【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

* はしがき‐『反日』トークへの思い入れ‐  *

2021-01-19 23:53:05 | 楽しく元気に『反日』トーク
 先日、高須クリニックの院長が作家の村上春樹氏に対して“国民が選んだ政府を批判するあなたは「日本人ですか」”とツイートしました。何を言ってもご自由でしょうが、私はご本人の知性と品性をそれなりに『改めて評価』させていただいています。高須氏はわずか76年前までの日本で、国民に対して高圧的・暴力的に刷り込まれていた大政翼賛会(お上を翼賛、妄信)と非国民(お上に従わないものへの蔑称)キャンペーンを今様に叫んでおられます。また、私は最近ごく親しい若者達に『反日』と言われました。彼らは別にいわゆるネトウヨと言われる人たちでもなく、子供が好きで弱者に対して思いやる心優しい青年でアメリカの Black lives mater の広範な抗議行動を見て「アメリカはええ国やなあ。みんなが自分の意見を言っている。アスリートもアーティストも。」という素敵な若者です。
 しかし、大政翼賛会思想で非国民とシャウトする高須氏や百田尚樹氏、櫻井よし子氏他の類似の仕掛人たちが声を大にしてシャウトしたり、ネット上でみられる政権や権力に対する批判や批判者を『反日』という軽い乗りの言葉でカテゴライズして、非同調者を疎外するような風潮は、76年前以前の悲劇と何ら変わらない反知性・低劣品性です。今の日本の権力者は近現代の日本の歴史から何も学ばず、教訓も得ることなく、ほんの偶然幸運に恵まれた成功体験や前例踏襲主義への異常な固執と、ひたすらに戦前回帰を目指していることに大いに懸念します。どんどんと世界から取り残されていく。グローバルな視点を持った人たちと話していると、政治や文化、コロナなど感染症に対する公衆衛生のみならず、人財の流出や産業・経済活動にも一層大きな『世界からの取り残され弊害』の懸念が生じてきていることを実感しています。
 近い将来、私達戦後生まれだけれど、命を懸けて子育てし生活を営んできた戦争体験をした私たちの親の思いを受け継いでいる世代であるのにもかかわらず、子や孫たちに「あの人たちは戦争やファシズムを止め(られ)なかった不甲斐ない世代だ」と言われないように、私はしっかりと『反日』を続けていくつもりです。
 76年前以降の世界の歴史は確実に知性と品性によって、貧困、差別、疫病や環境破壊のない地球を目指して進んできています。1月22日には国連で核兵器禁止条約が発効され核兵器が非合法化されました。NATO や SEATO の反共軍事同盟あるいはワルシャワ条約機構といった軍事同盟はまさに地球人類絶滅同盟でしたが、すでに解体したか、あるいはその性格が大きく変わり ASEAN   のように持続可能な国際関係を目指す条約へと変わってきています。地球環境を守っていく世界的なアクションにはグレタさんや Fridays For Future のように世界の若者達が実践し連帯して頑張っています。
 もうすぐだと期待していますが、持続可能な地球を目指して世界が動き出すだろうと思っています。その日を目指して、これまで以上に私は家族を愛し地域を愛し、若者を愛し国を愛し、楽しく元気に『反日』トークを続けていこうと思います。

百田尚樹さんの『日本国紀』の正体➀ 

2021-01-19 23:52:29 | 楽しく元気に『反日』トーク
 市民図書館に2月にリクエストした、百田尚樹さんの「日本国紀」が11月下旬になってやっと届いた。当初は3~4時間で読んでそれなりの見方をもって『イソじいのイチ押しBOOK』にアップしようと思っていましたが、少し読み始めるとこれは違う、標題の『国紀』といういかにも歴史書のような装いを持っているが、全く別の意図と目的をもって書かれたプロパガンダである、と確信しました。
 まず『日本国紀』の記述についてのファクトチェック等については既に多くの真摯で科学的・丁寧な検証が行われ、いくつもの発表や出版も行われていますので、諸先輩や若き研究者の皆様方の『日本国紀のファクトチェックやパクリ報告』発表に学ばせていただきます。私は『日本国紀』に貫かれているロジックの意図的な捻じ曲げや出鱈目さ、偏狭なナショナリズムをバックグラウンドにした根深い差別意識、あるいは『日本民族選民思想』とでも言うべき上から目線の優越思想とその『グローバル性』について述べさせていただき、日本国紀の正体を明らかにしていきたいと思います。
 図書館で貸出を申し込んだのが2019年2月で、届いたのが11月、聞けば市では10冊以上購入しているが貸出申込が大変多いそうです。中には批判的想いで読まれておられる市民の方も少なからずおられるとは思いますが、神社本庁や日本会議系、自民党系、偏狭な右派諸団体等々の組織的購入、また『探偵ナイトスクープの放送作家』や『永遠のゼロ』の小説作者であり大ヒットした同名の映画監修ということもあって、好意的にあるいは興味を持って読まれる皆様が相当多いのでしょう。
 そんな思いで読んでいるうちに、3~4時間の予定であった読了が12月5日になってしまいました。
 順を追って、気付いた諸点について述べていきます。

