おかげさまで、というべきなのだろう。この齢になると、自分の言い分がとおることが多くなった。とはいえそれは、あくまで「(アレもコレも何もかにもが通用しなかった)若いころに比べて」という相対的なものに過ぎないのだが、とにもかくにも、自らの言説が採用される頻度が多くなったことだけはまちがいない。
そこで頭をもたげて来たのが「だから(あまり)語ってはいけないのだ」という心理である。あるいは、自説が採用されたとしても、「これでよかったのか?」「反駁する言葉がなかったのはその機会を与えてなかったからじゃないのか?」という疑念が湧いてきたりする。もちろん、生来のシャベリたがりであるゆえ、たとえ「語ってはいけないのだ」という心理が働いとしても、沈黙を貫くなどということはめったになく、ついつい熱弁をふるってしまうのではあるが、自説の主張が他説の拝聴に先走ってしまったときや、ひとしきり自説を開陳したあとに誰からも意見がなかったときなどは、少しばかり落ち込んでしまう。
それゆえ、「正しいオジさん」たらんとすれば、以前にも増して「しっかり聴く」という態度がたいせつになってくる。
お気づきのことだとは思うが、以上は、特定の「ある場所」や特定はしないが「ある場所に似た構成をもった場所」においてのわたしである。この齢になったとしてもあい変わらず、わたしの言い分などは通らない場が多い。もちろん、生来のシャベリたがりであるゆえ、たとえ自説が圧倒的に不利な状況においても沈黙を貫くなどということはめったになく、せめて爪のひと掻きなりと抵抗を試みるのであるが、そうなると自説の主張に固執し他説を拝聴することがおろそかになったりする。
もちろん、褒められた態度ではない。それゆえ、「正しいオジさん」たらんとすれば、以前にも増して「しっかり聴く」という態度がたいせつになってくる。
「しっかり話す」は、「しっかり聴く」とセットになって初めて効果を発揮する。
「しっかり聴く」をおろそかにしたり「しっかり聴く」がほとんどないところでの「しっかり話す」は、「正しいオジさん」的に見るとまったくもって正しくない。あゝそれなのにそれなのに、齢を重ねてオジさんともなると~いやオバさんもこの列に加えねばなるまい~、ついつい「しっかり聴く」がおろそかになってしまっている現実がある。
逆である。
逆なのだ。
「しっかり聴く」そして「しっかり話す」。
また「しっかり聴く」そして「しっかり話す」。
これが、「正しいオジさん(オバさん)」としての在りようだ。
あゝ、われ未だ「正しいオジさん」たり得ず。
道程はるかなり。
トホっ。
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