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【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

百田尚樹さんの『日本国紀』の正体③

2021-01-19 23:50:35 | 楽しく元気に『反日』トーク
-三つの論旨の二番目『日本人がいかに勤勉で誠実であるか』-

 第2に、百田さんは『日本人が勤勉で誠実である』ことを「歴史(事実)上の人物」を多く取り上げて強調しています。特に近現代の優れた日本人です。例えば本書の随所に、ジョン万次郎、江川太郎左衛門、水野忠邦、小栗忠順、前原嘉蔵(職人)、古市公威、高峰譲吉、鈴木梅太郎、等々の資質や業績にページを割いておられます。百田さんは『日本人は世界のどの国の国民にも劣らない優秀な国民』『文化、モラル、芸術、政治とどの分野でも極めて高いレベルの民族であり国家である』と大変心地よく響く表現を随所にしておられます。詳しくは存じ上げない人もいますが、それぞれ各人の個性はその通りだと思います。野口英世さんも含めてノーベル賞に十分匹敵する研究者もかなりおられたと思います。ノーベル賞の受賞に至らなかったことについても百田さんは、日本人、日本民族に対する欧米(白人による)『見下し』あるいは有色人種に対する『差別・偏見』がその根源と示唆しています。
 しかし、こういった偉大な日本人の諸先輩たちをもって『勤勉で誠実』と結びつけるロジックはいったい何でしょうか。『勤勉と忠実』ということは、何に対して誰に対して『勤勉・誠実』なのかという説明が必要です。私は日本民族と日本の先住民は海洋に囲まれ、豊かな自然と四季に恵まれた国に住み、自然や四季に対しては大変謙虚であり『勤勉で誠実』であることが人間として生を営んでいく条件であったと思います。全国に残る山の神、水・雨の神、風、大地やらの自然に対する畏敬の念や自然災害に対する慰撫が古代宗教や修験道の始祖となり、今日にも繋がっています。本来の日本人や日本民族は、大震災とそれに続く大津波に対して自然を慰撫し、人間の傲慢さを謝罪しそのうえで叡智を絞って生を繋いできました。そういった営みが日本の『土壌』であり、近現代の優れた日本人を生み出し、最近までの日本と日本人が世界的にも高い評価を得ていた根源だと思います。その後の原発災害の責任も取らず「想定外の大災害」などといい、責任を取る気もない現在の政権を担う者や当該企業責任者には、本来の日本人の勤勉と誠実さは全く無縁でしょう。
 さて、百田さんの言う『勤勉で誠実』は、上から目線の典型ではないかと思います。百田さんが日本人の優秀さを証明しようと歴史上の事象を述べる中で、司馬遼太郎さんの名前が出ており、それとなく司馬さんへの賛同を思わせるような表現がなされています。全く意外なことで、百田さんや右翼の歴史学者の間では『司馬史観』と称して司馬さんの小説、随筆等々の著作はかなり厳しく、時には口を極めて蔑まれ、排除されています。例えば小説なのか自伝なのかドキュメンタリーか歴史書か、どういう意図で出版されたのかなどが全く説明されていないが、『たちまち6刷』などとたいへん売れている様子のたいそうな宣伝をしている『潜行三千里』『開戦と終戦をアメリカに発した男』の巻頭、本書に寄せてを書いておられる福井雄三先生(国際政治学者、歴史学者ではないみたい)は「世上に流布している「司馬史観」にはさまざまな問題が内包し」などと感情的ともいえる風で「司馬史観」を敵視しています。
 司馬遼太郎さんの歴史を題材とする小説は、丁寧な歴史検証に裏付けられたもので、歴史上の人物の個性を活き活きと描いています。それもビッグネームというよりどちらかというとバイプレーヤー、時には埋もれていた人物を再発掘してその人物を自分らしく生き、活動し、元気で明るく活き活きと縦横無尽に活躍させます。司馬さんが多く執筆された時代は、安保世代からGDP(当時はGNP)世界第2位に至る奇跡の経済成長期でした。朝鮮戦争特需やベトナム戦争での特需があったとはいえ、憲法9条を掲げ戦争をしなかった日本の若者たちがポジティブに生き、働き、そして司馬さんの歴史小説を通じて、ごく『普通の』国民が自分の成功体験にシンクロさせて夢と希望を持ったことと思います。しかも丁寧な史実の検証に裏付けられて、読者はそのリアリティを実感したと思います。