風に吹かれても!雨にうたれても!

桜田淳子さんの幸せを願うとともに、良き70年代の心を少しでも残したいと思います。

スターへの階段ー光と影

2021-06-29 01:43:22 | 日記

『私、最上順子っていいます。』

『おゆきさんだ』

『おじさん、母は去年死にました。』

 

男はつらいよ。葛飾立志篇の一コマである。

これらのシーンは長年引っかかるものがあったのでここに記しておこうと思う。

 

映画『男はつらいよ』(第16作)予告編映像

映画『男はつらいよ』 ㊗山田洋次監督作品『男はつらいよ』シリーズ誕生50周年! 「男はつらいよ」50周年プロジェクト展開中! 特設ページはこ...

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スター誕生からキラ星のようにアイドルが誕生した。

 

桜田淳子さんは、第4回のグランドチャンピオンとなり、第五回では山口百恵さんがスカウトされたことは、もはや語るべくもない。

 

桜田淳子さんの登場で、スター誕生の選考基準が大きく変わったことは以前書いたが、

その陰に隠れたスターの卵がいたこともまた事実だろう。

 

第3代でスカウトされた合格者に、最上由紀子(さいじょうゆきこ)さんがいた。

あまりにもタイミングの悪い合格だった。

デビューは1年遅れで、山口百恵さんにも抜かれてしまった。

デビュー曲は『初恋』、1973年の新宿音楽祭で銅賞を獲得していた。

 

池田文雄プロデューサーが気にかけていた一人だった。

奥様が作詞を担当されている(ペンネーム川口文)。

しかし、レコードが発売されたのは、シングル2枚とアルバム1枚ということだった。

その後は芸能界が合わないということで、

故郷の、山形県最上郡に帰り、親の介護をしながら生活を支え、

結婚され、幸せに暮らされていると聞く。

 

『スター誕生は、人買いではないか』という批判がある。

しかし、それは的外れな意見である。

池田プロデューサーの願いは、もし、スターになれなくても、故郷に帰って、普通の生活に戻れることで、そのことを親御さんにも話すそうである。

 

スターへの階段を登れるのは、極めてごくわずか、実力だけでは不可能で、運に左右される。

 

桜田淳子さんの出現は、彼女の運命に少なからず影響したであろうことは想像に難くない。

 

そのことを思う時、葛飾立志篇は、多くのことを考えずにはいられない。

名前の同一性、出身地の同一性、その時期、映画において、山形県で勉強に励むシーンなど、を見るにつけ、最上由紀子さんがダブるのは私だけだろうか。

 

桜田淳子さんは、『男はつらいよ』への出演が急遽決まったという。

 

『男はつらいよ』は、山形が舞台だと知り、急遽決まったとしても、不自然ではない。

これは、池田プロデューサーが、秘蔵っ子の桜田淳子さんを通じて送った、最上由紀子さんへのエールなのではないだろうか。

 

この人情味あふれる銀幕での本編冒頭8分での帰郷のシーンは、情景が重なる。

 

この映画で、桜田淳子さんが、初々しさを残しながら、好演されているのを見ると目頭が熱くなる。

 

『スター誕生』の卒業生の様々な思いを胸に、番組の原動力として、桜田淳子さんは階段を昇っていくことになるのであろう。

 

最上由紀子さんのニックネームは『さくらんぼユッコ』だった。

 


涙は大切に

2021-06-23 20:44:36 | 日記

約束の地だったかもしれない。

レールが引かれていたのかもしれない。

それでも、階段を駆け上がるのは容易ではなかったはずだ。 

桜田淳子 トップ・オブ・ザ・ワールド Live

 

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1973年10月21日だったと思う。

地方のデパート(当時はショッピングセンター)のオープニング当初のことだった。

桜田淳子さんが来たことがある。

デパートの売り場はがらがら、屋上は、あいにくの雨模様にも関わらず、黒山の人だかりだった。

会場で、サインを促されるアナウンスが流れても、一歩も近づくことなどできなかった。

 

芸能通の友人が、後で教えてくれた。

来る予定は当初、山口百恵さんだった。

というのである。

 

〈 もし、そうだったら、僕は今頃このブログは書いていなかったかもしれない。〉

地方のデパートの人寄せ的なイベントに、よく来てくれたものだと今更ながら思う。

 

淳子さんは、新人賞の賞レースの真っ最中で、しかも中学3年生。

多忙なスケジュールを割いてのことだったと思う。

それが、売れっ子の定めといえば、それまでだが・・・。

 

今、『16才のリサイタル』を聞いてみる。

目を閉じると、少しずつ目頭が熱くなってくる。

どの歌も、丁寧に心を込めているのがよくわかる。

リサイタルの中で、『この日がどんなに待ち遠しかったことか。

何しろ初のリサイタルということで、もう嬉しいし、

また、不安だし、もうこうやってステージに立ってる今でさえも、

宙に浮いたような気持ちでなりません。』

 

その話し方一つ一つに、まじめさがにじみでている。

 

