アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

♪「花の首飾り」…in バギオ

2009-08-14 19:41:45 | フィリピン-バギオ

(バギオの聖地Lourdes Grottoで買ったイエスと聖母マリアの像に…「花の首飾り」。)

 今日は、近くを散歩していてこんな花(上の写真)を見つけました。まるで作り物のような美しいソテツ(蘇鉄)の「雌花」です。
 
 
ソテツは雌雄異株の植物で、それぞれ特徴的な花をつけます。雌花は大胞子葉と呼ばれ、幅が広く胚珠を付けた葉が多数集まったものです。雄花は、雌花とは対照的に長く…↓
 
(手前が雄花、奥が雌花です。-ネットより)
♪古い奴だとお思いでしょうが…「ソテツ」と言えば、『長崎の女(ひと)』!?-1963-(春日八郎さん)
1♪恋の涙か 蘇鉄(ソテツ)の花が 風にこぼれる 石畳
  噂にすがり ただ一人 尋ねあぐんだ 港町
  ああ 長崎の 長崎の女(ひと)
3 夢をまさぐる オランダ坂に しのび泣くよな 夜が来る
  忘れることが 幸せと 遠く囁く 鐘の音

 写真のソテツの上には「Sampaguite St.」という表示が見えます。フィリピンでは、住宅地でよく通り(St.-street)に花の名前が付けられることがありますが、ここも「サンパギータ通り」ですね。
「サンパギータ」は、ジャスミン科の、香りの強い可憐な白い花で、フィリピンの国花です。教会で、子供たちがその首飾りを売る姿をよく見かけます。お祈りの際、神様に捧げられる「サンパギータの首飾り」です。↓
 

 http://www.youtube.com/watch?v=6hgrorU4jU4
(♪おお愛のしるし…1968-ザ・タイガース「花の首飾り」)

 http://www.youtube.com/watch?v=6oH_0fgal3g&feature=fvw
(♪井上陽水さんの…「花の首飾り」!)

 
(ダバオで植えたサンパギータの苗木が、初めて花を咲かせた時に。in 2004
…南国では、植物の成長の早さには驚かされます。このサンパギータも、今ではもうすっかり成長したことでしょう。
 そういえば、以前ミンダナオ島ダバオ市のカリナンという郊外でこんな珍しい花と実を見つけました。
 
(現地の人は「パイナップル・フラワー」と呼んでいましたが…。)
 
(現地の人は「ミッキーマウス」と呼んでいましたが…。)

 南国フィリピンでは、こういう見たこともない不思議な花や果実etc.がたくさん見られます。
 
やっぱり自然によって作られた美が一番美しいですね。

 明日は終戦の日…。私は、戦争で命を落とされた方々の追悼碑がある、バギオ市内の日本庭園へお墓参りに行ってきます。


新人フィリピン人介護者のトレーニング(O.J.T.)

2009-08-13 16:17:18 | フィリピン-バギオ

 先月末に、私のケアに一年間関わってくれたジェンさんが、サウジアラビアの病院で働くために、マニラに移りました。現在、エージェンシーで就労ビザの申請中です。
 その交代要員にと、先月半ばから半月ほど試用期間として介護の見習いをしていたアンさんは、看護試験にパスした後、やはりご両親の希望で看護の修士課程に進むことになりました。彼女の場合は海外へは出ず、フィリピンで看護学校での先生の道を目指すそうです。彼女は、覚えもよく、介護に関しても勘はよかったのですが、残念です。
 その返事をもらった後、アンさんの知り合い(友達の友達)の二人の応募者の面接をしました。二人とも看護課程卒ですが、前回(6月)の看護師国家試験を含めてまだパスしていません。一人は、12月の今年二度目の試験を再受験するのに、この9月から「リビュー・センター・Review Center(予備校のような学校)」で復習しながら準備を始めるそうなのでお断りしました。そして、もう一人の応募者のトレーニングを今月から始めました。
 フィリピンでは、O.J.T.(On the Job Training)という仕事の見習い期間として一か月間ほどの試用期間を設けるのが普通です。その間に、特に問題がなければ雇用条件を提示して契約を結びます。面接時には把握できなかった様々な面(問題点)がその期間中に出てきたり、なかなか仕事の内容を把握できなかったりした場合には、途中でO.J.T.を中断することもあります。
 私の場合は、以前も書いたことがありますが、まず相手が信頼できるかどうかを見ます。そして、ケアがある程度できるかどうか、お互いがある程度心地よく過ごすことができるかetc.を大切にしています。これらは、これまでの10年間にいろいろなフィリピン人に会ってきて、日本では考えられないような出来事に遭遇することが何度もあり、今は、それらの経験に基づいて判断するようにしています。
 
