風に吹かれても!雨にうたれても!

桜田淳子さんの幸せを願うとともに、良き70年代の心を少しでも残したいと思います。

1975年の時代風景~桜田淳子さんたちの輝いた時代

2013-03-27 17:51:57 | 日記
好きな俳優の一人に、市原隼人さんがいる。
その彼の物まねをする人がある。

それについての、市原さんの感想である。
市原隼人、自分のモノマネに不快感「役者を馬鹿にしてなめてる」
というものだ。

これとは逆にまねをされて、人気が復活した人もいる。

まねされる側の心情をくんでいるかが分かれ道だと思う。

最近の風潮は、少し軽いような気がする。ものまねには時代の風潮があるのではないだろうか。
この軽さ、いや虚無感は、どこからくるのだろうか。

1975年当時のものまね番組を見ながら、玉置宏さん、コロッケさんらが、回想しているコメントにはなるほどと思わせるものがある。


NET象印スターものまね大合戦


1975年、時代を芸能面からリードした、スター達の何気ないものまねには、やはり原点があるのだろう。


1975年という時代、ベトナム戦争も終結し、オイルショックも一巡し、時代は、少し緩くなったのかも知れない。

文化考証をする柄ではないのだが、1973年型アイドルを中心として、70年代前半のアイドルが、芸能界を盛り上げたような、そんな時代だった。

そして、『俺たちの旅』に代表されるように、若者文化が、モラトリアムとともに、大人の文化を離れ、一人歩きを始めたのかなと思わせる自由な空気が生まれたような気がする。

ヒッピーなどが原宿を闊歩し、暴走族がハバをきかすようになった。

良くも悪くも、ベトナム戦争からのアメリカ撤退を受け、時代は、貿易摩擦に向かっていった。

様々な矛盾を抱えながら、時代を明るく克服した『強さ』がこの時代にはあったように思う。

ここで、時代の強さとして、注目したいことがある。

動画のなかで、ものまねを披露するのは、スーちゃんだが、この時期『年下の男の子』から、キャンディーズのセンターは、ランちゃんに替わる。
そしてヒットを量産するようになった。

スーちゃんが下手だったのではないし、だめだったのではない。歌唱力では三人の中ではぬきんでていたと思うし、ぽっちゃり系ルックスだってかわいさはピカイチだった。
天地真理さん系の屈託のない明るさと歌声があり、大好きだった。

