時代の曲がり角だったかもしれない。
1969年代は、アポロ11号の月面着陸ととともに、強いアメリカは完成した。
それとともに、日本人の中にアメリカ至上主義がピークを迎えた。
1970年代は、万国博覧会で国際化し、アメリカ以外の国際化を感じた。
個性というものが、受け入れられる土壌が出来つつあった。
つい最近のことだが、ある動作をしたところ、知り合ったばかりの人に『左利きですか』と聞かれたことがある。
あまりに何気ない所作だったので、『どうしてですか』と聞き返した。
実は、思い当たることがある。
私は、ボールも右手で投げるし、右足で蹴る。
しかし、それは、教えられたことであったり、見まねで覚えたことだったのではないか。
高校生くらいの時だっただろうか、兄に子供が生まれ、母が子守をしていた頃だった。
兄の子が左手で物をつかもうとしたことに対し、私の母が『こっち』といって右手を指したことがある。
また、高校の時、部活で左手も使えるように指導され、練習したことがあるが、わりと速く正確にボールを投げられるようになった。
今にして思えば、僕は左利きだったのではないだろうか。
小学校の時、よくキャッチボールをしたし、野球の代わりにソフトボールをやった。
クラスは45人いたが、左利きは2人しかいなかった。
特に女子の左利きはいなかった。
二人の左利きのうち一人は、投げるのと打つのは左だったが、鉛筆も箸も右手だった。
僕たちは、左利きのことを『ぎっちょ』とか『ぎち』とか呼んでいたが、決して馬鹿にはしていないつもりだった。
オーダーを組むとき彼らは貴重だったが、守りではポジションはファーストかライトと固定されていた。
学校の倉庫には、左利き用のグラブはなく、彼らは右利き用のグラブを器用に使っていた。
6年生の時に、ソフトボールの大会に出ることになった。
先生は、サードに左利きの友達を指名した。
僕は、ショートだったので、サードを守る友人の動きを見て、先生に聞いたことがある。
『サードは右利きの方がボールをファーストに投げやすいのではないですか』と、そのとき先生は、『やってみなけりゃわからないだろう。そう思うのなら、みんなでカバーすればいい。』そんな感じの掛け合いだったと思う。
先生の言うことは絶対だった時代だ。
そのときの先生の表情は覚えていないが、反論はしていないと思う。
僕らのチームは勝ち進むことは出来なかった。
中学校に進学して、他の小学校出身の友達が出来、活動範囲が広がった。
2年生の時、麻丘めぐみさんの『わたしの彼は左きき』が流行した。
麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」
その時代、ラジカセはまだ買ってもらえなかったが、良くラジオを聞いていた。
その番組の中で、なぜかいまだに覚えている話題がある。
腕時計は右利き用に作られているという話題だった。
まだ主流は手巻きだったと思うが、リューズは右手で回すように作られていると言うことだった。
その他にも右手用の商品が多数紹介されていた。
今に思えば、この時、時代は動いていたのかもしれない。
人気絶頂のアイドルが歌うことにより、左利きが市民権を得たのではないかと思う。
毎日のようにテレビで流される影響力は大きいのだろう。
左利きの商品の販売促進の意図が当時の大人にあったかどうかわからないが、それより、左利きがいい意味での個性ととらえられた事の方が大きい。
桜田淳子さんが、カンコー学生服のコマーシャルをするCMがある。
映像の中で、淳子さんが木の枝に向かってジャンプするとき、左手を高く上げる。
バレーボールをやっていて、走りながら左手を上にすると、ジャンプしてバランスを崩すことがある。
もしかしたら、淳子さんも・・・。
東南アジア、インドなどの宗教的色彩を帯びた左手に対する偏見にも似た感覚が、日本にどこまで影響を与えているかわからないが、僕たちの左利きに対する見方は、『わたしの彼は左きき』により一変したことは間違いないと思う。
あの時の小学校の先生の配慮が、今も懐かしい。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
