【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

家族の原風景、満州文官屯を訪ねる-1

2019-06-23 01:25:04 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
家族の原風景、満州の文官屯を訪ねる
 私の家族は、アジア太平洋戦争の時に父が技術者で軍属であったため満州(中国東北地方)に移り住んでいました。私は5人の兄弟の末っ子で、私以外はすべて満州からの引き上げの体験をしています。現在では、父と長兄はすでに早世し、母も2007年10月に97歳で天寿を全うし(たと思っ)ています。彼岸まで戦時中に子育てをし、家族を守り続けた女性としての尊厳を持ち続け、凛々しく旅立ちました。母は、家族の原風景を語るのには少し年齢が行き過ぎていたかもしれませんが、この文書のオリジナル版を作成したとき(2001年)はまだ矍鑠としていて、特に戦時中のことや「命がけで」子育てをした時代のことは鮮明に覚えており、多くの体験談を聞かせてもらうことができました。私の兄、姉もだんだんと年を重ねてきていますが、何よりも家族の核となる母親の加齢が、家族の原風景を共有し続けることをなかなか難しくして来ていました。
  私は、戦争を知らない世代(1948年生)ですが、「命がけで」子育てし、「命がけで」生き抜いてきた父や母や兄、姉たちの戦争体験を自分も知り、そして私たちの子や孫に、戦争に翻弄された家族の原風景を語り継いでいく責任があると思い、家族の原風景である満州(中国東北地方…以下「満州」)を訪問し、この文章を記そうと思いました。


 地図にない町、満州(中国東北地方)・文官屯(ブンカントン)を訪ねて
 -「家族の原風景である満州(中国東北地方)旅行」に参加して-
(2019年6月20日版)

1.満州の大地は、私の家族にとっては第二の故郷である。

 私の父 (明治四十年生・千九百七年生) は、砲兵器製造に関わる優秀な技術者であった。一九三〇年代に、大阪砲兵工廠に技術者として勤務し、砲兵器の発明・改良で数度にわたって「天皇表彰」を受賞している。父は、設計能力も優れていたのだが、おそらくメンテナンス(修理・修繕)技術が卓抜していたのだろうと思われる。全く動かなくなった大砲を分解し、完全復旧させる事などは、得意だったと聞いている。
 父は、アジア太平洋戦争時の旧「日本軍」の多方面にわたる戦線の拡大展開にともない、軍属技術者として、東南アジア各国の最前線に単身赴任し砲兵器のメンテナンスに従事するようになった。家族の記憶だけでも、インドネシア・シンガポール・マレー半島・ビルマ(現「ミャンマー」)・タイ・台湾等に赴任している。やがて一九四〇年以降、満州に赴き、「関東軍」の戦線拡大とともに「満州」各地を転々と移動し、砲兵器のメンテナンスを行うようになった。「満州」も遥か北西部、ハルピンはおろかチチハルやハイラル、黒龍江方面まで赴き、民間人(技術者)であったのでロシア人との接触もあり、ロシア語が少し話せたようである。それが、アジア太平洋戦争の終戦にともなう「ソ連軍」の「満州」侵攻の際、本人の本意ではないだろうが、「案内人」として侵攻してきたソ連軍に「便利屋」として利用されていたらしい。
 一九四三年六月に「内地」より家族を呼び寄せ、「腰を据えて仕事に従事するように」との社命により、父は母、長女H、長男H、次男Jの四名を大阪まで迎えに来た。家族総勢五名は、大阪から汽車で下関まで行った。下関では、大陸に渡航しようと何日も待機している商売人や、開拓農民らの人たちでごった返す中を、軍属の家族は、時間待ちすることもなく、二等船室に案内され、そこから海路釜山へと向かった。釜山到着後、鉄路「満鉄」を乗り継ぎ、数日後の一九四三年六月に、当時は「満鉄奉天駅」の次の駅であったらしい「文官屯」駅に到着した。「文官屯」到着後、歩いて官舎まで行った。自宅として用意された官舎の隣家は「山田さん」という方で、到着後簡単な飲食物を頂き、ほっと一息ついたとのことである(母及び姉Hの話。以下文官屯での生活の様子は同じ。)。
 翌日は、「共栄会」という市場のような商店に、日用品の買出しに行った。当時は「配給制」であったが、その当時は、たくさんの「ロシアケーキ」「お菓子」等の甘いものがあり、「高級軍属」の家族である母は「多い目に配給された」ことや、米は馬車でのちほど配達されてきた思い出がある。このようにして、家族の「満州」生活は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」から始まったのである。
 なお、大阪砲兵工廠は、戦前は国鉄大阪環状線の「京橋駅」から「森の宮駅」にかけての西部と、大阪城の北東部に囲まれた一帯の広大な敷地に威容を放って聳えていたが、戦時中の大阪大空襲で徹底的に集中爆撃され、焼き尽くされた。戦後、私の中学校時代までは、赤茶けた鉄骨がまるで不規則な枯れ木のように立っていた。現在は廃墟も取り除かれ、そのあとに造築された植栽や植林もすっかり落ち着き、瀟洒なJR「大阪城公園」駅があり、大阪城ホールや、太陽の広場のある、広大な府民の憩いの場となっている。

