かわらずに『私家版日本語文法』(井上ひさし、新潮文庫)がつづいている朝の読書。
今朝はちょうど、先日紹介した「”が”と”は”問題」につづいて、これもわたしが「Webで書く」という行為をつづけていくうえで悩みのひとつとなっている「接続詞問題」について書かれた稿に当たった。
「お、これやがなコレコレ」
尻尾をフリフリ読みはじめる。
と、
のっけからこうある。
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かつて、文法の授業時間に、わたしたちは接続詞について、一体どれだけのことを習ったろうか。じつは何も習いはしなかったのである。
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へー、オレだけではなかったのだ。
このセンテンスひとつで、すぐに惹きこまれてしまった。
すると、衝撃的な一文を発見。
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また、大小説家たちの多くが、接続詞を胡乱なもの、なにやらうさんくさいものとして敬遠したことも、接続詞軽視の風潮をつくっているのかもしれない。描写に「しかし」や「そして」は要らない、と喝破したのは井伏鱒二だった。また谷崎潤一郎が『文章読本』のなかで、接続詞は、品位に乏しく、優雅な味わいに欠ける、それは接続詞が含蓄を減殺して、古典文にみられる叙述の間隙を充填してしまうからだ、と嘆いているのは、いまやほとんどの日本人のよく知るところである。(Kindleの位置No.1011)
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へー、知らなかった。
してみるとオレの日本語に対する理解レベルは、「ほとんどの日本人」にまで至っていなかったのか。
と嘆きつつ、それにしても谷崎のこの表現すごいよな、と舌をまく。
いわく
「接続詞が含蓄を減殺して」
「叙述の間隙を充填してしまう」
さらに衝撃はつづく。
そのあとにつづく一文だ。
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そもそも接続詞の成り立ち方、その素性そのものが曖昧模糊としている。発生論的見地からすれば、日本語にはもともと接続詞というものがなかった。(No.1017)
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へー、そうだったんだ。
「なかった」
と井上ひさしが言うのだもの。
そこは素直に
「なかった」
のだろうと受け入れた。
そして、日々自分自身の接続詞の持ち合わせ不足とその使い方の下手さに、モヤモヤしている気持ちが、なんだか少しやわらいだような気がしたわたしが、今朝の結論として読んだのがこれ。
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いかにも接続詞接続詞した接続詞を用いるには、とくに逆接の接続詞を用いるには、現象Aと現象Bとの間にある因果関係を発掘しなければならない、と前に書いたが、このこととどうも関係がありそうだ。つまりきちっと接続詞を立てるということは、論を立てることである。とすればあまり接続詞を使わぬということは、論を立てるのを好まぬということと同義である。そうなのだ、わたしたちは情感を表現するのに有効でないものは使おうとしないのだ。(No.1090)
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ほー、なるほどね~。
「きちっと接続詞を立てるということは、論を立てること」
「あまり接続詞を使わぬということは、論を立てるのを好まぬということ」
ここ重要、つまり、その使い分けこそが「よい文章」を書くうえでの肝なのだと理解した。
とは言いつつも、それだけで自分自身の接続詞の持ち合わせ不足とその使い方の下手さが変わるわけもなく、それだけがその問題解決の処方箋となることもない。とはいえ、「Webで書く」という行為をつづけていくうえで、なんだかとてもたいせつなヒントをもらったように感じたのも事実。
時間にしてわずか二十分弱の読書タイムではあったが、
「こんなことがあるからやめられないんだよなぁ」
と独り悦に入る朝だった。