答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

岡本かの子著『観音教を語る』を国立図書館コレクションで読む

2020年06月30日 | 読む・聴く・観る

 

岡本かの子『観音教を語る』を読む。

「国立図書館コレクション」で読む。

辺境の地にいながらにして、国立図書館の蔵書が読める。

すごい世の中になったもんだ。

感心しながら、『観音教を語る』(岡本かの子)を読む。

・・・・・・

妙音観世音 梵音海潮音

勝彼世間音 是故順常念(原文ママ)

(略)もし、勝手が宥されるなら、私は偈頌中の右の四句に何とも言へない好もしさを覚えるのであります。もう、これは理屈ではありません。性分に合ふとか、虫が好くとかいふもので、いはゞ思案の外の心行であります。

・・・・・・

あら奇遇。

オレもそうなんだよ、かの子さん。

とかナントカ独りごちつつ、岡本かの子『観音経を語る』を「国立図書館コレクション」で読む。

 

 

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『復活の日』(小松左京)を読む

2020年06月29日 | 読む・聴く・観る

 

『復活の日』(小松左京)を読んだ。

恐ろしい物語だった。

 

・・・・・・

 終った時 ー 老人たちは、大ていこの災厄が終った時のことを考えていた。老人たちは災厄に出あった経験を豊富にもち、それがどんな形で終るか、終ったあと、どんなことになるのかも知っていた。

 終った時 ー 誰しも、この災厄が、いつかは終るものと考えていた。「人類」にとって、災厄というものは、常に一過性のものにすぎないと。

(中略)

辛抱づよい人々は、「異変」を「日常」になじませることに努力をそそぎ、辛い状況にじっと堪えていた。人々は、こんなひどいかぜはめずらしい。早く流行がおさまって、もとの世の中がくればいいが、と話しあった。長い長い間、千数百年にわたって、小ぢんまりとした「文明」を享受してきた日本の人々は、文明と国土に対する無条件的な信頼があった。しかし、同時に、文明というものにはある限界点のようなものがあって、崩壊作用がその限界点をこえると、高度に有機化した人間社会を支える「文明」のあらゆる要素が、今度は逆にことごとく文明の解体の方向に作用することを知らなかった。

 ー そして、その解体の彼方に、「種の滅亡」という、地球の長い歴史にとっては、ごくありふれた、ささやかなドラマがひかえていることも・・・。

(Kindleの位置No.3270~3285)

・・・・・・

 

エンターテイメントとして読むのが筋なのだろう。

そう思いつつ読んではいたが、西暦2020年という「今」を生きる人間のひとりとしては、新種のウイルスで人類が「ほぼ」滅亡するというそのストーリーと描写の数々が真に迫っていて、とてもとても絵空事のようには思えず、恐ろしかった。

新型コロナウイルスと、作中の新種のウイルスが同じとか似ているとか、そういうわけではもちろんない。とはいえ、小松左京の筆力が「コロナ禍」という時宜を得て、さらなるパワーを身にまとったのはまちがいのないところだろう。

単なるSFパニック小説にあらず、上質のエンターテインメントであり、かつ、小松左京による一級の文明論。

500ページ近い長編を2日間で読み終えたのも、むべなるかな。

 

 

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撮るたのしみ 〜 モネの庭から(その412)

2020年06月27日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この風景を

どんな構図で切り撮ってやろうかと

一瞬考えるそのときが

けっきょく

わたしのイチバンのたのしみなのかもしれないな

などと思いつつ

撮った写真をながめている

 

撮ってしまえば

やれピントがどうだ

色合いがどうだ

あかるさがどうだ

ここがどうだ

あそこがどうだと

必ずなにかしらどこかしらに不満が出てきてしまう

そりゃそうだ

構図以外は

カメラまかせ運まかせのヘッポコカメラマンなのだもの

 

できあがった結果で

悲しくなったり

うれしくなったり

一喜一憂するのも

それはそれでまたわるくはないが

シャッターを押す前の刹那のワクワク感には勝てない

な〜んて

けっきょくテメエの未熟なウデと

きちんと向き合ってないだけなのかもしれないのだけれど

ま、それはそれでいいではないか

 

トカナントカ思いつつ

今日も撮りに行くのだな(たぶん)

 

