胃 癌 日 記
胃癌日記 1.スキルス胃癌の宣告から手術までの悶々とした日々
2011年の秋は暖かい。10月半ばというのに、私は未だ半袖のシャツに7分丈のズボンである。
もともと健康で、ここ15年以上、少なくとも1995年に現職に就職して以来、風邪ひきや腹痛などで休んだことは、あるかないか思い出すのに苦労するほどで、記憶にも無い。2006年3月の未破裂脳動脈瘤のクリッピング開頭手術のあと、体力維持回復のために、阪急の最寄駅から職場までの通勤経路往復8Kmを含め1日10Kmを歩き続けている。大峰奥駆もテントや6~8リットルの水をかついで登り、体力的にも自信を持っている。いわば頑強な身体である。
しかしいかに頑強とはいえ、加齢とともに身体も傷んでくる。2005年の健康診断で便潜血といわれ、かかりつけのNクリニックに相談した。Nクリニックでは注腸検査をし、その結果異物が見られたため、S病院へ紹介され、大腸ファイバーの精密検査となった。S病院の内視鏡はかなり評価が高く、N先生の紹介で、Aドクターに検査をしていただいた。大腸ファイバーでは5mm程度のポリープが見つかり内視鏡で切除、ポリープが大きかったので、切除後観察でそのまま3日間の入院となった。後日切除したポリープから癌細胞が見つかり、結果「大腸腺癌」の診断が下された。
それ以降私は、頑強な身体とはいえ歳も歳だし、念のため脳動脈のMRI・3次元CTと大腸ファイバーそして胃カメラを、身体のメンテナンスとして、毎年秋に検査を受けることにしている。
2011年も10月中旬に大腸ファイバーの検査をしており、例年順調ではあるが今年は特に異常は無く、細胞検査もしなかった。一安心していた。以下、2011年秋の身体のメンテナンス日記から。
2011年10月15日(土) 胃カメラ1回目
本日はNクリニックで胃カメラの検査。昨日は学生時代の同志、S君の急逝で夕刻お通夜に出席してきた。弟さんの話を聞くと、病気治療の薬を変えたところ、薬物ショックで本当にあっという間の急逝であったとのこと。非常に残念至極である。
そして本日私は胃カメラの検査。2日前に大腸ファイバーの検査で消化器を空っぽに、とりわけ大腸を無理やり空っぽにするかなり辛い思いをしたのもつかのま、1日おいてまた胃を空っぽにした。
15日当日はNクリニックは結構混んでいて、10時30分の検査開始予定が実際に始まったのは10時50分過ぎだった。
2年前から経鼻胃カメラになって、今回で経鼻は3回目。初回はスムースに入り、Nドクターに感想を聞かれ、『カメラが入っているのに話しが出来るのはいいですね。』とか『口から入れると10分くらい経つと辛抱たまらんようになるのですが、鼻からだとまだまだ、いくらでも耐えられますね。』とか言っていた。しかし2回目は、痛かった。鼻血も結構出た。さて、今回はどうかなあと、若干の不安も思いながら鼻から入れてもらったが、なんと、今までで一番スムースに入っていった。いわば“楽勝”。Nドクターと喋りながら胃カメラ挿入、と言った感じだ。
さて、逆流性食道炎はあるが、おおむね食道異常なし。胃の入り口辺り異常なし。胃炎はあるがピロリ菌駆除の効果か、昨年に比べて炎症も大分治まっている。と順調な所見。ところが、
「うーん、ちょっと気になるなー。上彎の胃底部にちょっと気になるものがあるので、細胞を採りますよ。」
とNドクター。こちらはなにも分からない“まな板の上の鯉”状態。モニターを見ていると、見えるか見えないか、ごくわずかに赤くなった点のようなものがある。そこに焦点を当て、拡大して行くと胃壁に“梅の花”のような、4箇所が盛り上がり真ん中がへこんだものができている。
「ちょっと細胞を採りますよ。」
多少不安になりつつも、まあこんなことはあるだろう、などと思いながら見ていた。4箇所の盛り上がりそれぞれから細胞穿刺。組織をごく小さな疳子のようなもので掴み出すたびに出血。
「先生。えらい出血するのに痛いことはないですねー。」
「本当やね。これが皮膚やったら拷問でっせ。」
そんなやりとり。組織を採りながらNドクターは、
「Iさん。あまりいいものではないようです。私の感じでは8割がた癌やと思います。細胞検査の結果は10日位かかるので、次回来た時に言います。」
胃カメラの後、Nドクターは写真や資料を示しながら、
「部位は、胃の底のほう、上彎部ですね。形状から見てⅡa型かと思います。次回来た時にお話します。」
私は、一連の検査の流れの中で、癌かなあという思いが沸々と感じてきていた。だからNドクターのそういった話を聞いても、冷静に受け止めていた。
家に帰って、連れ合いに本日の経過について話した。連れ合いは看護師ではあるが、こういった状況に冷静に受け止められるだろうか、といった心配をしながら話したが、なんと言うことはない、連れ合いは冷静だった。
10月29日(土)
本日は前回の検査結果を聞く日。連れ合いに一緒に言って私の癌を見ておくか、というと、流石看護師である連れ合い、
「まあ、見ておこうかな」
この日は、T整形の腰のリハビリはカットして、私は歩いて、連れ合いは自転車でNクリニックの前で待ち合わせ。本日は校友会大会があり、11時からの学部の企画には参加しなければならない。そのため9時に待ち合わせ。この日も結構混んでいて、結局診察開始は10時になった。呼ばれて診察室へ入り、今日は連れ合いも一緒に来た旨言って椅子に座ると、Nドクター英語で書かれた検査結果を見せて
「Iさん。性質の悪い細胞が出ています。検査結果を見て、独断でS病院のA先生にデータを送りましたよ。この前S病院へ行ったばかりやけれど、もう一度行ってください。」
検査報告書のCancerとCellだけは分かった。
「分かりました。先生。性質の悪い細胞て、進行性のスキルス癌ですか。」
と聞くと、
「そうです。紹介状を書きますのでS病院に行ってください。」
「先生。11月4日は、T病院で年1回の能動脈のMRA(実際は3DCTだったが私が間違えていた)の検査の予約が入っているので、その日以外でお願いします。」
と言うと、Nドクターは、
「何を言っているんです。そんな術後の検査は少々遅れたっていいじゃないですか。やらなくてもいいぐらいですよ。」
と、珍しく少々語気荒く言われた。かなり切迫しているのかなあ、自覚症状は何もなく、食事も美味しく沢山食べているんだがなあ、と思いつつ、ただならぬ思いも感じていた。
