神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

甘やかすか,愛をもって懲らしめるか~聖書~

2019年11月30日 | 日記

私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌
パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。


*私が用いる聖句は,新世界訳,新共同訳,新改訳,口語訳,回復訳(新約聖書のみ)





 

子供たち,主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
「父と母を敬いなさい」これは約束を伴う最初の掟です。
「そうすれば,あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
聖書(エフェソス・エペソ6:1~6:3)




「甘やかすか,愛をもって懲らしめるか」


聖書は,若者を甘やかすなら災いに至ると警告しています。
「僕を幼いときから甘やかしていると,後には手のつけられないものになる」。
(箴言 29:21)

「自分の僕を若い時から甘やかしていると,後になって感謝の念のない者となる」。
箴言 29:21)



この言葉と一致して,米国教員連盟の会長アルバート・シャンカーは次のように述べています。
「何でも子供の望みどおりにしてやれば,子供のために最善のことをしていることになると考えている親がいる。
しかし,我々はそのような考えが間違いであることを知っている」。

多くの若者たちでさえ,そのように甘やかすのが間違いであることを知っています。
今年の初めに,マサチューセッツ州のある新聞は次のように報じました。
「ウエスト・スプリングフィールドの6年生から12年生までの生徒1,572人を対象にした調査によると,
その年齢層の子供たちを麻薬やアルコールの使用に至らせる強い影響力となっていたのは,
仲間の圧力ではなく,『親の放任』のほうだった」。

そのようにして若者たちを甘やかしたことが,乱交の蔓延をも助長しています。
確かに,聖書が述べているように,懲らしめを与えないなら,家族が恥をかくことになります。
「むち棒と戒めは知恵を与える。しかし,したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」。
(箴言 29:15)




親にできる事柄

⚫ 子供の通っている学校,その学校の目的,親の価値観や信条に対する学校側の態度を知るように努める。

⚫ 子供の先生たちと知り合いになり,良い協力関係を築くように努力する。

⚫ 子供の宿題に深い関心を持つ。子供たちとたびたび一緒に本を読む。

⚫ 子供の見るテレビ番組と見る時間の長さを監督する。

⚫ 子供の食習慣に注意を払う。ジャンクフードは子供の集中力に悪影響を及ぼす場合がある。

⚫ 子供に十分な睡眠を取らせるようにする。子供たちは疲れていると,勉強に打ち込めない。

⚫ 子供が健全な友達を選べるように努めて援助する。

⚫ 子供の親友になる。子供にはできるだけ多くの円熟した友達が必要である。



子供にできる事柄

⚫ 親の助けを得て,教育を受ける上での目標とそれを達成する方法を決める。それらの目標について先生たちと話し合う。

⚫ 先生や親の助けを得て,課目を慎重に選択する。簡単な選択課目は普通,最善とは言えない。

⚫ 先生たちとの良い関係を築き上げるように努める。先生たちが自分に期待していることを知るようにする。自分の進歩状況や問題点について先生たちと話し合う。

⚫ 授業中は十分に注意を払う。学習の妨げとなるような行動に巻き込まれないようにする。

⚫ 友達を賢明に選ぶ。友達は,学校での進歩の助けになる場合もあれば,妨げになる場合もある。

⚫ 宿題や研究課題をできるだけきちんと行なう。その時間を充実したものにする。必要であれば,親か他の円熟した大人に助けを求める。






                                         


より小さい者として行動する上での助け《多くの肢体を伴う一つからだ》~聖書

2019年11月29日 | 日記

 

「より小さい者として行動する上での助け」
 《多くの肢体を伴う一つからだ》


からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、
一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、
そして皆一つの御霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、
からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
聖書(コリント第一 12:12~12:26)

 

 

体は1つでも、多くの器官で構成されています。また、体の器官は多くても、全てが1つの体を構成しています。キリストも同様です。 私たちは皆、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、奴隷であれ自由民であれ、1つの聖なる力によってバプテスマを受けて1つの体になり、1つの聖なる力を飲んだからです。体は確かに、1つの器官ではなく多くの器官で構成されています。もし足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったとしても、体の一部でないことにはなりません。 また、もし耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったとしても、体の一部でないことにはなりません。もし全身が目だとしたら、どこで聞くのですか。もし全身が耳だとしたら、どこでにおいを嗅ぐのですか。 神は望みのままに体の各器官を配置したのです。もし全てが同じ1つの器官だとしたら、体は成り立つでしょうか。 実際には多くの器官があり、それでも体は1つです。 目は手に、「私にあなたは必要ない」とは言えず、頭も足に、「私にあなたは必要ない」とは言えません。 それどころか、ほかより弱く見える器官がかえって必要なのです。また私たちは,ほかより貴くないと思える部分を、いっそう貴重なものと見なします。私たちの見栄えのしない部分がいっそう大事にされるためです。一方、見栄えのする部分は何も必要としません。とはいえ、神がそのように体を造り上げたのであり、貴くないとされる部分を神はいっそう貴重なものと見ています。体に分裂がないようにし、各器官が気遣い合うようにするためです。1つの器官が苦しめば、ほかの器官全てが一緒に苦しみ、1つの器官が称賛されれば、ほかの器官全てが一緒に喜ぶのです。
(コリント第一 12:12~12:26)

 

 


体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(コリント第一 12:12~12:26)