風に吹かれても!雨にうたれても!

桜田淳子さんの幸せを願うとともに、良き70年代の心を少しでも残したいと思います。

正統派の系譜その7~アイドル全盛

2013-06-17 03:46:49 | 日記
1975年パンドラの箱は開かれた。
続々現れたのは、まぶしいばかりのアイドルだった。

そして、翌年最盛期を迎える。

夏にご用心.mpg


左から、早乙女愛さん(1974年デビュ)、石川さゆりさん(1973年デビュ)、司会の岡崎友紀さん、片平なぎささん(1975年デビュ)、岡田奈々さん(1975年デビュ)、伊藤咲子さん(1974年デビュ)

(古い映像なので、誤解があるかもしれないが、目鼻立ちがくっきりしていることから左端は早乙女愛さん、右端は髪型から伊藤咲子さんに間違いないと思う。)

急逝された早乙女愛さんを除いては、現役で活躍されている方たちという表現でいいのだろう。

当時は、どの番組をみても、誰か出ていたし、我々を楽しませてくれたアイドルだった。

それぞれに持ち味を持っており、シリアスな女優指向、演歌指向、サスペンス的な女優指向、清純派女優指向、POPS指向、とそれぞれの持ち味を持っているが、息の長い芸能人であることは間違いない。