Nドクターは先日の胃カメラの写真データを連れ合いに見せて説明している。私は90%の覚悟はしており、愕然となることはなかったが、『いよいよそうか』という思いがじわっと沸いてきた。Nドクターはその場でS病院のAドクターに紹介状を書いて、ファックスを入れた。
暫くすると返信が来て、11月2日の水曜日に診察とのこと。私は、予定を入れて、午前の4時間の年休の手続きをした。午後3時には仕事で重要な来訪者の対応をしなければならない。
この日、Nクリニックの前で連れ合いと別れ、校友大会にJRで向かっている途中に、気にするな、気にするなと心の中で言い聞かせているのに、無理無理にと言った感じで色んな思いが、これでもかこれでもかと脳の深層部をよぎっていく。
癌で亡くした友も沢山いる。53歳で逝った大親友のM、彼は私が会社経営をしていた時に私の仕事に関わって何度も保証人になってくれた。何も言わず金も貸してくれた。そのことの責任は私の経営者としての至らなさなのだけれど、訪ねた折には彼は『またかー』と言って、無理を聞いてくれ、『まあ飯でも食っていけや』と言ってご馳走してくれた。今思い出しても涙が出てくる。そんなMが眼底の原発癌と胃への転移で亡くなっている。親友のように心を許しあった連れ合いの兄Hも50歳の若さで胆管の癌で逝った。痛恨のことだった。北海道出身のOも胃癌で50歳代前半に逝った。職場では同僚のNが一昨年、Kさんがやはり50代前半で亡くなっている。孫が学校で世話になったGさんのご主人も50代半ばで逝っている。
そんなことが、走馬灯のように私の心に沸々と沸いてきた。
11月2日(水) S病院受診、腹部造影剤CT、血液検査
朝8時40分にSN病院着。受付を済ませ、消化器外来待合で待つ。患者が多く、結局Aドクターの診察室に呼ばれたのは、9時40分。呼ばれて診察室に入ると、Aドクター、
「Iさん。あまり良くないようです。」
「先生。いわゆる進行性のスキルス癌ですか。」
「そうではありませんが、そうなり易い悪い細胞が出ています。」
とのこと。それは私なりの解釈では、『そうです』と婉曲に言われているようなもので、逆に単刀直入にそう言わないのは、『非常に厳しい状況であり、率直には言えない。』と示唆されている思いである。
「先生。内視鏡で取れるのでしょうか。」
聞かずもがなのことを聞くと、にべもなく、
「内視鏡手術の適用外です。」
続けて、
「今日、造影剤を入れて腹部CTを撮ります。8日に胃カメラ、11日昼の2時半に診察の予約を入れておきます。その時に結果を言います。その後外科に回ってください。」
とのこと。7時頃に朝食を食べてきた旨を言うと、11時からのCT検査を受けるように言われえた。切迫した感じだ。
内視鏡手術ならAドクターにお願いしようと思っていた。しかし、開腹手術とのこと。このままだと『当然の流れ』としてS病院で開腹手術ということになってしまう。
ちょっと待て。それで自分自身が納得いくのだろうか、そんなことも考えながら時間を過し、11時からの造影剤腹部CTの検査を受けた。
11月4日(金) 脳の3次元CT
本日はT病院で、昨年から予約していた3DのCTによる脳動脈の撮影と受診。2006年3月の未破裂脳動脈瘤クリッピング手術の術後ケアーで、その後の動脈瘤の状況等を見る年1回の脳動脈メンテナンス。最新鋭の3DCTの機械で撮影後、Iドクターの診察。Iドクターは手術経験の豊富なベテランの脳外科医師。脳外科手術以外にも人工関節置換手術で多くの実績を上げておられる。Iドクターが言うには今年の3DCTの結果は、脳動脈瘤などは新たに出来ておらず、順調。ただ、脳動脈が少し太くなっている部位があり、動脈硬化によるものだろう、とのこと。とにかく自覚症状はなくとも体中が何かと傷んで来ており、年1回の身体のメンテナンスはますます必要か。
「先生。ちょっと近々胃癌で開腹手術をしなければならんようになりました。何か気を付けておかんといかんことはあるでしょうか。」
「ああ、そうですか。血圧はどうですか。」
「寝起きは上が140位、下が80から90位。寝る前は上が120から130、下が70から80位です。」
「ああそうですか。特に大丈夫でしょう。」
連れ合いが、
「前回の脳動脈瘤の手術のときに、回復室のICUにいる時に脳内出血を起こしていますが、今回も全身麻酔で手術するのに、その危険性はどうですか。」
「前回は、たまたまだったのでしょう。」
とのことであった。
11月5日(土)
自分としては、このままの流れでN病院の開腹手術に委ねるのはなんとなく納得がいかない。
私の長兄Hはもう随分昔のことになるが、1954年7月9日に17歳の時に盲腸炎を破裂させて、腹膜炎を併発しS病院で手術をしたが、亡くなった。当時私は5歳であったが、家族のただならぬ悲しみは今でも良く覚えている。
一方私は10歳の時に盲腸炎を起こした。私の場合も盲腸炎が破裂して、腹膜炎寸前であった。私はO大学病院で手術を受けた。盲腸炎というのに2週間も入院して、結果無事退院することが出来た。これは昔々の話で、今日ではO大学病院などは、もっぱら超高度医療で盲腸炎の手術などすることはないだろう。また、私の姉のHは、2008年に甲状腺の癌が発見され、やはりO大学病院で10時間以上にわたる手術を受け、無事成功し今日元気で過している。
K大学病院もいいのではないか、職場の保健センターの産業医に相談すればF大学病院を紹介してくれるだろう。などいろんな思いが廻ってきた。手術がうまくいっても駄目だったとしても、自分で納得したい。そんな思いで、2日と4日の診察結果の報告に、Nクリニックに行った。
「N先生。自分としては、S病院のA先生にはたいへんお世話になっていますし内視鏡手術なら是非お願いしようと思っていましたが、開腹手術となるなら外科の他の先生ということなので少し考えさせてください。例えば、O大学病院などは、自分も子供の頃に盲腸の腹膜炎で手術してもらって助けてもらった経験がありますし、最近も姉が甲状腺癌の手術をしてもらい、術後が良好です。他にもK大病院やF大学病院なんかも考えたいのですが。」
