目が笑わぬ人がいる。
あくまでも当人的には、という括弧がつくが、わたしはそれに該当しないと思っていた。
しかし、近ごろ時々思うのだ。
「あ、今オレ、目が笑ってないな」と。
なぜそれに気づいたのか。
マスクをしているからだ。
気心の知れたあいだ柄であれば、そのようなことを気にすることはない。
しかし、初対面あるいは、ある程度の緊張関係を保った関係となると、自分がどのような態度や顔つきでそこにのぞんでいるか、話の内容にふさわしい顔をしているかを、別の自分が観察しながら、コミュニケーションを進めている。
そこで、マスクだ。
たとえば、「わたしはアナタに対して悪意がないですよ」ということを表現するのに、もっとも有効な手段は笑顔だろう。では、その笑顔をもっとも端的に表現する部位はどこかといえば、口(のまわり)である。もちろん、正しくは顔全体で表現するといったほうが正解なのだろうが、部位別に限定してどこが、と考えると、やはり口(のまわり)ではないだろうか。
ということに、ある日、気づいたのだ。
それがいついかなる時か、しかと覚えてはいないが、たぶんこのように自問自答した。
「今、オレは笑みを浮かべているのだけれど、その口は相手から見えない」
「では、どのように表現すればよいのか」
「目だ」
その時、
「あ、今オレの目、ひょっとして笑ってないか?」
という疑いを抱いた。
そして、
「目に笑みを浮かべるのだ」
と指令がくだり、
「目で笑った」
しかし、あくまでも「つもり」だ。
それが相手にどう写ったのかはわからない。
「もっと伝わるように目を笑わせろ」
脳が指令をくだす。
そして
「(少しオーバー気味に)目で笑った」
爾来、マスクをしているときは、目で笑うように努めている。
その試みが効果を発揮しているのかどうか。
さすがに、
「オレって今、笑ってますか?」
などとたずねるわけにもいかないので、よくわからない。
「目は口ほどに物を言う」
「情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだ」という意味でいけば、たしかにそのとおりだが、「目だけ」で「口」と同等の表現をするのは、少なくともわたしにとっては至難の業だ。
とはいえ、”2020年”という「今」だもの、ここはひとつ、毎朝鏡に向かい「目を笑わせる」練習をしてみるか、などと真剣に考えたりする辺境の土木屋。