その中で、この時期の番組では、別格としての存在感があったのは、桜田淳子さんだった。

この映像は、まさに当時の番組作りそのものであると思う。

ステージが用意され、そこに登場する。
歌うのは番組向けのフルコーラスに近い。
そして、演奏はややゆっくり目で、長くブラウン管にとどまる。

歌う順番は、出来るだけ引っ張る。
場を盛り上げての登場となる。

芸能人はそれぞれ持ち味があるので、ランク分けするのは好むところではないが、70年代の番組では、桜田淳子さんは特別な存在だったという方が的を得ている。

先般の故相澤会長のお通夜のときもそうだったが、それが当たり前な時代だったというほか無い。

オーラというものが現実あるのならば、淳子さんのオーラがそうした場にぴったりだったのだろう。

当時を過ごした人にとっては当たり前なことであり、今に残る映像をみてもそれなりに理解できるとは思うのだが。


一つ付け加えるなら、曲が始まったときの、スイッチの入り方、歌唱シーンになったときの切り替え、そうした『静』から『動』への変化は見事と言うほか無い。

特にアウトドアでのノイズが入りやすい状況で、しっかり曲を捉える動きはうまい。

曲中、右端の伊藤咲子さんが、淳子さんの足のさばきを見つめているシーンが多くあるが、仲良しといえど、なお見習うことが多いのだろう。

それにしても、淳子さんと咲子さん、歌唱中、視線を合わせてどのような会話を楽しんだのだろうか。

昭和アイドルの仲の良さを表す一コマだ。

もう少し、時の流れが緩やかであったならば、幸せな時を長くかみしめることが出来たと思うのだが。


追伸  動画のUP主様に感謝します。

正統派の系譜その6~底流にあるもの

2013-06-15 00:00:33 | 日記
1970年代の代表的人気番組に『八時だよ 全員集合』があった。

我が家では、毎週土曜日は、家族がお茶の間に集まり、この番組を見ていた。

ドリフターズによるコントとアイドルの歌、そしてドリフとアイドルのからみがあり、日本独自の文化を形成したのではないかと思う。

それは、アンバランスな楽しさがあった。

『全員集合』ではないが、こんな貴重映像がある。


初笑い。桜田淳子.松田聖子.由紀さおり・・・さすがです。



この中で、志村ケンさんが、こんな事を発言する。

『一つのイメージにこだわると、のちのち後悔することになる』

これは、お笑いの一コマなのだが、この考え方は、ナベプロ的発想なのだと思う。

アイドルとは、偶像と訳されるし、怠け者と訳されるかもしれない。

しかし、それは、一つのイメージにこだわることを言うのではないか。

残念ながら多くのアイドルが、一つのイメージのままその芸能生活を終える。
または、生き残りをかけ、極端な形で人間性をむき出しにしていくものもいた。

しかしながら、その中で、アイドルともてはやされることに拘泥せず、上に向かって進んでいく人たちがいた。

真剣に歌い、真剣にお笑いに挑戦し、真剣にお芝居に取り組む。
まさに芸能人だった。

そういう視点で見るとき、『八時だよ 全員集合』は、アイドルから芸能人を多数輩出してきたと言えるのではなかと思う。

最近、こんなニュースが飛び込んできた。

ドリフ「全員集合」スマホで復活!15日から動画配信

この番組は、1970年代を中心とした昭和のアイドルの系譜が見れる。

現在のバラエティの原点と言えるこの番組の歴史は、同時にアイドルの歴史でもあると思う。

この番組は、今に活躍すらアイドルの源流であり、言葉の原義を離れ、芸能人へと向かって行った昭和アイドルを見ることができるだろう。

そして、この番組を時系列に見ることにより、70年代アイドルの中心的存在だった桜田淳子さんの成長過程を辿れるのは、間違いない。

それは、少女から大人へのアイドルの変貌そのものなのだから。

『昭和アイドル』
それはまさに殻を破ったマルチタレントの集まりだったのではないかと思う。


動画のUP主様に感謝します。




時代の悲劇~佐良直美さんそして桜田淳子さん

2013-06-10 02:44:32 | 日記

あれはいつの頃だっただろうか。

紅白に限らず、歌番組に気品がある時代だったように思う。

その中で、NHKの歌番組で記憶にあるのが、佐良直美さんだった。

当時、私の父は、佐良直美さんが歌うときは、目を細め、歌のうまさを褒めていた。

ほとんどニュースしか見ず、歌謡曲とは無縁と思っていた父が、彼女だけは褒めていたことが昨日のことのようだ。

そのためか、歌と言えば、佐良直美さんが真っ先に頭をよぎるようになった。

デビュー曲の『世界は二人のために』での新人賞、1969年の『いいじゃないの幸せならば』でのレコート大賞受賞などは、当然だったが、あまり曲に恵まれたという記憶は無い。

それでも、歌手の中では一番だったと思う。

しかしなんといっても、紅白歌合戦での司会の印象が強い。

1970年前後の紅白の司会といえば、宮田輝さんだったが、70年代の紅組の司会は、水前寺清子さん、そして佐良直美さんだった。

水前寺清子さんが、その歌声とともに、その真っ直ぐな気質なのに対して、佐良さんは、しっかりした現実感を持ちながらも、先を見通せるようなそんな賢さがあったように思う。

共通するのは、実力があることはもちろん、思いやりがある人だったことだ。

そして、ある意味中堅として、旗手であったのかもしれない。

70年代の新人歌手は、彼女により、全国に紹介されていった。

桜田淳子さん、山口百恵さん、岩崎宏美さん、皆んな彼女の曲紹介から始まった。

佐良直美 「オー・シャンゼリゼ」


しかしながら、1980年5月佐良直美さんには突然不幸なことが報道される。

キャッシーさんが、アフタヌーンショーで佐良さんとの同性愛関係を暴露し、マスコミが騒ぎ始める。

2010年11月13日
佐良直美が30年前のレズ騒動を語る


以下が、インタビューの抜粋である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
=芸能界への未練は?
全くありません

と答えている。

そして、
=80年のレズ騒動について こう答えている。
レズ騒動ですか。あれは何が何だか全然わかりません。ビックリするだけでした。
だた、どの社会にも裏表や力関係がある、そういうことなんでしょうね。
しょうがないです。事務所を独立した後でしたし、やっぱり弱い者は強い者にのまれるんでしょうね。

=そして、人気をねたまれたのかとの問いに対しては、
そうじゃなくて、人身御供も必要ということです。一人いけにえに出せばほかは助かるとか、こっちに溶岩を流す口を作れば、こっちの村は助かる・・・。そういうことだと、私は聞きました。

