21.
人間の霊性は、内面から何かを求めて呼びかけている。人間が、そのように呼びかける霊性に気づこうとしていないこと、それが世界を霊的に見ようとするときの最大の妨げになっている。なぜなら、自分自身もまた自然秩序のなかに組み込まれていると考えることで、人間の心は自分自身の霊性から目を背けることになるからである。しかし、世界を霊的に見るためには―すなわち「霊界」の存在に気づくためには―、まず霊性がもっとも間近に与えられているところに目を向けなければならない。つまり、まずは自分自身を、捉われのない目で見つめなければならないのである。(訳・入間カイ)
21. Die Nicht-Anerkennung dieses Antriebes aus dem Geiste heraus im Innern des menschlichen Wesens ist das größte Hindernis für die Erlangung einer Einsicht in die geistige Welt. Denn Einordnung des eigenen Wesens in den Naturzusammenhang bedeutet Ablenkung des Seelenblickes von diesem Wesen. Man kann aber in die geistige Welt nicht eindringen, wenn man den Geist nicht zuerst da erfaßt, wo er ganz unmittelbar gegeben ist: in der unbefangenen Selbstbeobachtung. (Rudolf Steiner)
シュタイナーが「霊的」という言葉を使うとき、
それはただ「目にみえないもの」とか、
いわゆる幽霊や超常現象のことを指すわけではありません。
シュタイナーは、「あるがままの現実」という意味で、「霊的」という言葉を用いています。
なぜなら、本来の「現実」には、
目に見える部分も、目に見えない部分も含まれるからです。
だから、シュタイナーが「霊界」というとき、
そこには私たちが生きているこの「目に見える世界」も含まれるのです。
ただ、私たちが目に見える物質の世界だけが現実と考えているときは、
そのような私たちにとっての「物質界」と「霊界」とは区別されます。
しかし、本来の意味では、シュタイナーのいう霊界は「あるがままの現実」であり、
「霊的に見る」ことは、「現実をあるがままに見る」ということです。
この点を間違えると、
シュタイナーのアントロポゾフィーは、
私たちが生きている日常生活や、社会の現実から遊離した
希薄なものであるかのように誤解されてしまいます。
そしてシュタイナーのいう「魂」とか「心」(Seele)は、
一人ひとりが「現実」に向かったときの、
個人に根ざした感性を意味しています。
その意味で、
魂の世界、心の世界は、
一人ひとりが現実をどう見るか、どう感じるかということであり、
主観的なものです。
個別の人間として生きているかぎり、
私たちはつねに、この「心」(主観)から出発しなければなりません。
しかし、一人ひとりの主観の世界、心の世界にも、
世界の客観的現実、普遍的現実(つまり霊界)に通じる何かが存在しています。
その何かが霊性なのです。
シュタイナーのいう人間の霊性は、
本来、きわめて個別的なあり方をしている「心」のなかで、
すべての存在の起源である「あるがままの現実」が、
いわば「宇宙全体」が一個の「点」のなかに凝縮されたようなかたちで存在している、
あるいは「普遍を内包する個」として存在している、
そういうものです。
この霊性を、人間は「私」もしくは「自分」として意識するのです。
ですから、
一人ひとりが「私」という意識をもつとき、
そこでは実は「宇宙全体」が、あるいは「あるがままの現実」そのものが、
自分自身を同時に意識しているとも言えるのです。
ここに人間の霊性の、
あるいは一人ひとりの「私」の、謎があるといえます。
ちょうど、光が粒子であると同時に波でもあるように、
人間の「私」もしくは「霊性」は、
すべての人間が共有する「普遍」であると同時に、
一人ひとりまったく異なる、徹底した「個」なのです。
この霊性は、すべての存在のなかに、
鉱物や植物や動物をはじめ、すべての存在のなかに、
宇宙全体に浸透するようにして働いています。
しかし、それが「私」として、
個別の存在のなかに「自覚」されるのは、
人間の意識、人間の心という「場」においてだけなのです。
ここに、
一人ひとりの人間が、かけがえのない「絶対的な価値」をもっており、
同時、すべての人間が対等であり、その価値が等しいことの根拠があります。
つまり、
霊性に気づくことによって、初めて、
人間は、一人ひとりが完全に自由であると同時に、
人類が平等である、ということ、
「自由」と「平等」という本来相容れない二つの原理が、
本当に両立するのです。
そして、この「個と普遍」、
