ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 2510

2021-04-22 14:21:38 | 評論
   夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2510 謎めいた『こころ』
2511 「自由と独立と己れ」と「明治の精神」
 
〈オリンピック精神〉という言葉をよく耳にする。だが、私には意味不明だ。
 
<オリンピック精神(=Olympianism)⦅特に「勝敗よりも参加することに意義がある」とする考え方⦆.
(『リーダーズ英語辞典/リーダーズ・プラス』「Olympism」)>
 
〈オリンピック精神〉という言葉を用いる人が常に「参加することに意義がある」といった意味で用いているようには思えない。「考え方」は、よくある誤用。〈考え〉が適当。全盛期の〈方法論〉に似ている。
〈オリンピック精神〉が意味不明なら、〈オリンピック精神に反する〉は意味不明だ。
同様に、「明治の精神」は意味不明だから、「明治の精神に殉死する」は意味不明であり、したがって、Sの自殺の動機は不明ということになる。ただし、Sの自殺の動機が「明治の精神に殉死する積り」そのものであったかどうか、定かではない。
 
<「自由と独立と己れ」を「明治の精神」と捉える見方も珍しくなく、唐木(からき)順(じゅん)三(ぞう)は先生について「明治の精神」である「自由と独立と己れ」の犠牲になって倒れた」人間であるとし(『現代日本文学序説』春陽堂、一九三二)、瀬沼(せぬま)茂樹(しげき)は「「自由と独立と己れ」の外化である明治の精神の終焉」といういい方によって、両者を同一視していました(『夏目漱石』東京大学出版会。一九七〇)。
それに対して山崎正和や三好(みよし)行(ゆき)雄(お)は「自由と独立と己れ」を「明治の精神」の中核的な要素として想定しながらも、それに固執することによって自己の内面に空虚をもたらしてしまうアイロニーに、この時代を特徴づける「精神」のあり方を見ています。
(柴田勝二『村上春樹と夏目漱石 二人の国民作家が描いた〈日本〉』)
 
この「見方」はナンセンス。「自由と独立と己れ」が意味不明だからだ。こんな言葉が『こころ』の外部の現実の世界にあったのか。不明。「同一視」は意味不明。
「中核的な要素」は意味不明。「アイロニー」も意味不明だが、「笑談」の類語とすれば、当たらずとも遠からず。ただし、Sによる「アイロニー」なのか。作者による「アイロニー」なのか。どちらでもないのか。不明。
 
一方この言葉とは切り離して、明治天皇の死によって遡及的に喚起された精神として「明治の精神」を考えるならば、それは明治天皇が〈大帝〉として国を率いた時代の精神であることになり、逆に国家への同一化が全面に押し出されてくることになるます。
(柴田勝二『村上春樹と夏目漱石 二人の国民作家が描いた〈日本〉』)>
 
「この言葉」は「自由と独立と己れ」だ。「切り離して」も、「遡及的に」も、「時代の精神」も、「国家への同一化」も、「押し出されてくること」も、意味不明。
 
 
 
 
 
 
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2510 謎めいた『こころ』
2512 「家庭の事情」と「オタンチン、パレオロガス」
 
『こころ』の内部の虚構の世界においても、外部の現実の世界においても、「明治の精神」という言葉に確かな意味はないはずだ。「明治の精神に殉死する積り」は「無論笑談」なのだが、「明治の精神」そのものが、「笑談」めいている。
 
<恋をするのも 家庭の事情
(トニー谷+宮川哲夫作詞・多忠修作曲『さいざんすマンボ』>
 
「家庭の事情」という言葉の意味は、わからなくもない。だが、「恋」との関係は不明だ。したがって、この歌における「家庭の事情」は意味不明だ。
言うまでもなく、この「家庭の事情」は誤魔化しであり、どういう「事情」なのか、聞き手には推測できない。この歌の作者は、都合の悪いことを隠蔽して美化するような小賢しい態度を嘲笑している。「恋をするのも 家庭の事情」と言い訳する人にとって、「家庭の事情」は冗談ではない。嘘だ。そして、『さいざんすマンボ』は冗談だ。
同じようなことが「明治の精神」についてもあてはまる。Sは、都合の悪いことを明示しないためにこの言葉を造り、そして悪用した。静はそうしたSのあざとい技巧を察し、婉曲に窘めたらしい。
ここまでは、私の勝手な解釈ではない。まっとうな読解だ。
ところが、多くの日本人には、このまっとうな読解ができないらしい。なぜか。まっとうに読むと、Sが「馬鹿」になってしまうからだ。「明治の精神」などという意味不明の言葉を弄ぶSは、普通に考えたら、軽薄才子だ。ところが、そのように、つまり、普通に考えると、『こころ』は喜劇になってしまう。深刻ぶった下手糞な喜劇を本格的な悲劇に読み替えようとして、夏目宗徒は四苦八苦してきた。私は連中を相手にしない。
「失恋」をするのも「明治の精神」だ。「自殺」をするのも「明治の精神」だ。何とでも言えそうだが、では、「恋」をするのも「明治の精神」か。言えそうで、言えなさそうで、言えなくもなさそうではない。ひどいものだ。
 