 このたび、やはり満州から引き揚げてきた経験を持つ先輩のGさんの呼びかけの「ゆかりの地としての中国東北地方旅行」に参加し、家族の波乱万丈の「家族史」の中で、とくに第二の故郷としての原風景を心底に培った満州を実姉H、パートナーFとGさんの友人であるFさんご夫婦、Fさんの総勢7名で訪れた。

2.“文官屯”という街

 
瀋陽(旧「奉天」…以下「奉天」現在のことを書く場合は「瀋陽」) は現在は、中国遼寧省の省都で人口は六百万人余、中国東北地方随一の都市である。戦前から、撫順の石炭や東北地方の豊かな資源、あるいは鞍山の「旧昭和製鋼所」で精錬された鋼材等をアッセンブリーした重工業で代表的な都市であった。現在もなお中国有数の重工業都市であるが、一方天然資源のほうは、撫順の石炭はかっては露天掘りで採れるほど豊富にあったのだが、最近では枯渇の状態とのことである。
  私達が訪問した二〇〇一年四月三十日は、年初来初めての雨、すなわち二十一世紀始めての雨が降った日であった。文官屯は奉天市街地の北部にあり、郊外との境界に近い街である。瀋陽駅(旧「奉天」駅)からは、戦後新しく建設された瀋陽の玄関口である瀋陽北駅を経て、長春に向かう鉄路(国営の鉄道)の一駅目が、かつての「文官屯駅」であるとの姉の記憶であるが、今回訪問して、この鉄路は本線ではなく、工場への「引込み線」ではないかと思われた。現在では廃駅となっているようだが、その場所には駅舎跡と思われるレンガ造りの建物と材木の製材所兼小規模な貯木場がある。「文官屯」の近辺には旧日本軍の満州への本格的なアジア太平洋戦争の端緒となった謀略事件である柳条湖事件勃発の地がある。柳条湖事件は、一九二八年の「満州某重大事件」といわれた「関東軍」の策略(実行者は河本大佐)による「満州軍閥」張作霖爆殺事件に引き続いて、「満州事変」の泥沼に突入してゆく直接の契機となった、「関東軍」の仕業による謀略事件で、一九三一年九月十八日夜に引き起こされた奉天郊外柳条湖での「満鉄」爆破事件である。中国では「九・一八事件」といわれている。また、「文官屯駅」から車で二十分程西に行ったところには、女真族で清朝の祖ヌルハチを次いだ太宗ホンタイジと孝端文皇后の陵墓のある北陵公園がある。北陵公園は現在世界文化遺産の認定を目指し、環境の整備を行っている。ちなみに、ヌルハチ自身の陵墓は郊外にあり、東陵と言われている。
文官屯は、地図に無い街である。今回の中国旅行に先立って、「地球を歩く」等のガイドブックはもちろん、図書館でかなり詳しい古地図や中国図書の「産業図鑑」等を調べてみたが、ついに「文官屯」は見つけることができなかった。余程小さい街なのか、それとも戦後の中国では忌まわしい満州国時代の負のメモリアルであり「禁句」となっているのか、その理由は全く分からなかった。
 一九四三年から一九四六年の間、家族は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」に住んでおり、当時の戸籍謄本も現存している。今回の旅行にあたって、戦時中の「満州国」作成の「奉天」市街地地図以外に、多くの旧住所表示と現在の住所表示の対照表を入念に調べたのだが、市の中心部に「藤町」はあるが「文官屯藤見町」は記載されていなかった。「旧南満砲兵工廠」は八千人の日本人を中心に二万人以上が、機関銃や大砲を主とする旧日本軍の兵器製造に携わっていたといわれる。いろいろと推測の結果であるが、おそらく「文官屯」は基幹軍需工場の街であり、軍事機密のため地図への記載や、住所表示すらも無く、郵便物等は軍用郵便扱いで事務的に処理されていたのではないかと思われる。
  なお、現在の「文官屯」も地図に無い。「旧南満砲兵工廠」の、当時としては「超近代的」で大規模な施設跡は、戦後中国に摂取されその後最大限に有効活用され、「産業図鑑」によると、現在では西安にある人工衛星等の製造もおこなっている重航空機製造工場と並び、航空機やその部品製造を行っている、中国における二大航空機製造工場となっているようだ。その工場には数万人の技術者・製造工員等が働いており、工場の周辺を彼らの住宅である近代的なマンション群が取り巻いている。実はマンション群も含め、その一帯は現在も立ち入り禁止区域であり、今回の旅行もカメラを隠し、単なる観光客風に周辺の散策といった雰囲気にならざるを得なかった。