「それはIさんが納得のいくように決められたらいいことです。ただ、私の意見としては、私もO大学出身で、場所も近いけれど、紹介しないでしょう。やはり大学病院は教育機関だから、確かに手術の腕もたいへん良い優秀な先生も、O病院でも知っていますが、こちらからは先生は指名できません。紹介状は書いたが、担当が研修医と言うことも珍しくないのです。有能な先生は超最先端医療は進んでやりますが、胃癌では若手が執刀すると言うことは良くあることです。まあ、若手でも手術が上手な先生もいますがね。大学病院へ行くというのは、ある意味“一か八か”の感じがあります。まあ、いずれにしてもIさんが自分で納得いくようにされたらいいと思います。」
「脳手術のときに、術後ICUで軽い脳内出血を起こしています。脳外科のある病院のほうがいいのですが。
「SN病院もあるのではないですか。脳外の手術もしているはずですよ。」
「腹腔鏡手術はどうですか。」
「王監督も腹腔鏡手術で胃の全摘をしましたが、私も大学病院時代には開腹手術をしていましたが自分で組織を触りながら、転移を確かめて切って行きました。腹腔鏡では近辺の細胞を採り組織を検査しながら手術をします。確かに回復は早い。今のところ一長一短だと思うけど、評価がある程度定まるのにあと5年位かかるのではないですか。」
11月6日(日)
本日は大学ラグビーの試合観戦、結果は相変わらず今シーズンの特徴である正直に『堂々と』受けて立つまったりした試合で、10-33で完敗。
さて、家に帰ってインターネットで連れ合いがいろいろ調べた。S病院は胃癌の手術数が多く年間155例で、関西では5番目だった。上位にはO大学病院もK大学病院もF大学病院もない。術例もTドクターやNドクターの実績が紹介されている。私は連れ合いに、
「8日の胃カメラの後、Nクリニックに寄って、8日の胃カメラ、11日の診察によっては、S病院で開腹手術をお願いします、と言ってくるわ。N先生も紹介した手前もあるやろし、確かに大学病院へ行っても“一か八か”と言うこともあるし。よっぽど若い研修医なら考えるけど、T先生かN先生の執刀ならS病院で手術してもいいわ。」
と言った。
11月7日(月)
終日、福井県に出張。
20時過ぎに帰ってくれば連れ合いが
「N病院から電話があった。」
「なんや。もう手遅れ言うてはんのかいな。」
「明日、9時30分の予約やが、A先生が緊急のオペで、8時45分に来るように、だって。」
「ふーん。やっぱり緊迫してる感じやな。」
「失礼ですが、奥様でいらっしゃいますかとしつこうに聞かれたわ。」
と、そんなやりとり。
11月8日(火) 2回目の胃カメラ
朝7時37分の阪急電車でS病院へ向かう。8時5分着。再来受付を済ませて、内視鏡センターへ行くと未だ電気も点いていない。
暫く待っていると、時間通り8時45分に受付。問診をして、更衣して、いよいよ胃カメラ。今回は手術のための検査で、経口の胃カメラ。8時50分頃からA先生が先日の造影剤CTの説明をしてくれる。リンパが腫れている。転移か単なる炎症か調べるので、今日PETの検査の予約をしていくように、とのこと。何だか、だんだんと悪いほうへ悪いほうへ行くようではないか。
やがて咽頭の麻酔や静脈麻酔をして9時丁度位に胃カメラが始まった。何回もしている検査だし、経口と言っても入れるときにしんどいだけでどうということはない。そのつもりだったが、今回は、入れるときには楽だったが検査が進むにつれて、実は苦しかった。おそらくいろんな部位の細胞穿刺をされたのだろう、何回も穿刺された感じがするし、病変部へのアップや何か、やたらと管が動き、出たり入ったりする。正直えらく苦しかった。
胃カメラ挿入から終わるまで27分。しんどかった。
本日は診察はなしで、その後術前の血液検査。そしてPETの予約を入れて本日は、帰宅した。帰宅してから、書類を整理し、Nクリニックに寄る。12時10分。午前診終了間際に入った。診察室で、本日の状況を一通り報告した上で、
「先生。インターネットで調べたら、S病院の胃癌手術の症例は関西第5位で、執刀医もT先生やN先生などのベテランはかなりの実績をお持ちのようです。そういうことならS病院でお世話になろうかと思います。」
「T先生は良く知ってます。S病院は術例は多いですよ。関西ではI学病院、Sセンター等が多いと思いますが、S病院は引けをとらんと思います。」
とのこと。そのあと、
「先生。先日の造影剤腹部CTでリンパ腺が腫れているといわれ、PETの検査をすることになりました。」
「ああそうですか。転移してなければいいのにねえ。まあ、最近は化学療法も薬物療法も相当進んでいるから。」
私としては言外に“最悪”を宣告されているようで、複雑な気分になった。まだ胃癌の自覚症状は全くない。食用旺盛。
11月9日(水)・10日(木)
仕事。仕事で忙しければ気分は紛れるが…。
11月11日(金) PET検査
朝いつもの通り出勤し仕事。本日はAドクターの診察後PET検査のため、仕事のほうは午前中11時30分までで、昼・午後の5時間年休取得。職場の若手も、私が最近休みが多いのと不定期なので、心配の様子。自分の病状については、ある程度の事実をS課長には話しているが、勿論、絶対に職場、上司、人事課も含め「他言無用」で話している。もう1人、仕事を共有していて私を信奉している若手唯1人だけには、他言無用で
「毎年の体のメンテナンス検査で引っかかった。病院からは歳も歳やし検査入院しなさい、腫瘍マーカーも高いことやし、といわれた。まあ、ちょっと入院してくるわ。」
と、先日言っている。
11時45分に仕事を取り敢えず片付けて、大急ぎでS病院へと駆けつける。PET検査のため昼食抜きで京都から大阪へと急ぎ、午後1時5分にS病院の再診受付と消化器内科の受付を済ませ、診察待合へ。本日は1時30分に、消化器内科待合で連れ合いと待ち合わせ。やがて連れ合いがやってきて、一緒に待つ。なかなか呼ばれず、検査の時間は近づいてくるわでいらいらしていると、2時15分になってやっと呼ばれた。
診察室に入ると、連れ合いをAドクターに紹介する。
「CTを見るとリンパが腫れています。潰瘍やらで単なる炎症ならいいのですが、細胞が良くないし、リンパですから早く手術したほうが良いでしょうね。腫瘍マーカーは正常(肝臓、膵臓、あと前立腺か?)なんですがね。」
腫瘍マーカーが正常と聞いて少しホッとした。
「先生。開腹手術ですか。」
「そうですね。」
「自分も覚悟をしていますので、何時でも良いのですが。」
