【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

権力が発信するフェイクを通すな

2020-04-06 01:25:19 | 楽しく元気に『反日』トーク
 森法務大臣が、東日本大震災の時に“検察官がいわき市から国民・市民避難していない中で最初に逃げた。身柄拘束をしている十数人を理由なく釈放した”という旨のフェイク情報を、森川検事正の定年延長合理化の閣議決定に関わって閣議決定の根拠とした旨を国会で答弁したことについて、思うことです。
 先日、東日本大震災の時の双葉郡消防士の行動と心情を綴ったドキュメンタリー記録本を読みました。地震、津波の自然大災害に命がけの救助活動だけでなく原発崩壊という人為事故に対しても、生命の危険に拘る高放射線の中での一企業の要請による消火活動に、家族の安全を犠牲にして自らの生命の危険を覚悟して任務を遂行する決断と心情を、多くの消防士が実名で語りその周辺を丁寧に検証した一級資料のドキュメントで、彼ら彼女らの優しさと責任感とそして葛藤に、涙なしでは読めませんでした。
 双葉郡の消防士の方のみならず、警察・自衛隊や他の公務員の皆さんも、家族の安全や自らの生命の危機に直面しても任務を遂行されたことは多くの記録に残されています。勿論公務員である検察官の皆さんも。そのような姿に私たち国民も尊敬と共感を感じ入り、多くの国民はできる限りの応援をし、連帯してきました。
 今回の法相の発言は、個別の検察官だけでなく、優しくて責任感に溢れ東日本大震災やその後の原発の崩壊という人災に対応し、生命を賭して業務を遂行してきた人たちに対するこの上ない侮辱であるだけでなく、被災地の人と多くの国民の連帯に土足で踏み入り分断を持ち込むものです。
 もう一つ、同じ大自然災害の関東大震災の時に“朝鮮人(正しくは当時日韓併合時だから、朝鮮半島出身の日本国民となるのだが)が井戸に毒を入れた”というフェイク情報が流布され、多くの朝鮮半島出身の人たちが殺害、凌辱、暴行等、フェイクを信じた末端に張り巡らされた行政協力・推進組織である自警団や偏狭な日本人の残虐な行為の犠牲になりました。これも記録や新聞記事や行政文書等が現存する一級資料です。
 今回のフェイク情報は世間の流布ではなく、時の法務大臣が国会答弁で公言しました。その後の答弁で“政府の見解ということは取り消す”と言いながら、個人の見解を聞かれると頑迷に取り消さない。首相は任命責任を問われると、“今後一層任務を全うしてもらう”などとこの間の他の事例と同じように平然と語る。私は『民主主義の危機』とはもはや思っていない。すでに、民主主義が平気で蹂躙され、乱暴に破壊されてきていると思っています。フェイクの出所は何処か、分かりません。今やグローバルな情報社会です。出所は単に“ネトウヨ”と言われる人たちとも思いません。権力者の側やその周辺か、いやトランプさんの周辺か、もっと高い世界の“支配者”の周辺かもしれません。戦争を渇望する彼らは第2次世界大戦以降も無理筋のまるで因縁をこじつけるかのようなフェイクを発信してきました。権力がフェイクを発信すれば民主主義は破壊され、戦争が起こされ弱者が殺戮、凌辱、暴行され犠牲にされ抑圧されるのは、世界でも我が国でも共通した事象で近現代の歴史です。
 もう一つ、メディアはフェイクと戦うのが1丁目1番地です。法務大臣のフェイクに対して大手のメディアが『一件落着』かのような風でスルーしているのは何故か、全くもって不可思議です。法務大臣という権力の真ん中にいる彼女を“個性”や“感性”でスルーしては駄目です。
 全国紙のいくつかは、調査報道などで鋭い記事を出したりして、現場の記者やスタッフの皆さんの頑張りは見えるのですが、安倍政権が一強独裁、お友達政治を強引に進める一方、稚拙で残酷なほど弱者を容赦なく切り捨てる現状を幾重にも見て、メディア、特に大手全国紙やテレビ局が近現代の歴史の重要な戒めを忘却したかのようにスルーしているのが大変気になります。
(以上)