鼻水を垂らして西郷隆盛に直談判して薩長同盟を実現させ、船中八策で新政府閣僚案に竜馬の名前がなく伊藤俊輔に尋ねられ、自由に世界に生き貿易をすると坂本龍馬が言ったこと等々の夢のあるストーリーには、多くの国民が疑似体験と満足感を味わい、活力の源泉としたことでしょう。斎藤道三、黒田官兵衛、雑賀孫一、秋山真之、秋山好古、正岡子規、土方歳三、西郷隆盛、大久保利通、等々主役の個性に読者は疑似体験し、爽快感を味わったのではないでしょうか。主役は何かに対して、誰かに対して『勤勉・誠実』ではなく、それぞれの個性が輝き、明るく、元気で、ポジティブに人生を駆け抜けていく姿に多くの読者が共感し、興奮したのではないでしょうか。後期の作の『街道を行く』では、私たちの先人がいかに自然の恵みや隣人に対して『勤勉・誠実』であったかを街道を歩き、集落での人々の営みを豊富で確かな資料を丁寧に掘り起こし書かれています。
 百田さんの小説、映画で『永遠の0』というのがありました。極めて優秀なゼロ戦パイロットで特攻に散った主人公の孫が戦後(現代)特攻について祖父の生き方を調査し、再現していくストーリー。その過程で祖父が隊長をしていた航空隊に超問題兵がいて危険な問題飛行で挑発するのを卓越した技で余裕をもって軽くいなしてしまう。戦後孫が超問題兵を訪ねたら反社会勢力の組長(夏木陽介さん好演)となっていた。その場面でもってこの映画が全く旧日本の軍国主義戦争の不合理や悲惨さを告発するものでもなんでもない、ある種の意図を持ったプロパガンダ映画であることを直感し大いに興ざめしました。この映画のプロデユースの体制を見ると、相当な費用をかけ、CGを駆使、実写映像も特攻機がアメリカ艦艇に突入成功の映像など防衛省の協力も駆使した、プロパガンダであることがよくわかります。
 『勤勉で誠実(で優秀)』という日本人の感性に心地よい言葉によって、時の権力に対して『勤勉で誠実』であることを強いるのは、世界史を見ても多くの場合は民族の滅亡をも招きかねない民主主義と個性にとって大変危険なことです。日本の近現代史を見ても如実に示しています。皇民化政策と軍国主義教育は『一億層玉砕』などと言い、国と民族滅亡の危機を厭いませんでした。権力にすれば、『(権力に対して)勤勉で誠実』そして政治に対して国民が無関心というほど居心地のいいことはないでしょう。
 高須クリニックの院長が、”国民が選んだ政府を批判するあなた(村上春樹氏)は『日本人ですか』”とツイートしました。つまり、彼らの言う『勤勉で誠実』というのは軍国主義の中で刷り込まれてきた同調圧力の中での『勤勉と誠実』であって、司馬さんの描く個性が輝くなどということはとんでもないということになるのでしょう。これは歴史修正主義者の共通した『歴史』価値観でしょう。
 歴史修正主義と言ってもいくつかの系統があるようです。純粋な国粋主義や現在の神社本庁の論旨が由来する日本書紀系統や日本会議の系統などがそれぞれの立場から、歴史(史実)の修正を主張しています。百田氏は『日本国紀』の中で半ば居直りのように歴史修正主義の論を建てていますが、歴史=史実は変えようがないから、百田氏や日本会議は慰安婦問題について朝日新聞の吉田文書をさかんに取り上げて『強制連行は無かった。強制連行について証明するものはない』などと言っていますが、典型的な”ご飯論法”(上西充子先生定義)です。軍部・戦時官僚が戦時の行政文書等を徹底的に焼却して証拠隠滅したこともありますが、慰安婦問題についてのグローバルな考えは、人権、女性、ジェンダーに関わる極めて重要な全人類的な負の価値観を全世界的に克服することです。百田氏や高須氏や日本会議などは、歴史が分かっていながら、ある目的のためにプロパガンダを振りまいているようです。純粋右翼も国粋主義も天皇万世一系論の人も大きく巻き込んでその目的、つまり日本国憲法の改悪の成就を必死に企んでいるように思えてなりません。『日本国紀』で言われる日本人の『勤勉で誠実』を読むと、そこまで思い至ります。私は科学者ではないですが、この点は別に論評してブログにアップしていきます。
 論点の第1の、『万世一系の天皇』の科学としての議論の価値もないこと、
論点の第2の『日本人の勤勉と誠実』での歴史修正主義の展開による【ある意図の実現】へのプロパガンダ、そして第3の論点では、【ある意図】が露骨に語られてきます。                       (続く)

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