あれはいつの頃だっただろうか。
紅白に限らず、歌番組に気品がある時代だったように思う。
その中で、NHKの歌番組で記憶にあるのが、佐良直美さんだった。
当時、私の父は、佐良直美さんが歌うときは、目を細め、歌のうまさを褒めていた。
ほとんどニュースしか見ず、歌謡曲とは無縁と思っていた父が、彼女だけは褒めていたことが昨日のことのようだ。
そのためか、歌と言えば、佐良直美さんが真っ先に頭をよぎるようになった。
デビュー曲の『世界は二人のために』での新人賞、1969年の『いいじゃないの幸せならば』でのレコート大賞受賞などは、当然だったが、あまり曲に恵まれたという記憶は無い。
それでも、歌手の中では一番だったと思う。
しかしなんといっても、紅白歌合戦での司会の印象が強い。
1970年前後の紅白の司会といえば、宮田輝さんだったが、70年代の紅組の司会は、水前寺清子さん、そして佐良直美さんだった。
水前寺清子さんが、その歌声とともに、その真っ直ぐな気質なのに対して、佐良さんは、しっかりした現実感を持ちながらも、先を見通せるようなそんな賢さがあったように思う。
共通するのは、実力があることはもちろん、思いやりがある人だったことだ。
そして、ある意味中堅として、旗手であったのかもしれない。
70年代の新人歌手は、彼女により、全国に紹介されていった。
桜田淳子さん、山口百恵さん、岩崎宏美さん、皆んな彼女の曲紹介から始まった。
佐良直美 「オー・シャンゼリゼ」
しかしながら、1980年5月佐良直美さんには突然不幸なことが報道される。
キャッシーさんが、アフタヌーンショーで佐良さんとの同性愛関係を暴露し、マスコミが騒ぎ始める。
2010年11月13日
佐良直美が30年前のレズ騒動を語る
以下が、インタビューの抜粋である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
=芸能界への未練は?
全くありません
と答えている。
そして、
=80年のレズ騒動について こう答えている。
レズ騒動ですか。あれは何が何だか全然わかりません。ビックリするだけでした。
だた、どの社会にも裏表や力関係がある、そういうことなんでしょうね。
しょうがないです。事務所を独立した後でしたし、やっぱり弱い者は強い者にのまれるんでしょうね。
=そして、人気をねたまれたのかとの問いに対しては、
そうじゃなくて、人身御供も必要ということです。一人いけにえに出せばほかは助かるとか、こっちに溶岩を流す口を作れば、こっちの村は助かる・・・。そういうことだと、私は聞きました。
=最初に報じた梨元勝レポーターに対して
当時は頭にきてましたよ、それはね。でもそんなことを引きずって何になりますか。あの方はあれが仕事なんです。お会いしてお話ししたかったですね。でもこういうことを言って、化けてられたら怖いですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
もちろん、これは誤報で、キャッシーさんの謝罪になるのだが、これにより、佐良さんの芸能界への思いは薄らいでいったことは間違いないし、その年以降、紅白歌合戦への出場もない。
上記インタービュー記事のなかで、芸能界の力関係に飲み込まれたというのが、率直な気持ちだったのだろう。
僕は、この記事を読んで、同じ月の、あることを思い出す。
それは、桜田淳子さんの銀座博品館で行われた『私小説ライブ』でのMCだ。
以前こんな記事を書いたことがある。
鮮やかな交代
この中で、80年は、時代の節目だった。として、松田聖子さんへのアイドルとしてのバトンタッチを書いた。
80年は山口百恵さんの結婚引退も含め、80年的表現方法としての世代交代が加速されたと解釈している。
そうした一連の時代の波にのまれたのが、佐良さんの事件だったのだろう。
正直でまじめで、ひときわ芸能界への思いが強い、功労者と言うべき人から、その功績を一瞬で奪い去る報道には正直やるせなさが残る。
そして、こうした犠牲者は、多くを語らず、迷惑がかからないように去って行く潔さを持っている。
佐良さんの功績こそ再評価にふさわしいと思うのだが。
70年代、それは、小さなプロダクションから数々の才能が現れ、プロダクションの垣根を越え活躍した時代だったように思う。
そして、芸能人主導の芸能界であり得た。
それは、ファンの意思でもあり、それを受け止めていたのが、アイドルはもちろん当時の芸能人だった。
僕はそう信じてやまない。
彼ら、彼女らは、ファンとともに同じバスにのり、70年代を突き進んでいった。
80年になると、再び、プロダクション中心の芸能界が頭をもたげてくる。