また、「最低6か月間は関わることができる…。」と言われても、1~2か月後の慣れた頃に辞められることもあります。そのほとんどは看護課程卒の人たちです。そうなると、また一からやり直しです。人を探して(マニラでは新聞広告によることが多かった)面接、試用期間…と、介護の練習を初めから提供しなければなりません。
 
マニラにいた頃は、新聞広告による応募者は、ケア・ギヴァー課程(Caregiver course・6か月間)を終えたケア・ギヴァー(介護士)の応募者もあるにはありましたが、ほとんどが看護課程卒で未資格の人たちでした。現政権の国家プロジェクトとして、数年前から大々的に始められたケア・ギヴァー養成プロジェクトですが、その課程を選んだり再履修したりする人のほとんどは「ケア・ギヴァーとして海外へ出る」ことを目的としていて、フィリピン国内のケア・ギヴァーとしての仕事にはあまり関心を払いません。
 
というような事情もあり、まずはどうやって人を探すか、そしてどうやって仕事を覚えてもらうか、ということにも苦労しますが、一番神経を使うのは、どうやってお互いの信頼関係を築いていくか、といった点だと思います。
 
今は、一年半以上、マリアさんが専従介護者として関わってくれていますが、ジェンさんの抜けた後の介護者を一人確保するのに、ここ一か月ほど神経を使っています。

<カバーの写真> 2006年ミンダナオ島ダバオ市にて(ベッドから車いすへリフトを使って移乗)。
 
介護者は、一年半専従介護者として関わってくれたマリセル(Cecil)さんです。彼女は、ダバオのケア・ギヴァー課程やミンダナオ国際大学からの実習生や、新人のトレーニングに携わった回数が一番多かった専従介護者だったでしょう。(彼女は、メディカルの課程を出ていませんでしたが…。)
 
現在は、結婚し、スウェーデンで幸せに暮らしています。

  昨日今日と無線モデムのシグナルが大変弱く、以前の状態に戻ってしまいました。台風の強風で、近くの携帯電話会社のサテライトもダメージを被ったのかもしれません。


台風(8号)のダメージが…。

2009-08-12 20:25:51 | フィリピン-バギオ

  フィリピンや台湾をはじめの各地で大きな被害、つめ跡を残した、大型で猛烈な台風8号…。ここグリーン・バレーでは、その台風8号(フィリピン名Kiko)の影響で、一昨日までまだ強風が吹いていました。先週月曜日から一週間以上、その「ブオォーーン」という強い風の音で、よく朝早くに目が覚めたものです。
 そ
の一週間の間に、何度か停電になったのですが、三日前にはうかつにもやや傷んでいた牛肉でおなかをこわしてしまいました。冷凍してあった、こちらでは貴重なすき焼き用牛肉と玉ねぎ…を炒めて、日本の焼き肉のたれで味付け…。ところが口に入れた瞬間に違和感が…。長時間の停電で薄めのすき焼き肉が傷んでいたようです。私は、ベッドの上で、先にいただいたので介護者は無事でした(ヤレヤレ…)。思わぬところに台風による落とし穴がありました。

 
昨日のお昼過ぎ、体調が良くなり、晴れ間に外を少し散歩してきました。すると、やはり強風で倒れた松の木(上の写真・老木)や、壊れてしまった家も見られました。↓

 

 
お隣のサント・トーマス山も、地すべりのため地肌がむき出しになった場所も見られました。しかし、頂上に大きなサテライトが二つあるサント・トーマス山、さすがにもう道路の復旧工事が行われている様子を遠くからでも伺うことができました。↓(ススキは一年中見られるようです。)

 
 
この写真ではどんよりとした雲がかかっていますが、この後いきなり雲の切れ間から強い日差しを受け、小一時間後に家に帰って来た時は日焼けで顔が真っ赤になってしまいました。(今はヒリヒリと痛い…。)二人の介護者は傘を持っていて大丈夫でした。

 
…採ってきたワラビを手に「これを食べるの?」とけげんな表情の新人さん(見習い中)。

 また、今日は用事があり朝から外出する予定でしたが、車の調子が悪く、キャンセルしました。エンジンはかかるものの、その後すぐに止まってしまい…。車(96年型)はよくトラブることはあるのですが、こういうケースは初めてでした。修理をお願いしなければ…。車(バン・ワゴン車)の室内の屋根も、カビですごいことになっていました…。

 この台風8号で、フィリピンでも数十名の死傷者(死者・行方不明者26名)が出てしまいました。バギオ市周辺でも地すべりや強風により、家屋倒壊、道路封鎖等の被害が出た模様です。ルソン島中部のピナツボ火山に登山中のフランス人旅行者一行も犠牲になりました。

 日本では、台風9号による被害に加えて、昨日は駿河湾を震源とする大きな地震が…。被災地の一日も早い復旧をお祈りします。

   先日の記事で「オー、モーレツ」という台風への表現は不適切でした。反省しています。


長崎の鐘が…。(小澤征爾さんの『復活』コンサートの思い出-浦上天主堂)