それでも、時代の風はランちゃんだった。なぜだろう。

それは、天地真理さんから桜田淳子さんへのアイドルの系譜と符合するように思う。

ゆるキャラ系の天地真理さんから、複雑な要素を持つ可愛さの中にどことなく芯の強さを感じさせる桜田淳子さんというくくりだ。

彼女のおっちょこちょいな性格は、芯の強さを中和するもののように思える。

これは山口百恵さんにも共通するのかもしれないが、流されない強さとひたむきさがある。

ランちゃんには、桜田淳子さんと共通するものを感じる。

アシスタント経験が長かったせいか、コントなどでも、巧みさの中に、センスと品があったように思う。

それが好まれたのではないかと思う。

今にして思えば、この時代選ばれたアイドルは強い。
勝ち抜いた強さがある。

この時代のアイドル達が、その姿を変えながらも、いまだに芸能界で活躍しているのは、そうした強さに起因しているのだろう。

そして、彼女たちの当時の活躍が、いまだにテレビで放映されるのは、単に懐かしさだけではなく、芸能面での普遍性と、強い個性が放つメッセージ性の故ではないかと思う。

私は、桜田淳子さんという個性が、その時代感覚の申し子でありながら、なきものとされてきた最近の20年間に対し、改めてその修正が必要だと痛感する。





青春の坂道~青春時代と桜田淳子さん

2013-03-25 12:04:38 | 日記
今でも、思い出せることがある。
人には、そうしたものがあると思う。

1975年から1976年にかけて、人気番組『俺たちの旅』は、私の思い出の番組の一つなのは間違いない。

人を気遣う優しさや、痛みを分かち合う思いやり、そう言ったものが、当時の時代感覚で表現されていたと思う。

そして、新たな青春像がそこにあった。

俺たちの旅の名場面♪


ベトナム戦争も終結し、世の中の反戦ムードが勝利を収め、穏やかで、自由な空気に包まれ始めたそんな匂いがした。

私は、高校1年生、まだまだ先輩の肩もみや、球拾いなど下積みの時代だった。

放映されたのは、1976年3月のことであるから、まもなく高校2年に進級の時で、下級生でなくなることが待ち遠しかった。

当時の部活の階級制はそんな感じだった。

日曜日の部活から帰り、下宿で先輩のご飯をつぎながら、『俺たちの旅』を見ていたことが、つい昨日のことのようだ。

疲れで乾いた体に、この番組はすぐさま染みこんだ。

翌週、レコード店にいって、サントラ番のカセットを買いに行ったことを良く覚えている。

劇中の『青春の坂道』は、すぐに好きになった。

岡田奈々さんが、特別好きだったというわけではなかったが、この歌は特別に好きだった。

間違いなく、疲れた心を癒やしてくれた。

アイドルとは、そういうものだと思う。
私にとってのアイドルとは、青春と不即不離の関係だ。

当時、エアチェックする時間はほとんど無い。録音したカセットを繰り返し聞くのが唯一の楽しみだった。

もちろん、当時最も輝いていた、桜田淳子さんの曲は、欠かさず聴いていた。

なぜ、この時期これほどまでに、青春にこだわったのか。
この答えが、この時期の桜田淳子さんが好きだった理由と一致する。

中学生の思春期で心を捕らわれ、『はじめての出来事』で、心の自由を得たことは、恥ずかしながら、以前記載した。

高校生の青春期は『スプーン一杯の幸せ』からスタートした。
映画の中の桜田淳子さんは、光り輝いていた。画面いっぱいに繰り出される映像に見とれるだけで、ストーリーなど全く覚えていない。とにかく一生懸命さだけが印象に残っている。

何かに夢中になる。人を好きになる。前のみを見つめる。
青春を定義付けるものは、人それぞれかもしれない。

ぼくは、桜田淳子さんを中心とした、昭和アイドルに嫌いな人はいないといっていい。

そういう意味では、当時誰のファンでもなくなっていたのかも知れない。

非常に卑怯な言い方だけれども、今にして思えばそう思わざるを得ない。

確かに、中学生の頃は、淳子さんを知ろうと、雑誌、テレビ、ラジオをくまなく探していたけれども、高校時代は、自由な時間がなかったことが起因していたし、他にやるべきことがあった。

反面、淳子さんが出そうなテレビ、ラジオ番組は感覚的に持っていたし、本能的に行き着くことができた。

スイッチをつければ苦も無く行き着ける気がしていたのかもしれない。

もちろん、禁断症状の時は、桜田淳子さんに行き着くまで探した事を思うと、やはり、心の大きなウェートを占めていたことは間違いない。

今となっては、体にすり込まれた桜田淳子魂が、頭をもたげていることに驚くばかりだ。

桜田淳子さんと一対となった青春時代は、実に苦しくも楽しかった。

僕は、昭和アイドル達の手のひらの上で転がされ、そして送り出されたことを懐かしく思う。

そして、いささか他力とはいえ、青春の坂道を登り切ることができたことに感謝する。

できたら、悟ったような今の子達ではあるが、損得を度外視した熱い夢を与えられる本当のアイドルがいてもいいと思う。
そして、青春の坂道を登り切ってもらえたらと思う。

追伸 動画のUP主様に感謝します。

正統派の系譜その3~桜田淳子さんへの交代劇

2013-03-17 20:03:06 | 日記
運命には、伏線がある。
もし伏線がなければ、それは偶然といった方がいいのかもしれない。

それを思わせる、1974年の紅白歌合戦だった。

前の年、レコード大賞の最優秀新人賞を最後まで争ったのは、桜田淳子さんとアグネスだった。
レコードセールスだけをみれば、アグネスが手にするはずだったかも知れない。

それでも、封筒に入っていたのは、桜田淳子さんの名前だった。

受賞後、アグネスが口にしたのは、なぜだという思いだった。
そして、用意されていなかった祝賀パーティに向かう桜田淳子さんのつぶやいた言葉は、『自分一人の力ではない』ということだった。

二人に共通することは、勝負はついていないという思いだけだったのだろう。

それから1年。

もちろん、ファンとしても、すっきりした形が欲しかった。
それは1974年の紅白で、再燃されたといっていい。

アグネス・チャン ポケット一杯の秘密


いつの時代にも、意識しなければならないことがある。
それが、ライバルであれば、なおのことである。

先に歌ったのは、アグネスだった。
バックは豪華だった。
元アイドルの『こまっちゃうな』の山本リンダ、そして白雪姫の天地真理、シンシアの南沙織、フリージアのあべ静江の4人だった。