Aドクターは医療スタッフに指示して、この後のPET検査の結果が解る日をPETセンターに確認している。どうやら1週間かかるようだ。
「来週18日に検査結果を見る再診としましょう。その上で外科に紹介します。」
「先生。PET検査は、癌の転移を見るんですね。」
「そうです。」
「その上で、どのような範囲の手術かも判断されるのですか。」
「そうです。」
と言うことで、18日の再診予約の手続きをして、A先生の診察を終えた。
診察後、急いでPETセンターに駆けつけて検査の受付。3時間ほどかかるのと、検査後この報告で茨木のNクリニックに寄っていくので、検査着に着替えた後、連れ合いは先に家に帰った。PET検査は全く苦痛はないのだが気が萎える。体重・身長・血糖検査のあと造影剤の注射、その後40分の安静。これだけでもいい加減うんざりだが、本番の透視の機械での検査に30分、そして再び20分の安静、再び30分プラスCTの透視、そして検査後チェックやらでやっと放免。2時40分に開始し、終了したのは5時40分だった。
検査後茨木の主治医のNクリニックに直行した。Nドクターに本日の診察と検査の結果を報告。
「先生、PET検査をしてきました。結果は1週間後と言うことで、18日にA先生の再診後外科に回されて手術の日程が決まるようです。」
「そうですか。転移がなければいいですね。私も明日午後A先生と勉強会で一緒になりますから、様子を聞いておきます。」
「先日の検査で、腫瘍マーカーは肝臓と膵臓とあと前立腺と思いますが、正常だと言うことです。」
「腫瘍マーカーはあてにならんです。高い人が低くなれば治療効果があったと判断しますが、もともと低くて、上がらない人もいます。」
と言う。Nドクターは嘘を言えなくて、歯に衣を着せないのは私も好きだが、それにしてもデリカシーが無い。もう少し優しく言えないのだろうか。私だって、自分で言うのもなんだがナーバスな状態になっているのに・・・。
11月12日(土)
本日は職場のリクレーション。昨日来の雨も止み爽やかな秋晴れ。職場の若手ら総勢6名の少数精鋭だが、「紅葉狩り・温泉・松花堂弁当の秋の遠足」と銘打って、貴船から鞍馬へのピクニック。和気藹々と一日を楽しんだ。未だ全く自覚症状は無いどころか、一行の中で私が一番元気。本当に楽しく気分が紛れた。
11月13日(日)
ここのところずっと土曜か日曜に、連れ合いとともに姉のHのケアをしている。本日は姉のHを誘い、映画に行くこととした。朝8時過ぎに出発し姉宅へ行く。毎日の薬を飲んでいるかチェックし、飲んでいなければ飲ます。一通り飲ませた後、自作の「毎日薬箱」に薬を補充してから映画に向けて出発。
本日は三谷幸喜監督、西田俊之や中井貴一出演の「ステキな金縛り」という映画。三谷監督独特の奇抜なシチュエーション作りや、西田、中井などの嫌味の無い演技に思わず大笑いした。
映画の後は、まずまずの味の天婦羅屋でランチとした。本日もかなりの時間、鬱陶しいことを忘れ、心から気分が紛れた。連れ合いの思いやりだと思っている。ありがとう。
11月14日(月)
仕事。就業前に課長に11日の検査と今後の予定を言う。その後、次長にどういうか尋ねられ、私のほうから言うといえば、次長を別室に呼んできてくれた。
「次長。ご存知のように私は毎年秋に体のメンテナンスをしています。」
「そうですね。」
「今年もしたんですが、実はちょっと引っかかりまして、『歳も歳だし、腫瘍マーカーもちょっと高いし、この際徹底的に検査したらどうか』と言われました。それで、多分来週になりますがちょっと検査入院しなければならなくなりました。」
「そうですか。気をつけてください。何か自覚症状はあるのですか。」
「いや、何もありません。土曜日も若手とハイキングに行ってきましたけど、私が一番元気でした。」
「あっははは・・・。そうですね。Iさんの元気には若手もかなわんでしょうね。」
そんなやりとり。
あと、段取を整えておかねばならんので、忙しく仕事。仕事の間は、気は紛れる。
連れ合いが清水寺の「健康祈願」のお守りを買ってきて、私にくれた。
11月15日(火)16日(水)17日(木)
仕事。忙しくて忙しくて気は紛れる。17日(木)は大阪で鳥取県のイベントに参加。午前中は大阪の事務室で仕事。
11月18日(金)
朝から姉Hのケアで、連れ合いと一緒に姉宅に行く。
帰りに図書館分室やガソリンスタンドなどで所用を済ませ済ませ、10時過ぎに自宅に戻る。その後近所の整形外科へ行き週1回の腰のメンテナンス。11時過ぎに家に戻り準備をして、S病院へ向かう。今日は先週のPET検査の結果と、外科への紹介と手術のスケジュールの確定だ。今日は連れ合いは所用のため同行せず。
11時55分に梅田の定食屋で昼食を済ませ、病院に入り再診受付を済ませて、消化器内科の待合で待っていると、予約時間の13時丁度に呼ばれた。
「PET検査の結果は、集積はありませんね。全身への転移は認められません。リンパ腺への転移もありません。リンパ節が腫れているのは、長年の胃潰瘍の為かもしれません。腫瘍マーカーも陰性です。」
とのこと。検査結果ではいまのところ転移は見当たらないと言うことだ。
「腫瘍マーカーの検査は、血液検査ですか。」
「そうです。」
前回の診察時「腫瘍マーカーは正常」と言われたと思っているのだが、今日は「陰性」と言われた。
いずれにしても、落ち込んでいる場合ではない。積極的に癌と闘わなければならない。そんな思いが沸々と湧いてきた。
「Iさん。あまりいい細胞ではないし、リンパ節も綺麗にしたほうがいいので、私は開腹手術をしたほうが良いと思いますよ。」
A先生の所見。私は開腹手術の覚悟はしている。今までは、逝くにあたってどのように身辺を整理しておこうか、化学療法や放射線治療にどう立ち向かおうか、などと「暗く」思い込んでいたが、最近では「頑張るぞ!」という気持ちになってきていると思う。楽観は出来ないが、前向きに行こう。
連れ合いのくれた、お守りの御利益か。
11月19日(土)・20日(日)
大学の同期でともに学生運動を頑張ってきた同志・仲間たちの集いの同期会の年1回の集まりで伊勢へ行く。あいにく朝から雨が降っている。
数日前までは、今回が自分にとっては最後の集いかもしれない、などと「特別な」思いを持っていたが、PETの検査結果でとりあえず転移は無いとのことで少し気持ちは軽くなった。しかし私の胃癌の発見となった10月15日の胃カメラの前日は、薬剤ショックで同期仲間のS君が逝ったそのお通夜に参列してきたばかりだ。複雑な思いだ。
