世の中に似ている人は、必ずいるとよく言われる。
そして、時代が求めるアイドルともなれば、傾向が似てくるものなのだろうかと思わずにはいられない。
桜田淳子さんと山口百恵さんを見ているとそう思う。
二人は実によく似ていた。
それは、テレビ局のスタッフでさえ、間違うほどだった。
似ていたことは、二人にとって幸せだったのだろうか。
1972年9月、淳子さんは『スター誕生』の決戦大会で圧倒的に優勝する。
その時のことは、ある種の衝撃とともに、誰でも知りうる伝説になっている。
1972年12月、百恵さんは同じく、スターへの道が見えてくる。
しかし、審査員の目には、淳子さんのコピーとしか写らなかった。
それも、ポジではなくネガとして。
それほど地味に見えた。
しかし、会場にいた観客の中に混じって、桜田淳子さんは見抜いていた。
いずれ自分と共に同じ目標に向かっていく原石であることを。
会場で、審査員の厳しい言葉に、沈みがちに会場を離れる百恵さんに声をかけたのは、桜田淳子さんだと聞く。
そして、百恵さんは淳子さんの励ましの声を受け、同じ中学校に通うことになる。
新聞配達で家計を助け、決して自慢できるものではない幼少時代を過ごした百恵さんにとって、淳子さんの強いオーラと分け隔てのない性格は頼りになるものだったに違いない。
事実、桜田淳子さんが、裏方の人に対して優しい気配りをすることは枚挙にいとまがない。
声かけ、お茶出し、そして礼儀など、社会人としても十分すぎるものだった。
彼女ほど『傲慢』の意味を、身にしみて戒めていた人はいない。
淳子さんと百恵さん、二人が違う中学だったら、その後の芸能史も違っていたのではないだろうか。
そして、淳子さんは新人時代から、事あるごとに百恵さんの話題を口にする。
番組の中でも、受賞のときでも。
それだから、僕らは、淳子さんが番組に出ていれば、百恵さんの存在を感じることができた。
それは、淳子ファンの僕らにとっては、自ら手足を縛られることではあったが。
当然、ラジオなどのランキングでも常に意識せざるを得なかった。
彼女らが、オリコントップになったのも同時期だった。
その時期の映像が、1975年の『スターものまね大合戦』だった。
桜田淳子・森昌子・山口百恵 ものまね
百恵さんが淳子さんの『はじめての出来事』を並んで歌うシーンだ。
この映像を見て、どうひいき目に見ても、輝きが違って見える。
淳子さんのひまわりのような表情と百恵さんにリズムを伝えようとする姿勢に対し、百恵さんの表情が固く暗く写ってしまう。
もちろん持ち歌でないこと割り引くとしても。
確かにこの時期、二人のランキングは拮抗していたが、この映像から、二人がしのぎを削っているようには見えない。
むしろ、淳子さんのオーラが、百恵さんを包み込んでいるようにさえ見える。
翌年、二人は再び『はじめての出来事』を歌う。
桜田淳子 はじめての出来事MIX
レコードセールスという指標ではなく、嗅覚として感じられる二つのオーラが共存した時なのだろう。
そして、二人はそれを楽しんでいる。
僕は、初期の頃は、百恵さんについては、所属事務所の力は抜きにできないとしても、陰のある雰囲気、控えめな役柄、悲しげな描写、それらを見ても、なお輝けたのは、桜田淳子さんと共にいることで、アイドル性を維持できたことが大きいと思っている。
それは、森昌子さんや、岩崎宏美さんにも当てはまることだと思う。
淳子さんといることで、アイドルとして位置付けられる。
百恵さんは、アイドルをうまく脱皮できた、という表現がされるが、むしろ、デビュー2曲目から本来のアイドル路線ではなく、アイドル性は淳子さんとセットになるときその性格が増したのではないかと感じている。
僕は、百恵さんの女優面は、宇津井健さん、岩下志摩さんの影響を受け、歌は、宇崎竜童夫婦によるところが大きいと思っている。
そして、将来も含め精神的支えを三浦友和さんによることが大きいのは言うまでもない。
百恵さんが周りのエネルギーを吸収する輝きだとすれば、それが月にたとえられる由縁であり、淳子さんが回りを明るく照らす存在だったとすれば、それは太陽とたとえられる由縁だと思う。
百恵さんが、淳子さんを花にたとえるなら『ひまわり』と表現したのもそうした文脈なのだろう。
そう解釈することにより、翌年の『はじめての出来事』のこの映像が、同じ輝きに見える理由が説明できる。
淳子さん、百恵さん、似ていることが重荷になった時期があるにせよ、二人にとっては幸せなことだったと思う。
私は、正統派としてのポジションという位置づけを、アイドルとしての輝きの源泉と捉えるなら、当時の桜田淳子さんは、まさにその位置にいたのだと思う。
追記 動画のUP主様に感謝します。
そして、時代が求めるアイドルともなれば、傾向が似てくるものなのだろうかと思わずにはいられない。
桜田淳子さんと山口百恵さんを見ているとそう思う。
二人は実によく似ていた。
それは、テレビ局のスタッフでさえ、間違うほどだった。
似ていたことは、二人にとって幸せだったのだろうか。
1972年9月、淳子さんは『スター誕生』の決戦大会で圧倒的に優勝する。
その時のことは、ある種の衝撃とともに、誰でも知りうる伝説になっている。
1972年12月、百恵さんは同じく、スターへの道が見えてくる。
しかし、審査員の目には、淳子さんのコピーとしか写らなかった。
それも、ポジではなくネガとして。
それほど地味に見えた。
しかし、会場にいた観客の中に混じって、桜田淳子さんは見抜いていた。