2009-08-09 16:38:19 | 音楽

 今日は、6日の広島市に続いて、長崎市の平和公園で「長崎平和祈念式典-Nagasaki Peace Ceremony」が行われました。長崎でも、犠牲者への変わらぬ祈りとともに、例年にも増して核兵器廃絶に向けての力強い誓いに胸を打たれました。原爆が投下された時刻11時2分の黙とうの間、ずっと打ち鳴らされた「長崎の鐘」も重く響いてきました。
 
田上長崎市長も「平和宣言」の中で、核保有5か国に核拡散防止条約(NPT)の核軍縮の責務を果たすよう要請、「核兵器禁止条約」の批准を求めました。そして、オバマ大統領の「核兵器のない世界を!」という「プラハ演説」への支持を世界に呼びかけ、核保有国の指導者を名指しで「被爆地、長崎へ来てください!」と訴えました。 
 そして「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」という「平和祈念像」の大きな折鶴の下での高校生による「千羽鶴」という歌が…。「平和への祈りは深く紫の鶴を折る 平和への願いを込めて緑なる鶴を折る 未来への希望と夢を桃色の鶴に折る 虹色の鶴に折る」…素晴らしい合唱でした。

 

 写真は、爆心地に近かったために原形をとどめないほど破壊された当時の浦上天主堂-Urakami Cathedral。今は再建された美しい姿でたたずんでいます(カバーの写真)が、館内には焼けただれた痛々しい聖母マリア像など、残骸の中から発見された遺品が展示され、当時の原爆被害の悲惨さを今に伝えています。↓

  

 「長崎」にちなんだ歌は多いですね。…私の頭にすぐに流れてきたメロディは「長崎の鐘」(1949-サトウハチロウ作詞・古関裕而作曲・藤山一郎唄)でした。「♪なぐさめ 励まし 長崎の ああ、長崎の 鐘が鳴る」…あの秋川雅史さんも歌っていますね。
「精霊流し」(1974-さだまさし作詞/作曲/唄)は、やはり長崎市出身のさださんならでは…。
去年の あなたの 想い出がテープ レコーダから こぼれています
 あなたの ために お友達も 集まって くれました
 二人で こさえた おそろいの 浴衣も 今夜は 一人で 着ます
 せんこう花火が 見えますか 空の上から 約束通りに
 あなたの 愛した レコードも 一緒に 流しましょう
 そして あなたの 舟の あとを ついて いきましょう
 私の 小さな 弟が 何にも 知らずに はしゃぎ廻って
 精霊 流しが 華やかに 始まるのです。

 

「長崎」で、私が思い出すのは、1995年6月14日、小澤征爾さんが浦上天主堂の大聖堂で指揮された「平和への復活コンサート」です。(NHK・BS2で観ました。)
 新日本フィルに、アメリカのボストン交響楽団、シカゴ交響楽団からの友情出演者を加えたオーケストラ、地元長崎で選抜された合唱団に東京のプロ合唱団等という大編成で、G.マーラーの交響曲第2番『復活』(Gustav Mahler-Symphony No.2” Resurrection)が演奏されました。
 
第4楽章のフローレンス・クイヴァー(メゾ・ソプラノ)のソロも圧巻でした。ソプラノのキャスリーン・バトルは、第5楽章の後、感激のあまり目に涙を…。このマーラーの交響曲第2番『復活』は、学生の頃から私の大好きな楽曲の一つです。

グスタフ・マーラー 交響曲第2番 復活』 小澤征爾 ナガサキ平和コンサート on Jun.14, 1995 浦上天主堂

(2011年8月追加)


 http://www.youtube.com/watch?v=rECVyN5D60I&feature=related
(レナード・バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団)

 http://www.youtube.com/watch?v=_dlpPzM6OC4
(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団-歌詞の日本語・英語訳付)

 
それに先立ち、J..バッハの『G線上のアリア』が演奏されたのですが、演奏前に小澤征爾さんが客席に向かって、「長崎の原爆犠牲者への鎮魂の祈りとともに、その年の1月の阪神・淡路大震災の犠牲者や被災者への祈りを込めて復興を願いましょう。」と言われ、「演奏後、どうか拍手の代わりに祈りを…。」と呼びかけられたのです。指揮棒なしに、静かに下ろされた両手にオーケストラが応えるように厳かな空気の中にバイオリンの音色が柔らかに響き…。演奏後は、拍手のない静寂の中、祈りに包まれた大聖堂の中心で、小澤さんも両手を重ねて祈られること三十秒余り…。さすが「世界の小澤」さんです!
 