19日は地元に住むF君夫妻の自動車に便乗させていただき、二見が浦で夫婦岩を見、その後展望スポットに案内してもらう。あいにく雨と強い風で展望は無かったが、楽しいドライブだった。夜はF婦人がメンバーであるエクシブの鳥羽に宿泊し、スパを楽しみ懇親会に昔を偲び旧交を深めた。この歳になると、心筋梗塞やら前立腺癌やら結構命に関わる「病気持ち」が増えてきている。私はというと、2006年に未破裂脳動脈瘤のクリッピングの開頭手術をしたが、至って健康で頑強である。しかし今年の同期会は少し違う。「これで仲間たちと顔を合わせるのは最後かなあ。」という思いがある。
勿論仲間たちには自分が胃癌であることは一言も言わなかったが、そんな少し鬱な気分も忘れるほど楽しい集いであった。
翌日は伊勢神宮へ参り、おかげ横丁で土産を仕入れた後、伊勢にあるフランス料理店でフェアウェルランチ・パーティ。帰りの電車の都合で私は先に席を立ち、歩いて15分ほどの近鉄宇治山田駅へ行った。宇治山田駅に着くとなにやらこちらのほうをずっと見ている女性がいる。よく見るとGさんのようだ。私は学生時代に寮生活をしていたのだが、その時のやはり「同志」がGさんである。Gさんの方から声をかけてきた。
「I君と違うの?」
「Gさんに似てるなあと思っていたら、やっぱりそうか。何してんの、こんなとこで。」
振り向けば、寮時代の同志であるO君、W君らもいる。
「おう、久し振り。」
「何してたん。」
と聞くと、現在三重県に住んでいるやはり寮時代の同志である、T君が絵の個展をしているので見に来たとのこと。今から帰るとのことだが、私と同じ14時28分発の上本町行き特急だった。つかの間の旧交を、本当に偶然にも宇治山田の駅前で深めた。
「神様がこの世の名残に逢わせてくれた。」などとは思わずに、ラッキーなハプニングと思おう。
11月22日(火) 術前診察
今日はS病院の外科受診日。今日は連れ合いが同行。11時30分の予約で10時55分に受付を済ませ外科待合で待っていると暫くしてスタッフに呼ばれる。
「Iさん。済みませんがたいへん混んでおりまして、13時30分過ぎになると思いますので、食事をしてきていただけませんか。とのこと。仕方なく近くの喫茶店へ。
昼食を済ませ、パソコンを使って執筆中の原稿の続きを書く。暫く順調に書き続けて行くと、突然バッテリー上がりでシャットダウン。ややっ、なんということだ。書き綴ったものが上書きしていないからすべてパー。頭にくるやら情けないやら。
13時が過ぎたので、病院へ戻る。戻った事を伝え順番が来るのを待った。診察はA先生の紹介で、外科部長のベテランのT先生。午後はT先生の1診だけ。余り多くの患者さんが待っているというのではないが、待てども待てどもなかなか呼ばれない。患者1人に30分から1時間かかっている。持参のロバート・B・ライシュ著の「Super Capitalism」も読んでしまった16時30分に業を煮やして受付けにどうなっているのか尋ねた。暫くして看護師さんが出てきて、
「すみません。手術前の患者さんばかりで説明に時間がかかっていまして、Iさんは次にお呼びすることになっています。」
とのこと。待っていると一人検査結果報告の患者さんを挟んで、16時55分にやっと呼ばれた。T先生は比較的小柄で、華奢な感じ。お互い初めての挨拶後、
「遅くなってすみません。これでも昼の休憩も無しで診ています。検査結果は今のところ転移も無いようですが、手術はどうされます。内視鏡手術は無理ですが。」
「開腹手術ということですか。」
「癌細胞が一番性質の悪い細胞で、PET検査では写っていませんが、癌の近くのリンパ腺も腫れていますし、念のため採ったほうが良いでしょう。腹腔鏡手術も出来ますが、癌の性質からして念のためには開腹手術のほうが良いと思います。手術後は痩せますよ。実は私も胃癌で開腹手術をしました。Iさんと同じの悪性の癌でした。」
といって、診察着をめくって、手術の跡を見せてくれた。
「覚悟はしていますので、開腹手術をしてください。」
「解りました。Iさん、手術をすると痩せますよ、私の場合は手術後14キロ痩せました。IDカードの写真はふっくらしているでしょう。それと、胃カメラをもう一度撮ってください。前回残渣が多くよく映っていませんでした。他にも癌があって残渣で見えていなかったら無駄ですので、もう一度撮ってください。」
といって、内視鏡室に電話を入れ、A先生に胃カメラを撮ってもらうよう指示している。結局胃カメラは11月29日9時30分と決まった。
Tドクターは、なるほどIDカードの写真はふっくらしているが、現在は華奢で、何かインターネットで見た写真とも随分イメージが違うなあと思っていた。
そのあと自覚症状が今のところ全く無いことや、非常に早期の発見でよかったなどの話を聞く。ただ、私は休み明けの24日でも入院になるのかと思っていたら、11月中は手術の予定が一杯で、12月中旬以降になるだろうとのこと。手術予定を貼り付けたボードを持ってきた説明。連れ合いが、
「先生、何とかもう少しでも早くならないでしょうか。胃カメラが10月15日でそれからでも1ヶ月以上経ってまして、癌細胞も悪質なものと聞いていますので、心配です。」
「私は、N先生やA先生の紹介のときは私が斬ることにしています。誰でもよいのなら少しは早くできるかもしれませんが。」
「それは、先生にお願いしたいのですが。」
「急病で手術が出来ないキャンセルが出れば、そこに入れますが。いずれにしてもカンファレンスして手術日を決めます。決まれば連絡します。」
その後直腸診等をして、診察終了前に、
「Iさん。怖がることはありません。ちゃんと仕事にも復帰できます。大丈夫です。」
と、励ましてくれた。
11時30分から延々5時間20分待たされたが、T先生は丁寧に患者に説明する先生であることがよくわかった。17時30分に診察が終了して、受付のスタッフに入院のことやら今後の検査の説明を受けた。私は胸部・腹部のレントゲン、血液検査、心電図、肺機能の検査を受けて、外科以外には患者のいなくなった静かな病院で精算を済ませ、家路へとついた。
11月25日(金)
本日はAドクターの診察を受けて、手術前の胃透視の予約。本日も仕事を休み、若手のT君やAさんは、大丈夫ですかと心配してくれている。