いずれ自分と共に同じ目標に向かっていく原石であることを。
会場で、審査員の厳しい言葉に、沈みがちに会場を離れる百恵さんに声をかけたのは、桜田淳子さんだと聞く。
そして、百恵さんは淳子さんの励ましの声を受け、同じ中学校に通うことになる。
新聞配達で家計を助け、決して自慢できるものではない幼少時代を過ごした百恵さんにとって、淳子さんの強いオーラと分け隔てのない性格は頼りになるものだったに違いない。
事実、桜田淳子さんが、裏方の人に対して優しい気配りをすることは枚挙にいとまがない。
声かけ、お茶出し、そして礼儀など、社会人としても十分すぎるものだった。
彼女ほど『傲慢』の意味を、身にしみて戒めていた人はいない。
淳子さんと百恵さん、二人が違う中学だったら、その後の芸能史も違っていたのではないだろうか。
そして、淳子さんは新人時代から、事あるごとに百恵さんの話題を口にする。
番組の中でも、受賞のときでも。
それだから、僕らは、淳子さんが番組に出ていれば、百恵さんの存在を感じることができた。
それは、淳子ファンの僕らにとっては、自ら手足を縛られることではあったが。
当然、ラジオなどのランキングでも常に意識せざるを得なかった。
彼女らが、オリコントップになったのも同時期だった。
その時期の映像が、1975年の『スターものまね大合戦』だった。
桜田淳子・森昌子・山口百恵 ものまね
百恵さんが淳子さんの『はじめての出来事』を並んで歌うシーンだ。
この映像を見て、どうひいき目に見ても、輝きが違って見える。
淳子さんのひまわりのような表情と百恵さんにリズムを伝えようとする姿勢に対し、百恵さんの表情が固く暗く写ってしまう。
もちろん持ち歌でないこと割り引くとしても。
確かにこの時期、二人のランキングは拮抗していたが、この映像から、二人がしのぎを削っているようには見えない。
むしろ、淳子さんのオーラが、百恵さんを包み込んでいるようにさえ見える。
翌年、二人は再び『はじめての出来事』を歌う。
桜田淳子 はじめての出来事MIX
レコードセールスという指標ではなく、嗅覚として感じられる二つのオーラが共存した時なのだろう。
そして、二人はそれを楽しんでいる。
僕は、初期の頃は、百恵さんについては、所属事務所の力は抜きにできないとしても、陰のある雰囲気、控えめな役柄、悲しげな描写、それらを見ても、なお輝けたのは、桜田淳子さんと共にいることで、アイドル性を維持できたことが大きいと思っている。
それは、森昌子さんや、岩崎宏美さんにも当てはまることだと思う。
淳子さんといることで、アイドルとして位置付けられる。
百恵さんは、アイドルをうまく脱皮できた、という表現がされるが、むしろ、デビュー2曲目から本来のアイドル路線ではなく、アイドル性は淳子さんとセットになるときその性格が増したのではないかと感じている。
僕は、百恵さんの女優面は、宇津井健さん、岩下志摩さんの影響を受け、歌は、宇崎竜童夫婦によるところが大きいと思っている。
そして、将来も含め精神的支えを三浦友和さんによることが大きいのは言うまでもない。
百恵さんが周りのエネルギーを吸収する輝きだとすれば、それが月にたとえられる由縁であり、淳子さんが回りを明るく照らす存在だったとすれば、それは太陽とたとえられる由縁だと思う。
百恵さんが、淳子さんを花にたとえるなら『ひまわり』と表現したのもそうした文脈なのだろう。
そう解釈することにより、翌年の『はじめての出来事』のこの映像が、同じ輝きに見える理由が説明できる。
淳子さん、百恵さん、似ていることが重荷になった時期があるにせよ、二人にとっては幸せなことだったと思う。
私は、正統派としてのポジションという位置づけを、アイドルとしての輝きの源泉と捉えるなら、当時の桜田淳子さんは、まさにその位置にいたのだと思う。
追記 動画のUP主様に感謝します。
デビュー当時は、その髪型のせいか、似ていると言われましたね、、、百恵さんは、デビュー曲の「としごろ」では、千家先生が普通の中学生イメージして作った歌で、明るい(さわやか)路線でした。しかしながらいい曲でしたが、ヒットしませんでした。淳子さんと似ていると言われており、後追いでデビューしたため、淳子さんと同じことでは、だめだと、スタッフが考え、2曲目からは、「青い性路線」の歌になりました。コンサートも「黒い天使」と言うことで、淳子さんのさわやか路線と一線を画しました。
1975年は、淳子さんの年でしたので、どうしても淳子さんの方が生き生き見えてしまいますね、、
百恵さんは、おっしゃるように宇崎竜童夫婦に曲を作ってもらったが、大きいですね、
なぜかと言うと、宇崎竜童夫婦は、真剣に毎回のシングルを真剣に、いろいろ仕掛けを入れて作ったかたです。片手間に作ったわけでは、ありませんから、、、これが大きいですね、、
大変な事になるところでした。
このブログは、当然ながら淳子目線ですが、淳子さんと百恵さんは、どちらにしても、70年代の大スターで、現在もその影響が強く残っている事は、先般のスポーツ紙一面の扱いのとおりでしょう。
因みに、sjghdさんとは、no2が美代ちゃんかシーちゃんかの違いだということでしょか。
尚、マリちゃん、シンシア、アグネスは、5本の指ですから。73年当時は。
それではまた。
でもあの時の淳子さんの涙は、いい子ぶったウソの涙でも無かったし、番組で歌ったゆれてる私の歌が心を撃って、そこから淳子さんの大ファンになった私がいるのもじじつです。