花のトリオがデビューするときから、むしろデビュー前から伏線があったという方が正しい。
すごい子が出る、これが淳子さんの前評判であり、『暗めの淳子』というのが百恵さんの前評判だった。
ここで、当時の世相を考えてみようと思う。
極めて大雑把な話をすれば、1960年代は安全保障をめぐり学生運動の嵐が吹き荒れ、それは、あさま山荘事件まで続いた。
国防を重視する人たちは、三島由紀夫割腹事件でクライマックスを迎えた。
そう言っていいだろう。そうした荒廃した世相をオイルショックが襲った。
万国博覧会を経験した日本には変化が必要だった。
若者の考え方も変化が必要だった。
小学生の時は、大学に行きたくないと本気で思っていた。
中学生になって、部活に入り、何となく勉強して過ごしていた。
そう、何となくという感じだった。
僕らの世代を表現するのに、『しらけ世代』という表現がある。
こうした世相、やり切った感に一区切りしたことの影響が大きい。
僕らは何をすればいいのか。その打ち込めないもどかしさを表現したものだろう。
しかしエネルギーは持っていたし、ただそのエネルギーがくすぶっていただけだった。
暴走族、竹の子族、ヒッピーなど、いろいろな形で噴出していたが、それは部分的だった。
子供が見ていいのかというような、映画やテレビや漫画があふれていた。
自由と言えば聞こえはいいのだが。
そんな時代に『スター誕生』がスタートした。
淳子さんがかわいらしさを出し、百恵さんが大人びて歌う。
明らかに、淳子派と百恵派の分化が始まった。
制服は、カンコ―とヨット。
学習雑誌は、コースと時代。
体育会系は淳子派、勉強組は百恵派。
早稲田に淳子派、東大に百恵派。
歌を中心としてバラエティ番組から入るサンミュージックと、ドラマからイメージを作っていく堀プロダクションという具合だった。
二人をめぐり、多くの若者がしのぎを削る現象は、今思えば滑稽だが、当時は真剣だった。
なにせ、はけ口は無くても、熱量を持った人間が多かったのだから。
そして、熱い応援が、二人に力を与えていた。
音程を外せばそわそわし始め応援し、翌日ライバルに指摘されれば喧嘩になり、若気の至りだったのだろう。
他人事ではなかった。
反面、二人にとって、行き過ぎた応援に困惑したことが多いのもまた事実だろう。
また、今ならプライバシーに属することも、平気で表に出てきていた。
百恵派は女性ファンが多かったことが幸いしたと思うが、桜田淳子さんは大変だったと思う。
自宅を隠したり、パトカーに先導されながら移動したり、ステージに押し掛けるファンに困惑したり。
いくら応援とはいえ、歌の最中に『淳子、淳子』と叫ばれては、たまには『バカヤロー』と叫びたくなるし、ファンをいじりたくなる、というものだ。
桜田淳子さんは、『NHKのビッグショー』で、『私に卒業する』というファンの手紙を紹介されていたが、
気持ちはわかる。
でも、これだけは言える。
僕らは、純粋だった。
そして、二人は強かった。一人で相手をしてきたのだから。
相手が誰であろうと、これからも、応援しようとする熱量は冷めないだろう。
追伸:動画のUP主様に感謝します。
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