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「もう戦争はこりごり」家康の生きた戦国から子孫が受け継いだ宝とは

2024年09月03日 10時05分05秒 | 歴史的なできごと


「もう戦争はこりごり」家康の生きた戦国から子孫が受け継いだ宝とは
9/2(月) 7:02配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/3c5dfc5c8d5045c967f963ebf8a4635bb05f4201





左から徳川宗家19代当主の徳川家広さん、MUFG相続研究所長の入江誠さん、MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さん

相続会議
左から徳川宗家19代当主の徳川家広さん、MUFG相続研究所長の入江誠さん、MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さん


2023年1月、江戸幕府初代将軍・徳川家康から連なる徳川宗家の19代当主に就任した徳川家広さん。三菱UFJ信託銀行MUFG相続研究所長の入江誠さんによる、徳川さんへのインタビューを3回にわたってお届けします。初回のテーマは、“家督”や徳川一族に受け継がれてきた理念についてです。三菱UFJ銀行MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さんとともに伺いました。


災禍に見舞われ続けた徳川の家宝を守るには
入江(以下、敬称略):資産管理や資産承継に関する調査・研究などを行うMUFG相続研究所の所長を務めております、入江です。本日は徳川宗家における相続や承継について伺いつつ、現代の日本においてそれらが円滑に行われるためのヒントを頂戴できればと思っています。


松平:同族企業や創業家の永続的な発展への貢献を目指すMUFGファミリービジネス総合研究所で主任研究員をしております、松平です。私からはファミリービジネスや創業家のファミリーガバナンスという観点でお伺いし、それらに対するご示唆をいただけたらと思っています。


入江:いまインタビューの場をお借りしている公益財団法人 徳川記念財団は、徳川宗家の先代の恒孝(つねなり)さんが江戸開府400年目となる2003年4月に設立されました。その設立の目的について教えてください。


徳川:いまは徳川宗家と言い習わしていますが、慶長8年(1603年)に初代家康公が江戸に幕府を開いてから明治維新までは将軍家であり、維新後は公爵の爵位を受けた公爵家でありました。この徳川宗家(将軍家・公爵家)に伝わる歴史的・美術的価値のある史料や文化財を後世へ継承し、学術研究や社会教育の発展に寄与することが徳川記念財団の役割です。


最後の征夷大将軍・15代慶喜公の大政奉還後に徳川宗家として跡を継いだ16代家達(いえさと)は、明治維新後に駿府に移り住みますが、版籍奉還で江戸改め東京に呼び戻されます。このとき、家康公が最初に祀られた久能山東照宮(静岡市駿河区)に、江戸城から持ってきた家宝の半分ほどを寄贈しており、ここは戦災に遭わずに済んだため素晴らしい宝物館(現・久能山東照宮博物館)として残りました。


残り半分の家宝は、現在の東京体育館がある千駄ヶ谷(東京都渋谷区)の屋敷で保管していたものの、1920年代に放火に遭い、その半分ほどが消失してしまいます。さらに第2次世界大戦中は、疎開先の立川や八王子で空襲に遭います。そのようにして最後に残ったものを、父が17代家正から引き継ぎました。


政変、放火、空襲などでどんどん減ってきたとはいえ、2万数千点の文化財があります。今後は散逸することがあってはならない、という思いで徳川記念財団を設立したと聞いています。父は日本郵船の副社長を務める傍らで財団設立の準備を進め、無事に江戸幕府開府400年に合わせて設立することがかないました。


入江:財団の活動もそうですが、家広さんご自身、江戸時代の制度などの最新研究やSNSでの情報発信もされています。私も相続のあり方という点で、明治に入って法律によって画一的な制度となったものの、実はその前の江戸時代については地域性も認められるなど多様性が許容されていた時代だったのではないかと考え、関心を持っているのですが、明治以降との比較を含め、江戸時代とはどのような時代だったとお考えでしょうか。


徳川:日本史研究は時代ごとに分かれることが通例です。江戸時代は近世ですが、家康公はその人生の多くが戦国時代、つまり中世です。さらに明治維新後、16代家達と17代家正は貴族院議長を務めていたこともあり、その時代の記録の研究・公開も重要になってきます。日本史の研究の感受性からすると非常に珍しい、戦国時代から日本国憲法が発布される現代までをカバーする財団法人となりました。





185年ぶりの生前交代で徳川宗家当主に
入江:2023年1月29日には、父・恒孝さんから“家督”を継いだことに伴う「継宗(けいそう)の儀」が徳川家の霊廟がある増上寺(東京都港区)で執り行われました。祝儀(祝いの儀式)としては11代家斉公から12代家慶公への生前交代以来185年ぶりとのことですが、どのような儀式だったのでしょうか?