この時の『復活』の演奏は、その年に福井の重度障がい者療護施設を出るのに(退所するのに)、ドーンと私の背中を押してくれました。そして約1か月後に、一人で東京の多摩市へ出たのでした…。
 
ちなみに小澤征爾さんのお誕生日は、「バギオ市が誕生した日」と同じ「9月1日」です。私は、金沢で31年前に(ボストン響・ブラームス3番)、多摩市で14年前に(新日本フィル・ベ-トーベン7番)と二度お会いし、握手とサインをいただいています(大ファン)。


オー!モーレツ!タイフーン「キーコ・Kiko」(台風8号)

2009-08-08 14:02:18 | フィリピン-バギオ

 バギオでは、台風8号(フィリピン名「キーコ・Kiko」)の余波がまだ猛威を振るっています。今朝も、朝早く強烈な風の音で目が覚めました。ここグリーン・バレーは、バギオ市中心部からも標高にして2~300mは高い丘の上で、直接強風の影響を受けるようです。
<写真> 家の前の公園…朝10時頃撮影。でも薄暗い…。
 
ここでは、一昨日の夜停電となり、昨日の日中3時間ほど電気が戻ったもののお昼過ぎにまた停電、夕方復旧されたものの、約1時間後にまた停電…「アヘアヘアヘアヘ^^;」(間寛平)。昨夜もそのまま寝て、今朝起きたら電気は戻っていました。「ここね、よう~停電になりまんにゃわー^^;」(井上竜夫)
 
今朝は、ここぞとばかりに、すぐ電動車いすと移乗用リフトを充電、携帯電話や電気カミソリも充電しました。しかし、私にとって「停電」で最も怖いのは、ベッドに敷いてある日本製エア・マットの空気が抜けてしまうことです。エア・マットは、もちろん床ずれ予防のために必要なのですが、停電になるとアウトです。その際は、それなりの対策、手は打ちますが、やはりエア・マットがベストです。
 
ケーブル・テレビは、一昨日の夜から断絶され、今(午後2時)も復旧されていません。こういう時に無線モデムは力を発揮、インターネットで台風情報や日本のニュースをチェック…。すると、何と台風8号は台湾の北部に上陸してるじゃあーりませんか^^;;!?(チャーリー浜)
 
こんなに遠くに位置している台風の影響が…!?日本気象庁の台風情報では、風速15m以上の強風域がフィリピンルソン島北にちょっとかかっている程度。ここバギオはその位置からはるかに南です。
 
このブログ内の8月4日の記事で「昨日、今日と強い風が…」と書きましたから、実に3日(月)から一週間、ずっとこういう状態だということになります。今回も、時折強い雨も降りますが、特に、いつもの「ブォーン」「ゴォーン」といった不気味な音を立てて、大変強い風が吹き荒れています。↓

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/d/20090804 (8月4日の記事)

 
一昨日6日には、台風一過で晴れるだろうという甘い見通しで、前日運転手に連絡し、SMバギオへ出かけてきました。朝、まだ強い雨風だったのですぐにキャンセルの連絡を入れたにもかかわらず、律義な彼は「もう近くまで来ているから…。」ということで強行外出したのでした。外へ出た瞬間に、私の重い電動車いすが風にあおられフワッと前輪が浮きました。
 
そんな悪天候の中でも、SMバギオは(また平日にもかかわらず)たくさんの買い物客でにぎわっていました。
 
実は数日前に上の前歯に不具合が発生(+_+;)。以前SM内で見かけたデンタル・クリニック(歯科)へ直行しました。ところが、私の電動車いすでは、奥行きのあるそのクリニックの診察室まで入ることができず、教えてもらった2階のもう一つの歯科クリニックへ…。行こうとしてエレベーターの方に向かうと、何とエレベーターがストップしていて一時休止状態!
 
以前も書きましたが、ここはフィリピン最大の店舗数(国内で34店舗)を誇るショッピング・モール大手「SM-Shoe Mart」の中で唯一エアコンが必要ない店舗で、3階の屋根はテント張り、各階のオープン・スペースも直接外に通じています。↓

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/d/20090527 (5月27日の記事)

 屋根であるテントのすき間から吹き込んだ雨と、オープン・スペースにフアーッと入り込んでくる霧(雲?)とで「バサッ・Basa!」で(濡れて)動かせない、と言います。確かに、エレベーターも周辺もびしょ濡れです。「♪しょーがなーい…」と諦めかけたところへハンサムな男性が「何階へ行くのですか?」と声をかけてきて、荷物用(業務用)エレベーターへと案内してくれたのでした。
 
そして2階の歯科クリニックへ。3つ?ある診察室の一つに入ることができ、さっそく治療を…。これがまたスラーッと伸びた足(Gパン)に、マスクの上からのぞく目がきれいな女性デンティスト・Dentist!「歯垢がたまっていますからクリーニングもしましょうか?」と言われ「お願いします…。」と即答。そういえば、歯医者さんは、ダバオで一度かかって以来数年ぶりです。フィリピンの歯科クリニックにかかったのは、その時と今回の二度だけですが、今回も前回同様ちょこちょこっと簡単にすませてくれ、再診の必要がなく助かりました。ちなみに、患者さんはほかに一人、でした。「あー、ヤレヤレ。」…前歯の治療費とクリーニング代(約千2百円)、計約2千円を支払い、その目のきれいなデンティストとしばらくお話を…。
 