家族の原風景 満州文官屯を訪ねるー2

2019-06-22 01:32:19 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
3. “文官屯”の風景と家族それぞれの記憶の重なり

 
ハルピンと瀋陽を結んでいる瀋哈高速道路沿いに、女真族で清王朝の祖ヌルハチの陵墓である東陵がある。この付近には「ミステリアス・スロープ」といい、引力に逆らって上り坂はエンジンを切ってもどんどん加速度がつき、下り坂は自転車なら必至に漕がないと下がれない坂があるそうだ。日本でなら目の錯覚を利用した「不思議風景」と聞き流す話だが、ここは悠久の大地中国大陸である。思わず「本当だろうか?」と素直に思ってしまう。東陵を過ぎて、中国で数少ない高速道路の「サービスエリア」を過ごし、まもなく瀋陽の東北部郊外にある浦河インターチェンジを降りた。二〇〇一年四月三十日は、先刻の鉄嶺以来ずっと雨が降り続いている。この雨は今年に入って始めての雨、すなわち二十一世紀に降った初めての雨で、作付け前の大事な時期に私たち一行が雨をもたらしたかと勝手に思い込みながら、ほっとした気分になる。
 浦河インターチェンジからしばらく一般道を走り、やがて右折した。道路標識に「金山路」とあり、おそらく西方に向いて走っていたがすぐに左折し、また右折して鉄路を横切った。この鉄路が「旧満鉄」の「奉天」から「新京」(現長春)へ向かう鉄路(但し、本線ではなく「引込み線」と思われるが)であり、「文官屯」はもうこのあたりであることは十分に感じる事ができた。姉Hは車窓からこの辺の風景を凝視している。道なりにほぼ西方面に走っているのだろうが、踏み切りから三・四分程走ったところで、対向車線越しのレンガ塀に囲まれた敷地に「鳥居」が残っているのを発見した。「鳥居があった」と私は叫んだのだが、バスはそのまま通過した。そして二・三分走行した後少し広い通りを南方面へと左折し、工場の方面へと向かった。左手は近代的なマンション群、右手はわずかに古い街なみの雰囲気が残っている。しばらく行くと小さなロータリーがあり、それ以上は立ち入り禁止である。姉は、必死に自分の記憶を辿り寄せようと、ずっと風景を凝視しつづけているが、街の変わりように自分の記憶とあまりオーバーラップしない様子である。
 小さなロータリーでUターンし、先ほどの通りに戻り右折し、まず「文官屯」の駅の確定と「鳥居」の確認に戻った。「文官屯駅」は、地元の人たち二~三人にたずねるとすぐに分かった。先ほど横断した鉄路の延長上にあり、現在は小さなプラットホームのようなものはあるが、旅客の乗降場はなさそうである。旧駅舎なのか、古いレンガ造りの建物が残っており、あたりは小さな製材所と、貯木場であった。道路をはさんで錆びた鉄のアーチ状のものがあり、その下を「駅前通り」とでも言うような、二十メートル幅ぐらいの道路がやはり工場方面へと続いている。