1969年代は、アポロ11号の月面着陸ととともに、強いアメリカは完成した。
それとともに、日本人の中にアメリカ至上主義がピークを迎えた。
1970年代は、万国博覧会で国際化し、アメリカ以外の国際化を感じた。
個性というものが、受け入れられる土壌が出来つつあった。
つい最近のことだが、ある動作をしたところ、知り合ったばかりの人に『左利きですか』と聞かれたことがある。
あまりに何気ない所作だったので、『どうしてですか』と聞き返した。
実は、思い当たることがある。
私は、ボールも右手で投げるし、右足で蹴る。
しかし、それは、教えられたことであったり、見まねで覚えたことだったのではないか。
高校生くらいの時だっただろうか、兄に子供が生まれ、母が子守をしていた頃だった。
兄の子が左手で物をつかもうとしたことに対し、私の母が『こっち』といって右手を指したことがある。
また、高校の時、部活で左手も使えるように指導され、練習したことがあるが、わりと速く正確にボールを投げられるようになった。
今にして思えば、僕は左利きだったのではないだろうか。
小学校の時、よくキャッチボールをしたし、野球の代わりにソフトボールをやった。
クラスは45人いたが、左利きは2人しかいなかった。
特に女子の左利きはいなかった。
二人の左利きのうち一人は、投げるのと打つのは左だったが、鉛筆も箸も右手だった。
僕たちは、左利きのことを『ぎっちょ』とか『ぎち』とか呼んでいたが、決して馬鹿にはしていないつもりだった。
オーダーを組むとき彼らは貴重だったが、守りではポジションはファーストかライトと固定されていた。
学校の倉庫には、左利き用のグラブはなく、彼らは右利き用のグラブを器用に使っていた。
6年生の時に、ソフトボールの大会に出ることになった。
先生は、サードに左利きの友達を指名した。
僕は、ショートだったので、サードを守る友人の動きを見て、先生に聞いたことがある。
『サードは右利きの方がボールをファーストに投げやすいのではないですか』と、そのとき先生は、『やってみなけりゃわからないだろう。そう思うのなら、みんなでカバーすればいい。』そんな感じの掛け合いだったと思う。
先生の言うことは絶対だった時代だ。
そのときの先生の表情は覚えていないが、反論はしていないと思う。
僕らのチームは勝ち進むことは出来なかった。
中学校に進学して、他の小学校出身の友達が出来、活動範囲が広がった。
2年生の時、麻丘めぐみさんの『わたしの彼は左きき』が流行した。
麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」
その時代、ラジカセはまだ買ってもらえなかったが、良くラジオを聞いていた。
その番組の中で、なぜかいまだに覚えている話題がある。
腕時計は右利き用に作られているという話題だった。
まだ主流は手巻きだったと思うが、リューズは右手で回すように作られていると言うことだった。
その他にも右手用の商品が多数紹介されていた。
今に思えば、この時、時代は動いていたのかもしれない。
人気絶頂のアイドルが歌うことにより、左利きが市民権を得たのではないかと思う。
毎日のようにテレビで流される影響力は大きいのだろう。
左利きの商品の販売促進の意図が当時の大人にあったかどうかわからないが、それより、左利きがいい意味での個性ととらえられた事の方が大きい。
桜田淳子さんが、カンコー学生服のコマーシャルをするCMがある。
映像の中で、淳子さんが木の枝に向かってジャンプするとき、左手を高く上げる。
バレーボールをやっていて、走りながら左手を上にすると、ジャンプしてバランスを崩すことがある。
もしかしたら、淳子さんも・・・。
東南アジア、インドなどの宗教的色彩を帯びた左手に対する偏見にも似た感覚が、日本にどこまで影響を与えているかわからないが、僕たちの左利きに対する見方は、『わたしの彼は左きき』により一変したことは間違いないと思う。
あの時の小学校の先生の配慮が、今も懐かしい。
追伸 動画のUP主様に感謝します。