朝9時5分に病院で受付を済ませ、待合で本を読みながら待っていると、1時間後の10時5分に呼ばれた。Aドクターに手術の予定など聞かれたが、12月中旬頃でまだ決まっていないと言う。胃透視のほうは、11月30日に決定。検査はどんどん進めてくれているが、手術日が決まらなく、気が落ち着かない。
11月26日(土)
本日はラグビーの試合の観戦。対戦相手はS大学。S大学は、メンタル的なまとまりが強いというか、特に人気のある名門チームに対しては闘志をむき出しにして挑戦してくる。昨年の最終戦も戦力的には明らかに有利であったのに、いざ試合が始まるとS大の圧倒的な闘志に押しまくられ、「惨敗」してしまった。今年もいやな予感がしていた。
さて、試合が始まった。今年も戦力的には有利と周りも認めている。しかし、不安は当たってしまった。試合開始から「受けて立って」しまって、「言い訳」のような「まったりした」試合で、負けてしまった。
11月27日・28日(日)(月)
27日(日)アメリカンフットボール、K大学戦観戦。完敗。
28日(月)仕事。
11月29日(火) 3回目の胃カメラ
本日は胃カメラ。手術前の検査。9時30分からA先生が直接検査してくれる。今回は残渣もなくきれいに撮れたとのこと。癌の周辺の組織も穿刺して、胃の切除の範囲を判断するのだろう。執刀のT先生は、どうも広範囲に切除されそうな感じがする。
胃カメラの後、外科受診。連れ合いと待ち合わせ、外科待合に行くと連れ合いが待っていた。明日の30日は、やはり術前の検査で、心臓のエコーと胃透視の検査が入っている。外科外来受付で、今日の午後は仕事が入っている旨を言い、何とか10時10分過ぎに診察をしていただいた。T先生の診察で、γGPTが非常に高いとか、循環器内科の検査前の受診をすること、負荷心電図と場合によってはカテーテルでの検査とか、気の滅入るような話も聞く。さらに、12月1日には循環器内科の診察を受けることを指示された。しかし10時50分には診察も精算も終わり、大阪の事務所行き仕事を始めた。昼からは「特定子会社見学会」で、大阪BPに向かう。
11月30日(水) 心臓エコー検査と胃透視
本日は午前中時間年休で、検査。8時に病院着だが検査室の受付けも誰も居らず、本を読みながら待つ。8時50分に「心エコー」の検査開始。手術に耐えられるかの心機能の検査だろうと思う。約30分の検査が終了し、次は胃透視。9時20分に受付けを済ませ待たされて10時10分に胃透視開始。
透視のドクターが、
「水か何か飲みましたか。」
と盛んに聞いて、看護師さんや検査技士さんに盛んに私の腹部を揺らさせる。最初はよく分からなかったけれど、私もモニターを見ていて、どうも胃の底の大彎の「盛り上がり」が気になっているのかなと思った。「それが癌と違うの。」と思ったが、ドクターはカルテを見直して、やがて何も言わず、透視の撮影を続けた。
11時前には透視も終わり、急いで仕事に戻る。
12月1日(木) 負荷心電図
3日続けての検査と診察。本日は時差勤務で何とか誤魔化している。今日は循環器内科S先生の診察。外科のT先生の指示の診察で、循環器内科受付けで待つ。8時50分にやっと受付け。しかし診察は早く9時過ぎには診察室に呼ばれ、説明を受け、そのまま検査へ。検査は負荷心電図。負荷は2段の階段を38回上り下りして、その経過の心電図を見るというもの。私にとっては38×2=72段の「階段上り」は「負荷」でもなかった。
検査後Sドクターの診察で、
「特に問題はありません。回復も早いです。」
とのこと。本日はそこまでなので、急いで職場へと向かう。
12時10分職場着。本日は時差出勤。仕事をしていると12時50分頃にS病院から電話が入った。ちょっとのタイミングで出ることが出来ず、電話留保のまま。
やはり気になるので、14時10分にこちらから電話をコールバック。S病院の総合受付が出て、外科に繋いでもらう。やがて看護師さんが電話に出て、
「Iさんですね。入院が7日の水曜日に決まりました。」
「そうですか。分かりました。ところで手術は何時になるのでしょうか。」
「少し待ってください・・・。手術は9日ですね。」
とのこと。いよいよ決まった。さあ頑張るぞ、の思いが湧いてきた。電話の後職場に戻り、S課長に入院日を言い、それまでの私の準備と仕事の日程調整をして、課長に申し入れた。
12月2日(金)
本日急遽休暇を取る。やはり長兄には話しておかねばならないので、長兄の家に自転車で行く。長兄は心配し過ぎるかと思い、今まで何も言わなかった。
「実は、胃癌やねん。あんまりよくない癌や。」
「胃癌か・・・」
長兄は瞬間暗い感じになったが、その後、
「いまどきの胃癌の手術は、昔の盲腸の手術みたいなものや。心配せんでええよ。」
と、逆に励ましてくれた。そのあと中央図書館に行き12日締切りの本の原稿を一気に書き上げた。後は推敲だけにして。
12月3日(土)
恩師のS先生の7回忌でもあり、先生を偲ぶゼミ同窓会の集いで、京都に集まる。S先生も肺癌を克服後、食道癌に冒され、亡くなっている。久しぶりに先輩たちや旧友と会う。
12月4日(日)
朝一番で姉H宅にケアで訪問。今日は「一万人の第九」に参加の為連れ合いは来ず、一人で自転車で。家から千里ニュータウンまで自転車で行くのはなかなか大変だ。
昼からは、S先生の著作集の編集出版の打合せで天王寺へ。昨日と同じメンバーもちらほら。予定より1時間早く終わり、私は甥が入所している「Sセンター」へと行く。午後4時半過ぎに着き甥のMと久々の談笑。Mも頑張っている。サポートできることは何でもしてやらねばと思う。
私は連れ合いと待ち合わせの梅田阪急オフィスタワーへと向かう。7時00分オフィスタワー着、時間があるのでコーヒーを飲み。30分に待ち合わせ場所へ。連れ合いはすでに来ていた。
「何食べる?」
「名残に、ワインバーでワインを飲んでチーズフォンデュ。昔のデートを思い出して。」
「ワインはあかん。」
「そしたらノンアルコールビール。」
と言うことで話がまとまる。手術前のメモリアル・ディナー。ゆっくりと楽しんだ。
12月5日(月)・6日(火)
仕事。滞留させないように、大忙し。6日の朝礼で、皆に
「明日から1週間から10日くらい休みます。」
と言う。すでに課長が検査入院すると言ってくれているが、仲間が次々と心配やら「激励」で声をかけてくる。仕事は面談など難しいケースばかり。