その道路の右側のレンガ塀で囲まれた中に、「鳥居」が敗戦後の風雪に耐え抜き、「文化大革命」の大破壊にも耐え、まるで昭和史の証人のように、一人「満州」の地に忽然と残っていたのだった。ここは「藤見神社」の跡だった。終戦後、本日私達が「藤見神社」を訪れるまでに、おそらく幾人ものこの地にゆかりのある日本人が訪れていることだろう。「鳥居」は歴史の記念碑として、又この地で果てた「満州棄民」のエピータフ(墓碑銘)として、朱塗りは剥げてしまっているが、粛然として屹立している。本殿の建物は全く跡を留めていないが、「鳥居」の手前には、兄が登ってカラスの卵を取ってきたであろう戦前からあったと思われる大木も現存していた。
 「藤見神社」跡の隣は、姉や兄が通った「国民学校」の跡地だろうと姉Hは言っていた。現在は「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」となっている。そして道をはさんで東南側に、家族の第二の故郷である「南満砲兵工廠官舎」が存在していたらしいのだが、かつての居宅の現存については全く確認できなかった。「遼寧兵器工業大学」「瀋陽工業学院」の南端から先はやはり、「立ち入り禁止区域」で、それ以上は近付けず、そこから右折し北西方面へと現地の生活道路を走った。進行方向右側は漆喰の土台のレンガ塀だが、後日兄Jにその写真を見せると、このような風景のところを通学したとのことであった。やがて最初に工場方面に右折した少し広い通りに合流した。「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」は、戦後に作られた学校であるが、その門柱は、姉や兄が通った「国民学校」の門柱を使用しているとのことであった。
  姉は、駅から工場に至るまるでパリの凱旋門通りのように広い駅前通りから、向かって左の方へ歩いて十分ぐらい奥まった所に、神社・学校が有ったという。その更に奥に、「官舎」が有ったとのことである。今回旅行から帰った後、兄Jと話したが、やはりおなじ記憶であった。おそらく、最初に工場方面に左折した少し広い通りが、かつては姉の言うような凱旋門通りのような広い駅前通りであったのかも知れない。「文官屯」駅もその場所にあったのかもしれない。あるいは「駅前大通」ではなく、駅から少し離れた大通りであったのかもしれない。その方が、記憶とのオーバーラップがよりフィットするようだが、じっくりと歩いて実感し検証する事ができなかった。「立ち入り禁止区域」が多く、厳重な警備が行われているからである。「もう少し早い機会に、母も兄も一緒に訪問しておればよかった」と心底思った。きわめて健康ではあるが、二〇〇一年当時で九一歳の母親とともに今回日本に残った兄のために、文官屯の風景を精一杯心の中に焼き付けた。私達は、しばらくの散策後思いのたけを胸いっぱいに吸い込み、第二の故郷文官屯をあとにした。