「自由と平等」という二つの原理を一致させたとき、
そこに「愛」の可能性、
もしくは「友愛」の可能性が現れます。
シュタイナー教育で、
一人ひとりの「自分らしさ」の発達を大切にするのは、
20年もの長い「子ども時代」を通じて、
「自由」、「平等」、「友愛」の基盤が,
つまり本当の「生きた社会」の基盤が、
一人ひとりの子どもの身体性のなかに築かれていくからです。
自分自身のなかに働く「霊性」、
それは「自分はこの人生をどう生きたいか」という
一人ひとりのなかの大切な「意志」として現われます。
人間がこの「内なる意志」に気づいて、その意志を大切にして生きようとするとき、
一人ひとりの人間は自由に、「自分らしく」生きようとしている、といえます。
それは、一人ひとりまったく個別の、
一人ひとりの「かけがえのなさ」の部分です。
同時に、人類のなかのすべての人々が、
まったく同じように、その人だけのかけがえのない意志、
かけがえのない自分らしさをもっているのです。
そのように一人ひとりの人間が
自分自身のなかの、「自分らしく生きたいという意志」を持っている。
そのことをシュタイナーは
「内なる霊性の呼びかけ」と言ったのです。
そして、世界を霊的に見ようとする努力は、
自分自身の、「自分らしさへの意志」に気づくところから始まります。
そのとき、私たちは、
他の人々のなかの「自分らしさへの意志」を感じとることができるようになります。
そして、そこから
すべての存在のなかに「普遍的」な意志が、
「世界創造への意志」が働いていることを感じ始めます。
さらにいえば、シュタイナーは、
これまでの「世界創造」においては、
「神々」が、つまり人間にとっては「無意識」の作用が、
この世界を創造してきた。
しかし、もし一人ひとりの人間が、
「私」という自覚的な意志をもって
一人ひとりの「自分らしさ」を生み出していくなら、
そのように自分らしく生きようと努める、
人と人のつながりのなかで、
つまり、おたがいの「自分らしさ」を認め合う「友愛」によって、
まったく新しい世界が創造されると考えたのです。
それをシュタイナーは、
「叡智の宇宙」から「愛の宇宙」への変容と呼びました。
そのようにシュタイナーが予感した「愛の宇宙」、
一人ひとりの自覚的な人間による新しい世界創造は、
この現実の地上における
自由、平等、友愛の原理に根ざした
新しい社会、「生きた社会」として現れます。
その意味で、アントロポゾフィーは、
何よりも「社会運動」であろうと思うのです。
人間の霊性は、内面から何かを求めて呼びかけている。人間が、そのように呼びかける霊性に気づこうとしていないこと、それが世界を霊的に見ようとするときの最大の妨げになっている。なぜなら、自分自身もまた自然秩序のなかに組み込まれていると考えることで、人間の心は自分自身の霊性から目を背けることになるからである。しかし、世界を霊的に見るためには―すなわち「霊界」の存在に気づくためには―、まず霊性がもっとも間近に与えられているところに目を向けなければならない。つまり、まずは自分自身を、捉われのない目で見つめなければならないのである。(訳・入間カイ)
21. Die Nicht-Anerkennung dieses Antriebes aus dem Geiste heraus im Innern des menschlichen Wesens ist das größte Hindernis für die Erlangung einer Einsicht in die geistige Welt. Denn Einordnung des eigenen Wesens in den Naturzusammenhang bedeutet Ablenkung des Seelenblickes von diesem Wesen. Man kann aber in die geistige Welt nicht eindringen, wenn man den Geist nicht zuerst da erfaßt, wo er ganz unmittelbar gegeben ist: in der unbefangenen Selbstbeobachtung. (Rudolf Steiner)
シュタイナーが「霊的」という言葉を使うとき、
それはただ「目にみえないもの」とか、
いわゆる幽霊や超常現象のことを指すわけではありません。
シュタイナーは、「あるがままの現実」という意味で、「霊的」という言葉を用いています。
なぜなら、本来の「現実」には、
目に見える部分も、目に見えない部分も含まれるからです。
だから、シュタイナーが「霊界」というとき、
そこには私たちが生きているこの「目に見える世界」も含まれるのです。
ただ、私たちが目に見える物質の世界だけが現実と考えているときは、
そのような私たちにとっての「物質界」と「霊界」とは区別されます。
しかし、本来の意味では、シュタイナーのいう霊界は「あるがままの現実」であり、
