風に吹かれても!雨にうたれても!

桜田淳子さんの幸せを願うとともに、良き70年代の心を少しでも残したいと思います。

昭和のアイドル再考2~桜田淳子の系譜

2013-02-18 02:52:20 | 日記
今から40年前の1973年2月一人の少女が歌手デビューする。
桜田淳子さんだ。

もちろん、デビュー前から彼女の存在は知られていた。

ファン予備軍はおろか、関係者でさえ、期待に胸を膨らませていた。
彼女こそが、新しい時代を作ってくれると期待を持たれていた。

今にして思えば、『スター誕生』というオーデションの決戦大会は、通過儀礼だったかも知れない。

多くの若輩者が『花物語』に心を痛め、圧倒的多数が『はじめての出来事』に心を癒やされた。

思春期から青春期に、僕らの心が移植されたといっていいと思う。

そんな淳子さんは、僕らの成長の証だった。
母親からの乳離れは、こうして加速されたのだろう。
母親に依存する子供は、一人のアイドルによって、母親から離され、一人の異性にエスコートされた。

アイドルとは、何か。その時代時代に求められるものがあるのかも知れない。
それならば、昭和のアイドルの役割とは何か。

昭和アイドルの代表に小泉今日子さんがいる。
彼女のアイドル論が紹介されている。

そこで語られるのは、誰かが座らなければならない席だ。

それが、アイドルというポジションなのである。

なぜ、誰かが座らなければならないのか。

アイドルの必要とする年代とはいつか。
個人差はあるのだろうが、最初は小学高学年~中学~高校 といったところだろうか。

特に中学という年代の特徴は、日々、体の生育とともに、心も成長するのだが、成長の進み方がアンバランスになる。
総じて、体の成長に比べ心の成長が遅れるものだと思う。

確かに親の育て方はあるのだろうが、子供の考え方はいつしか親を超えていく。
もしかしたら、親が子供を私物化し、いつまでも幼少のときの面影を引きずっていることが、子供の心の成長を阻害するのかも知れない。

アイドルそのものが、人生論を語るわけでもなく、進路に直接的影響を与えるわけでもない。
それでも、それまで母親の存在を絶対的だと思っていた子供の心を開いていく役割を持っていたことは否定できない。

それは、エスコートされたといっていいと思う。

アイドルに求められるもの。
それは、天使のような役割だと思う。

部活で疲れたとき、勉強でノイローゼ気味になったとき、友と喧嘩して自己嫌悪になったとき、彼女らの優しい歌声は、僕らの心を癒やしてきた。

そして、時の経過とともに、直面する問題を自分で解決していったのだと思う。

アイドルに求められるのがそうであるとすれば、アイドルらしい振る舞いが求められる。
言葉使いにしても、言動にしてもそうだ。
健全な模範でなければならない。
自己規律が求められるのだろう。

小泉今日子さんという天然のキャラクターですら、アイドルというポジションを『誰かが座らなければ』という受け身として捉えていることは興味深いし、その言葉の意味は重いのではないだろうか。

1986年4月、当時トップアイドル目前の岡田有希子さんの不幸な出来事があった。
アイドルというポジションについて、改めて思い起こさせるものだった。

小泉今日子さんは、翌年Smile Againをリリースする。

この曲には、桜田淳子さんの『17の夏』が使われているが、今日子さんは、オカリナに何を託したのか。

桜田淳子、岡田有希子、小泉今日子、という『スター誕生』の卒業生たちは、僕たちに夢と現実を見せてくれたのではないだろうか。

今も活躍される小泉今日子さんの言葉が語るもの、それはアイドルというものの役割を見直して欲しいという願いなのではないだろうか。

最後に、岡田さんの不幸な出来事は彼女の純真で聡明な故のことであるし、桜田淳子さんの1992年の騒動は決して忘れることはできない。

彼女ら昭和アイドルが僕らに残してくれたものは大きく、『正統派アイドル』というのはそうした彼女らに与えられた称号だと思っている。

平成の今、学校でも、家庭でも暴力、いじめがまかり通っている。
子供は、きちんと親から離れているだろうか。
巣立ちの時はいつかくる。その瞬間をイメージして子供と接したいものである。

そして、巣離れをさせてくれた、昭和のアイドルに感謝する。
同時に、今のアイドルに期待したい。

追伸 引用させて頂いた動画、記事のUP主様に感謝します。

桜田淳子さんと無縁坂~母への思い

2013-02-03 13:44:53 | 日記
1975年の代表曲にグレープの『無縁坂』があった。
さだまさしさんの母への思いのこめられた名曲だと思う。


実は、当時高校1年生で、故郷を離れ、下宿していた僕には思い出深い歌である。
誰でも、母との思い出は格別のものがある。
これは、親子にしか理解し得ないものだろう。

時は流れ、桜田淳子さんが、統一協会の合同結婚式に参加して数年たち、統一協会のイベントに参加し、その中で、『無縁坂』を歌ったことがあるとのことである。
淳子さんは、どのような気持ちで歌ったのだろうか。

母への思いを込めて歌ったことは想像に難くない。
1980年のコンサートで『秋桜』を歌ったとき、かすかに声を詰まらせ、深い感情を込めていたことが、脳裏をよぎる。
やはり、変わらぬ母への同じ思いなのだろう。


1973年新人賞を受賞したとき、やはり、傍らにお母さんがいた。しかし、その表情はなく、前一点を見つめていた。お母さんは、何を思っていたのだろうか。
淳子さんの芸能界入りを一番反対していたのも、お母さんだった。しかし、一番理解していたのもお母さんだった。そのおかあさんが、新人賞にも無表情だったのだ。
喜びを表すわけでもなく、照れる風でもなく、さりとて、娘を案ずる様子でもない。凛として立っているその姿は、母の強さを感じさせるものだった。

光あるところ陰があり、昇った陽は、いつか沈む、そんな達観がある。
母親が子供に望むことは一つ、元気でいて欲しいということだけだ。

無縁坂の歌詞の一節に、
『ため息つけば、それで済む、後だけは見ちゃだめと、笑ってた白い手はとてもやわらかだった』
というのがある。
お母さんは、若干14歳の娘を秋田駅で見送りながら、決意したのだろう。

前を見る淳子さんの姿勢は、間違いなくお母さん譲りのものだ。

この歌詞の続きに、
『運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど、そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思う』
というのがある。

淳子さんの今は、偶然なのか、宿命なのか、それはわからない。

しかし、ひとつだけ言えることは、どういう境遇でも、活路を見出すということだ。

彼女の非凡な才能を見てきた僕らにとって、これだけは断言できる。

あのお母さんに育てられた娘は、まなじりを決し、転んでも、砂をつかんで立ち上がると思う。

淳子さんの、何があっても後ろを振り返らない、そういう真似のできない強さが好きだ。


追伸 無縁坂の楽曲の歌唱では、無断歌唱ということで、ペナルティがあったとのことである。
関係者の手続きがもれたのか、著作権の認識が甘かったのか、それとも、カラオケ程度のものだったのか、それぞれの思いが交錯する水を差す出来事であったことは、付言しておく。