4.‘イソじい’の家族の満州・文官屯追想のメモ

(家族の文官屯追想メモ)
 母 (明治四三年・千九百十年三月生) の「満州」文官屯にまつわる記憶は、釜山から「奉天」への汽車の車中に始まる。車窓の田園地帯には当時日本では見られなかった、黒い豚の群れが放牧されていた。二~三日後に「奉天」に到着、そのまま「文官屯」へ向かい、昼過ぎに到着後隣家の山田さんに簡単な飲食物を頂き一息ついたこと。翌日、共栄会へ日用品や食物等の配給物資を買い出しに行き、家族の「満州」生活がスタートした。「満州」では子育てに忙殺されつつ、現地で姉Tを妊娠出産した。父親は「南満砲兵工廠」で第四位にランクされる技術者で、それなりの高額所得であった。軍属であり長靴を履き長剣を拝刀していた。「将校」クラスの軍人に付き、よく軍馬の後から着いて歩いていた。仕事では、満州中を駆け回っていた。母は、夫と家族の無事を祈って毎日近所の「藤見神社」へお百度参りをしていた。敗戦後父と同時に発疹チフスを発症、入院していた病院は、ソ連軍の侵攻とともに爆破されたが、父とともにリヤカーで避難した。その後ソ連軍の略奪行為等の難をのがれ、子供たちを守りながら、一九四六年六月に何とか「引き揚げ」に辿り着くことができた。「引き揚げ」のときは、「奉天駅」の公衆便所前の瓦礫化したレンガ囲いの中で、二日間雑魚寝して汽車を待った。汽車といっても無蓋貨物車であり、雨に降られ病気でぐったりとし、動けなかった当時小学校一年生の兄Jの耳の中に雨水が溜まっていたのを見て、情けなく、悲しかったことを昨日のように思い出す。姉H、兄Hは母親とともに毛布や布団、当座の着替え、干飯などを小学生ながら持てるだけ持って「引き揚げ」て来たというのに、父は自分のそろばん、計算尺、書類入れ、硯、筆等、それに「お金」と称して新聞紙を切ったものを箱に詰めて大事に持ち、「マッカーサーからもらった金や」と言いながら、」家族の共有物は何一つ持っていなかった。もともと、自分本位で家族への思いやりのない性癖ではあったが、敗戦のショックで一時期精神のバランスを崩していたようだ。
 「引き揚げ」のとき、兄Jが腸チフス、当時「満州チフス」と言われた病気を発症した。あの、大変な腕白の兄が、四十度以上の高熱と血便に、泣く元気すらなく、ぐったりとして母の膝に顔を埋めていた。「引き揚げ船」の中で病気等で衰弱した人たちを「戸板」に載せて日本海へ流し、水葬に付したのだが、母は「Jを決して海に流さない」と、引き揚げ船中兄Jを自分の着衣の中に隠し、片時も兄を放さず抱いていたのである。
  姉H (一九三五年六月生 )の記憶は、「すずらん」や「女郎花」等が咲き乱れる地平線まで続く一面の草原。官舎の裏にはとてもきれいな小川が流れており、魚や川海老が泳いでいた。国民学校の遠足は歩いて奉天市内の日露戦争の記念館へ行った。家族で歩いて奉天の競馬場へ競馬見物にもいった。「文官屯駅」からは、「南満砲兵工廠」の方面に向かって「戦車」が何列も縦隊になって行進できる、まるでパリの凱旋門通りのように広い道が続いており、その左側の歩いて十分ほど奥まったところに「藤見神社」とその斜め向かいに「国民学校」があった。官舎はそのまだ奥にあった。敗戦後ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行行為が繰り返された。母も姉も頭髪を丸刈りにし、男に扮し難を逃れた。父は、ロシア語が少しできたので、ソ連兵が侵攻してきた折に「案内人」として刈り出された。本人は非常に「嫌」であったらしいが、やむなく「旧関東軍の憲兵隊」の家等に「案内」し「通訳」をしたが、ソ連兵が向かう方向には予め知らせ、避難するように連絡していた。
一九四六年の「引き揚げ」は「満鉄」を乗り継ぎ「葫芦島(コロトウ)」から海路舞鶴へ向かった。七日間かけて舞鶴に到着したが、「引揚者には虱がわいている」といわれ、二日間待機させられ、「虱」駆除のため頭からDDTを散布されたことや、舞鶴到着後風呂に入れたが、「入れ」の号令後すぐ「上がれ」と言われ、温まる間も無かったことなどを記憶している。なお、「葫芦島」は現在では中国の海軍基地がある。

20190620パライソ・メッセージ「闘う団塊の世代」

2019-06-21 23:10:54 | 楽しく元気に『反日』トーク
20190612 パライソ・メッセージ「闘う団塊の世代」
《ブログタイトルのマイナーチェンジとブログの編集・更新をします》併せて、ブログのURLを以下のように変更します。

旧URL:  http://blpg.goo.ne.jp/isokawas
新URL:  http://blog.goo.ne.jp/isojii

 暫く、超多忙を言い訳にブログの更新を怠っていましたが、この4月から48年間にわたる労働者生活もリタイア(途中12年間+αの経営者生活も経験しましたが)しましたので、再び更新と編集をします。この間、皆様から心のこもったいろんなメッセージを頂き、ありがとうございました。併せて、ブログのタイトルも【闘う団塊の世代-イソじいの、山・遍路・闘病・そしてファミリー】と、マイナーチェンジします。

