証明責任とは、「民事訴訟において、特定の法律効果の発生または不発生の判断に直接必要な事実の存否が不明なとき、判決においてその事実を要件とする自分に有利な法律効果の発生または不発生が認められないこととなる当事者の一方の危険または不利益のこと。
立証責任、また、刑事事件においては挙証責任、実質的挙証責任(客観的挙証責任)ともいう。特定の請求の当否を判断する上でその存否が問題となる特定の事実との関係でいずれの当事者がこの危険または不利益を負担するか、つまりどちらの当事者が証明責任を負うかの定めを証明責任の分配という。」(『コンサイス法律用語辞典』839頁、三省堂、2003年12月20日発行)。
http://
www.books-sanseido.co.jp/reserve/zaikoDetail.do?pageNo=1&action=%8D%DD%8C%C9&isbn=4385155054
今日は証明責任について説明をしたいと思って書き込みをしたわけではありません。実は、「証明責任」という言葉を日本で初めて使用したのが、元東京高等裁判所判事で現在は弁護士の倉田卓次氏だと、つい先日知ったからです。倉田氏自身が、そのことを述べられている同著『続々裁判官の書斎』の該当箇所を下記の参考でご紹介してます。
今まで、民事訴訟法の学者が、初めて翻訳語として使用したものだと思っていました。
それから、民事訴訟法学者は一般に「証明責任」という用語を使用され、裁判実務家は「立証責任」という用語を使用される傾向があると思います。また、証明責任、立証責任のどちらを使用しても同じだとおっしゃる方がおられます。
しかし、たとえ同じだとしても(私は異なると理解していますが)、用語の統一は必要ではないでしょうか?
(参考)
倉田卓次氏の略歴
http://
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E7%94%B0%E5%8D%93%E6%AC%A1
倉田卓次著『続々裁判官の書斎』304~305頁(勁草書房、1992年1月20日発行)
http://
page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e63430228
次は、昭和62年11月19日に元昭和薬価大学教授で日本古代史研究家の古田武彦氏との対談での倉田氏の発言です。
「事大思想をこえて
倉田
先程申しました、学会の雰囲気はなかなか変わらないということですが、私が経験しておりますので言えば、古田さんのおっしゃる「立証責任」。このごろの民訴学者はたいてい「証明責任」というんですが、このことを思い出しましたのは、ドイツ民訴法上の古典にローゼンベルクの『ベヴァイス・ラスト』という本がありまして、もう30何年前なんですけど、私、それを翻訳したんです。
ドイツ語の「ベヴァイス」は証明で「ラスト」は責任負担ですから、直訳すれば「証明責任(負担)」なんですけれど、昔は皆「立証責任」といっていた。立証といいますと、証拠を出すことになりますね。しかしベヴァイス・ラスト、証明責任というのは、両方が証明を出した上で、裁判官としてはどうしてもどっちとも決められない。つまり真偽不明だというときに、証明責任を負うほうが結果として不利になる、負けるというのが、「証明責任」の意味なんです。
つまり、勝ったほうも負けたほうも立証はするんですが、それは二次的な意味であって、一次的には真偽不明の場合の判断の基準が証明責任なんです。だから、そういう本当の意味で原義をとらえるには、「立証責任」というより「証明責任」という訳語の方がいいんじゃないかというわけで、私が初めて「証明責任」という言葉を使いました。
はじめ、一部の人は、昔から使っている「立証責任」という言葉の方がいいとか言っていたわけです。最初はみんな使ってくれなかったんですが、大阪大学の先生がまず使ってくれ、次に東京大学の先生が、「証明責任」という言葉を、自分の民事訴訟法の教科書で使ってくれたんですね。私が使っても大勢は動かなかったのが、大阪大学・東京大学の民訴法の教授が「証明責任」という言葉を使ってくれたら、以後は右へ習えでして、若い人たちはみんな「証明責任」というようになりました。それだけ、何ていうんでしょう、アカデミー内での事大思想と言えるようなものがあるんだなと感じました。
それから、学界のほうがこちらの議論を真似するという場合がある。真似といえない古田さんのケースに高木彬光の『邪馬台国の秘密』のノトーリアスな剽窃事件がありますね。私は実はこの人が仙花紙『宝石増刊』の刺青殺人事件で登場して以来の愛読者だったんですが、古田さんが『邪馬壹国の論理』の中で明らかにされた経過、剽窃自体よりその後の開き直ったような態度というか、結局一度も謝らなかったんでしたね。」