夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5300 BLぽいのが好き
5310 男色文化
5311 「友愛の敵」
広田の考える「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」の意味は〈女が男に暗示する恋情はぶりっこだから注意せよ〉いったものかもしれない。だが、その場合、作者がこうした意味を文芸的に表現しない理由が不明だ。
<東風君と寒月君はヴァイオリンの隠れ家についてかくの如く問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。
「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
(夏目漱石『吾輩は猫である』十一)>
「ヴァイオリン」は〈女体〉の象徴。東風と寒月は、異性に対する興味の「隠れ家」つまり性欲の隠蔽の方法について、暗に議論をしているらしい。「うちに」は変。
一方、苦沙弥と迷亭は「問答」を止めさせたがっているようだ。
「この二行」の意味は「女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや」(『吾輩は猫である』新潮文庫「注解」)というものだが、これは本文に記されていない。その理由は不明。
Nの小説では、作者が男女の性愛に関する無知を隠蔽しようとして、奇怪なことを試みている。その際、ゲイを隠れ蓑に用いることがある。
<いま私は、同性愛の対象選択にみちびく新しいメカニズムをしめすことができる。もっとも、極端にあらわでひたむきな同性愛が形成されるときにこのメカニズムの役割がどの程度に大きいものかをいうことはできないが。幼児に母コンプレックスから競争者に――多くは兄にたいして――強い嫉妬の興奮を現わした多数の例を観察し注目した。それらの例では、この嫉妬は同胞にたいする強い敵意と攻撃的態度をみちびき、その死を願うまでにたかまったが、そのまま発展しつづけることはなかった。教育の影響や、この興奮が無力になってとどまるという事情もあって、それは抑圧されるようになり、ある感情の転回が起こって、その結果、幼児の競争者はこんどは最初の同性愛の対象になった。
(ジグムント・フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』C)>
この「メカニズム」はNの小説の隠蔽された世界を思わせる。
<「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母さんが餞別(せんべつ)にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁に来る時持って来たものだそうです」
(夏目漱石『吾輩は猫である』十一)>
「隠しました」は〈「ヴァイオリン」を「隠しました」〉の略。
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5310 男色文化
5312 ソドミー
三四郎の夢想する「第二の世界」の本質は同性愛的なものだ。
<これまで、三角関係の行方や主人公の自己認識と狂気という側面で語られてきた『それから』や『門』、『行人』、『こころ』の作品世界は同性愛という別な側面からもアプローチすることができる。『それから』以降の漱石作品に共通する三角関係や女性不信、自己認識の堂々巡り、孤独、狂気といったテーマは同性愛の問題と深く結びついているように思えてならない。また、『それから』以降の小説を相互に連関させるテーマが個々の作品の内部で自己完結しない理由も、何かを隠蔽しているからだと考えたい。まさに同性愛の問題が隠されているのである。
(島田雅彦『漱石を書く』)>
「自己完結しない」のではない。逆だ。自己完結している。だから、意味不明なのだ。
<知能や性格が遺伝しないなら、性的指向同様だろう。同性愛は親の「歪(ゆが)んだ」子育てや幼少期の「異常な」友だち関係によって生じた病理で、本人の「努力」で克服できることになる。これはいうまでもなく、同性愛を「神への冒涜(ぼうとく)」とする宗教原理主義者たちの主張と同じだ。遺伝率ゼロの理想社会は、同性愛者を徹底的に差別する世界になるろう。
もちろん「リベラル」なひとは、こうした批判に耳を貸さないだろう。彼らは、「知能や精神疾患、犯罪は遺伝しないが、同性愛は生得的だ」というにちがいない。なぜなら科学的に正しいかどうかには関係なく、すべては「政治的に正しい」べ(マ)き(マ)だから。これがPC(Political Correctoness/政治的正しさ)で1970年代以降、アメリカのアカデミズムでは「科学」と「政治」のどちらを取るかが大論争になった。――日本のアカデミズムではまったく話題にならなかったが。
(橘玲『もっと言ってはいけない』)>
Nは両性愛者だったのかもしれない。だが、そんな詮索は不要だろう。
<かう云ふ風に 自分の周囲には男色の空気が非常に濃厚であった 殊に一級上の若林と云ふ美少年に 自分ははげしく恋してゐた
(芥川龍之介『VITA SEXUALIS』)>
題名を見ると『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)の模倣のようだ。
<自分自身の事実に多少の粉飾を加へるのが前のVITA SEXUALISと違つてゐる点である
(芥川龍之介『SODOMYの発達(仮)』)>
芥川は同性愛者だったことがあるらしい。
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5310 男色文化
5313 『人を恋ふる歌』
女子は、男子にとって「友愛の敵」だった。
<恋の命をたづぬれば
名を惜む(ママ)かなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む
(与謝野鉄幹『人を恋ふる歌』)>
初出の題は『友を恋ふる歌』だそうだ。
<自分はそれまでに美しい男の子を私(ひそ)かに恋したことがあった。しかし、女を恋しく思ったことはなかった。
(武者小路実篤『初恋』)>
自慢?