徳川:「継宗の儀」の目的は、関係する皆様方へのお披露目とご挨拶ということが一つあります。現在の法律上、「当主」も「家督」というものも存在しません。ただ、オーナー社長さんのお家や、代々政治家をなさっているお家もそうだと思いますが、慣習として「家督」のようなものは存在しています。家が半ば法人化しているということですね。私どももその一つでございました。


旧華族の当主らは「霞会館」という一般社団法人の会員になっていますが、そこでの催しにはやはり“家”の人間として参ります。徳川記念財団の運営にも関わっていますと、徳川の家を代表する人間であるという風にはっきりしたほうがよいのでしょう。


同時にご先祖様への報告も必要なことです。これは、うちが特別な家だからということではなく、誰もがご先祖様が累々と重なってきて今日に至っているわけですし、日本人の宗教感性からしても普通のことだと思います。


ただ、うちは地縁が全国各地に散らばっているのと、ゆかりのある社寺の宗派も様々です。そこで2022年11月から、日光東照宮(栃木県日光市)、寛永寺(東京都台東区)、久能山東照宮、大樹寺(愛知県岡崎市)、増上寺、輪王寺(栃木県日光市)といった徳川家ゆかりの6カ所をご挨拶して回り、先祖に当主の交代を報告する神事・法要を行いました。


入江:先代の恒孝さんとは、2015年の家康公没後400年の祭事にご一緒に出席されたあたりから、継承について考え始められたそうですね。お二人の間でどのようなお話をされたのでしょうか。


徳川:大げさな話ではなく、「そろそろ当主を僕が引き継ごうか」と言ったら「もうお前だと思っていたよ」という程度の話です。いまの民法下での前例もないわけですから「自分で考えてやりなさい」と、信頼しつつ突き放したような感じでしたね(笑)。




平和への転換点を作り出してきた先祖たち
入江:さきほど神事・法要というお話がありましたが、祭祀と言えばいまの日本の民法上、分割または共同相続が基本となっているなかで、祭祀や墳墓だけは慣習に従って祭祀主宰者が引き継いでいくことが原則になっています。日本人にとっては重要な意味を持っており、徳川宗家においても歴代将軍やご当主、御台所のご命日の法事をはじめとして、代々のご当主が継承されているかと思います。


松平:祭祀の他にも、初代家康公より受け継がれているものとしてはどのようなものがあるのでしょう。例えば、初代家康公から続く徳川宗家の一貫した理念などはあるのでしょうか?


徳川:よく「(家康公の)直系の子孫ですか」と聞かれますが、うちは養子でつないできました。会津松平家の一門に生まれた父も、中学2年生の13、14歳ごろに徳川家へ養子に入りました。


そうすると様々な考え方の人がいそうなのですが、驚くほど一貫して「もう戦争はもうこりごりだ」という家康公の思いはずっと受け継いできています。


最後の将軍である慶喜公も、内戦を避けるために職を辞しました。王政復古のクーデターで抵抗しなかったのは、これが元で大戦争になり、一歩間違えれば外国の植民地となってしまうといった皆の心配を受けてのことだったのではないかと思っています。


16代家達は、大正3年(1914年)に内閣組閣の大命を受けますが、熟考の末に辞退しています。天皇陛下の命令ですから軽々と断ってはいけないものなのですが、病気などのやむを得ない理由でもないにもかかわらず、辞退したというのは大きな判断をしたと思っています。もし、そのときに内閣総理大臣になっていたら、第1次世界大戦の宣戦布告をすることになっていたでしょう。


その代わりに、軍縮問題を討議したワシントン会議(1921~22年)では、全権委員の1人として参加しています。17代家正は最後の貴族院議長として、帝国議会で日本国憲法を成立させました。日本国憲法施行を控え、最後となった帝国議会の貴族院本会議では、世界恒久平和の確保に向けて努力する国になってほしいという思いとともに、演説 しています。


江戸幕府の開府に始まり約260年もの間戦争がなかった時代と、戦後の平和憲法の下での約80年間を経て、家康公が薨去(こうきょ)する間際に「こういう日本であってほしい」と願っていた社会にだいぶ近づいてきていると思うわけです。


松平:江戸時代あるいは徳川将軍家・宗家代々の当主の考え方といったものは、いまの日本社会のどのようなところに影響を及ぼしていると感じていますか。


徳川:私はいま、「東京の観光振興を考える有識者会議」の委員の1人として、東京の観光資源として江戸のレガシーを生かす取り組みに携わっています。増上寺の三解脱門(さんげだつもん)や上野東照宮ももちろん見どころなのですが、外国人観光客が東京に来てまず驚くのは、渋谷のスクランブル交差点で人がぶつからないでちゃんと見事にすり抜けていくことや、新宿ゴールデン街の狭い区画の中でも殴り合いにもならずにみんな仲良くお酒を飲んでいるようなことなのです。


江戸時代も、最初のうちは日本中から若い男性が主に土木工事で集まってきて、相当荒っぽかったのですよね。それを「限られた狭い空間で、仲良く暮らしましょう」という風に長い時間をかけて、新しい文化を作っていった。こうした江戸時代に生まれた文化や慣習の名残が、今日まで残っているわけです。


また、徳川幕府は儒教がイデオロギーだったとよく言われますが、実際は仏教で、家康公は敬虔な仏教徒でした。寺請(てらうけ)制度で戸籍を寺に管理させたり、民間の教育を寺子屋に任せたりしていたことからも、そうした意思はかなり強く感じられます。


結果として、江戸時代以前と以後では日本語のボキャブラリーも大きく変化し、私たちがいま使っている言葉にも仏教由来の言葉が多くありますよね。世間や人間のあり方が大きく変わったというのも、江戸時代の遺産かと思います。


●徳川家広さんのプロフィール
とくがわ・いえひろ/作家・翻訳家。1965年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得。国連食糧農業機関FAOローマ本部とハノイ支部で勤務後、米コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得。2000年末に帰国後は政治経済評論家としても活動。著書に『自分を守る経済学』(ちくま新書)、『マルクスを読みなおす』(筑摩選書)ほか訳書多数。2021年6月から公益財団法人徳川記念財団理事長。2023年1月、徳川宗家19代当主に。


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