準備をした。
ただちに子山羊一匹と、麦粉一エファから酵母を入れないパンを準備した。それくらいの準備を、旅人のためにすぐに用意することができないでは、この地で生活する権利すらない。旅人は最大の敬意ともてなしをもって迎える。それが暗黙のルールである。旅人の安全のためには、娘でさえ売り飛ばす覚悟ができているのでなければ、この土地で生きる価値かない。ギデオンは、籠に肉を入れた。肉汁は壺に集めた。急いでいるつもりだったが、焦れば焦るほど、思うように手が動かなかった。かなりの時間が過ぎていた。
洞穴に戻ろうとすると、まだあのテレビンの木の下に、白く輝くその御使いが座っているのが見えた。人の形をしているが、顔ははっきりと見えない。神々しくて、まともに見ることができない。さきほども、あんなに輝いていただろうか。夢中でいたそのときの姿が、どうしても記憶から出てこない。ギデオンは、神の顔を見た者は死ぬ、という言い伝えを再び思い出した。目は伏せるようにしながら、その御使いのもとに、ゆっくりと罪を悔いるかのごとく近づいていった。
「お待たせしました」
ギデオンが子山羊の肉とパンを差し出すと、御使いは手にした杖を動かして命じた。
「その籠と壺とを、そこの岩の上に置きなさい」
ギデオンは、言われた通りにした。
「それから、肉汁を肉の上にかけなさい」
ギデオンはその通りにした。
御使いは、杖の先を差し伸べて、肉とパンに触れた。すると、岩から強い火が起こった。黄色いような、赤いような炎が見えた。あっと驚く間もないくらいにその火は燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。
一瞬、視界が赤く、それから白く変わった。それは感じた。だが、その後ギデオンは辺りを見ることができなくなった。
何が起こったのか。省みるゆとりもない。
やがて……音も光もない時間を経験すると、しだいに視力が回復した。しかし、もうそこにあの御使いを認めることはできなくなっていた。 (続く)
男は、ミディアン人がいつ襲ってくるかと怯えながら、小麦を打つのにどこに隠れて打とうかと思案していた。なにしろ穀物をどうかしているというのがミディアン人の目に触れると、すぐに襲ってくる。あれだ、と岩を穿ったところに造られたぶどう酒のための酒槽に小麦を持ち込んで、男は小麦を打っていた。
そんな男を周囲の者は、臆病だと笑った。
「ギデオンが、また隠れて仕事をしている」
「いもしない怪物に震えているのか。ミディアン人なんて、めったに来るものじゃないよ。その証拠に、去年も一昨年も、来なかったじゃないか」
「まったくだ。次は、天が落ちてこないかと心配するんじゃないか」
ギデオンは、なんとでも言え、と思った。
『きっと今に、またあの蛮族が来る。そのときは、外に置いた食糧という食糧が、すべて奪われてしまうのだ。こうして山に隠しておきさえすれば、見つけられずにすむかもしれない』
ギデオンは、父ヨアシュの所有するテレビンの木をちらりと見た。丘の中腹に立つ木は、人の背の三倍余りもあり、平原からも目についた。その木を目印として、この洞穴へたどり着くことができる。だが知らない者が木のもとへ来たとしても、この洞穴のことは見えにくい角度にある。
父ヨアシュの属するアビエゼル族は、伝統あるマナセの中の一家系である。ギデオンは、父親にそのことを誇りに思うようにと度々言われてきた。しかしギデオンは、父の語ることと父の行うこととの食い違いに悩んでいた。父の名は、『主が与える』という意味にもつほどにイスラエル的な名前であり、そのようなイスラエルの神、主についての話を小さいころからギデオンに何度も聞かせてくれた。にもかかわらず、父ヨアシュ自身は、家の自分の祭壇で、バアルを祀っているのを知っていたからである。バアル用の祭壇には、アシェラ像もあった。こちらは裸の女の形をした像なので、ギデオンは、物心ついてそれを見たとき、恥ずかしさを感じたのを覚えていた。どちらもカナン人にとっては普通の神像であり、どこにでもあるものだが、ギデオンはあくまでもイスラエル人であったし、耳で聞く話とそこにある祭壇とがまったく違うので、戸惑ったらしい。なにしろイスラエルの神は、あらゆる形ある像を嫌うのだという。