=最初に報じた梨元勝レポーターに対して
当時は頭にきてましたよ、それはね。でもそんなことを引きずって何になりますか。あの方はあれが仕事なんです。お会いしてお話ししたかったですね。でもこういうことを言って、化けてられたら怖いですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

もちろん、これは誤報で、キャッシーさんの謝罪になるのだが、これにより、佐良さんの芸能界への思いは薄らいでいったことは間違いないし、その年以降、紅白歌合戦への出場もない。


上記インタービュー記事のなかで、芸能界の力関係に飲み込まれたというのが、率直な気持ちだったのだろう。


僕は、この記事を読んで、同じ月の、あることを思い出す。

それは、桜田淳子さんの銀座博品館で行われた『私小説ライブ』でのMCだ。
以前こんな記事を書いたことがある。

鮮やかな交代

この中で、80年は、時代の節目だった。として、松田聖子さんへのアイドルとしてのバトンタッチを書いた。

80年は山口百恵さんの結婚引退も含め、80年的表現方法としての世代交代が加速されたと解釈している。


そうした一連の時代の波にのまれたのが、佐良さんの事件だったのだろう。

正直でまじめで、ひときわ芸能界への思いが強い、功労者と言うべき人から、その功績を一瞬で奪い去る報道には正直やるせなさが残る。

そして、こうした犠牲者は、多くを語らず、迷惑がかからないように去って行く潔さを持っている。

佐良さんの功績こそ再評価にふさわしいと思うのだが。


70年代、それは、小さなプロダクションから数々の才能が現れ、プロダクションの垣根を越え活躍した時代だったように思う。

そして、芸能人主導の芸能界であり得た。

それは、ファンの意思でもあり、それを受け止めていたのが、アイドルはもちろん当時の芸能人だった。

僕はそう信じてやまない。


彼ら、彼女らは、ファンとともに同じバスにのり、70年代を突き進んでいった。

80年になると、再び、プロダクション中心の芸能界が頭をもたげてくる。
それは、より華やかであったかもしれないが、バスは、ファンを残して走ってしまったのではないだろうか。


芸能界、芸能プロダクション、所属する芸能人、報道する芸能マスコミ、そしてそれを取り巻く人たち。

佐良さんの記事はそうしてことを思わずにはいられない。

そして、犠牲になるのはごく一部。


十年後再び繰り返される。

1989年松田聖子さんのサンミュージックからの独立、
1991年桜田淳子さんの独立
1992年サンミュジック事務所の大量解雇

しかしながら、相澤会長が、当時、桜田淳子さんの姉から200万円で壺を買った、と公開することが必要だったのだろうか。

以後、桜田淳子さんへのマスコミの霊感商法報道は暴走する。

『泣いて馬謖を斬る』
という古来中国のことわざがある。

経営判断とは、残酷なものだ。
情に流されていては、倒産してしまう。

僕らは経営判断をとやかく言うことはできない。

相澤会長をして、苦渋のそして厳しい経営判断をさせたもの。

そこに、20年間サンミュージックがアイドルを手がけなかった理由があると思う。

事実、桜田淳子さんが、事実上引退した後は、マスコミによる霊感商法などの報道が急速に冷めていく。

それは、『イデオロギーの終焉』という儀式に必要な宴のための生け贄だったのだろうか。


再び、佐良直美さんの言葉は、胸に刺さる。
そして、今もなお愛犬を育て、経営の才覚を発揮されていることに敬意を表する。

追伸 動画のUP主様に感謝いたします。

桜田淳子 最後のピースその2~絆(きずな)