➀ 『ストーリーとしての日本国紀』『ストーリーテラーとしての百田尚樹』
 このことは百田さん自身が『序に変えて』で「ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源とされています。つまり歴史とは「物語」なのです。本書は日本人の物語、いや私たち自身の壮大な物語なのです。」と述べておられます。ところが文末の『謝辞』では「・・・多くの史書を参考に・・・それらの本なしでは成り立たない仕事・・・。」「多くの偉大なる先人が、私たちの国の歴史を記し、研究し、考察を続けてこられました。」と、最初に言っているご本人が書いた「物語(ストーリー)」を「歴史(ヒストリー)」に巧妙にシンクロさせてしまっています。編集担当の有本香氏も同様です。
 ヒストリーとストーリーの語源については「同じ」とは、Oxfordでも広辞苑でも書かれていません。Oxfordでは類似語としての紹介はありますが、意味はStory=物語、話、であり、History=歴史、史実、歴史学、年代記・・・です。広辞苑も同様です。真摯な歴史研究者、特に近現代史を研究されている戦争体験を持つ世代の研究者、また、戦後生まれのいわゆる団塊の世代、更には30~40歳代の若手歴史研究者・学者の真摯な歴史研究に対して『物語』を『歴史』にしてしまうのはあまりにも乱暴すぎて、当該国に対してはあまりにも非礼で無責任でありグローバル視点から見られれば恥ずかしくさえあります。『歴史』だけではありません。『物語(ストーリー)』としても、戦争三部作と言われる『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』を渾身の力と反戦の強い意志と確たる史実と証言を集めて書かれた山崎豊子さん、中世から戦国時代、明治維新から日露戦争の時代背景の中で、どちらかというと歴史のバイプレーヤーに焦点を当て、実に丹念な歴史研究と取材をもとに、自分らしく生きる個性豊かな歴史群像を創出し、例を見ない巧みな筆致で物語にされた司馬遼太郎さん、他多くの本当のストーリーテラーの皆様に対しても、はなはだ無礼で無責任な論理(ロジック)であり、我々読者に対しては知性も品性もかなぐり捨てた上から目線での論調です(後ほども触れます)。


百田尚樹さんの『日本国紀』の正体②

2021-01-19 23:51:17 | 楽しく元気に『反日』トーク
 『日本国紀』の論旨は、第1に、天皇あるいは天皇制に対する『妄信的』とも思えるシンパシーです。第2に、いかに日本人が『勤勉で誠実で優秀か』ということを『論証』しています。第3にアジア太平洋戦争(大東亜戦争と言っている)敗戦後、いかに日本が辱められ貶められているかを、『3つの敵』を挙げて口を極めて攻撃し、新しく出てきた『国を憂う若者たち』を褒めたたえていることです。以下にそれぞれの論旨について検討していきます。