その日、すべてが動き始めた。
仕事に疲れたギデオンが、またふと外を見ると、あのテレビンの木のふもとに、誰か人がいるのが分かった。ギデオンは一瞬緊張した。見慣れぬ姿は、もしかするとミディアン人かもしれない。もしそうだったら、ここで自分は殺されてしまうかもしれない。
ギデオンは手を止めた。腰はもう、洞窟の奥の方へ逃げていた。物音を、できるたけたててはならないと自分に戒めると、よけいに暗がりでつまずきそうになった。再び振り向くと、もうそこに人の姿はなかった。どこかへ去ったのか、それとも別の道からここへ近づいてくるのか、分からない。緊張した面持ちでギデオンは立ち尽くしていた。
「勇士よ」
やや高い男のような声が、頭の中に響いてきた。ギデオンの心臓は拍動を盛んにし、それから顔の血が引いた。
「勇士よ。恐れることはない。主が、そなたとともにおられる」
不思議な響き方だった。空気を通して伝わってきた音なのか、それとも心の中から聞こえる声なのか、判然としなかった。いや、そこまで考慮する余裕すらすでにない。
ギデオンの緊張は極度に達した。ただ、死を前に覚悟してのそれとは異なる性質のものだった。なんだか暖かい空気が漂うような感触がして、その声とその内容に、いくらかの信用を寄せることができたのは、奇蹟だった。奇蹟、それはまさに神の領域である。人のとやかく言うことではない。だから、そうと決まればむしろ腰が据わる。
「主の言葉を携えて、そなたのもとに下った。主の言葉を聞くがよい。主は、そなたとともにおられる」
「ほんとうに、主ですか」とギデオンは恐る恐る尋ねた。「アブラハムに幾度となく御声をかけ、モーセに呼びかけてイスラエルをエジプトから導き出した、あの主なる神が、この私にも御声をかけてくださったというのですか」
「そうだ」
声の主は、洞窟の入口のところから深く入ろうとはしなかった。ただ、ギデオンは光の加減で判然とはしないものの、その主が白く輝いているように見えた。また、半透明なふうにも感じられた。とすれば、それはまさしく主の御使いであろう。神は、自ら姿を現されることはなく、人に出会うときには御使いを遣わして言葉をかけるといわれている。逆に言えば、人間は神の姿を見たとすれば、命を取られるものと伝えられている。ギデオンは、それがイスラエルの神、主からのものであることを認めた。が、それならそれで、尋ねたいことがある。おそらく誠実な人間ならば、誰でも一度は神に訊いてみたいこと……。しかしこんなことを神に申し上げてよいものかどうか、気弱なギデオンならばもっと怯えるべきだったことだろう。それでも、どんな理由からか、彼は御使いに堂々と尋ねた。勢いなのか、それともギデオンの中の精一杯の勇気からか、彼は御使いに向かって尋ねた。
「わたしの主よ。それではお尋ねいたします。主なる神が、私たちとともにいらっしゃるというのならば、なぜ……どうしてこのようなことが私たちの身に降りかかることになったのですか」
相手は黙っていた。ギデオンは、言葉を制されることがなかったのを知って、さらに続けてよいと判断した。いや、自分の中にあふれる熱情が、堰を切ったようにこぼれた。
「主は、イスラエルの民を、エジプトから導き上られました。私も聞いております。『主は、我々をエジプトから連れ出された』と、代々伝えられてきました。あの驚くべき御業は、今どうなっているのですか。主よ、イスラエルはミディアン人に、ひどい目に遭わされております。主は私たちを見放してしまわれたのでしょうか。もう、ミディアン人の虐げに屈し、このまま滅んでいかなければならないのでしょうか……」
一瞬の沈黙の後、御使いの声は今度は低い威厳のある声となって、ギデオンに向かって一直線に飛んできた。
「おまえの持つその力をもって、立ち上がるがよい。そなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる力をもっている。そのために、すべてのイスラエルの民から選ばれた。このわたし、主が、おまえを遣わすのではないか」