  • なぜ、タイトルのマイナーチェンジか
    昨今、団塊以上の世代に対する『邪魔者扱い』、毎年どんどん下がる年金とどんどん上がる国民保険や公租・公課、病気やケガ、家族の事諸情等で生活困難になれば『自己責任』、つい最近、「年金だけでは死ぬまでに2,000万円赤字だから自分で蓄えろ」等々。若い時に無茶苦茶働き、日本の民主主義を担い実践しながら、高度成長を現場で支えてきた自負を持ちつつ、リタイアすれば払い続けてきた高い・高い年金を還元してもらって、パートナーと共に悠々自適に暮らすはずであったのが、全く話が違う。それどころか戦後の日本を築いてきた団塊以上の世代の皆さんが、今や邪魔者扱いにされています。このあまりにも悲しくも恥ずかしい現状に対して、私断固闘います(後日、パライソ・メッセージ等を通じて)。
    併せて、団塊以上の世代の皆さんは(一部の方を除き)、何故戦争に反対し憲法を守ろうという人が多いのか。私は1948年、戦後生まれで直接の戦争体験はありません。しかし、私や同世代の皆さんの母親は戦禍から子供たちを何としても護る【本当に命がけの子育て】をしてきました。命がけ子育てをしてきてくれた母親からもらったいろんなメッセージや「やさしさと反戦平和のDNA」は、昨今のきな臭い現状や、ヘイトスピーチやフェイクニュースを嫌悪・軽蔑します。これも私のブログの『家族の第2の原風景・文官屯を訪ねて』にも一部書いています(これからも、いろんな視点でパライソ・メッセージ等に書き綴ります)。

今後とも、よろしくお願いします。

20190615パライソ・メッセージ「戦争法の発動を許すな」

2019-06-21 23:02:09 | 楽しく元気に『反日』トーク
戦争法の発動を絶対に許さない

 イランがホルムズ湾で日本関係他のタンカーを魚雷で攻撃し、タンカーが炎上する『事件』がありました。アメリカはイランによる攻撃と世界に対してコメントしています。私は真っ先に1964年のベトナム戦争の引き金となったトンキン湾事件を思い起こしました。トンキン湾事件はその後「ペンタゴンペーパー」の暴露によって、アメリカの捏造であることが世界的に歴史的に明らかになりました。
 『イランによる魚雷攻撃』キャンペーンでもう一つ大変憂慮するのは、戦争法の国会答弁の中で安倍首相が声を張り上げ言っていた「駆けつけ警護」や、「国の生命線」であるシーレーンの安全確保、海外で様々な国際協力や支援活動、ビジネスをしているNGOや支援団体の皆さんや企業を守ることは自衛行為であるということ、その例の一つとして日本のタンカーが攻撃された時の救護や護衛は合法であるとの解釈(閣議決定)です。この二つが合わさると、アメリカは「イランが日本のタンカーに魚雷を打ち込んだ」と、プロパガンダを繰り広げるだけで、アメリカは軍隊を派遣せず(国内的にも国際的にも批判を免れる)、高額な武器や兵器を日本に売りつけて武器商人が多額の利益を得、日本が戦争法に則って自衛隊を派遣し戦争する(人的犠牲を出す)という構造が出来上がっているということです。ここは大変な正念場と思います。選挙で野党間の政策調整をすることは大変大事ですが、各野党も矜持をもってそのようなことは絶対にさせないようにしてください。後世の歴史のためにも。

家族の原風景 満州文官屯を訪ねる

2019-06-21 01:35:49 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
5.文官屯での生活

