歴史上の人物で誰がもっとも好きかと問われたら中岡慎太郎と答える。
40年前なら迷わず坂本龍馬と答えていた。30年前も、20年前も、そうだった。10年前は・・・龍馬ではなかったが慎太郎でもなかったような気がする。今は躊躇することなく中岡慎太郎だ。
その慎太郎さんの言葉は、いくつかこのブログでも紹介してきた。
そのなかでもっとも多く、ことあるごとに引いてきたのはこれである。
志とは、目先の貴賤で動かされるようなものではない。
望むべきは、その先の大いなる道のみである。
今、貴いと思えるものが、明日は賤しいかもしれない。
今、賤しいと思えるものが、明日は貴いかもしれない。
君子となるか、小人となるかは、家柄の中にはない。
君、自らの中にあるのだ。
このごろ頭のなかを巡っているのはこの言葉だ。
謙虚とは堂々として過信しないことだ
それは断じて卑屈であることではない
このところ検査がつづいている。
公共建設工事に検査は付きものだ。なおかつ、今という時代の公共建設工事(一定金額以上)には検査の結果としての工事成績評定点というやつがもれなくついてくる。わたしたち受ける(評価される)側の人間は分が悪い。端から全面降伏的姿勢で受検する人も多い。ややもすれば卑屈ともいえる態度をとってしまう人もまた多い。
それをして、「負けて勝つ」だと利いた風なことを言う人もいるが、わたしはそうではないと思う。「謙虚」は、検査に限らず渡る世間ですべからく持ちつづけなければならない心持ちだ。「卑屈」ではない。「卑屈」と「堂々」は相反して共存しない。だが、「謙虚」と「堂々」は共存できる。
とはいえ現実には、そういうわたしとてなかなか思い通りにはならない。思い通りにならないことだらけのなかで、ときとして自然発生的に、場合によっては戦術的選択として、ときには媚び、ときには卑屈になりして公共建設工事という世間を生きている。しかし、いやだからこそ、その現実を重々承知のうえで慎太郎さんの言葉を噛みしめるのである。
謙虚とは堂々として過信しないことだ
それは断じて卑屈であることではない
さっ、今日もはりきっていってみようか。
有限会社礒部組が現場情報を発信中です
発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。