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「正しい」オジさん

2020年06月26日 | ちょっと考えたこと

少しばかり体調がすぐれない日がつづいている。

と書けば驚かれるだろうか。

このブログからその兆候を見出すことができたとしたら、それはよほどの達人か、わたしという人間のパターンを知悉しているかのどちらかだ。

とはいえ、その「少しばかり」というヤツは誰にでもよくある「少しばかり」であって、さほどのことでもない。

じゃあ思わせぶりな書き方をするなよ、と叱られればおっしゃるとおり。ゴメンなさいとアタマをかくしかない。

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」

という言葉は、今という時代では放送禁止用語で使ってはいけない言葉の一つらしいが、体調がすぐれぬとき、あるいは病気に侵されているときに、心もまた不調をきたしがちなのは、「一般的に」という括弧はつくものの、あながちまちがいではない。

したがって、そのようなときこそ、自分自身の言動に気をつけなければならないと、いつのころからか(そんなに昔ではない)常日頃戒めている。

「気をつける」という表現は、いささか抽象的なので、わたし流に言いあらためるとそれは、「自分自身の言動に疑念を持て」ということである。

今のオレの言葉は、もしくは、今のオレの行動は、今この身体をむしばんでいる病いや不定愁訴に影響を受けてはいないか、その影響で、いたずらに攻撃的になったり、必要以上に悲観的になったりしてはいないか、「いったい今のオレはマトモな判断ができているのか」という懐疑を自分自身に向け、感情に流されることも激することも抑え、自身をコントロールするよう努め、どうにもそれはむずかしいなとジャッジしたときにはひとまずおとなしくしておけ、という戒めである。

少しばかり体調がすぐれない日がつづいている。

こんなときにこそ、「正しいオジさん」としての立ち居振る舞いが求められるのだ。

そう思ったりする雨の朝。

 

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父の日余話

2020年06月25日 | ちょっと考えたこと

「宅急便が届いちゅうよ」

「誰から?」

「自分がなんか注文したがじゃない?」

「いやー覚えがないなぁ」

 

大きなその荷物の送り先を確認しようと持ってみると、やけに軽い。

「これだから、Amazonってやつはイヤなんだ」

これまでに、いく度口にしたか知れない独り言をまたつぶやきつつ、送り先を読もうとして愛用の遠近両用メガネをかけてないことに気づく。まこと年寄りというのは面倒くさい。

老眼鏡をかけて仕切り直すと、その大仰な図体に比して異様に軽い荷物は、予想に反してAmazonではなくZOZOから。その表には、首都圏に住む次女の名前が記されていた。

さては…

「父の日のプレゼントかなー」

勝手に決めつけ急いであけると、贈答用とおぼしき銀色の包みが。

「あ、たぶんアレやな」

ピンと来た。

「なに?」

妻が訊く。

「ほれ、アレよアレ。この前の父の日の。CMの。動画を。ほれ。見せたやろ。アレ」

「わからん」

「たぶんシャツ」

喜び勇んであけたその中身は、われながらのご名答。バンドカラーの白いワイシャツだった。

「ほれ、わかるやろ?」

身体に合わせて妻の方を向くと

「あ、ヒノショーヘイか」

気づいたようだ。

 

そう、さかのぼること3日前の先の日曜日、父の日のプレゼントだといってメーカーズマークを持ってきてくれた長女が教えてくれたCMのなかで、火野正平が着用していたものと同じバンドカラーの白いワイシャツだ。

たしかにあの日、あの動画アドレスを、

「こんなシャツを着てみたくなった父なのであります」

という言葉とともに送ったわたしに次女は、

「ええやんか」

という短い返信を送ってきてはいた。

そうか…

なんにしても、贈り物、特に思いがけないそれはうれしいものだ。

「着てみて」

妻の口からその言葉が出たそのときにはすでに、着ていたポロシャツを半分ほど脱ぎかけていたわたしだ。その贈り物を身につけ、ヒノショーヘイ然とした(つもり)ポーズをとり、写真を撮ってもらうまでにさほどの時間はかからなかった。

もちろん、テーブルの上にはメーカーズマークの瓶と、手にはロックグラス。

ところが、切り撮られた画像に写っているのは、かの稀代のプレイボーイとは似ても似つかぬオジさん。

やれやれ…

しかたないが、これが現実だ。

気をとりなおして娘たちに画像を送る。

「色気も渋さもナッシング」

自虐的なコメントをつけて。

 

さっそく返事がやってきた。

長女からだ。

「爆笑」

と一言だけ。

ほどなくして届いた次女からの返信にはこう書かれていた。

「家がおしゃれじゃない」

(ほっといてくれ)

「なんか僧侶感がすごい」

(たしかに)