-三つの論旨の『天皇制に対する妄信的なシンパシー』の強要-

 まず、私は百田さんが天皇や天皇制に対してどれほどシンパシーを持とうが、どのような天皇観を持とうが、純粋右翼であろうと神道を奉じようが、どのような思想や歴史観・価値観をお持ちかは知りませんが、それは個々人の価値観であり感性の結果だから何も否定しません。日の丸を尊敬しようが、私たちの先祖であるところの日本人・日本民族にどのように誇りを持とうが、それはそれで結構なことで、『どうぞご自由に』だと思っています。ところで、この日本国紀では流石に天照大神や須佐之男命等々を持ち出して神話を歴史事実にするということにはなっていませんが、一貫して天智天皇以降、天皇・天皇家は『万世一系』であると強調し、天皇・天皇家は日本における唯一無二の神聖な存在として描き出し、よって天皇や天皇制それへの『妄信』というか『服従』というか、そのようなものを押し付け、強要してきます。繰り返しますが天皇や天皇制をどれほど信奉されても、個人としては自由です。私も平成天皇や皇后は人格的にも優れた方だと思っていますし、日本国憲法の中の存在であるとして象徴としての役割を果たそうとされたことに対しては、ある意味では尊敬もしています。
 ただし、継体天皇の即位の不可解さ、南北朝時代の天皇・天皇家の継承の正当性について歴史研究においては諸説があり、『万世一系』が合理的な史実であるかについて多くの疑義が出されています。特に継体天皇については継体前の天皇の異常な行為、行動に因を発する皇位継承であり『万世一系』の正統性は疑問視されています。その点は百田尚樹さんもご承知で、『日本国紀』では、いろいろあるけれど「いずれにしても万世一系」であると。      これでは、全く歴史書(史実)と呼べる代物ではありません。先に述べたように、私は平成天皇・皇后に対しては一貫して憲法上の存在として自覚され、天皇・皇后として沖縄をはじめアジア太平洋戦争の戦跡へ慰霊に訪れたり、東日本大震災では被災者のお見舞いに幾度も行かれ、膝付き被災者と同じ目線で手を取り合って励ましたりする姿に、その人間性については尊敬しています。『万世一系』だから尊敬しているのではないのです。多くの国民・市民の皆様も同じような思いではないでしょうか。にも拘らず百田さんが、おそらくご本人はその『怪しさ』が分かっているのだろうと思いますが、まるでなりふり構わず『万世一系』にこだわり、天皇や天皇制へのシンパシーを強調するのは一体何のため誰のためなのか、その意図は何なのか思わざるを得ません。
先のアジア太平洋戦争において、国民に対する『皇民化政策と軍国主義教育』は、国(天皇)のために戦い、死んで靖国神社に祀られることを男子最高の栄誉とし、東条英機は戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けるべからず」と言い、軍部は『一億総玉砕』を叫び日本国民のジェノサイドを公言し、結果民間人も含めて3百数十万人の戦争犠牲者を出しました。県民を巻き込んだ(盾にした)沖縄戦では民間の県民の数万人を『強制死』に追いやりました。天皇制への同調と崇拝を強いるこの本のプロローグは、日本の歴史全体を修正し、憲法の改悪と戦争できる国造りという目的を成就させるために、神社本庁、日本会議、一部宗教団体、右翼(民族主義)、のみならず天皇に帰依する人たちやネトウヨの人たち、戦前戦後の選民思想(日本国民の優秀性)を総動員することによって、自らのミッションの思想的バックグラウンドを構築し最大限に社会的にオーソライズすることを、百田さん一流の表現法で描かれたものかと思います。『日本国紀』はその成就の為の『歴史書』を装ったプロパガンダです。