「霊的に見る」ことは、「現実をあるがままに見る」ということです。
この点を間違えると、
シュタイナーのアントロポゾフィーは、
私たちが生きている日常生活や、社会の現実から遊離した
希薄なものであるかのように誤解されてしまいます。
そしてシュタイナーのいう「魂」とか「心」(Seele)は、
一人ひとりが「現実」に向かったときの、
個人に根ざした感性を意味しています。
その意味で、
魂の世界、心の世界は、
一人ひとりが現実をどう見るか、どう感じるかということであり、
主観的なものです。
個別の人間として生きているかぎり、
私たちはつねに、この「心」(主観)から出発しなければなりません。
しかし、一人ひとりの主観の世界、心の世界にも、
世界の客観的現実、普遍的現実(つまり霊界)に通じる何かが存在しています。
その何かが霊性なのです。
シュタイナーのいう人間の霊性は、
本来、きわめて個別的なあり方をしている「心」のなかで、
すべての存在の起源である「あるがままの現実」が、
いわば「宇宙全体」が一個の「点」のなかに凝縮されたようなかたちで存在している、
あるいは「普遍を内包する個」として存在している、
そういうものです。
この霊性を、人間は「私」もしくは「自分」として意識するのです。
ですから、
一人ひとりが「私」という意識をもつとき、
そこでは実は「宇宙全体」が、あるいは「あるがままの現実」そのものが、
自分自身を同時に意識しているとも言えるのです。
ここに人間の霊性の、
あるいは一人ひとりの「私」の、謎があるといえます。
ちょうど、光が粒子であると同時に波でもあるように、
人間の「私」もしくは「霊性」は、
すべての人間が共有する「普遍」であると同時に、
一人ひとりまったく異なる、徹底した「個」なのです。
この霊性は、すべての存在のなかに、
鉱物や植物や動物をはじめ、すべての存在のなかに、
宇宙全体に浸透するようにして働いています。
しかし、それが「私」として、
個別の存在のなかに「自覚」されるのは、
人間の意識、人間の心という「場」においてだけなのです。
ここに、
一人ひとりの人間が、かけがえのない「絶対的な価値」をもっており、
同時、すべての人間が対等であり、その価値が等しいことの根拠があります。
つまり、
霊性に気づくことによって、初めて、
人間は、一人ひとりが完全に自由であると同時に、
人類が平等である、ということ、
「自由」と「平等」という本来相容れない二つの原理が、
本当に両立するのです。
そして、この「個と普遍」、
「自由と平等」という二つの原理を一致させたとき、
そこに「愛」の可能性、
もしくは「友愛」の可能性が現れます。
シュタイナー教育で、
一人ひとりの「自分らしさ」の発達を大切にするのは、
20年もの長い「子ども時代」を通じて、
「自由」、「平等」、「友愛」の基盤が,
つまり本当の「生きた社会」の基盤が、
一人ひとりの子どもの身体性のなかに築かれていくからです。
自分自身のなかに働く「霊性」、
それは「自分はこの人生をどう生きたいか」という
一人ひとりのなかの大切な「意志」として現われます。
人間がこの「内なる意志」に気づいて、その意志を大切にして生きようとするとき、
一人ひとりの人間は自由に、「自分らしく」生きようとしている、といえます。
それは、一人ひとりまったく個別の、
一人ひとりの「かけがえのなさ」の部分です。
同時に、人類のなかのすべての人々が、
まったく同じように、その人だけのかけがえのない意志、
かけがえのない自分らしさをもっているのです。
そのように一人ひとりの人間が
自分自身のなかの、「自分らしく生きたいという意志」を持っている。
そのことをシュタイナーは
「内なる霊性の呼びかけ」と言ったのです。
そして、世界を霊的に見ようとする努力は、
自分自身の、「自分らしさへの意志」に気づくところから始まります。
そのとき、私たちは、
他の人々のなかの「自分らしさへの意志」を感じとることができるようになります。
そして、そこから
すべての存在のなかに「普遍的」な意志が、
「世界創造への意志」が働いていることを感じ始めます。
さらにいえば、シュタイナーは、
これまでの「世界創造」においては、
「神々」が、つまり人間にとっては「無意識」の作用が、
この世界を創造してきた。
しかし、もし一人ひとりの人間が、
「私」という自覚的な意志をもって
一人ひとりの「自分らしさ」を生み出していくなら、
そのように自分らしく生きようと努める、
人と人のつながりのなかで、
つまり、おたがいの「自分らしさ」を認め合う「友愛」によって、
まったく新しい世界が創造されると考えたのです。
それをシュタイナーは、
「叡智の宇宙」から「愛の宇宙」への変容と呼びました。
そのようにシュタイナーが予感した「愛の宇宙」、
一人ひとりの自覚的な人間による新しい世界創造は、
この現実の地上における
自由、平等、友愛の原理に根ざした
新しい社会、「生きた社会」として現れます。
その意味で、アントロポゾフィーは、
何よりも「社会運動」であろうと思うのです。