それは、より華やかであったかもしれないが、バスは、ファンを残して走ってしまったのではないだろうか。
芸能界、芸能プロダクション、所属する芸能人、報道する芸能マスコミ、そしてそれを取り巻く人たち。
佐良さんの記事はそうしてことを思わずにはいられない。
そして、犠牲になるのはごく一部。
十年後再び繰り返される。
1989年松田聖子さんのサンミュージックからの独立、
1991年桜田淳子さんの独立
1992年サンミュジック事務所の大量解雇
しかしながら、相澤会長が、当時、桜田淳子さんの姉から200万円で壺を買った、と公開することが必要だったのだろうか。
以後、桜田淳子さんへのマスコミの霊感商法報道は暴走する。
『泣いて馬謖を斬る』
という古来中国のことわざがある。
経営判断とは、残酷なものだ。
情に流されていては、倒産してしまう。
僕らは経営判断をとやかく言うことはできない。
相澤会長をして、苦渋のそして厳しい経営判断をさせたもの。
そこに、20年間サンミュージックがアイドルを手がけなかった理由があると思う。
事実、桜田淳子さんが、事実上引退した後は、マスコミによる霊感商法などの報道が急速に冷めていく。
それは、『イデオロギーの終焉』という儀式に必要な宴のための生け贄だったのだろうか。
再び、佐良直美さんの言葉は、胸に刺さる。
そして、今もなお愛犬を育て、経営の才覚を発揮されていることに敬意を表する。
追伸 動画のUP主様に感謝いたします。
ナオミの夢 ですか。ご紹介ありがとうございます。
ところで、佐良さんの声は、好きでしたね。
水前寺清子さんと共に、NHK好みのようでした。
その他、由紀さおりさんや、ちあきなおみさん、和田アキ子さんなんか当時から存在感がありました。
みんな、ヒットしたとか以前に、姉御肌的で、物申す的な雰囲気がありました。
当時の番組は、こうした人達や、アイドル系の人たちが上手くミックスされて、フワフワしてなかったように思います。
それではまた。
いつも深い洞察力の記事読ませていただいております。
you tubeにこんな動画もありました。良かったら・・・
ttp://www.youtube.com/watch?v=iUQPkmJKoW0
※頭にhを付けて下さい。
ありがとうございます。
お陰様で、『何をか言わんや』は、無事着地できました。
睡眠を削ったかいがありました。
どんな言葉も、淳子さん本人の登場には、遠く及ばないことも、知りましたが。
それはそれで。
情熱、炎、火ですか。
深いですね。
火というと、『万物の根源は、火である』と古代の哲学者がいったくらいですから、人にとって根源的な何かを暗示するのでしょうか。
変わらないもの、普遍なものを意味するのでしょうか。
結局、『声の手紙』を読み解くことになるのかもしれませんね。
それは、宗教とかではなく、生来の魂のことかもしれないなぁ、なんて考えてしまいます。
深読みでしょうか。
それではまた。
が見つかり良かったですね。
最後のピースが絆とは、鋭い指摘だと思います。
恩師である相澤氏が淳子さんの胸には火が宿っていると評したのは凄いと感じます。
普通の人であれば、胸に秘めるのは情熱か炎でしょうがそれを火と表現するからには、余程、非凡な何かを相澤氏が感じ取ったからでしょう。
佐良さんの件は私も記憶にありますが、きっぱりと芸能界から身を引いたところは、二人とも同じですね。
これは、単なる妄想でしかないのですが、相澤氏は淳子さんが単なるタレントでは収まらず、何か大きな事を成し遂げる人物だと思っていたのではないでしょうか。
これからも見守っていきたいと考えます。
ありがとうございます。
正直この記事には、異論も多いかもしれないなぁ、と思いながら書きました。
佐良さんのこともそうですか、故人についてもです。
しかし、あの事件を、個人的な情で測ろうというのは、無理だと思います。
会社を守ろう、芸能界を守ろうという、経営的判断が働いたのだと思います。
この年になると、理不尽だけれども、どうにもできないことがあることを知るようになりますね。
淳子さんも、そう思っているのかもしれません。
『来ましたよ』とは、僕にはそう聞こえました。
どうでしょうか?
このブログは、徒然に書いて行こうと思っています。
それでは。
佐良のアニキを淳子燦ひいてはオセロ中島問題と、さも相似形のように語るのは好み魔戦って優香、爽じゃない太”郎って言い胃痛くなりますが、まトンデモハップン打倒思いますね。
貴殿のように詳しくはないですが、同時代を観てきたものとして自然な感情感覚ではないで昇華。。
まさに
何をかいわんやですね・・・
だからブログやめチャウなんて違和ないでくださいよ~~~
それでは。。。