百田尚樹さんの『日本国紀』の正体③

2021-01-19 23:50:35 | 楽しく元気に『反日』トーク
-三つの論旨の二番目『日本人がいかに勤勉で誠実であるか』-

 第2に、百田さんは『日本人が勤勉で誠実である』ことを「歴史(事実)上の人物」を多く取り上げて強調しています。特に近現代の優れた日本人です。例えば本書の随所に、ジョン万次郎、江川太郎左衛門、水野忠邦、小栗忠順、前原嘉蔵(職人)、古市公威、高峰譲吉、鈴木梅太郎、等々の資質や業績にページを割いておられます。百田さんは『日本人は世界のどの国の国民にも劣らない優秀な国民』『文化、モラル、芸術、政治とどの分野でも極めて高いレベルの民族であり国家である』と大変心地よく響く表現を随所にしておられます。詳しくは存じ上げない人もいますが、それぞれ各人の個性はその通りだと思います。野口英世さんも含めてノーベル賞に十分匹敵する研究者もかなりおられたと思います。ノーベル賞の受賞に至らなかったことについても百田さんは、日本人、日本民族に対する欧米(白人による)『見下し』あるいは有色人種に対する『差別・偏見』がその根源と示唆しています。
 しかし、こういった偉大な日本人の諸先輩たちをもって『勤勉で誠実』と結びつけるロジックはいったい何でしょうか。『勤勉と忠実』ということは、何に対して誰に対して『勤勉・誠実』なのかという説明が必要です。私は日本民族と日本の先住民は海洋に囲まれ、豊かな自然と四季に恵まれた国に住み、自然や四季に対しては大変謙虚であり『勤勉で誠実』であることが人間として生を営んでいく条件であったと思います。全国に残る山の神、水・雨の神、風、大地やらの自然に対する畏敬の念や自然災害に対する慰撫が古代宗教や修験道の始祖となり、今日にも繋がっています。本来の日本人や日本民族は、大震災とそれに続く大津波に対して自然を慰撫し、人間の傲慢さを謝罪しそのうえで叡智を絞って生を繋いできました。そういった営みが日本の『土壌』であり、近現代の優れた日本人を生み出し、最近までの日本と日本人が世界的にも高い評価を得ていた根源だと思います。その後の原発災害の責任も取らず「想定外の大災害」などといい、責任を取る気もない現在の政権を担う者や当該企業責任者には、本来の日本人の勤勉と誠実さは全く無縁でしょう。
 さて、百田さんの言う『勤勉で誠実』は、上から目線の典型ではないかと思います。百田さんが日本人の優秀さを証明しようと歴史上の事象を述べる中で、司馬遼太郎さんの名前が出ており、それとなく司馬さんへの賛同を思わせるような表現がなされています。全く意外なことで、百田さんや右翼の歴史学者の間では『司馬史観』と称して司馬さんの小説、随筆等々の著作はかなり厳しく、時には口を極めて蔑まれ、排除されています。例えば小説なのか自伝なのかドキュメンタリーか歴史書か、どういう意図で出版されたのかなどが全く説明されていないが、『たちまち6刷』などとたいへん売れている様子のたいそうな宣伝をしている『潜行三千里』『開戦と終戦をアメリカに発した男』の巻頭、本書に寄せてを書いておられる福井雄三先生(国際政治学者、歴史学者ではないみたい)は「世上に流布している「司馬史観」にはさまざまな問題が内包し」などと感情的ともいえる風で「司馬史観」を敵視しています。
 司馬遼太郎さんの歴史を題材とする小説は、丁寧な歴史検証に裏付けられたもので、歴史上の人物の個性を活き活きと描いています。それもビッグネームというよりどちらかというとバイプレーヤー、時には埋もれていた人物を再発掘してその人物を自分らしく生き、活動し、元気で明るく活き活きと縦横無尽に活躍させます。司馬さんが多く執筆された時代は、安保世代からGDP(当時はGNP)世界第2位に至る奇跡の経済成長期でした。朝鮮戦争特需やベトナム戦争での特需があったとはいえ、憲法9条を掲げ戦争をしなかった日本の若者たちがポジティブに生き、働き、そして司馬さんの歴史小説を通じて、ごく『普通の』国民が自分の成功体験にシンクロさせて夢と希望を持ったことと思います。しかも丁寧な史実の検証に裏付けられて、読者はそのリアリティを実感したと思います。