<「あとは何でも宜う御座(ござ)んす。オタンチン、パレオロガスの意味を聞かして頂戴(ちょうだい)」
「意味も何(な)にもあるもんか」
(夏目漱石『吾輩は猫である』五)>
 
苦沙弥と妻の会話。
〈「オタンチン、パレオロガス」に「意味」がある〉とすれば、〈苦沙弥は妻に嘘をついている〉と解釈せねばならない。あるいは、「意味」が意味不明。
苦沙弥は「オタンチン、パレオロガス」の真意を自他に対して隠蔽している。ここまでは誰でもわからなければならない。
わからないのは、次の問題の答えだ。
作者は読者に対して、この言葉の真意が伝わるように表現しているつもりなのか。
 
 
 
 
 
 
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2510 謎めいた『こころ』
2513 『ぺ』
 
いつ頃からか、『こころ』は謎の物語とみなされるようになった。しかし、『こころ』は謎の物語ではない。謎など、ないのだ。意味不明の言葉が謎のように思えるだけだ。
典型的な謎の物語は『ねらわれた星』(星新一)だ。ここに出てくる「皮」という言葉が謎になっている。「皮」の真意がわかるまで、この「星」で具体的にどんなことが起きたのか、わからない。小学生ぐらいだと「皮」の真意がわからないので面白がらない。
『こころ』の場合、「皮」の謎を解くようにして「明治の精神」の意味を推定することはできない。中学生だと、〈「明治の精神」という言葉によって示される心的現象について大人たちはみんな知っているのだろう〉と勘違いして読み流し、わかったつもりになる。
 
<「ぺ」については、過去およそ三十年間、私はさまざまな機会をとらえて発言をつづけてきた。下町の小さな喫茶店で、男の俳優一人と、女の税理士一人(この人は当時まだ独身だったが、今は娘が二人いる)、そして非常に年とった亀一匹と公開座談会をしたこともあるし、ボルト・ナット業界の業界紙に見開きページをもらって、「ぺ」讃歌の如きものを書いたこともある。
さらにある年の新年のことであるが、不可解な衝動に従って、「ぺ」を明治神宮に奉納(ほうのう)しに行ったことすらあるのだが、四十歳を過ぎるころから、「ぺ」の物理的側面に対する興味が徐々にうすれてきて、かつて「ぺ」について抱いていたイメージが、他のもろもろのイメージ、たとえば中学校の始業式のイメージとか、きわめてポップ・アート的なネオンサインのイメージ、そしてなかんずく雪をいただいた天山山脈のイメージなどと、一瞬の相互浸透を始めているのに気づいている。
(谷川俊太郎『ぺ』)>
 
『ぺ』の作品の内部の虚構の世界の住人は、「亀」を含め、「ぺ」の意味を知っているつもりでいる。ただし、その「イメージ」は共有されていない。共有されていないからこそ、深遠な議論ができているように勘違いしている。そんな軽薄才子を、作者は冷笑している。
『こころ』の作者は、冷笑されるべき軽薄才子を美化しようと苦慮し、そして、失敗した。土台、無理な仕事なのだ。
Sは自己正当化ができなくて死にたがる。そうした態度は、成金が破産して死にたがるのと基本的に同じものだ。「明治の精神」は、書物を豊富に購入できる「財産家」(上二十七)の二代目の「精神」なのだ。行商からやり直す気概がない二代目。二十歳過ぎればただの人の元秀才。知的「財産家」でしかない読書家が「思想家」を気取る悲喜劇。
本文に「明治の精神」の類語らしいものや「イメージ」を暗示する言葉が散見する。しかし、真意は推定できない。「イメージ」も具体的には思い浮かばない。
『ぺ』の内部の世界の「明治神宮」とその外部の現実の世界の明治神宮は、「明治の精神」によって繋がっている。
ありもしない〈「明治の精神」の物語〉を原典として採用できる人には、その異本である『こころ』が意味ありげに思えるのだろう。
 
(2510終)

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