2008年8月8日 羅臼岳ファミリー登山

2020-04-02 23:55:35 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)
二〇〇八年八月八日
羅臼岳山行
二〇〇八年八月八日、私と連れ合いと次女のいつものメンバーで、知床半島羅臼岳登山にチャレンジした。今回は定年前の最後の夏休みであること、結婚して釧路に在住している三女と合流して道東の旅行を楽しむことなどいくつかの目的を持った旅行で、その一環としての登山である。
八月七日から十一日までの四泊五日のフリープランのツアー旅行で、七日は関空から女満別空港へ、空港からレンタカーで沿線を観光しながら網走、小清水原生花園等経由JR知床斜里駅で三女と合流。その後知床ウトロの『ホテル知床』へ。その日は『ホテル知床』に泊まり、八日の登山に向けて英気を養った。三女は八日は一人でレンタカーを駆って知床散策後知床横断道路を通り、わが一行の到着地点である羅臼の民宿までレンタカーと荷物の移動係りである。
五時に行動開始、多少の雨は降ったけれど快調なペースで羅臼平まで
今回の登山はガイドさんをお願いした。ガイドさんはIさん。結果的にガイドさんについてもらって正解だった。登路はなんということはないが、降路の羅臼側は道もルートもかなり厳しく技術もルートファインディングも上級、ベテラン向きで、ガイドさん抜きでは相当難儀したであろうと思う。
八月八日午前五時、Iさんがホテルに迎えに来る。前日ホテルが朝四時に朝食の用意をすると言っていたのに、連絡ミスで何もできていない。「お待たせしました」とあたふたしながらホテルの係員が持ってきたのは、何とコンビニのおにぎり一人二個とお茶一本ずつ。ばたばたしながらIさんの車に同乗し五時に出発。途中コンビニに寄ってもらい、行動食の副食を仕入れ、五時二十五分に羅臼岳登山口の岩尾別温泉『ホテル地の涯』に到着。ホテルの横を通り抜け、無人の木下小屋まで行き、そこでストレッチ等準備運動。木下小屋には宿泊の登山者が四~五名おり、それぞれが朝食の支度や登山準備をしていた。
五時四十分出発。天候は曇りだが登山には快適。最初のうちは林の中の登山道を辿り、徐々に高度を上げていく。天気予報のとおり途中から雨が少し強く振り出し、ザックカバーを被せレインコートの上着のみを着る。六時二十分に少し木立が途切れ、後方に視界が広がる「オホーツク展望台」着。一時オホーツクの展望を楽しむ。しかしこの場所には真新しい看板が据付けられ、その内容は「ヒグマ遭遇地」とのこと。何でも二週間ほど前にこの地で登山者がヒグマと出会ったとか。そういえば本日の到着予定地の羅臼町のキャンプ場でもヒグマが出没し、キャンプ中の家族のテントをまさぐったとのこと。そうなんだ、知床はクマさんの住処なんだと改めて実感。『クマさんごめんね。ちょっとの間登山させてね。その間出てこないでね。』と心の中でお願いしつつ、小休止。
小休止のあと再び林の中の登山道を辿る。しばらく行くとIさんが、右手の木の上を指差し、
「あそこに蝦夷リスがいますよ。なかなか見ることができないのですが、今日は運がよかったですね。」
とのこと。見れば普通のリスよりかなり大きめで、色も黒っぽい蝦夷リスが木の枝を悠然と渡り歩き、なんだかこちらの様子を覗っているよう。写真を撮ろうとあわててデジカメを取り出し構えるがズームにしたりしているうちにどこかへ移動してしまった。そのうち熊除けの鈴を谷側に落としてしまった。長く使った愛用の鈴だったので少し残念。弱り目に祟り目で、なにやら先行き不安。
やがて七時二十五分に『弥三吉水(やさきちみず)』の水場着。ここは湧水を樋で引いており飲める水。一口飲んでみたが湧水独特の‘甘味’があまりなく、単純なミネラルウォーターの感じであった。『弥三吉水』で十五分間の中休止。ここまで下りの難路を考えゆっくりしたペースだが、全員快調に登山を続ける。登山者も多く休憩中にやがて下のほうから十名以上の高校生のワンゲルか山岳部かのグループが三名の先生に引率されて上ってきた。引率の女性教師は
「私はここで待っているから、みんなで登っておいで。」
