ネンゴロ
2007 荷を負うな、郵政民営化。(郵政公社民営化)
(終)
漫画の思い出
花輪和一(8)
『月ノ光』(青林堂)昭和五十五年発行。
目次『髑髏(どくろ)乳(ぢち)』『豚女』『神に誓う子』『箱入娘』『因果〈第一部〉』『因果〈暑い〉』『因果〈寒い〉』『肉屋敷』『戦フ女』『見世物小屋』『月ノ光』
収録作品の多くは『花輪和一作品集』と重複。
『髑髏乳』
分離不安の表出。断乳の苦しみの狂った記憶の再生。
子にとって母は4種類いる。妊娠する母すなわち妊婦。出産する母すなわち生母。授乳する母すなわち乳母。養育する母すなわち養母。これに対応する子が、胎児、新生児、乳児、幼児だ。
胎児と母体は肉体的に一体だ。乳母は乳児にとって精神的に一体だ。養母は、乳児から母乳を取り上げる。その結果、幼児と養母は別人格になる。
断乳の後、養母を恨む幼児にとって、養母は乳母を殺した悪人だ。幼児は乳児期を懐かしみ、胎児期を夢想する。憎い養母は、乳母を殺したばかりか、生母を、そして妊婦をも殺した。同時に、子そのものをも殺した。子は、生まれなかったのだ。
三木露風の『赤とんぼ』の「おわれて見たのは いつの日か」という疑問は、〈誰に背負われていたのか〉という疑問を隠している。誰に背負われていたか、わかれば「いつの日か」見当が付く。「くわの実」を摘んだ頃は、もう背負われていない。その前、子守つまり養母の「ねえや」に背負われていたのなら、五歳ぐらいか。乳母の「お里」なら、三歳ぐらいか。「ねえや」でも「お里」でもない〈母〉はどうしていたのだろう。〈母〉に背負われたことはないのか。彼女は、育児放棄していたのか。病弱だったか。あるいは、とうに死んでいたのか。ちなみに、三木の母親は、彼が七歳の時に家を出ている。いずれにせよ、この歌の中の主人公は淋しい幼児期を過ごしたようだ。「とまっているよ さおの先」という部分は、背負ってくれる人のいない淋しさを表現していると同時に、背負われないでいられる誇らしさをも表現している。
『髑髏乳』の作者は、苦しい孤立と勇ましい自立の記憶の混乱を表出している。
この作品では、未来の乳母の象徴である「女中」のお妖が、未来の生母である妊娠中の「奥様」を殺す。「奥様」と胎児が捨てられた井戸は、子宮の象徴だ。未来の生母と共に死んだ胎児は髑髏となって、妊婦の「女中」つまり未来の乳母の乳房を予め専有する。ただし、未来の乳母の体内には胎児が閉じ籠っている。その胎児は、断乳の苦しみを味わいたくなくて出てこないのだろう。
「ソノゴ、オ妖ハアハレニモ氣ガ狂ツテシマイウミオトスコトホワスレタハラト、根ヲオロシテ体ノ一部ト化シタドクロヂチヲブラサゲ、ケフモヰタマシヒ姿ヲ、ハナノオヱドニサラスノデアリマシタ」
「ウミオトスコトホワスレタハラ」の中の胎児と、乳房と一体化した髑髏は、別物ではない。
作者は、乳児に母乳を与えない〈母〉が人々から軽蔑される様を夢想し、そして溜飲を下げる。ただし、そんな自分を冷笑している。だから、この作品はかなりグロテスクでありながらもユーモラスで、恐怖はあまり感じられない。
『豚女』
スカトロ。ただし、男が女を苛めるためだ。
激しい女性の憎悪の表現。面白くない。話は無理にでっち上げ。
男は女の娘をも苛める。その少女は無邪気に母を恋う。
花輪作品では、少年は母を憎みがちだが、少女が母を愛することはよくある。
(8の終)
回文
~壊滅
還元だ 以前減税 断言か
(かんげんだ いぜんげんぜい だんげんか)
海水で 生き物も奇異 泥酔か
(かいすいで いきものもきい でいすいか)
気分的 期限反撃 基点武器
(きぶんてき きげんはんげき きてんぶき)
住みにくく 壊滅名家 九九にミス
(すみにくく かいめつめいか くくにみす)
(終)
回文
~マドンナ
何度待つ マドンナ
(なんどまつ まどんな)
関係性 威勢喧嘩
(かんけいせい いせいけんか)
キスする 芒
(きすする すすき)
菓子折りより 推しか
(かしおりより おしか)
(終)