ギデオンは思わずのけぞりそうになりながら、その言葉を受け止めた。しかしあまりにも突然に、そして意外な御言葉。頭の中にがんがん鳴るばかりで、冷静に受け止める余地がない。
「私の主よ。どうかお願いいたします」とギデオンは切実に訴えた。「イスラエルを救うなど、そんな大それたことは私にはできません。私の一族アビエゼルなど、マナセの中でも最も貧弱なものではありませんか。それに、私ギデオンは、家族の中でさえ最も小さな弱い者ではありませんか。私に何ができましょう」
「わたしがおまえとともにいる」と主の声は返された。「おまえは、ミディアン人を打ち倒す。あたかも一人の人間を打ち倒すように、軽々と打ち倒すことができる」
「なんと……」
ギデオンは戸惑った。と同時に、だんだんその気になっていったのも、不思議なことだが事実である。主の言葉を真っ向から否定してよいはずはない、ということは分かっていた。それでも、どうしても自分にそんなにも重大な何かができるなどとは、とうてい信じられるものではなかった。
「主よ。もしも主の目に適うことでありましたら、ひとつ『しるし』を示していただければ、と願います。たしかに主が私にお告げになっているという『しるし』を、ぜひとも教えてください。……そうだ。どうか、ここでお待ちください。供え物を用意して、私が再びここへ戻ってきますので、それまでここでお待ちください。御前に供えさせていただきとうございます」
「よろしい。おまえがここに戻ってくるまで、ここにいよう」
しかしその御使いの姿は、そのとき見えなくなった。ギデオンは、夢から醒めたように、洞窟から外に一歩出た。今ここに、御使いがいた。その地に立つと、不思議な気がした。が同時に、御使いが立っていたのはここではない、という気もした。ギデオンは、やはりあれはたんなる夢であるとは思わなかった。たとえ夢であったとしても、主が示した夢の大切さは、昔の話でよく聞いている。ヤコブやヨセフには、主は夢で大切なことを知らせた。もし今のが夢だとしても、自分は自分の言葉に誠実に従うべきだ。ギデオンは直ちに家に戻り、供え物の準備をした。
ただちに子山羊一匹と、麦粉一エファから酵母を入れないパンを準備した。それくらいの準備を、旅人のためにすぐに用意することができないでは、この地で生活する権利すらない。旅人は最大の敬意ともてなしをもって迎える。それが暗黙のルールである。旅人の安全のためには、娘でさえ売り飛ばす覚悟ができているのでなければ、この土地で生きる価値かない。ギデオンは、籠に肉を入れた。肉汁は壺に集めた。急いでいるつもりだったが、焦れば焦るほど、思うように手が動かなかった。かなりの時間が過ぎていた。
洞穴に戻ろうとすると、まだあのテレビンの木の下に、白く輝くその御使いが座っているのが見えた。人の形をしているが、顔ははっきりと見えない。神々しくて、まともに見ることができない。さきほども、あんなに輝いていただろうか。夢中でいたそのときの姿が、どうしても記憶から出てこない。ギデオンは、神の顔を見た者は死ぬ、という言い伝えを再び思い出した。目は伏せるようにしながら、その御使いのもとに、ゆっくりと罪を悔いるかのごとく近づいていった。
「お待たせしました」
ギデオンが子山羊の肉とパンを差し出すと、御使いは手にした杖を動かして命じた。
「その籠と壺とを、そこの岩の上に置きなさい」
ギデオンは、言われた通りにした。
「それから、肉汁を肉の上にかけなさい」
ギデオンはその通りにした。
御使いは、杖の先を差し伸べて、肉とパンに触れた。すると、岩から強い火が起こった。黄色いような、赤いような炎が見えた。あっと驚く間もないくらいにその火は燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。
一瞬、視界が赤く、それから白く変わった。それは感じた。だが、その後ギデオンは辺りを見ることができなくなった。
何が起こったのか。省みるゆとりもない。
やがて……音も光もない時間を経験すると、しだいに視力が回復した。しかし、もうそこにあの御使いを認めることはできなくなっていた。 (続く)