《正しい態度により》
イエスは目が見えるようになることを求めた二人の盲人に対して,「あなたがたの信仰どおりのことが起きるように」と言われました。
二人が積極的な態度を抱き,信じていたので,その目は見えるようになりました。
『それでイエスは2人の目に触り,「あなたたちの信仰通りになりますように」と言った』。
(マタイ 9:29)
目標に向かって働くにあたり,疑ったり,優柔不断になったりせず,確信と活力を持って行ないますか。
消極的な考え方をすれば,消極的な結果しか得られません。積極的な結果を得るためには積極的な考え方をしなければなりません。
疑いは裏切り者のようなもので,恐れずに試みてさえいればわたしたちが勝ち得ることができたものを失わせます。立派な事柄を思いめぐらすようにしましょう。
「最後に,兄弟たち,真実なこと,真面目なこと,正しいこと,清いこと,愛すべきこと,立派なこと,高潔なこと,称賛に値することについて,考え続けてください」。
(ピリピ・フィリピ 4:8)
そのことはなぜ肝要なのでしょうか。
箴言・格言 23章7節に言い表わされている,『そは,その心に思うごとくその人となりも亦しかればなり』という原則があるからです。
『その人は帳簿を付ける人のようだからである。「食べなさい,飲みなさい」と言うが,心からではない』。
(箴言・格言 23:7)
《他の人に仕えることにより》
他の人を助ける時わたしたちは自分は有用であると感じます。
それはわたしたちに他の人に与えるものがあることを示しており,イエスの言われたように「受けるより与えるほうが幸福である」のです。
「私は,このように真面目に働いて,弱い人たちを援助しなければならないこと,また,主イエス自身が述べた『受けるより与える方が幸福である』という言葉を覚えておかなければならないことを,あらゆる点で皆さんに示しました」。
(使徒 20:35)
他の人に役立つ人生は,他の人の目から見ても,わたしたち自身の目から見ても,意味のある人生です。人類に奉仕することそれ自体,目標となり,人の人生に意味を与えるものとなります。
たとえわたしたちが広い宇宙にあって小さな存在で,時の流れのごくわずかな部分しか占めていなくても,神に仕えるなら,自分たちの人生が意味深いものであるとみなす上でずっと多くを成し遂げられます。
義のために苦しめられることにより
「苦しむことにより自分が犠牲を払っているというように,苦しみに意味のあることが分かった瞬間,何らかの方法で苦しみは苦しみでなくなる。
人は苦しむ用意さえある。言うまでもなく,それは自分の苦しみに意味がある場合である」とフランクルは書いています。義のために苦しむこと以上に意味のあることがあるでしょうか。
「義のために迫害されてきた人たちは幸いです」とイエスは言われました。使徒たちはその喜びを経験しました。こう記されています。
「[ユダヤ教の宗教法廷サンヘドリンは]使徒たちを呼び出してむち打ち,イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから,彼らを去らせた。そこでこれらの者は,彼の名のために辱しめられるに足る者とされたことを喜びつつ,
サンヘドリンの前から出て行った」。
「正しいことをして迫害されてきた人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。私のために非難され,迫害され,悪意のあるうそをいろいろ言われるとき,あなたたちは幸福です。
喜び,歓喜しなさい。天での報いは大きいからです。以前の預言者たちも同じように迫害されました」。
(マタイ 5:10~12)
「皆はガマリエルの意見を受け入れ,使徒たちを呼び出して打ちたたき,イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから去らせた。使徒たちは,イエスの名のために辱められるという栄誉を与えられたことを喜びつつ,サンヘドリンの前から出ていった」。
(使徒 5:40,41)
悪行のために苦しんだとしてもそれにはほめるべき点はありませんが,善を行なって苦しみに遭うのであれば,それは,「神にとって喜ばしいことなのです」。
「罪を犯したために打ちたたかれ,忍耐しても,それに何の価値があるでしょうか。しかし,善を行ったために苦しみに遭い,忍耐するなら,それは神にとって喜ばしいことです」。
(ペテロ第一 2:20)