「日に焼けてみたら?」

すると、また長女から矢継早のLINEだ。

「ちょっと角度とライティングが」

「もう少し遠くから低めに暗く」

「縁側で後ろ姿はどう?」

 

いっとき、娘たちに遊ばれる父。

親父ヒノショーヘイ化計画2020、この先いったいどこまで進展するのか。

どうせ、まな板の上の鯉だ。

煮て食おうと焼いて食おうと、如何ようなりとしておくれ。

 

 

(注:下の画像はホンモノのほうですのであしからず)

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今はまだ

2020年06月24日 | ちょっと考えたこと

あきらかにマスクをつけない人が増えてきた。

とある公共機関へ行ったら、そこではたらく女性のほとんどがマスク着用なのに対して男性職員のこれまたほとんどがノーマスクで仕事をしていたのを見たときには、「なんじゃこりゃ」と思わず目を丸くして笑ってしまったが、そのような例はあまりにないにしても、あきらかにマスクをつけない人は増えている。

わたしはどうかといえば、あいかわらず家から外へ出た場合の屋内では原則着用というルールを自らに課している。

その理由の根拠のひとつは、例えばこのような情報だ。

・・・・・・

一人が何人に感染させるか(再生産数)に関して、何も対策がなく誰も免疫を持っていない時の基本再生産数(R0)は2以上、しかし、公衆衛生上の対策により有効再生産数は1未満にすることが出来る。

(『山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 〜証拠(エビデンス)があり、正しい可能性が高い情報〜 より』

・・・・・・

その「公衆衛生上の対策」がいわゆる「感染防止の3つの基本」、「身体的距離の確保」「マスクの着用」「手洗い」であり、とりわけ「マスク」は、その対策の大きな柱だと考え、少なくともそれができ得る場所では、あえてそれを放棄する理由が今はまだないと思っている。

「今はまだ」の線引きはむずかしい。

「つけない」という判断は「もういいもんね」と考えているからだろうし、それはそれでわからなくもない。それが個人個人にゆだねられている以上、同調圧力(のようなもの)が薄まれば薄まるほど、「もういいや」となってしまうのもいたし方がないことだろう。そして、そうなるとなおさら、「オレはだいじょうぶだもんね」という正常性バイアスは、その傾向をますます強くし、「もういいんじゃないか」となってしまうのだろう。

しかし、確実に言えるのは、これは「終わってない」ということだ。

あきらかな終息をむかえていない以上、それぞれができ得る「公衆衛生上の対策」を放棄するのは「今はまだ」早いとわたしは思う。

トカなんとかエラソウに書いてしまったが、そういうわたしは、そもそも世の中で騒ぐほどにはこの感染症を大げさに考えていなかったし、今に至ってもそれは同様だ。しかも、まともに手も洗わない、したがってハンカチのひとつも持ち歩かない、という行状を子どものころより長くつづけてきたその当人が、「公衆衛生上の対策」などと声高に叫んだところで、説得力のかけらもない。

しかし、そんな人間だったからこそ、これが意識を変えるよい機会となったのはまちがいない。だからよけいに思うのだろう。今はまだ。まだまだ。

 

 

 

 