彼女は昨年末の国家試験にパスし、歯科医として働き始めて間もない、ということでした。でも、同級生の中にも、看護師やケアギヴァー(介護士)の課程に転向したり再履修したりする人もいたそうです。歯科医の免許を持っていても、欧米では歯科クリニックの「アシスタント」としてでしか働けないのだそうです。フィリピンの医師が、欧米では准看護士としてでしか採用されないのと事情は同じです。
 
さて、荷物用エレベーターで1階に下りてほっと、紙コップのブレンドコーヒーを…。同行してくれた介護者のマリアさんが買い物に行っている間、一人でぼんやり待っていると、車いすのドイツ人が話しかけてきました。彼は60歳代男性で、頸損(頸髄損傷)歴45年だそうです。損傷部位は私よりも低く、両腕を使って普通の手押し車いすをこげます。これまでに二度ほどSM内で会ったことはありますが、軽く挨拶を交わすものの、彼は多くを語ろうとはしません。「今日は少しゆっくり話せそう…。」と思っていたら、いきなりモーレツな音響が…。1階のステージで、バギオ市内の某大学の開校記念日のイベントが始まったのでした。「もうダメだ…。」大声で叫ぼうが、お互いの声がかき消されます。そのドイツ人もあきれ顔で「ダメだね…。じゃあね。また…。」と、足早に立ち去って行きました。私自身は、彼ともっと話をしてみたいのですが…。(残念!)
 
スーパーに寄り、雨季でちょっと値段が上がった野菜等を買い込んでグリーン・バレーに戻ると、また「ブォーン」という強い風が吹いていました。そして停電が始まった…。

「♪思えば遠くへ来たもんだぁー」…私の51年余りの人生の中で初めて経験する「クール・サマー」です。(エッ!?今日から夏の甲子園?^^;)

※タイトルの「オー、モーレツ!」は70年頃の石油会社のCMで小川ローザのスカートが風にあおられ「オー、モーレツ!」…死語ですね(^^;)。小学生だった私はドキドキしながら見てました。
おっ!今日の無線モデム、時々「1MBps」にも!シグナルもモーレツ!?


アクセス数「50000」突破お礼!

2009-08-07 18:33:38 | フィリピン-バギオ

 8月5日に、このブログへのアクセス数が「50000」を突破しました!お礼申し上げます。
 
昨年11月1日に開設したこのブログ「アイ!サラマッポ in バギオ」…277日目で一応の目標としていた数字に到達しました。
 
これまでのアクセスランキング最高位は「2009.07.25()  6717  / 1265428ブログ中」でした。↓

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/3fe1cf39be4d74194805ca7e01779456
(7月25日の記事)

 海外にいると、どうしても日本語そのものや日本の情報にも疎く(うとく)なりがちです。自分のアンテナを広げて情報を集め、それに対して自分なりの考えを書き、日本の人と多少なりとも共感し合える、共有できる部分があれば、と思ってブログの記事を書いてきました。
 
もちろん、フィリピン、バギオの様子や、フィリピンでの(いわゆる障がい者の)自立生活についてもできる範囲で紹介したい、という思いもありました。
 
特に、今年市制100周年を迎えたバギオ市のこと、今年初めて日本からの受け入れが始まった「フィリピン人看護師と介護福祉士候補者」の動向についても、現地からの情報を発信したいと思いました。
 
また、家族や友人等に、自分が元気でいること、自分のフィリピンでの生活の様子をお知らせすることで、少しでも安心してほしい、という願いもありました。

 
ブログへの訪問者数、アクセス数が少しずつ増えてきたのも励みでした。読んでいただいている方に感謝します。「Salamat po!
 
さて、次の目標の一つは、9月1日の「バギオ市制100年の記念日・100th Anniversary of The Baguio Day」に、ブログ内のカテゴリー「バギオ」」の記事で「100号に到達」することです。
 今後ともよろしくお願いいたします。(編集人-Isshin

  ここ3日間停電続きで、この記事も一日アップが遅れました。(8日午前10時半、バギオにて)


ヒロシマの歌-「核兵器のない世界」への予感。

2009-08-06 20:08:15 | 音楽

 広島市の平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)が、平和記念公園-ヒロシマ・ピース・メモリアル・パーク(Hiroshima Peace Memorial Park)で、各国の大使や総領事を含め、59か国から約5万人の参列者が見守る中、しめやかに行われました。
 
オバマ米大統領の「プラハ演説」以来、核兵器廃絶の世界が現実味を帯びてきた中、秋葉広島市長も「平和宣言」の中でそれを支持、「オバマ・ジョリティ」と呼んだ核廃絶を願う多数派市民の力を結集し、2020年までの核廃絶に向けて「Yes, we can!」と締めくくられました。
 