鼻水を垂らして西郷隆盛に直談判して薩長同盟を実現させ、船中八策で新政府閣僚案に竜馬の名前がなく伊藤俊輔に尋ねられ、自由に世界に生き貿易をすると坂本龍馬が言ったこと等々の夢のあるストーリーには、多くの国民が疑似体験と満足感を味わい、活力の源泉としたことでしょう。斎藤道三、黒田官兵衛、雑賀孫一、秋山真之、秋山好古、正岡子規、土方歳三、西郷隆盛、大久保利通、等々主役の個性に読者は疑似体験し、爽快感を味わったのではないでしょうか。主役は何かに対して、誰かに対して『勤勉・誠実』ではなく、それぞれの個性が輝き、明るく、元気で、ポジティブに人生を駆け抜けていく姿に多くの読者が共感し、興奮したのではないでしょうか。後期の作の『街道を行く』では、私たちの先人がいかに自然の恵みや隣人に対して『勤勉・誠実』であったかを街道を歩き、集落での人々の営みを豊富で確かな資料を丁寧に掘り起こし書かれています。
 百田さんの小説、映画で『永遠の0』というのがありました。極めて優秀なゼロ戦パイロットで特攻に散った主人公の孫が戦後(現代)特攻について祖父の生き方を調査し、再現していくストーリー。その過程で祖父が隊長をしていた航空隊に超問題兵がいて危険な問題飛行で挑発するのを卓越した技で余裕をもって軽くいなしてしまう。戦後孫が超問題兵を訪ねたら反社会勢力の組長(夏木陽介さん好演)となっていた。その場面でもってこの映画が全く旧日本の軍国主義戦争の不合理や悲惨さを告発するものでもなんでもない、ある種の意図を持ったプロパガンダ映画であることを直感し大いに興ざめしました。この映画のプロデユースの体制を見ると、相当な費用をかけ、CGを駆使、実写映像も特攻機がアメリカ艦艇に突入成功の映像など防衛省の協力も駆使した、プロパガンダであることがよくわかります。
 『勤勉で誠実(で優秀)』という日本人の感性に心地よい言葉によって、時の権力に対して『勤勉で誠実』であることを強いるのは、世界史を見ても多くの場合は民族の滅亡をも招きかねない民主主義と個性にとって大変危険なことです。日本の近現代史を見ても如実に示しています。皇民化政策と軍国主義教育は『一億層玉砕』などと言い、国と民族滅亡の危機を厭いませんでした。権力にすれば、『(権力に対して)勤勉で誠実』そして政治に対して国民が無関心というほど居心地のいいことはないでしょう。
 高須クリニックの院長が、”国民が選んだ政府を批判するあなた(村上春樹氏)は『日本人ですか』”とツイートしました。つまり、彼らの言う『勤勉で誠実』というのは軍国主義の中で刷り込まれてきた同調圧力の中での『勤勉と誠実』であって、司馬さんの描く個性が輝くなどということはとんでもないということになるのでしょう。これは歴史修正主義者の共通した『歴史』価値観でしょう。
 歴史修正主義と言ってもいくつかの系統があるようです。純粋な国粋主義や現在の神社本庁の論旨が由来する日本書紀系統や日本会議の系統などがそれぞれの立場から、歴史(史実)の修正を主張しています。百田氏は『日本国紀』の中で半ば居直りのように歴史修正主義の論を建てていますが、歴史=史実は変えようがないから、百田氏や日本会議は慰安婦問題について朝日新聞の吉田文書をさかんに取り上げて『強制連行は無かった。強制連行について証明するものはない』などと言っていますが、典型的な”ご飯論法”(上西充子先生定義)です。軍部・戦時官僚が戦時の行政文書等を徹底的に焼却して証拠隠滅したこともありますが、慰安婦問題についてのグローバルな考えは、人権、女性、ジェンダーに関わる極めて重要な全人類的な負の価値観を全世界的に克服することです。百田氏や高須氏や日本会議などは、歴史が分かっていながら、ある目的のためにプロパガンダを振りまいているようです。純粋右翼も国粋主義も天皇万世一系論の人も大きく巻き込んでその目的、つまり日本国憲法の改悪の成就を必死に企んでいるように思えてなりません。『日本国紀』で言われる日本人の『勤勉で誠実』を読むと、そこまで思い至ります。私は科学者ではないですが、この点は別に論評してブログにアップしていきます。
 論点の第1の、『万世一系の天皇』の科学としての議論の価値もないこと、
論点の第2の『日本人の勤勉と誠実』での歴史修正主義の展開による【ある意図の実現】へのプロパガンダ、そして第3の論点では、【ある意図】が露骨に語られてきます。                       (続く)