 兄J (一九四〇年一月生 )は大変な腕白であった。文官屯の官舎は金網のフェンスが張り巡らされていたが、その金網を乗り越えて満人(満州在住の人たち)の集落まで行き、満人の子供達と遊んだ。パンや饅頭(マントウ)をよく貰った。神社の大木に登りカラスの卵を取ったりして子供たちの「ガキ大将」であったが、母親の心配は並大抵でなかったようだ。カラスの卵は青色で、卵を取っている最中には必ずつがいのカラスが襲ってくる。それを、はらいのけて取った卵を飲んだのだが、受精卵のため、羽毛の生えた雛が中にあることも良くあったとのことである。小学校一年生の時授業が終わると姉の教室の前まで行って待っていた。兄が一年生の時に終戦を迎え、子供たちは集団で官舎まで登下校したが、学校帰りに官舎の門番のおじさんにいつも兄だけ肩車され、かわいがられた。もっとも、父親がかなりランクの高い技術者であったことも、「ひいき」の要因の一つかもしれない。兄の記憶では、「文官屯駅」は客の乗降用の駅ではなく、物資・貨物の集配駅とのことであるが、今回の訪問で兄の記憶の方がイメージが重なるように思う。兄は、敗戦で「引き揚げ」の時、腸チフス(「満州チフス」といわれた)に罹患し、高熱・血便で真に生死の境をさまよったが、卓抜した生命力で耐え抜いた。これも、母親にとって「引き揚げ」の極めて困難な状況下のことであり、先に述べたように「異国の地で死なせてはならない。日本海に流してはならない。何とか家族全員生きて日本に戻れるように」と、大変な心労と、プレッシャーであったことだろう。
 長兄H(一九三七年三月生)は、「引き揚げ」後大阪で中学校、高等学校と進学したが、一九五四年七月、一八歳の時に盲腸炎をこじらせ、腹膜炎を併発して病死した。我慢強く責任感の強い人間で、自分の学費の一部にと夜間に日本経済新聞社でアルバイトをしながら家計を支えていた。腹痛にも我慢に我慢を重ねていたのであろうが、現在の医学ではまず死に至ることは無いだろう。痛恨の思いである。同時に文官屯の思い出の大事な大事な視座も、一つ欠落してしまった。
 父 (明治四十年・千九百七年生) は一九六七年七月、三度目の脳溢血の発作で死亡した。父にとって満州は自分の夢とロマンを思いのたけ実現させる事のできた、最高のフィールドであり、ステージであったのだろう。敗戦後、否応無く迫られた現実の環境とのギャップに、全く自分の責任であるのだが対応することができなかったのだろうが、随分と自分勝手な生き方をしてきた。母や兄、姉の中には父に他する「いい思い出」は私も含めて何もない。それでも一九六一年に最初の脳溢血で倒れた後、家でリハビリをしながらテレビで満州の画像や、引揚者の話題が放映されると、涙を流し時には嗚咽しながら凝視していた。
 姉T (一九四四年十月生 )は、現地で出生。乳飲み子のまま、新しく増えた家族として「満州」から「引き揚げ」てきた。その時は、姉Hがずっと背負ってきたとのことである。
 私は、戦後の混乱がまださめやらない一九四八年十二月、「大阪市大淀区大仁本町一丁目一〇一番地」の小学校を利用した「引揚者用合同住宅」で出生。
 姉Tが出生した時には、すでに日本はアジア太平洋戦争に敗れ、満州全域は「ソ連軍」や「国共軍」が侵攻し、中国大陸の新たな勢力再分割が怒涛のように押し寄せてきていた。母は、乳飲み子のTを片時も離さず、家族離れ離れになることなく翌一九四六年六月の「引き揚げ」に必至の思いで辿り着くことができた。「引き揚げ」の時には、兄Jの腸チフス(「満州チフス」)の発症という過酷な精神的重圧にも耐え、飢餓などの大変な苦労を乗り越えてきた。そして、舞鶴到着後、父市太郎の本家筋の故郷である、石川県鹿島郡能登中島に七月十二日に到着し、兄Jも何とか小康状態となり、新たな家族史が始まるが、その後の軌跡は別の機会で記述する。
 この母親を軸とした家族の絆は、家族それぞれが「生命がけ」の経験をし、共有し合ってきたことによって、今ある家族の絆の珠玉の原点となっているといえる。「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八」はその意味で、私達の家族にとって第二の故郷の原風景の場である。

  翌早朝六時、メーデーの休日でにぎわう瀋陽市北稜公園に、姉とパートナーと私の3人で散歩に出かけた。雑踏の喧騒がつぎからつぎへと溢れ出てくる瀋陽の休日の公園、その朝の空気をたっぷりと吸い込み、この地の名残とした。

6.中国・東北地方雑感

 私は、実は中国旅行は今回がはじめてであった。今回の旅行は、長姉が健康で活発に行動できるうちに家族の第二の原風景である中国満州を訪ね、家族のメモリアルを記録し、それぞれの家族の子供や、孫たちに残しておきたいと思ったからである。特に、私は第二次世界大戦も中国の満州も知らない世代である。私の世代は、親や兄姉の戦争の体験を繋いで、次の世代に戦争を語り継ぐ義務もあると思うし、そのために家族の原風景をこの目に焼き付けておかねばならない。その自覚も大きくあったが、一方では、はじめての中国、それも社会主義から「社会主義市場経済」への移行と称する「ダイナミック・チャイナ」にも大いに興味があった。それらのことも含めて、今回の中国旅行で印象に残ったことを、綴ってみた。