と息を切らしながら話している。『弥三吉水』の広場は登山者でいっぱいになってきたので、わが一行はお菓子を食べてから出発。
林間の道から、時々は山頂方面への見晴らしのある、森林限界に近くなってきた道を登り続け、八時二十五分に『銀冷水(ぎんれいすい)』の水場着。ここの水は飲用には適さないとのこと。湧水ではなく雨水のよう。ここでは五分間の休憩。
『銀冷水』を発って、中高年のグループと抜きつ抜かれつの本当にゆっくりしたペースで登り続ける。やがて山頂部の展望が開け、木々も低木となってきて森林限界となってきたところで、視界も大きく広がったところが『大沢』の谷の基部。『大沢』は枯れ谷で岩場。途中鎖場もあったりする。沢の頂上部は鞍部になっており、左の山は『三ツ峰』で右の山がわが一行の目指す『羅臼岳』、鞍部が『羅臼平』である。大沢の岩場を登っているとIさんが、
「今度はシマリスがいますよ。知床には先ほどの蝦夷リスとシマリスの二種類のリスがいますが、
今日は両方とも見られて、本当によかったですね。」
右手の大きな岩の上にかわいいシマリスが座っている。人を恐れる様子もなく周りをキョロキョロと見ている。今度はデジカメを取り出し、焦点を合わせズームアップし、きっちりと写真撮影に成功した。下からは高校生のパーティが登ってきて、シマリスを教えるとワーワーキャーキャー。それでもシマリスは逃げる様子もなく岩の上に座っていた。
『大沢』を登り続け、やがて鞍部の平坦地『羅臼平』に九時二十五分に到着。東は『三ツ峰』そして西は何やらルートの厳しそうな『羅臼岳』。時折雲に覆われるが、くっきりと聳え立っている。『羅臼平』にはテントが一張り。長逗留の様子である。Iさんが、
「このテントはたぶん先輩のガイドさんのものだと思います。山の雑誌の取材で記者の方たちと一週間ほど山に入ったきりです。」
わが一行は、生活の臭いがたっぷりと漂うテントの横で、簡単な行動食を採ることとした。
強い風の中、羅臼岳に登頂。そして羅臼に向けて下山開始
 『羅臼平』で行動食後九時四十五分に頂上目指して出発。十五分ほど行くと最後の水場である『岩清水』着。ここの水は湧水で飲用可。ここでIさんが、
 「皆さん大丈夫ですか。ここで疲れていたり、膝が痛かったりしたら羅臼側への下山は無理です。今日のコースは登り五時間、降り六時間のコースで、ルートの厳しさも登りの道とは比較になりません。ここまではゆっくりしたペースできましたが、これで疲れているようなら羅臼側ルートは無理です。大丈夫ですか。」
の念押し。ここまではペースもゆっくりでほとんど疲れもなく、わがファミリーはノー・プロブレムの返事をする。そのようなやりとりの後山頂目指して行動再開。
『岩清水』を左に捲くと道は急峻な岩場になってくる。岩場といっても一枚岩ではなく大小の岩が山頂に向かって積み重なっている大中の石のガレ場状態である。ところによっては三点支持で慎重に登らねばならなかったり、落石に注意をしたり少し緊張する場所もある。山頂直下の最後のアルバイトで、これが結構な仕事であった。とはいえ、多くの中高年のパーティや小学校高学年くらいの子供、その引率のかなりのご年配のご夫婦などいろんな登山者が登っている。
山頂から降りてくる人たちとのすれ違いで待機したりしながら、やがて十時五十分に、羅臼岳山頂(千六百二十一メートル)に到着。岩かげから十五人ほどが座れそうな山頂に出たとたん、かなりの風にあおられ、思わず身が締まった。羅臼平でもそうであったが、オホーツク海側から太平洋へ、ここは風の通り道である。眺望は北にオホーツク海、南には羅臼の町から国後島、東には三ツ峰、硫黄岳と連なっていく知床連山が、雲が時々吹き飛ばされる瞬間に、壮大で美しい景色を見せてくれる。山頂では、Iさんと、羅臼平でテントを張っていたIさんの先輩のガイドさんとのご対面。山岳の記者さんの取材のガイドで同行し、五日間キャンプしていたけれどシャッターチャンスがなかった、食料も無くなったので本日これから下山するとのこと。山頂で連れ合い、次女、そしてガイドのIさんと記念写真を何枚も写し、名残惜しい思いをしながら、十一時十五分下山開始。
                               (続く)
(羅臼岳登山口にて)       (羅臼平から三峰)