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黄色いトマト

2020年06月23日 | ちょっと考えたこと

夕餉の食卓に出された赤と黄色の物体を見て、思わず「これなに?」と訊いたわたし。

「トマト」

と即座に答えが返ってきた。

「ふむ」

赤い方は、あきらかにトマトとわかるのだが、一見するとパプリカ然としている黄色の方を見てすぐ「トマト」と判別できる体験がわたしの脳にはない。

「あら、そう。出したことないかなぁ?」

妻はそういぶかしがるが、まちがいない。

ただ、そう思ったのは一瞬だけで、その色をのぞく断面他すべてが、あきらかに「私はトマト」を主張しているのだから、鈍重なわたしの脳とて

「食え」

と各出先機関に指令を下すまでに時間はかからなかった。

さて・・・ミニトマトの黄色いやつは見たことも食べたこともあるのだが、オーソドックスな大きさのトマトで黄色いものは初体験だ。

口に入れてみる。なんのことはない。トマトだ。まごうことなきトマトだ。

そう、わたしの判断を左右したのは「トマトは赤い」という思いこみである。

「イカンではないか」

ほんの少し反省した。

いや、「トマトは赤い」は常識だ。そう思いこむこと自体は、別に責められるべきものではない。

ただそれが、「トマトは赤くなければならない」「黄色いトマトなどは認めない」となると話はチトちがってきてしまう。

齢を重ねるとなおのことだ。

ことほど左様に、常識と思いこみの鎧で自分自身をがんじがらめにしている場合が、気がつけば往々にしてあったりする。

それは厳に戒めなければならない。

たかが「トマト」でなにを大げさな、とおっしゃる向きもあるだろう。

たしかに、「たかがトマト」ではある。

しかし、もう一度繰り返すが、齢を重ねるとなおさらなのだ。

この場合の齢とは経験と読み替えてもよい。

「たかがトマト」程度のことでも、気がつくたびに戒めていなければ、思いこみという陥穽にはまったまま脱出できなくなってしまう。それが落とし穴だと気がつけばまだよい方だ。それすらに気づかされることもなく、常識と思いこみの鎧の重さを、さも経験の重みのごとく振るまうようになっているとしたら、笑えない笑い話にしか過ぎない。

 

あゝヤダヤダ。

わずか数秒のうちに、様々なことを思い浮かべたあと、それらすべてを否定してブルッとかぶりを振って黄色いトマトにかぶりつく。

 

うん、黄色いトマトもあっていい。

 

 

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父の日

2020年06月22日 | ちょっと考えたこと

きのう、娘がメーカーズマークを買ってきた。

父の日のプレゼントだという。

これを見ろと教えられたCMにはわたしが出ていた。

 

 

 

娘1号いわく

この人から渋みと色気を全部とり去ったら父になるのになぜ?

娘2号いわく

この人の方が100倍オシャレなのになぜ?

そのあとにつづけた言葉はふたりとも同じだ。

 

誰が見てもソックリ。

 

動画のなかで、父子ふたりでメーカーズマークのハイボールを呑んでいるとき、息子がおもむろに問いかける。

「うまい?」

父の答えは

「おまえも息子にウィスキーもらったらわかるよ」

グッときた。

そして

わたしにそれをくれたのが娘だという事実に笑った。

シメの惹句はこうだ。

「たまにはふたりであけようか」

わが息子よ

 

 

たのんまっせ。

 

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そして俵万智

2020年06月20日 | ちょっと考えたこと

 

『日本語で一番大事なもの』(大野普、丸谷才一)読了。

といっても、その半分は理解不能で超速ななめ読みなってしまったのだから、「読了」という表現は正しくないのかもしれないが、とりあえず読み終えた。

その最後、俵万智さんの短歌をテキストにして、大野先生はこうレクチャーする。

ひとつめのお題は、

 

万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 

名作だ。

のっけから、わたしが大好きな歌の登場に気をよくして、読みすすめた。

・・・・・・

「子らがいて」の「が」の使い方が、未知の情報を承ける「が」の機能にぴったりしていて、その衝撃力がいい。「子らはいて」とか、「子らのいて」とかではだめですね。(4953)

・・・・・・

うん、ナルホド。

なんとなくだがよくわかる。

そのあと、いくつかの万智さん作品とそれにもとづく講義がつづき、最後はコレ。

 

ツーアウト満塁なれば人生の一大事のごと君は構える

 

こちらについては、そういえばそんな歌があったな、程度の認識しかもっていないわたしだ。

・・・・・・

私はツーアウト満塁だってなんとも思っていないのに、あなたはね、と問題設定しているから、「は」になるわけです。これが「君が構える」となると、傍から見て描写しただけになります。(5003)

・・・・・・

むむむムム。

これはわからない。

どうして「君が構える」ではダメなのだ。

どうして「描写」だけになってはダメなのだ。

わたしとて、「君が構える」より「君は構える」のほうが好ましいが、「君が」でも別によいではないか。

「君が構える」にも、それはそれで別の味があってよいではないか。

などと思ってしまう。

う~~~ん。

アタマをかかえた凡人は、かくして、よりいっそうの深みにおちいってしまったままスマホを閉じる。やはり、雰囲気と感性で身体に落しこんでいくしかないのかなぁ、などと思いつつ。

 

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微妙(びみょう)で微妙(みみょう) 〜 モネの庭から(その411)

2020年06月19日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

咲いた睡蓮

つぼんだ睡蓮

咲こうかという睡蓮

いや

閉じようとしている睡蓮か

 

咲いてはつぼみ

つぼんでは咲き

日毎それをくりかえす睡蓮は

日によってちがう姿かたちをして

二度と同じものがない

 

ましてやそれが

あたりの風景を映す水鏡とあいまっているとなれば

なおさらだ

 

微妙(びみょう)で微妙(みみょう)

 

この池が

わたしを魅了してやまないのは

そんなところなのだろうな

(たぶん)

(いや)

(きっと)

 

 

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