2013-06-03 04:47:39 | 日記
相澤会長のご逝去の報に触れてから初七日が過ぎた。

この1週間は、桜田淳子さんにとって重い1週間になったに違いない。

恩師の棺を前に、『来ましたよ』という一言は、微かではあったけれども、当時聞いた声と変わるものではなかった。

フラッシュの放列を前に、元マネージャーに連れられて進む姿には、長年の歳月を感じられたものの、揺るぎない信念があった。

それは、歌を通して、僕らに語りかけてきた、あの桜田淳子さんだった。

そして、祭壇は、白い花で埋め尽くされていた。
桜田淳子さんがそうであったように、故人も白い花が好きだったのだろうか。

故人の育てたアイドルは、みんな白い服が似合っていた。
むしろ、白い花そのものだったのかもしれない。

花言葉は、風の中のさよなら

風の中のさよなら  桜田淳子


これまで、どうしても私には引っかかるものがあった。
そして、どうしても解けなかった。

桜田淳子さんを現実と結びつけるとき、欠けるもの、それは『絆』だった。
これをジグソーパズルにたとえ、前回、最後のピースと書いた。

これまでも、桜田淳子さんが芸能界と接点を持つとき、必ずと言っていいほど、マスメディアによりその接点はかき消された。
芸能界が一つのムラだとするなら、村八分にも似た現象だった。萬田久子さんとのときもそうだった。

淳子さんが一番嫌なこと、それは信頼する人たちが傷つくことだし、迷惑をかけることだ。
自分自身が傷つくことなどいとわない。
これが、桜田淳子さんだ。
1970年代を共有した者にしかわからない感覚でないことを祈るばかりだが。

恩師のお通夜に参加することに対しては、淳子さんなりに悩んだと思う。
一番心配は、お通夜の場が汚されることことだったと思う。

20年前、最後の作品となる『お引越し』の発表会だっただろうか。
今も活躍される田畑さんのデビュー作となる、この作品の発表会が、作品と関係の無い、レポーターにより、無残に蹴散らされた記憶がある。

共演の人たちに迷惑が及び、何より作品が傷ついたのではないか。
役者にとって、本来、作品は魂だとするなら、このことは語るにあまりある。

よもや、お通夜が修羅場の再現となることはないだろうが、桜田淳子さんにとっては、多くを考えざるを得ないのは、心中察する。

そう思う時、桜田淳子さんの参列はセレモニー的要素が色濃く出ていたとしても、それはやむを得ないことだ。

社長、元マネージャー、太川陽介さん、香坂みゆきさんなど、動員してのものだったかもしれない。『わたしの青い鳥』が会場に流されたタイミングもそうだろう。
偶然と言うには、正直、躊躇う。

しかしながら、セレモニーの場を円滑に取り仕切るのがスタッフの努めだ。
私も、株主総会などを運営してきたが、規模は違えど、円滑に行うにはあらゆる想定をたて、筋書きをねる。

想定外があったのなら、『来ましたよ』という棺のまえでの淳子さんの言葉だったのかもしれない。

淳子さんが、正直な嘘をつけない人であることは、誰しもが知ることだと思う。
僕らはこの言葉の重みを知ることになるのはいつの日のことであろうか。

このお通夜の光景をみて、思うことがある。
髪型、服装、タクシー、出で立ち、すべて、飾らない淳子さんがいた。
それが、彼女の内面の変化がないことをより物語る。

今回の参列、その後のテレビでの報道は、一言で言うなら、人と人との『絆』について感じさせてくれる。

番組では、間違いなくストレートに、相澤会長と桜田淳子さんとの絆という視点で捉えていた。

それは、故人の遺徳であるばかりか、桜田淳子さんが、『お引越し』の記者会見でずたずたにされた、『絆』の回復にあるようにさえ思う。

今後、桜田淳子さんを思い出す人は、間違いなく多くなるだろう。

しかし、桜田淳子さんという個性がそうだったように、同時代を歩んだ者として、いつまでも信じてみたいと思う。そこからしか、答えは得られないと思うから。


追伸
僕は、正直一つの確信めいたものを得ている。
しかしそれは、彼女に対する残酷とも思える過去を思い出させるものであり、今ここで書くことを躊躇する。

今は、故人への哀悼とともに、淳子さんが、多くの作られた噂を超え、恩師と最後の対面を果たしたことに対しての決断に敬意を表するときだと思う。

できれば、封印しておきたい。

動画のUP主様に感謝します。