【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

ありがとう、おちょやん

2021-06-02 22:10:37 | 楽しく元気に『反日』トーク
ありがあとう おちょやん

 先日NHK朝ドラの「おちょやん」が終了しました。
私の母は1910年(明治43年)福島県で生まれました。浪花千栄子さん(おちょやん)より3歳下で、おちょやん同じように明治、大正、昭和そしておちょやんより一つ多い平成の4時代を生きてきました。父は軍需工場の技術者で軍属として家族ぐるみで満州の奉天に渡り、敗戦後大変な苦労をして満州から引き揚げてきました。私自身は戦後(1948年)生まれで戦争を知らないのですが、子供のころに母や姉、兄から満州のことや戦争のことをたくさん聞いています。母からは敗戦後満州から引き揚げの時までの絶望、不信、恐怖等々のこと、引揚船で満州チフスに罹患し、ぐったりとした当時6歳の兄を着物の中に隠し、頑として海に投棄させず家族一緒に本土へ戻ってきたこと、そして私も記憶が鮮明に残っている戦後の父との葛藤も加わった大変な生活苦の中で、文字通り命がけで、根性で、明るく元気に6人の子育てをしてきました。
 母は、浪花千栄子さんが好きで小学校入学前の私も「お父さんはお人よし」をいつも一緒に聞いていました。浪花千栄子さんが答える人生相談か、悩みの相談もよく聞いていて感心していました。きっと考え方というか感性がよく合っていたのでしょう。また、福島県原町(現、南相馬市の一部)の明治生まれで本人は「尋常小学校へ行った」とは言ってましたが、本当のところはわかりません。おちょやんと同じで字が書けませんでした。私が、小学校5年の時に、当時北海道へ単身赴任していた兄からの手紙を楽しみにしていて、私に「読んで頂戴」と言っていつももってきましたが、楽しみや喜びを共有するんだなあと思って私も嬉しく読んでいました。ある時、母が一生懸命兄への手紙を書いていたのを覗いたときに、すべてカタカナで不揃いのバラバラの字が書かれてあり、思わず声を出して笑ってしまったことがあります。母は黙っていてやがて泣き出してしまい、そして私のほうを正視し「私は学校へ行ってへんから字が書けへんのや。そやけど子供らだけは命にかけて一生懸命育ててきたんや」と言ったことを今でも覚えています。ものすごく残酷で悪いことを言ってしまったと思った私は、すぐに兄に事の始終を書いて手紙を送りました。兄からもすぐに返事が来って「よくチャンと知らせてくれた」とのことでした。しばらくして、わだかまりもほぐれてきて私も小学校高学年であったせいか、これからはもっと母に寄り添い、護っていこうと固く思いました。
 そんな母は、映画も好きで小学入学前の私をよく連れて行ってくれました。大体は時代劇でしたが、夏は怪談映画や話題の映画では「ゴジラ」とか本当に映画が好きだったようです。戦争ものでは花菱アチャコと伴淳三郎のコンビの「二等兵物語」や本郷功二郎の「あゝ特別攻撃隊」などに連れて行ってもらいましたが、帰りには映画館の隣でイカ焼きを食べさせてもらうのが私には何よりの楽しみでした。その時に母がいつもはっきりと言っていたのは「戦争は絶対にあかん」「お上のいうことは嘘ばっかりや」でした。母の弟、つまり私の叔父さんもサイパン島で戦死(玉砕)の公報です。
 おちょやんを見ていて、明治、大正の道頓堀の賑わいや、台本を読むのに字の勉強に励む青春時代に母の若かりし頃の姿を思い、そして市民・国民を巻き込んだ戦争という無責任で愚劣な権力者の下でも家族や仲間を思いやる強い心で凛として生き抜いてきた女性としての浪花千栄子さん(おちょやん)に被さり、毎回緊張とともに心が洗われる思いで、見させていただきました。
 私の母は、2007年に97歳で天寿を全うし、最後まで凛として自分らしく生きて旅立ちました。

 前作の『エール』も素晴らしい朝ドラでしたが、私のような戦後生まれのいわゆる団塊の世代にとっては、おちょやんは自分の感性と共有できるまた違った素晴らしいドラマでした。NHKが国民放送であるにも拘わらず、忖度や大本営発表やらなにかといわれていますが、私はドキュメンタリーなどや他の番組を制作する現場の皆さんの良心に本当に敬意を抱いています。おちょやんの製作スタッフの皆さん、俳優の皆さん、裏方さん、そして何よりも天性の才能かと思えるほどの表現をしていただいた杉咲花さん、私より20歳以上若い脚本の八津弘幸さんら皆さんに心からエールの拍手を送っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