『Thanks40』のブックレットの31ページ目にこんなことが紹介されている。

福田時雄さんの話を引用してみる。

『渋谷公会堂でのファーストコンサート期間中に、淳子に怒られたことがありましたね。

急に倒れた歌手がいて、その穴を埋めるために『どうしても』って頼まれて、

淳子のスケジュールを出したことがあるんですよ。

そうしたら、『私がどれだけこのコンサートに懸けているか分かりますか』って。

『私はコンサートの終わりに『福田さん、ありがとう』って言おうと思っていたけど、

これじゃ言えません』なんて言われてね(苦笑)。』

とある。

 

番組、イベントの穴があけば、そこに入らなければならない。

小さな会社が大きくなるとき、仕事の隙間をうめ、信用を積み上げていくことはどの仕事も同じことだと思う。

サンミュージックは、ナベプロや堀プロとは違う。

 

期待されているとはいえ、駆け出しの女性アイドル歌手の苦難の歴史があろう。

そうして、出来上がったのがこのリサイタルだと思う時、たまらない気持ちになる。

音楽と真剣に向き合った成果なのだから。

 

リサイタルでは、福田時雄さんへの『ありがとう』は収録されていなかった。

もちろん、どちらが正しいとかいうことではない。

モノづくりにこだわる淳子さんらしいエピソードだと思う。

 

80年代に入り、太川陽介さんや、松田聖子さんが、渋谷のNHKで『レッツゴーヤング』の司会進行をしていた。

そうした、一つ一つの信用の積み重ねがあったということなのだろう。

 

『涙は大切に』

そういうことだと思う。

 

追伸:動画のUP主様に感謝します。


板の上の淳子ーその1

2021-06-10 17:02:51 | 日記

板の上でこそ輝く。

 

桜田淳子さんを評してよく言われることだと思う。

なぜこのような表現になるのか、はたと困っていた。

 

これもよく言われることであるが、スター誕生の予選会で、桜田淳子さんを見た人は、表現こそ違えど、みな共通に光り輝く何かを見たという。

田舎の中学2年でさえ、『今度の決戦大会にはすごい子が出るよ』という噂は広まっていた。

名前など問題ではなく、『すごい子』という表現が適切だった。

残念ながら、テレビをつけたときには番組のエンディングで、確定して見ることはできなかったが、この子かなという想像はできた。

 

見れなかった悔しさから。デビューを楽しみにして、それから部活が休みの時はスター誕生を見るのが楽しみだった。

1973年1月終わりごろか2月始め頃だと思う。

もうすぐデビューするというので、テレビでプロモーションビデオが公開された。

正直なところ、期待通りかというと、よくわからなかった。

 

たぶん、この違いは、現場とブラウン管を通してみる映像の違いによるものだろう、と考えていた。

 

しかし、これは正しくない。最近そう確信するようになった。

 

淳子さんに、歌唱法の指導をした中村泰士さんの、生前の話が、2019年、2020年と公表されている。

 

中村泰士さんによれば、淳子さんから中村泰士さんにあてたお祝いの手紙の中で、『天使も夢みる』のレッスンの際に教えられた『鼻にかける歌い方』ができず、泣いた思い出に対するコメントとして、

中村さんは『淳子はかわいかったけど、特徴はなかった。それで鼻にかけて歌ってみたら、と。それをみんなまねをした』と公表している。

 

それ以前にも、中村さんは、このように述べている。

桜田淳子さんは『天性の声は持っていなかったが、猛特訓してボイスを広げていった。声にも特徴がなかったから僕が『鼻に抜こう。鼻にかけて歌いなさい』って言って、鼻に抜ける歌い方を練習させた。それが彼女の声になっていった。だから桜田さんのモノマネをする人は、みんな鼻にかけるような歌い方をするようになった』

 

こう考えてみると、『天使も夢みる』『天使の初恋』『花物語』『三色すみれ』は、ボイスを広げ、鼻にかけるための教材ということもできる。

 

『黄色いリボン』という森田公一さんの楽曲で試すことにより、受け入れられることを確認でき、『花占い』により、桜田淳子さんの初期の歌唱法が完成したのだと思う。

 

桜田淳子姫の花占い

超超綺麗な美少女とは姫の事です、、(^_-)-☆一年前お会いした事を思い出します、

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 この秋、『16歳のリサイタル』が開催され、正統派アイドルとしての実践の舞台を踏むことになる。

桜田淳子さんの周りには、作詞、作曲、歌唱、振り付け、バンド、演出、司会、すべてにおいて一流が集まっているといってよく、このリサイタルで、淳子さんは多くの人の名を挙げ、感謝をしている。

もちろんその中に中村泰士さんの名があることは言うまでもない。

 

オードリー・ヘプバーン主演の『マイフェアレディ』という映画がある。

淳子さんの歌、振り付けのみならず、立ち居振る舞い、お辞儀すべてにおいて洗練されている。

まさに、日本版の『マイフェアレディ』ということだろう。

 

その年の暮れ、紅白歌合戦の舞台で、ぼくらは、これからそうなるであろう『アイドル』の原形を目撃することになる。

 

中村泰士さんが、ひげを伸ばし始めたとき、周りの人が反対する中、桜田淳子さんだけは、ひげを剃らないように頼んだという。

それは、中村さんのトレードマークになっている。

 