その後の「子ども代表」(小6男女二人)の力強いまっすぐなスピーチには、毎年感銘を受けます。
 
また、「ヒロシマこそ、核廃絶に向けて、核保有国が集まって会議を開催する最適の場所だ。」との国連総会のデスコト議長(ニカラグア・カトリック司祭)の言葉にも、広島への期待感が表れていました。
 ロシアのオレグ駐日総領事も「ロシアと米国が率先して努力しない限り、核兵器のない世界は実現しないと改めて感じた。」と言ったそうです。
 それにしても、今年は麻生首相でしたが、この4年間、毎年違う首相が挨拶を…、と改めて思いました。このような国のリーダーがコロコロ交代する国は、世界広しといえども日本だけでしょう。
 
64年前、広島に投下された一発の原子爆弾…。この一年間に亡くなったり死亡が確認されたりした人5635人を含めて、実に26万3945人の犠牲者の名簿が慰霊碑に奉納されています。(バギオ市の人口に相当する数です。)

 
1994年にノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんは、『ヒロシマ・ノート』をはじめ、広島、戦争にまつわる多くの小説やエッセイを書いています。
 
長男の光さんが障害を持って生まれた1963年、原爆被災地広島を訪れ、「人間はいかにして絶望から再生へと向かい、いかにして救済されるのか。」という、大江文学の方向性、人生そのものへの見方が変わった、と言われています。
「広島に滞在し、脳に異常がある息子の手術をしていただくか否かを判断することに迫られていた上に、原爆禁止の政治的混乱に疲れきっており、その時、まだ子供は病院のガラス箱の中で生きていたにもかかわらず、灯篭流しの灯篭に息子の名前を書いた。その上、やっと思い出したのだが、自分の名前ももう一つの灯篭に書いていた。息子と自分とが、生命の側にいるというよりは、死んだ人間の側にいる。すなわち、心的感覚麻痺(サイキック・ナミンク)に陥っていた。」と説明されています。

 http://www.youtube.com/watch?v=WSOs_Q5nWUQ

(吉田拓郎「いつも見ていたヒロシマ」)

 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND77082/index.html
(「いつも見ていたヒロシマ」岡本おさみ作詞/吉田拓郎作曲・唄)

…これは、広島出身の拓郎さんにしか歌えない曲ですね。

 http://www.youtube.com/watch?v=Wse3ydP7tWs&feature=related
(64年前のヒロシマ・ナガサキ-目を覆わんばかりの写真あり。)

…長崎出身のさだまさしさんは、87年からずっと毎年8月6日に長崎市で平和祈念コンサートを続けてきました。一昨年8月9日、広島で初めて平和祈念コンサートを開きました。

 


(「広島の空」さだまさし作詞・作曲)

 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND63354/index.html

 

 http://www.youtube.com/watch?v=SZt1rzLGepM
(「ゲンシバクダンの歌」小室等と六文銭 in 1970@中津川フォークジャンボリー)

※昨夜からの停電により、記事のアップが一日遅れました。おっと、また停電だ!(7日午後6時バギオにて)


マニラ大聖堂でアキノ元大統領追悼ミサが…。(国葬)

2009-08-05 19:03:58 | フィリピン-バギオ

SALAMAT, PRESIDENT CORY - A PEOPLE’S FAREWELL
 今朝は、9時頃からマニラ、イントラムロスのマニラ大聖堂-Manila Cathedralで「コリー・アキノ元大統領追悼ミサ-Huling misa para kay pangulong Cory Aquino」という儀式がしめやかに行われました。
(一昨日の大統領令で今日は休日になりました。)
 シンボル・カラーの黄色を基調とした花々(菊やバラ、ユリ、ひまわり)に囲まれた棺が祭壇の手前中央に置かれ、ミサが始まりました。
 
26年前、夫のベニグノ・アキノ氏が、亡命先のニューヨークからマニラ国際空港に到着し、タラップを降りた瞬間に銃で暗殺された時も、死を悼んだ多くの国民(約2百万人)が沿道に詰めかけたそうですが、ほとんどのマスコミはマルコスの反感をかうことを恐れて中継しなかったのです。
 
今回のコリー氏の国葬にあたっては、フィリピンのほとんどのテレビ局が生中継で、丸一日その模様を伝えていました。
 
マニラ大聖堂でのミサの最後、親族一同を代表してあいさつをしたのは、長男の上院議員ベニグノ・アキノ3世氏ではなく、末娘のクリス・アキノさんでした。そして、お兄さんのベニグノ氏に「私とあなたとで両親の後を受け継いで…。」と呼びかけ、近い将来政界へデビューをもにおわせる様な場面もありました。クリスさんの息子で、おばあちゃん似のジェームスくんのあどけない表情が人々の涙を誘っていました。
 