一通り仕事を済ませ、6日夕方にはさあ頑張るぞの気持ちで職場を後にする。
12月7日(水) いよいよ入院
いよいよ今日が入院の日。手術の結果がどうであれ自分で納得して手術に臨んだつもりであったが、朝目が覚めてから、今更ながら本当に自分の生命、運や人生をS病院やT先生に委ねてしまってよかたのだろうか、K大学病院、O大学病院かF大学病院に行ったほうが良かったのでは、などという気持ちがジワーッと、沸々としてきた。
何か悶々とした気持ちを引きずりながら、朝連れ合いと一緒に、暫く行けない千里山の姉H宅に訪問。Hには癌ことは何も言っていない。あまりショックなことは彼女には言わないほうが良い。そのあと近所の「靴専門店」に行き、入院中使用するスリッパを買いに行った。入院に必要な印鑑、身の回り品、検査等の同意書などは殆ど連れ合いが準備してくれているとはいえ、入院当日の朝にしては忙しい。しかし、かえって思いに耽る余裕もなく、淡々と時間が過ぎて、そして迫ってくる。
12時30分に連れ合いとともに出発し、病院へと向かう。1時過ぎに梅田に着き、連れ合いが、
「何か食べる?」
「うん、腹減った。何でもいいけど暫し食えなくなるので、最後のご馳走を食いたい。」
などと言い、店を物色。暫く探して茶屋町のイタリア風レストランに入り、ランチとしては少し豪華なセットメニューを食べた。ランチはなかなか美味しかった。癌の手術後は絶食絶飲で暫く何も食べられないし、食べることが出来るようになっても厳しい制限食が続き、そして体重が1割以上減ってしまうらしい。最悪の場合再び美味しいものが食べられなくなることもある。そんなことを考えながら、美味しいけれど複雑な思いで、「最後のご馳走」をいただいた。
2時10分にS病院に入り、入院受付けを済ます。病室は803号室の3人部屋。相部屋の人はNさんで、挨拶をする。Nさんは今日の夕方から手術とのことで、後で分かったのだが『鼠径ヘルニア』とのこと。もうひとつのベッドは現在空きで明日一人入院とのこと。看護師さんのガイダンスと荷物整理をした後、売店にさらしやT字帯(ふんどし)、腹帯等を買いに行った。
買い物から戻り、暫く連れ合いと話をしていたが、看護師さんがやってきた。
「Iさん。私は担当の看護師で、Mといいます。担当の先生はY先生です。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「私は、明日は休みでこれないのですが、替わりのものがお世話いたします。」
とのこと。Mさんは少し小柄で、美人だった。
やがて8階の小さなカンファレンスルームで5時45分からインフォームドコンセントを聞いた。未だ40歳前と思われるY先生で私の今後の担当主治医となられるとのことで、話は私と連れ合いと一緒に聞く。
私の癌がスキルス胃癌であること、胃切除のやり方は全摘、さらに十二指腸の一部までの摘出、上部又は下部の3分の2から大部分の摘出など、食道と腸への直接の接合、あるいは残胃と食道又は腸への接合等があり、開腹して状況を見ながら決定する。私の場合リンパ節が腫れていて、それが転移かどうか分からないので、念のため胃の周辺のリンパ腺を切除する、その際胃から胆嚢へ指示を発する神経も切除され、そのため胆汁が分泌されなくなり溜まって胆泥ができ2・3年後には胆石が出来るのでこの際胆嚢も取ってしまう、そのことによって消化障害や通過障害が起こることも有る。腸閉塞となれば再手術もありうる。手術時のショック、麻酔のショック等で死ぬ場合も有る等々、手術のリスクについてこれでもかこれでもかというほど延々と話された。その上で手術の承諾書を渡され、押印しておくようにとのこと。患者に安心させてばかりというのも考え物だが、私はまたふと「この病院でよかったのかな」という思いがこみ上げてきた。念のために、
「執刀はY先生ですか」
と聞くと、
「私もしますが、T先生が主にされます。」
とのこと。すこし、ホッとした。
インフォームドコンセントが30分。その後6時30分から入院食の夕食。昼のランチには及ばないが、それでも手術前日からということで明日朝からは暫くは拷問のような絶飲食。そのことを思うと、これこそ「最後の晩餐」か。
連れ合いは夕食を確かめてから、家へと帰った。
午後10時就寝。
12月8日(木)
朝5時半目覚め。手術前日。マニュアル通りというか、朝から看護師のKさんがやってきて、下毛剃り、臍掃除の後シャワーを浴びる。
やがて空きベッドに入院患者がやってきた。簡単に挨拶、Kさんという。どうやら結腸部の大腸癌ということらしいが、詳しいことは分からない。結構大部なハードカバーの本も数冊持参され大変紳士然とした方で、後ほど奥さんも来られたが、奥さんもしっかりした感じの方であった。
午後から麻酔科の女性ドクターの麻酔についての説明、手術室ナースの説明、最中に連れ合いが来る。夕方から点滴が始まり、午後7時連れ合いは帰った。午後8時過ぎにNさんが手術を終えて病室に帰ってきた。回復室に行かないのは、比較的軽い手術であったのか。10時就寝。
淡々とした一日で、さりとて集中できず本も読めず、活字を眺めるだけ。
12月9日(金) いよいよ手術の日①
いよいよ手術日を迎えた。昨夜は少しまどろんでは目が覚めたりの繰り返しで、殆ど眠れなかった。およそ「不眠」には縁がない私だが、家族との楽しかった思い出、次女と連れ合いと一緒に行った登山、特に剱岳や大峰奥駆け達成の充実感と家族の絆が深まったこと、しんどくても楽しかった子育てのこと、子供たちひとりひとりのことやこれからの生活、孫のこと、悪戯盛りと生意気盛りの孫たちのこれからのことなどが走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。少しまどろんではまた目覚め、今度は私の生活のこと、K高校の入試に失敗したこと、K大学の入試に失敗したこと、就職では大阪市上級職公務員試験の最終試験まで進んだのに、受験者の中で唯一人最終で「落とされた」こと、会社を倒産させて自己破産したこと、そしてサラリーマンを経験したいへん厳しい会社で企画営業でトップの成績を残した後、一年奮起し現職に就いたことなどなど。またまどろんでは目覚め、連れ合いとの出会いと結婚、結婚後お互いの厳しい状況の中で、離婚の危機に陥ったことや別居のこと、そんな波乱万丈を乗り越えながら今では「生まれ変わることがもしあるなら、また連れ合いと一緒になりたい」と思っている。
