ビジネスと法律

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法律解釈の方法について

2005年11月04日 | 法律一般
 法律の解釈は、まず、条文の文言の意味の探求から始まります(文言解釈)。一方で、法律の解釈には、結果の妥当性が求められています。なぜ、結果の妥当性が求められているかと言えば、“社会秩序の安定”が求められるからです。
 法律など、所詮、紙に書かれた言葉です。法律が国民の多数を納得させることができるものでなければ、法律は無力です。そして、この結果の妥当性は、法律の解釈者の世界観や人生観によって異なります。

 上記の後者には、何人も納得させることができる“科学性”はありません。解釈者の主観が反映されているからです。
 
 しかし、前者の文言解釈から始まる解釈には、科学性を求めることができます。それは、“論理性”です。いかなる人に対しても納得させることができる論理性が法律解釈に求められているのです。このように書きましたが、法律解釈の論理の展開は、一通りではなく、複数が存在しえるために、多くの論争が生じるのです。これが、法律学は論理学だと言われる所以です。

 私は、この論理の部分をできる限り単純化したいのです。それは、『法の支配について』で書きましたとおり、「一般人が法律を読めば理解できる。読んでも理解できなくても、法律家から説明を受ければ理解できる」ようにするためには、この論理展開の部分をできる限り単純化する必要があるからです。ですから、『意思表示とは何か?』で、「意思の通知」や「観念の通知」という概念は不必要だとした理由です。
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法律の解釈と登山・・・・・・戯言

2005年11月04日 | 法律一般
 法律の解釈と登山について、最近、私が思いついたことを書いてみます。
 
 法律を解釈をすることは、非常に登山とよく似ていると言われます。民事事件において、権利関係が非常に複雑な事案でも、ひとつひとつを解き放すと、以外に簡単に問題が解決することもあります。でも、その一つ一つが、面倒なことであることは確かなことです。

 一方、登山は、どうでしょうか。これも、みなさんの一歩一歩の歩みでしか、頂上に進むことはできません。早く頂上に着きたいと思っても、それは、みなさんの足の長さで決まります(笑)。

 しかし、みなさんの歩みには、必ず、太陽が照り輝いています(ここでは、登山にも夜中登山がありますが、無視しますね(笑))。太陽は、みなさんが、今、どこにいるのか、そして、どの方向へ進むべきかを教えてくれます。困った時は、空を見上げればいいのです(笑)。

 ここで、太陽とは、民法1条2項の「信義誠実の原則(信義則)」を言います。すべての法律の解釈の段階で、「信義則」が支配しているのです。この原則を忘れないでください。“太陽が、輝いている”とは、そういう意味です。
 また、太陽が雲に隠され、どうしても困った場合には、「仏様」のご登場を願いましょう。それが、民法1条3項の「権利濫用の法理」といいます。
 
 しかし、仏様をそうそう期待しないでくださいね。日本に住む約1億3千万人のすべての人に対応できるものではありません。それでなくても、仏様は、超多忙なんですから(笑)。

 (参考)
 民法1条2項
 「権利の行使及び義務の履行は信義に従い誠実に行わなければならない。」
 同法1条3項
 「権利の濫用は、これを許さない。」

 ところで、「信義則違反と権利濫用」について、有斐閣Sシリ-ズの『民法1-総則(第2版補訂)』29頁(2002年4月10日発行)で、次のように書かれています(日本大学法学部の山田卓生教授が執筆)。

「4 信義則違反と権利濫用

 この両者の関係はどのような関係に立つか。両者は援用される領域が異なると考えるのか、重複して援用されると考えるのか、という問題がある。いずれの法理を使うにしろ、権利行使を制約しようとする点では共通であるが、おのずから援用される場は限定される。とくに信義則は、権利の行使、義務の履行としていること(1条2項)からもわかるように、契約関係が前提されているといってよい。これに対して権利濫用は、契約関係のない当事者間で問題とされることが多いといえる。
 しかし、これは一応の基準で、判例の中にも、「信義則に反し、権利の濫用として許されない」というように、双方を援用するものがある(たとえば、時効の援用に関して、最判昭51.5.25民集30巻4号554頁)。」

 このように「信義則と権利濫用」については、判例と学者において、見解の相違があるようです。その上で、これからも私の戯言を“楽しんで”ください。

 それから、登山道には、時々「お地蔵さん」がおられますね。仏様のご登場をそうそう期待できなくても、「お地蔵さん」ならけっこうお目にかかれます。その「お地蔵さん」は、民法でいえば、90条の「公序良俗」にあたります。

 (参考)
 民法90条
「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」

 戯言の続きです。
 また、登山なんかするのはいやだ、と言う方もおられるでしょう。ハイウェ-を自動車で疾走すれば、頂上にはほとんど歩くことなしに、すぐに行けると言われるしょう。
 しかし、そういう方は、登山中に道に迷い、救助を求める人(法律問題を抱えた依頼人)を助けることはできません。私たちには、法律を解釈する時に、太陽があり、さらに仏様とお地蔵さんがおられるのです。何も恐れることはないのです(笑)。

 以上の戯言は、故我妻栄博士が、「権利濫用の法理は、『ご本尊』である。そうたびたび、出すものではない」という文章をどこかに書かれていたのを思い出しましたので、それにヒントを得て書きました。
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意思表示とは何か?

2005年11月04日 | 民法(総則)
 意思表示とは、「一定の法律効果の発生を欲する意思を外部に対して表示する行為。例えば、売るという法律効果を発生させようと欲し、売主がその意思を口頭や文書で表示すること。これが買主の買おうという意思表示と合致すれば売買が成立し{民555}、ここから各種の法律効果が発生することになる。」(『法律学小事典(第3版)』有斐閣、1999年2月20日発行)と理解されています。ここでいう「口頭や文書で表示する」行為を法律行為といいます。この法律行為には、意思表示は不可欠なものです。

 そして、法律効果を要素としていない意思表示は、準法律行為とみなされています。例えば、法律効果の発生を目的としない意思の表明(例えば、催告(民法19条』))は、「意思の通知」と呼ばれています。また、一定の事実の通知であって、意思の発表という要素を含まないもの(例えば、時効中断事由としての債務の承認(同法147条3号))は、「観念の通知」と呼ばれています。

 以上によって、「準法律行為は性質の許すかぎり意思表示の規定が類推されると解されている(通説)が、当該準法律行為の性質、当該意思表示の規定の趣旨を慎重に検討し決すべきである。」(『基本法コメンタール 民法総則(第五版)』日本評論社、2004年1月28日発行)と理解されているのです。

 しかし、私見では、意思表示を要素とする法律行為とか、意思表示を要素としない準法律行為という区分は不必要だと考えます。民法の条文に「意思の通知」や「観念の通知」という文言はありません。あくまでも“解釈”によって導びかれたものです。

 そしてまず、意思表示の定義ですが、一般人である私たちが通常使用する言葉としての「意思表示」の意義は、簡単に「意思の表示」です。法律の解釈もそれに倣うべきではないでしょうか。ですから、意思の通知とか観念の通知という区分は不必要だと考えます。

 つまり、その意思表示から、どの法律が適用されるのか?、撤回は許されるのか?条件を付けることができるのか?を個別に検討すればいいだけだと思うのです。私が、このように考えるようになったのは、「法の支配」を考え、「法律の解釈はいかにあるべきか?」を検討した結果です。
 
 それでは、次回は、「法律解釈の方法について」を書いてみたいと思います。
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