G線上のアリア(バッハ)が流れる中、大きな拍手で送られ、カテドラルの外に出ると、雨の中最後のお別れに集まった多くの人々に迎えられた後、ロハス大通りをゆっくりと進んで、夫の眠るパラニャーケ市のマニラ・メモリアル・パークへ(現在夜7時、すごい民衆が見守るなかようやく到着です)。そして、1983年8月21日、飛行機から降りる時に「必ず何かが起きるから、カメラを回し続けておいてくれ。」という言葉を最後に暗殺された夫の横に埋葬されます。フィリピンの国会の中では、コリー・アキノ元大統領の誕生日をフィリピンの祝日に…、という意見もあるそうです。

 
http://www.youtube.com/watch?v=e9nnGXDg9ok&hl=ja
(マニラ大聖堂のパイプオルガン)

 天国での安らかなお眠りをお祈りします。(キリスト教における人の死は、終わりでなく神の元に召されて天国で永遠の命が授けられる、と考えられ、葬儀は神に対する感謝、故人を懐かしみ感謝する儀式といった意味合いが強いようです。)

 今日のマニラ大聖堂のミサを見ていて、ふと高山右近のことを思い起こしていました。↓
「最後に、フィリピンで名の通った日本人の一人『高山右近』について触れておきます。前田家の保護の下、その半生近くの二十六年間を金沢で過ごした高槻のキリシタン大名右近は、家康のキリスト教追放令により1614年に金沢からフィリピンに渡りましたが、悲運にもマニラ到着後わずか四十日余りで熱病にかかり、その生涯を終えました。しかし、その時のフィリピン人による右近追悼のミサは九日間にも及び(サンタ・アナ教会)、当時としては異例の待遇だったといいます。その右近が、『剣を取るものは皆、やがて剣によって滅びん。』という言葉を残しています。イスラム教徒とキリスト教徒が共存を模索し続ける、ここミンダナオ島で生活している私の心に、今、その普遍的なメッセージが強く響いてきます。」
(以前機関誌に投稿した記事より・2006年ダバオ市にて)

 今日は、アメリカのビル・クリントン元大統領(民主党)が電撃的に北朝鮮を訪問、拘束されていた二人のアメリカ人女性記者を連れて帰る、という劇的なニュースもありました。3時間以上の話し合いの中では、日本の拉致問題にも触れられたそうです。クリントン氏の行動は、膠着している6か国協議が再開され、核や拉致の問題等、懸案事項の解決に向けて前進するきっかけにもなりそうな希望を抱かせる、大変勇気あるもののように思えました。大統領経験者としては、94年のジミー・カーター氏(民主党)訪朝以来のことだそうです。
 
その後の北朝鮮国営放送では「今後、対話に応じる…。」と!
「武力では何も解決しない、できない。」ことは、みんなが知っているはずなのに…。


政権選択への熱い夏が…!

2009-08-04 18:56:55 | フィリピン-バギオ

 日本では、昨日の近畿、東海地方に続いて、今日は九州北部、中国、北陸地方と、日本各地で、じめじめとした鬱陶しい、長ーい、長ーーかった梅雨が、ようやく明けた、明けようとしているようですね。
 いよいよ本格的な夏が…!?ちょっと遅すぎましたね…。
 さて、今月30日の衆議院総選挙に向けて、各党のマニフェストも出そろい、日本各地で熱い舌戦も繰り広げられているようです。今回は『政権選択』の選挙と言われていますが、まずは一人ひとりが選挙権を行使して、清き一票を投じることが大切だと思います。
 なお、海外にいても「在外選挙」制度で投票はできます。↓

 http://www.ph.emb-japan.go.jp/visiting/election.htm

(日本大使館HPの在外選挙の案内)

 私自身は、投票は郵便による「代理記載制度(代筆投票)」の制度を利用しています。私のような自筆ができない障がい者への措置として数年前に設けられました。以下、民主党のホーム・ページより。↓

【衆院本会議】上肢障害者等の代筆投票認める公選法改正案を可決
 
ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の代筆投票等を認める公職選挙法の改正案が15日、衆議院特別委員長提出法案として衆議院本会議で全会一致で可決された。
 現行法では、一定の場合に施設での投票や郵便投票を認めているが、自筆で記入しなければならないため、ALS患者など重い上肢障害等を有する障害者は、選挙権を事実上行使できない状態にあった。東京地裁は昨年秋、これを「憲法に違反する状態」と判断。立法による解決が強く迫られるなか、民主党は4月、代筆投票制度を導入する公選法改正案を参院に提出し、法改正実現を各党に呼びかけてきた。
 衆議院で可決した改正案は、上肢障害1級と視覚障害1級の在宅障害者について、郵便投票における代理記載制度を導入。あわせて、生活全般について全面的介助が必要な「要介護度5」の在宅要介護者を郵便投票の対象に追加した。(
2003/07/15

 http://www.dpj.or.jp/news/?num=3996

(代理投票について-民主党HPより)