2008年8月8日 羅臼岳ファミリー登山②

2020-04-02 23:53:18 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)
山頂直下の岩場を慎重にくだり、十二時丁度に岩清水まで下山。小休止を取っていると三人連れの外国人が登ってきた。
 “This water is good for drink””Thank you”
 などといい、続けて「どこから来ましたか」「昨日はどこにステイしていましたか」と尋ねると、スウェーデンから来て昨日は岩尾別のユースホステルに泊まっていたとのこと。一番最後から登ってきた青年と話すと、その青年は北海道大学に留学中とのことで、実は日本語堪能。お父さんと兄さんがスウェーデンからバカンスでやってきて北海道を楽しんでいるとのことであった。お父さんは若かりし頃のクリント・イーストウッドに少し似た雰囲気の人であった。

 さて、いよいよ羅臼側に向けて下山の開始である。なるほど、たくさんのパーティや登山者がいるが、羅臼側に下山するのは、わが一行のみで、ほかには誰もいないではないか。それほど人が通らないのか。自然と静寂に対する期待とともに、Iさんがいるとはいえ少しの緊張を覚える。

いきなり急斜面のガレ場・ザレ場に緊張。遥かなる厳しい羅臼への道
 十二時三十分、直進すれば羅臼平、右にルートを取れば羅臼町側の分岐を右に取り、しばらく行くとザレ場ともいえる細かいガレ場がルートとなる。このガレ場が難所で、下りの斜度は三十度近くはありそう。三十五度以上かもしれない。斜面の感覚で言うと「崖」である。石が小さいのだが、「ステップを切って」など優雅なことを言っておれない。とにかく滑落しないように、慎重に、慎重に下っていく。ルートのめどとしてロープが張ってあるが、バランス確保や滑落防止などには使えない。
 
      (羅臼岳山頂)          (羅臼平から三峰を望む)  
  (ガレ場を慎重に降りる)      (ガレ場の下部にやっと到着)               
 やっと普通の地道となったところで振り返れば、やはりいつ崩落するかわからないような‘崖’であった。ガレ場の下部からは、地道ではあるが笹に覆われた道が続く。
 十三時二十五分、左側は高さ三十メートル~五十メートルぐらいの岩壁が約五
百メートル続いている『屏風岩』の始点から、小さい沢を挟んだ迷い込みやすそうな道を進む、一三時四十五分『屏風岩』の終点に着いた。
 ここから沢を渡渉し、笹に覆われたふみ跡程度の細い道を辿り、先が崩落している本来の道を離れ、急斜面に急遽付けた様な微妙なふみ跡を慎重にトラバースし、やがて十四時五分に『泊場(とまりば)』に到着。ここでのルートはガイドさんがいなければ、まず迷っていただろう。
 『泊場』は二本の沢が合流するY字状の交点の小高い丘状の場所だ。合流してから下流のほうへの流れは、羅臼町へと流れていく。右の沢も左の沢も強烈に硫黄が沈殿しており、下流に向かって左の沢には飲用可能な湧水があるのだが、周りの硫黄臭が強く漂い、さすがにあまり飲みに行く気にはならなかった。『泊場』で十四時三十分まで大休止とし、わが一行は行動食のパン、チーズを賞味した。
 十四時三十分、「泊場」発。「泊場」まではおおむね尾根筋の道をずっと辿ってきたが、ここから先は、谷筋に入っていく。谷筋といっても底部ではなく、急な斜面に取り付けられたトラバース道を辿っていく。樹木は茂ってはいるが、斜面が急なので結構緊張しながらトラバースを続けた。時々は視界が拡がり、周りの山を見渡すと、かなり標高も下がってきているようで、大体三百~四百メートルぐらいだろうかと思われる。
 時々、熊除けのためにガイドのIさんが「ヒュー」という喉笛のような声を出し、手を
パンパンとたたいている。先に書いたようにこの夏羅臼町のキャンプ場に熊が出没し、女子中学生が寝ているテントを外から叩き、妹のいたずらと間違えた女子中学生が蹴り返しているうちに、熊が退散してしまった、という事件が起こっている。ここは、熊の生息地域なのだ。熊さんの領域なのだと再認識。
 そのうち熊ではなく蝦夷鹿がトラバース道の少し上方に現れ、鹿のほうがびっくりして一瞬立ちすくんでしまうようなことにも遭遇した。Iさんの「ヒュー」もますます頻繁になってきた。
 少し緊張したトラバース道も過ぎ、また尾根沿いの緩やかな道となり、這松帯を過ぎてしばらく行き、やがて十六時二十五分に休憩用の木製のベンチ・テーブルのある『里見台』に到着。ここで十分間の小休止とした。『里見台』からは羅臼町側の展望が開けている。標高は二百メートルはなさそう百五十メートル前後かと思う。「ビジターセンター」の建物が遠望できる。いよいよ羅臼岳山行も終わりに近づいた。ここでIさんも交えてしばし「ご苦労さま」の記念撮影。
『里見台』からは樹林帯の中を歩いていく。途中温泉の湧水地などを経て、そして熊出没のため現在は閉鎖している例のキャンプ場の横をとおり、十七時二十分にビジターセンターに到着した。十二時間にわたる登山はここで終了した。わが一行が到着すると同時に、センター横にある間欠泉からお湯が噴水のように吹き上がってき
た。
(間欠泉がWell Come噴射)
 『羅臼岳登山ご苦労さんでした。そしてようこそ羅臼町へ。』
 とでも言っているかのように。
 センターでIさんと、
「また是非ともご一緒したいですね」
などと、別れを惜しんだ。今回の山行は、Iさんというすばらしいガイドさんについて貰って本当によかったと思う。はじめは「熊対策」などと思っている部分もあったが、結果、厳しい登山を十分サポートして頂いただけでなく、知床横断羅臼岳登山という懐の深い山行と、特に羅臼町に降りて行く道など、大自然を十分に堪能させていただいたし、本当に心に残る登山となった。
  センターには本日別行動の三女も迎えに来ていたが、わが一行はIさんの車に乗せていただき、本日の宿泊地である、『民宿いしばし』へと向かった。
(終わり)