新旧のアイドルを取り混ぜてバックを固める。

まさに、ナベプロの思惑が見え隠れする布陣と言っていい。

しかしながら、アグネスが一生懸命に歌うのに対し、4人の動きはどことなくぎこちなく見えてしまう。

特に天地真理さんの無表情は、日頃の笑顔と比べて印象に残る。

アグネスの歌唱の後、満を持して、花のトリオの出番となり、桜田淳子さんが『黄色いリボン』を歌唱する。

しかし、この映像を見る限り、勝負は誰の目にも明らかだった。

際立つのは、花のトリオの微笑ましいばかりの光景と、淳子さんの歌唱中の、シンシアのもの悲しくも見える表情、あべ静江さんの柔和な表情とアグネスの真剣なまなざしだった。そして、トップアイドルの天地真理さんの姿はない。

これは、どういうことだろうか。
これほど対照的な対決は見たことがない。

事務所の思惑が空回りしたのか、降参のシグナルか。はたまた・・・・。

しかし、事実としていえることは、この紅白の後、桜田淳子さんは、アイドルの代名詞となる活躍を見せ、1975年の女性歌手をリードすることとなる。

それは、結果的にみれば、アイドルというポジションが、当時芸能界を仕切るナベプロの手を離れ、『スター誕生』を中心としたメディアを介してファンの手の届くところに近づいたことを意味するように思う。

1973年、レコード大賞受賞で、ナベプロの芸能界支配に風穴を開けた事件は、ここに一つの決着を見た思いがする。

黄色いリボン・わたしの青い鳥 桜田淳子


そして、桜田淳子さんという個性的なアイドルが輝いた時代こそが、アイドルがファンに最も近づいた時代だった。

今、一部のプロダクションが仕切り、歌わない歌手の映像を見せられる時、その思いを強くする。

これは、ノスタルジーではない。

昭和という時代を過ごしたものの率直な感想だ。

再び、芸能界に反乱分子による革命がもたらされ、それを支える信念を持ったスターが誕生するという奇跡に巡り会いたいと思う。

追伸 動画に登場する森田健作さんの千葉県知事再選を心よりお祝い申し上げます。

動画のUP主様に感謝します。



正統派の系譜その2~桜田淳子さんの立ち位置

2013-03-11 05:18:47 | 日記
人には、生来のポジションがあるのかも知れない。

それをつかめるかは、複数の偶然に左右されるかも知れないが、それをつかみ取るのは本人の日々の努力と周りの協力なのだろう。

1974年の紅白映像を見て今更ながらにそう思う。

この年の桜田淳子さんは、高校一年生、少し背伸びをする年頃かと思うのだが、『三色すみれ』から『黄色いリボン』『花占い』と少女らしい楽曲が並ぶ。

思い出深い曲が並ぶ中、その年の暮れ、『はじめての出来事』をリリースし、大輪の花となる時を迎える。

折しも、それは、天地真理さんという絶大的な人気アイドルの下降期と入れ替わるかのように。

それを象徴するのが、この紅白だったと思う。

桜田淳子 黄色いリボン


この映像では、黄色いあざやかな服を着た淳子さんに目が奪われ、見落としがちな点がいくつかある。

一つは、観覧中のあべ静江さんの目だ。
これは、少し前屈みなって食い入るように見ている。
同じことはアグネスにもいえる。
ライバルを見つめる目だ。
前年、レコード大賞で苦杯をなめたとはいえ、レコードセールスでは、上回っている。
少なからぬ気持ちはあったに違いない。

しかしながら、着実に実績を重ね、認めざるを得ない気持ちになっていたように思う。

二つ目は、南沙織さんに注目したい。
私は、シンシアは非常に好きな歌手であるのだが、淳子さん歌唱中、伏し目がちになっている。
小柳ルミ子、天地真理と並んで新三人娘から、時代は『花のトリオ』に移行したことを思わせる。