 アメリカは昨年末、国家再生に向けて「政権交代」による「チェンジ(変革)」を掲げた民主党のオバマ大統領が誕生しました。それまでの共和党ブッシュ政権の一国中心の独善的な外交姿勢の修正、行き過ぎた金持ち優遇政策を止めて、中低所得者層への富の分配による経済活性化、核兵器の廃絶や地球温暖化対策への取り組み等、国策、重要課題の方針が大きく転換されました。まだ道半ばでそう簡単に成果が表れるものではないと思いますが、その基本的な理念は支持され続けるでしょう。そのアメリカの例のように「下手なことをすればすぐに政権交代」が可能な「二大政党制」は理想的な姿だと思います。

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/55b6523af2c6413ff1b23b5fe5571942

(以前の記事より)

 昨日、今日と二つの台風の影響のためか、ここグリーン・バレーは強風が吹いています。南シナ海の台風7号「Jolina」(女性名)と、太平洋を北上中の台風8号「 Kiko」(男性名)に挟まれた形のルソン島です。バギオの「雨季」が明けるのは11月頃でしょうか…。


コリー・アキノ元大統領…「安らかに。」

2009-08-02 09:18:18 | フィリピン-バギオ

 マルコス独裁政権を打倒した1986年の「ピープル・パワー革命」で大統領に就任し、フィリピンの民主化を進めたコラソン・アキノ元大統領が1日早朝、入院先のマニラの病院で逝去されました(享年76歳)。去年3月に結腸がんを患っていることを公表し、闘病生活を続けていました。
 夫は、83年8月21日、亡命先のニューヨークからマルコス政権打破のために帰国した際、マニラ国際空港で到着直後に暗殺された民主派のベニグノ(ニノイ)・アキノ(Benigno Servillano Ninoy Aquino Jr.)元上院議員。夫が暗殺されたのを契機に、反マルコス独裁政権の象徴的な存在として政治活動に入っていきました。
 夫のアキノ元議員暗殺でマルコス政権打倒の機運が高まる中、86年2月の大統領選に野党候補として出馬。議会はマルコス氏の当選を宣言しましたが、アキノ氏側は選挙に不正があったと抗議、当時の国防相らも反旗を翻し、マニラに数十万人の群衆が集結したピープル・パワー革命が起こり、同月大統領就任を宣言。21年間も政権の座に居座り続けたマルコス氏とイメルダ夫人は国外へ脱出したのです。このフィリピンでの劇的な政変の様子は世界中に放映され、夫の敵討ちをも果たしたコリー夫人の姿が印象に残っている方も多いでしょう。
 政権が長く続けば様々な不正が起こるのは世の常です。イメルダ夫人が
国外追放の際にマラカニアン宮殿に残したコレクションは、約3千組のシューズ、2千着のパーテイドレス、5百着の高価な下着、世界最高級の香水などの化粧品類、多数の未使用のハンドバッグetc.すべてオーダーメードだということです。政府が不正蓄財として差し押さえしている海外の預金や財宝の額は天文学的な数字であることは言うまでもありません。

 http://www.youtube.com/watch?v=0TtmZu-MJIU&feature=related
(1983年8月21日ニノイ・アキノ氏暗殺される。)

 http://www.youtube.com/watch?v=Srfn5yAUTb4&NR=1
(1986年2月25日ピープル・パワー革命の歌)

  
(1986年2月25日-中央やや右下にエドサの聖母マリア像が見えます。)

「コリー・Cory」という愛称で人々に親しまれていた故コラソン・アキノ元大統領。1986年の2月25日には、エドサ・Edsa Shrine周辺が、彼女のシンボルカラーの黄色のTシャツを着たり、黄色のハンカチ、リボンを持った人々で埋め尽くされ「闘い-Laban(タガログ語)」を表す「L」の文字を、親指と人差し指を広げて高々と掲げる映像が大変印象的でした。
 現在も、マニラの国際空港は「ニノイ・アキノ国際空港」の名前で呼ばれ、5百ペソ紙幣にもニノイ・アキノ氏が描かれています。長男のベニグノ・アキノ3世は上院議員、娘のクリス・アキノ(Kris Aquino)さんは、芸能界で人気マルチ・タレントとして活躍しています。
 大統領府は、即日アキノ氏の葬儀を国葬にすると発表しました。
「天国での安らかなお眠りをお祈りします。」

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/e0adaefcfccea2a141af73290be56f46
(以前の記事-ピープル・パワー in 1986)

 私には、ミヤンマーで19897月に軟禁されてからも、ここ20年間ずっと、軍事政権に対して「非暴力・民主化」の運動を続けているアウンサンスーチー氏と重なることがあります。