百田尚樹さんの『日本国紀』の正体④ — 1

2021-01-19 23:42:06 | 楽しく元気に『反日』トーク
-戦後の日本を辱めたもの、1.GHQの洗脳さらに日本国憲法で再軍備を禁じ、共産主義者とそのシンパにGHQ路線を引き継がせた、2.戦中生まれと団塊の世代が抜けだされない自虐思想(史観)、3.朝日新聞の嘘。という筋立て‐
 
 『日本国紀』の論点の集約として【ある意図】が集約されてきます。その正体を明らかにするために、『日本国紀』の「第九章 世界に打って出る日本」の部分からアプローチしていきます。もとより『日本国紀』は科学的知見に基づいた歴史書とはとても言えず、『歴史修正主義』者によるコメント、エッセイを筋書き建てたようなものですので、第九章、第十章は「ああそうか」にしておいて、戦後の記述について述べます。ただ私は百田さんと同じく歴史学者、科学者ではないのだけれど、もう少しは歴史を謙虚に学ぶ姿勢で述べたい。
 その前に、いずれにしても『日本国紀』の論旨、表現はかなり乱雑で、いい加減と言ってもいいほどです。百田さんに限らず、純粋国粋主義の人も在特会や日本会議や維新等々、憲法改定を主張する人たちに共通した近現代史認識ですが、GHQは国辱の日本国憲法を押し付けた諸悪の根源である。ただいつの間にか「日本がいつ戦争に巻き込まれても不思議ではないのだ。この70年以上、戦争がなかったことが奇跡ともいえる。ただ、これはアメリカの圧倒的な軍事力によって抑止されてきただけ」と情勢を説明しています。つまりGHQ(実態は米軍)は悪だったが、「アメリカが対日政策を転換」したことによってアメリカは日本にとって唯一無二の善の同盟国となっていったこと、そして戦争が抑止されているのはミリタリー・バランスそれもアメリカの圧倒的な軍事力であるということについて、それを説明すべく背景、日米関係についてのグローバル目線での歴史認識などをすっ飛ばし、まるで既成事実化のようにさらっと2~3行で述べているます。そして「「日本人の精神」は、」「決して死に絶えてはいなかった」と言い、失われた日本的なものの回復に向けて」「動き出している」「若者たちを見て感動している。」とまで言っています。要は自前で戦争できることに誇りを見出し、そんな国へと回帰することを渇望しているようです。
 果たして、そうかなあ。実態はそうではないのではないか。純粋国粋主義の人、純粋な右翼思想の人たちとは心情や立ち位置が異なるように思われます。例えば2・26事件の青年将校や家族を愛し国を愛しながら特攻に散っていった若人たち、三島由紀夫さんや川端康成さんあるいは右翼の鈴木邦男氏、野村秋介氏(故人)とかが今日の日米関係を直視すれば、嘆きどころか激怒されるのではないか、私はそう思います。私の直感というか感性からも『日本国紀』の狙いと正体が大変気になります。