そして、花のトリオのステージだ。

三人は、揃って、ステージに立ち、時代の到来を広く僕らに印象づけた。

紅白という大舞台は、今では想像もつかない権威があった。
お茶の間の8割が見ているお化け番組だ。

このステージでの演出は、のちのちの歌手生活にも影響を与えるものだろう。

そのステージで、トリオは魅せてくれた。

三人は何れもセンターポジションであることには違いないが、『黄色いリボン』で、曲間センターに戻るとき、山口百恵さんが素早くもどり、桜田淳子さんの立ち位置を指で示す。
そして、淳子さんは、上目から、視線を落とし、右手を挙げ、立ち位置を確認したことを告げる。
それを、優しく見守る昌子さん。

僕は、この光景を何度も見て、三人の人間関係をうれしく思う。

曲の流れに何も影響を与えず、あんうんの呼吸で平然とするこの所作に、三人の才能を見る思いがする。

花のトリオは、不世出の天才だったことを、全国に示したワンシーンだと断言できる。

そして、いずれもが、助け合い、カバーしあう友であったことを。

この時から、三人の活躍は、あまりにも当然といえば、当然だったかもしれない。

そして、それを目撃した幸せを感じる。
彼女らの、ステージでのキラキラした瞳の輝きとともに。

追伸 動画のUP主様に感謝します。

正統派の系譜~天地真理から桜田淳子

2013-03-08 16:42:08 | 日記
『おかみさん時間ですよ』が始まりだった。
そして、1971年秋、一人のアイドルが誕生する。

天地真理さんだった。

1971年といえば、僕が中学に入学したばかりだった。

時期的には、ちょっとませ始めた頃で、年上にあこがれていた頃だったと思う。

『時間ですよ』で、時々出演する、隣の真理ちゃんを見る『けんちゃん』の姿に、自分を重ね合わせていたのかも知れない。

テレビの影響力は計り知れない。

その秋、天地真理さんが歌手デビューする。

もちろん、デビュー曲『水色の恋』は覚えている。耳に焼きついている。

しかし、歌番組の印象は薄い。
むしろ、テレビドラマなどの印象の方が強い。

彼女のキャッチは『白雪姫』だった。

真理ちゃんの歌は、出す曲全部大ヒットであり、だれもが口ずさんでいた。
当然、僕も。

天地 真理メドレー


彼女は、瞬く間に、国民的アイドルに上り詰め、お茶の間に入り込んできた。

誰のファンかと聞かれれば、『真理ちゃん』と答えていれば、無難だった。

そんな時代だったような気がする。

ぼくも、そんな一人だった。

しかし、『二人の日曜日』は、とうとう我慢できなくなり、レコードを買った。

それが、僕にとっての『真理ちゃん』の絶頂期だった。

僕は、名実ともにファンになった。はずだった。

しかし、次の『若葉のささやき』で、僕の心は離れ始めたような気がする。
これではいけないと思いながら、この曲が好きになれなかった。

なぜだろう。

今にして思えば、この年が、1973年型アイドルの時代に入ったからだと思う。
目移りするような、贅沢な時代の始まりだったように思う。

1973年の新人賞は、女性陣が総なめした事実は、象徴的出来事だった。

それまで、芸能界が『ナベプロ』に独占されていたのが、一気に解き放たれた年だった。

天地真理さんというアイドルは、ナベプロ的に売り出されたアイドルのように思えてならない。

徹底したイメージ戦略の前に、国民なら天地真理のファンであるべきだ的な感じがした。

中学生の私には、何の根拠もなくファンに取り込まれたような気がする。

理屈好きの僕は、好きである理由が欲しかった。

それに答えてくれたのが、僕にとっての『桜田淳子』さんだった。

そこには、ファンになる理由があった。

デビュー三曲目の『わたしの青い鳥』までは、序曲に過ぎなかった。

彼女の世界が表現さえてきたのは『花物語』だったと思う。

そこで、感じた世界こそ、僕が彼女のファンであった理由なのだろう。

その世界に1年間閉じ込められた僕が釈放されたのは、『はじめての出来事』だった。

この曲以降、私は彼女の急速に変貌する姿を、来る日も来る日も眺めていればよかった。

桜田淳子『セミロング時代ヒットメドレー』(やっぱりこれでしょ^^)



桜田淳子さんの高校生の三年間は、筆舌に尽くしがたい輝きがあった。

それを、『アイドル』という言葉で済ますには、あまりにも言葉たらずであるが、日に日に輝きに神々しさが漂う様を見ているのは、ためいきが出るほどだった。

今、時折テレビに流れる映像を見ていても、この時期のものがでることはほとんどないことは残念でしかたがない。

追伸 動画のUP主様に感謝します。