桜田淳子さんの歌唱法は、徐々にきつくなっているという批判をする人がいる。

だが、スタイルを貫くことこそが、プロというものではないだろうか。

 

歌がうまい人は素人にもいる。

プロの歌手というのは、ラジオを聞いて、すぐ誰の歌かわかるというものでなければならない。

 

そうであるならば、テレビやラジオで流れる桜田淳子さんの声は、聴けばだれでもわかるであろうし、

それは歌手として、アイドルとしての正統性を貫くものであったことを証明するものである。

 

ここで注意すべきことがある。

テレビやラジオの歌声は、作詞家や作曲家、その他周りがこのように歌ってほしいという世界を忠実に再現するものであるだろう。少なくとも桜田淳子さんはそうしてきたはずだ。

 

しかし、リサイタルは別のことだと思う。

ここでの洋楽ナンバーこそが、淳子さん自身を表現するものはないだろうか。

桜田淳子さんという一つの才能を、心底堪能したいものである。

 

リサイタルについては、書きつくせぬことがあるので、次からまとめていきたいと思う。

 

余談にはなるが、淳子さんと百恵さんに勝敗をつけたがる空気は未だに後を絶たない。

ノーサイドのホイッスルは、吹かれないのだろうか。

 

※中村泰士さんのご冥福をお祈りします。

また、動画のUP主様に感謝します。


正統派の系譜ーだれよりも

2021-06-07 22:43:00 | 日記

人には、それぞれ背負うものがある。

桜田淳子さんと山口百恵さんがまさにそれだろう。

 

僕が、どうしようもなくときめいたのが、『花物語』だった。

まだ、中学2年の時だったが、こういう人もいるのか、と思っていた。

部活が終われば、一目散に家のテレビをつけ、休みの日曜日はラジオの歌番組を聞いた。

 

僅かなお小遣いで、レコードを買い。しかし、ほとんどレコードを聴くことは無かった。


テレビで見る淳子ちゃんは、幸せそのものだった。

それが、僕らの明日への活力だった。

その日の嫌なことをリセットし、常に前向きになることができた。

 

百恵ちゃんを見るのも楽しみだったが、それは自分のためではなかった。

テレビ、雑誌で、淳子ちゃんと並んで、あるいは淳子ちゃんが百恵ちゃんの話題を出すので、意識していた。

 

翌年の1974年、百恵さんに転機が訪れ、そして、努力は実を結ぶこととなる。

性路線とか色々な形で揶揄されようと、百恵さんは、芸能界で名を挙げることが、家族を幸せにする唯一の方法だと確信していたと思う。

背負うものがあまりにも大きかったのだ。

 

しかし時代は百恵さんに追い風となった。

1974年『エマニュエル夫人』が流行し、女性の性が解放され始め、そうした番組がテレビを通して、中学生、高校性の話題になっていった。

 

1973年は苦渋をなめたが、時代の風を受け、やっと足掛かりをつかんだのが1974年であり、賞レースに影響を与えたということだろう。

 

ひと夏の経験 山口百恵

 

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その苦労が、涙となる。


そして、司会者が、『山口百恵さん』とコールし終わるより早く、誰よりも早く、拍手をしたのが左端に座る淳子さんだった。


かつて、淳子さんは、百恵さんがそうした歌を歌わされているのを悲しみ、新人賞を百恵さんと一緒に取りたいと願っていた。


しかし、周りの大人には、二人の思いは理解されることは無かった。

 

ここで、時を逆さに考えることが必要だろう。


百恵さんが一身上の問題を克服して幸せになるには、スターダムにかけ上がることしかなかったが、

そのためには、高いレベルでのライバル関係と、そのライバルを超えるというのが必要なこととなる。

 

プロデューサーの酒井政利さんが、『淳子の天真爛漫さが百恵の陰りを引き出した』というのも、そうした文脈から読み取るべきだと思う。

 

中学時代、席を並べていた淳子さんが願ったのは、百恵さんの幸せだったと思う。

淳子さんの周りには幸せがあふれているのに対して、百恵さんの周りは必ずしもそうではなかったかもしれない。

 

その公式を解くカギは、淳子さんにあったのでないかと思う。


『秘話、サンミュージック』のなかで、淳子さんが福田時雄さんに語った、百恵さんは引退したら、『帰ってきませんよ』というのは、1980年は、百恵さんの結婚・引退といったフィナーレ―への演出をしますよ、ということだったような気がしてならない。


そうして二人の『美しい夏』は、誰にも知られることなく、過ぎていったのではないだろうか。


百恵さんは、引退するとき案じたのは、淳子さんのことだった。

そして、淳子さんが芸能界から離れるとき、池田文雄さんらに、淳子さんのことを頼んだのもまた、百恵さんだったという。


やはり、一途な二人には、姉妹のような、永遠に続く強い絆があったというべきだろう。


叶わぬ夢であろうが、もう一度二人の共演を見たいと思う。


動画をUPされた方に感謝します。

不世出の百恵さん、淳子さんの友情に免じて。