 第1にGHQの洗脳さらに日本国憲法で再軍備を禁じ、共産主義者とそのシンパにGHQ路線を引き継がせた、という論点について。

第1に、GHQによる洗脳と日本国憲法のことについてですが、私は敗戦後の日本は2つの奇跡によって戦後日本の近現代史の礎が築かれて来たと思っています(「敗戦後の日本の2つの奇跡」は、別の論として近日アップします)。その一つが、ほとんど瞬間的とも思えるタイミングで、世界の知性と叡智が集約されて、日本国憲法が誕生したのであろうということです。
まず、日本国憲法制定の社会的背景ですが、『歴史修正』主義の人たちは「GHQによる押付」と言います。形式上は当然押付であったでしょう。連合軍総司令部とはいえ実際は壊滅状態の戦後日本のガバナンスと戦後秩序の武力による強権的な再構築は、アジア太平洋戦争での直接的な対日戦戦勝国であるアメリカの手中であり、マッカーサーも当然アメリカ軍人であったわけです。押付というのは日本国憲法制定のプロセスであって、憲法の内容や精神ではないわけです。『日本国紀』が唯一押付ということで内容に論及しているのは、憲法第9条の戦力の不保持、非武装が、GHQによって軍隊も持てず自国の防衛もできない辱められたもの、ということでしょう。日本国憲法の3大原則である「主権在民」「基本的人権の尊重」「平和主義」に対しては、『日本国紀』は正面からは論じることはありません。言外では『共産主義』『社会主義』とでも愚痴っているかもしれませんが。だから百田さんの言う押付は制定のプロセスのことで、それは当然のことに過ぎないでしょう。しかし『日本国紀』を論じるなら、なぜ日本国憲法の3大原則に正面から論じないのか、そこが『日本国紀』の正体の重要な一部でしょう。
 日本国憲法の起案者は誰かという論点ですが、歴史学における日本近現代史の実証として大変重要なことと思います。多くの研究者によって起案者はGHQ民生局、幣原喜重郎、鈴木安蔵ら憲法研究会、等の名が挙げられています。今後も日米あるいは関係国の公文書等の発掘で確定されていくかもしれません。ただ、大変大雑把ですが私は起案者の確定は歴史研究の課題としていただいて、とりあえずGHQ民生局のコートニー・ホイットニー准将、映画にもなったべアテ・シロタ・ゴードンさん、鈴木安蔵さんや憲法研究会の方たち、そして新生日本の政府側としての幣原喜重郎氏らの知性や叡智の結集が起案分に映し出されたものと考えています。そしてその背景には、世界の知性と叡智が大きく凝縮されるタイミングが奇跡的にフォーカスされたのではないかと思っています。
 何より考慮すべき背景は、まずアジア太平洋戦争や、大きくは第2次世界大戦の性格が基本的には帝国主義列強間の経済的矛盾が爆発した利権争いの戦いであったということです。同時にファシズム対反ファシズム統一戦線という政治的・思想的背景を持っていて、特にヨーロッパでは国民や市民の反ファシズムの戦いが世界大戦への強烈なバックグラウンドとなっていました。また、さらには帝国主義によって略奪・搾取されている国々、人々が民族独立を勝ち取る闘いに立ち上がる中で、それらの国々をどの帝国主義国が取り込むかといった背景もあったと思います。これは、多くの後進国が帝国主義列強主義列強による強奪、略奪や殺戮を受ける中で、唯一有色人種である日本が日露戦争で白人の国であるロシアに辛うじて戦勝という形となりし、有色人種唯一の帝国主義国として朝鮮併合、満州、南方諸国に進出し、五族協和とか八紘一宇とか、価値観の押付で侵略戦争の合理化を強引に進めたアジア太平洋戦争も、帝国主義対民族自決・独立の戦いの側面も強くありました。第二次世界大戦が日本にとってはアジア・太平洋戦争といわれる所以でもあります。
 一方で、当時の世界のリーダーがルーズベルト、チャーチル、そして新興のスターリンといった『実力者』ぞろいであったこと、そして世界中の知性と叡智が力強く台頭してきたことが彼らへの大きなプレッシャーとなったことも日本国憲法誕生の背景にあると思います。(スターリンについては、民主主義に対するトラウマ、アナクロニズムとなっており、これも後日意見をアップします)。つまりヨーロッパでの叡智であるサルトルやボーボアール、ラッセル郷ら偉人と言われる人たち、アメリカの民主主義や自由主義の底力を築いてきた人たち、インド独立の父であるネールや帝国主義からの独立を勝ち取っていった国々の指導者や民族資本等々の台頭がルーズベルトやチャーチルをして新たな帝国主義列強による利権再編成を許さなかったし、それゆえ彼らも自国の軍需企業の策謀を自由にさせなかった、あるいはさせることができなかったのではないかと思われます。ルーズベルトが1945年に死亡後、トルーマンが大統領となり、アメリカ第一主義、軍事力を背景とした覇権主義により、帝国主義列強や旧宗主国による後進国への侵略戦争は、我々『団塊の世代』げ現役の高校生、学生であったときに現実に行われ、ソ連による覇権主義との間で、東西対立といった、地球絶滅に危機につながる危機へと繋がっていきます。
 そういった時代の、本当に奇跡的なタイミングで日本国憲法は世界の知性と叡智が凝縮して、世界でも最先端を行く理性的・理想的な憲法が誕生したのではないでしょうか。国際連合の加盟国資格は『独立した国』です。発足時は51か国でしたが、現在は196か国です。増えた国のほとんどが大戦後に独立を勝ち取った振興の国々です。トランプ前大統領が世界に分断を持ち込みましたけれど、世界は確実に多くの知性と叡智が世界を動かしてきています。東西対立をバックグラウンドに帝国主義国の独立国に対する侵略・介入戦争はベトナム戦争、イギリスによるアルゼンチン紛争(戦争)以降、出来なくなっています。
 『日本国紀』のいう『GHQの洗脳、共産主義者やそのシンパへの引継ぎ』などという論理は、世界の知性と叡智には全く通用しないでしょうし、相手にもされないでしょう。
(以下続く)