「自分とは別の自分、つまりもうひとりの自分の目で自分自身を見る」ことの重要性を太鼓教室の子どもたちに説こうとしたが、あえなく自滅したことは先日書いたとおり。あのとき、まず真っ先にわたしの脳裏に浮かんだ言葉は「自分のなかに自分とは別の自分を飼う」だったが、どうもそれではわかってもらえんだろうなと判断し、選んだのが「自分のことを見ている自分とは別の自分がいつもおらんといかんよ」という言葉。しかし、その後の反応を思い起こすと、どうやらその言葉は少しばかりオカルティック(よくない意味で)なものとして彼彼女たちに届いたようだ。そう解釈すればあの気味悪げな顔に合点がいく。
そのことをふと思い起こし、ではあのときどのように説明すればよかったのかをまた考えていたら、「感情の実況中継」という言葉が降りてきた。いや、思い出したというほうが正解だろう。「感情の実況中継」については幾度か書いた。もちろん、わたしオリジナルな言葉ではない。いつものごとく受け売りだ。ネタ元はアルボムッレ・スマナサーラさんである。彼が説く「感情の実況中継」とはこうだ。
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たとえば、先ほど「人の言葉にカチンときた」という例を挙げました。この場合でしたら、「カチン」という感情を感じたらすぐさま、「いま、怒りがある」と、その感情を実況中継するのです。
すると、不思議なことに、怒りの感情がスーッと消えていきます。
なぜ、感情が消えるのか。
それは、感情を実況中継することで、受け取った情報に対して主観が解釈しようとするのをストップできるからです。
(Kindleの位置No.193)
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そして同じくスマナサーラさんが提唱するのが、「自分を外に出す(=私を捨てる)」訓練。
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たとえば、あなたの名前が「田中」だとしましょう。
そのあなたが、恋人との関係がうまくいかず、悩んでいるとします。そのときは、「田中が悩んでいますね」と言葉に出すのです。
あるいは、焦って気持ちが動転しているときだったら、そのまま突っ走らないで「田中が焦っています」と実況中継をします。
蚊に刺されて、無茶苦茶かゆいときであれば、「田中がかゆがっています」と、面白おかしく、いまの自分を説明しましょう。
上司に怒られてズドンと落ち込んだら、とりあえず「田中が落ち込んでいます」とつぶやいてみましょう。
こんな具合に、自分の心に浮かんだ感情や、自分のいまの行動や状況を、三人称で客観的に述べるのです。
すると、そのときに生じた問題が、スーッときれいに解消されていきます。
(Kindleの位置No.312-313)
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このふたつを併せてわたしは、わたし自身の「感情の実況中継」としようと決め、ささやかながらではあるけれど実行してきた。それほど時間は経ってない。わずか4カ月ほど前からのことだ。 実践の途中経過がどうだかといえば、いつもいつでもと同様。世の中それほど単純なものではなく、「そのときに生じた問題が、スーッときれいに解消されていきます。」と簡単にはならないけれど、己を客観視するための、一助にもニ助にもなっている。そう、「感情の実況中継」しかも「田中さん」のそれを、彼彼女らに薦めてみればよかったのだ。
もちろん、あの子たちがそれをすんなり受け入れるかどうかはわからない。むしろ、わかってもらえない確率のほうが高いかもしれない。「またまた不思議なことを言い始めたよ、このオジさんは」と思われるのがオチかもしれない。けれどそれでいいのだ。オジさんは、わかってもらえるために試行錯誤しつづける。わたしと彼彼女たちが触れ合っている期間では、わたしが説くことの意味はわかってもらえないのかもしれないが、繰り返し巻き返し情理を尽くして語ることで、心のかたすみに残ってくれたらそれでいい。
「ふん、エラそうに。あのときそれは思いもつかなかったくせしてよく言うよ」
別のわたしが眼前に現れわたしを指してそう嗤うのを華麗にスルーして、次なる機会を楽しみに待つオジさんなのだった。