不思議と仕事のことはあまり思い浮かばなかったように思う。12月中締切りの労働法関係専門誌の原稿の締切りと校正のこと以外は、今私が担当している大型イベントの準備が進んでいるのだが、そのことで目覚めると言うことは無かったように思う。すっかり課長にまかせきってしまっているのか、仕事と自分の生命の事を考えたら、仕事のことはフェードアウトしてしまうのか。そのうちに朝6時になり、看護師さんがやってきて、トイレに行き浣腸をした。
朝8時に、執刀のT先生続いて担当のY先生が部屋に来て、
「いよいよやなあ。頑張ろうな。良く寝れたか?」
と、激励してくれた。私は、良く寝ました。頑張りますので徹底的に癌を取ってください。癌をやっつけてください、と言いたかったが、とても言えず、蚊の鳴くような声で、
「頑張ります。よろしくお願いします。」
と、言ったように思う。
8時55分、病室を出発し、看護師さんとともに歩いて中棟6階の手術室に向かう。やがて手術室に入り手術台に横たわり、横向けに寝て脊柱への間接麻酔を行った。この麻酔は術後も苦痛を和らげるために脊柱の間にチューブを差し込んだままで体外の麻酔薬と繋ぐ麻酔。間接麻酔自体はたいした苦痛も無く施術が終わり柱の時計を見れば9時20分であった。
私は、手術の時間を気にしていた。余りに短時間で過ぎると、全身に転移していて『手遅れで手術の仕様が無かった』とか、余りに時間がかかると『周りのリンパや臓器に転移しており、そちらのほうも切除していった』ということを聞いており、手術前後の時間を覚えておくようにした。事前の説明で手術は9時からで、午後2時頃には終わると言われていた。全身麻酔の薬を点滴の中に入れてたのが9時30分。ほぼ瞬間に意識は無くなっていった。
いよいよ手術の日②
「Iさん。終わりましたよ。」
Y先生に起こされた。
「手術は終わりましたよ。全部きれいに取りましたよ。」
「ありがとうございました。」
自分でも分かるほど、呂律が回らないしわがれた声で返事した。柱の時計を見ると午後4時30分だった。少し遅い。思ったより難しいことになっていたのか。胃以外にも切り進んだのか、何故予定より2時間以上も費やしたのか、良くないことばかりが頭に浮かんできた。やがて、看護師さんが、
「Iさん。部屋に戻りましょうね。」
「部屋といっても回復室ですね。」
「そうです。今晩一晩は、回復室です。明日できれば午前中に病室に戻ります。」
北棟8階の病室が有るフロアのナースステーションの奥にある回復室に午後5時に『運ばれて』来ると、手術の間中ずっと待っていた連れ合いと、仕事が午前中で昼からやってきて待っていた長女がまもなく回復室に入ってきた。手術時間が長引いたことについては、お互い気にしつつも何も言わず。
「どう。痛い?」
「じっとしてると痛くないけれど、動くと痛いわ。」
「仕方ないわ。」
などと話している。全身麻酔で挿管されていた為、喉がいらつき水気を飲みたいが、術後の為絶飲食。辛い。5時30分頃、孫の世話の為長女は返った後でY先生がやってきて手術の説明。
「お疲れ様でした。手術はたいへんでした。」
何が大変だったのか聞きたい。
「内臓が癒着していて、それを剥がすのに2時間以上、午前中一杯かかりました。盲腸は以前に手術していて癒着もあるのですが、まるでいろんな内臓手術をした人みたいに癒着していました。T先生も『こんなん、初めてや』と言っておられました。それで手間取り大変でした。」
「そうですか。癒着てそんなに大変ですか。」
「胃を切って、腸に繋げるのに引っ張ってこられないです。また、内臓に癒着があると腸閉塞とかの通過障害を併発し易いのですよ。」
との説明だった。しかし、私は素直に額面どおりの説明とは思えなかった。どこかに転移があって切り拡げていったのではないだろうか、きっとそうだろう。そう思った。
いろんな話をしているうちに、午後7時30分次女が仕事を終えて回復室へ駆けつけた。私は身体を動かすと痛いのでなるべく同じ姿勢のまま、連れ合い、次女と今日一日のことを話していた。やがて8時15分、
「頑張ってね。」
といって連れ合いと次女は帰っていった。
いよいよ手術の日 3
回復室は術後の患者が私を含めて3人だったが、そこでの一晩は大変だった。かつて2006年3月に脳外科手術をした日のICUも大変だった。その時年配の男性患者は一晩中、
「痛い、痛い、何とかしてくれ。」
と叫び、挙句自分で傷口を接合している勾を抜き出したり、もう一人の年配の女性も
「痛い、ヒーッヒーッ、」
と叫び続け、看護師さんの様子や口ぶりでは、着ている物を脱ぎだしたり大騒ぎで、結局私は一睡も出来なかった。私も頭が割れるほど痛かったのだが、『手術して実際に頭が割れているから仕方が無い』などと自分に言い聞かせ我慢していた。もっともその時は術後に軽い脳出血をしていたようで、連れ合いの話によると我慢してはいけないのだそうだ。
そんな経験もあり、今回も覚悟していたが、やはり大変だった。
私の右隣の年配の男性は、胆石で胆嚢を取ったらしい。最初のうち家族や親族の方と話していたときは、見舞いの方が『石や、といって見せてもらったが、パチンコの玉みたいのが2個やった。記念に持って返ってと言われた。胆嚢は卵みたいなもんやった。胆石なんて病気の内にはいれへん。』などの話に調子を合わせていたが、見舞いの人たちが返るとまもなく、
「痛い、痛い。痛み止めの注射をしてくれ、痛み止めの薬をくれ。」
とうるさいことうるさいこと。それが一晩中続いた。左隣の患者さんは大腸の一部を切除した様子。一晩中、
「痛い、痛い。わしはもう病院変わる。N市民病院へ帰るから先生に紹介状を書いてもらってくれ。痛いからN市民病院へ行く。救急車を呼べ。」
などと叫び続ける。看護師さんも慣れてはいるだろうが、一生懸命なだめている。私は『やかましい!痛いのはおっさんらだけと違う。ちょっとは我慢しろ!だまっとれ!』とよっぽど言いたかったが、痛みとともに我慢した。身体を動かすと傷口が痛い。じっとしてると腰や節々がだるく、痛くなってくる。喉はがらがらで水が飲みたい。おまけに回りはわがままな『おっさん』ばかり。まるで拷問で、今回もやっぱりまどろむだけで一睡も出来なかった。