<ボーイズラブはその後、幕府の粛清で江戸後期に衰退するものの、明治維新でボーイズラブ大国である薩摩(*)が天下を取ったことで復活、進化を遂げ、日本では完全な「ボーイズラブ=友情文明」が完成するのです。
特に男子学生の間では、
女性好き=軟派
ボーイズラブ=硬派
と名づけ、ボーイズラブは女性とのセックスより素晴らしく、きわめて高尚なものであるという論調が蔓延したのです。
(ジョージ・ポットマン『ジョージ・ポットマンの平成史』)>
『にっぽん! 歴史鑑定』「武将が愛した美少年」(TBS)参照。
<翻って、漱石的世界におけるこうしたホモソーシャル(同性社会的)な人間関係は、作品世界全体を貫く、看過できない特徴でもあった。危機的時代にあっての、漱石によるこうした「男同士の絆」の強調は、帝国日本の自立拡大、そのための男性中心社会の形成、引いてはコロニアリズム(植民地主義)の言説とも無縁ではなかった。
(高橋秀次『文学者たちの大逆事件と韓国併合』「第二章 危機の時代の夏目漱石」)>
「第二の世界」では、N式「個人主義」と国家主義が混交している。怪しい。
5000 一も二もない『三四郎』
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5310 男色文化
5314 『男色大鑑』
とにかく、『男色大鏡』(井原西鶴)を読んでからだ。
<少なくとも元禄期までの歌舞伎界においては若女方(わかおんながた)・若衆など、若くて美貌の歌舞伎若衆は、早朝から夕刻までは舞台を勤め、夜は茶屋で客の求めに応じて男色の相手をする、というのがしきたりであった。そういう職業的男色に対して、武家社会は戦国の余風として男色をたしなみ、しかも武士道における義理を男色のモラルとし、衆(しゅ)道(どう)(若衆道)と称するに至った。
(暉峻康隆『男色大鑑』解説)>
「男心に男が惚れて」(矢島寵児作詞・菊池博作曲『名月赤城山』)って知らないかな?
<そのかたわら美童を愛することも仕事の一つだった。
「女色に溺(おぼ)るるは怯懦(きょうだ)に陥(おちい)る。男色は忠臣を作るに利あり」
と、称した。綱吉は“人づくり”のために衆道(男色)を行なったことになっている。
綱吉にとって随一の忠臣・柳沢(やなぎさわ)吉(よし)保(やす)はまだ館林時代に十七歳にして小姓組番衆となり、綱吉の閨のトギを勤めたが、その技(わざ)抜群であったところから江戸城中へついていき、小納戸役(こなんどやく)から累進(るいしん)して松平姓まで許され、大老にまで昇っている。
(村松駿吉『話のタネ本日本史』「徳川綱吉」)>
「鎌倉・室町時代頃、貴人の側にはべって、男色の対象となった少年」(『日本国語大事典』「若気(にやけ)」)は〈にやける〉の語源。
『学生時代』(作詞・作曲:平岡精二)の主題は少女小説的レズビアンだ。
<ぼくら 離れ離れになろうとも
クラス仲間は いつまでも
(作詞・丘灯至夫:作曲・遠藤実『高校三年生』)>
「ぼくら」はゲイのようだ。しかし、作者は男同士の友愛に偽装して、男女の恋愛を暗示している。「ぼくら」には女生徒も含まれる。
<鼓を伴奏楽器とし、水干(すいかん)・立烏帽子(たてえぼし)を着し白鞘巻(しろさやまき)を差して舞ったことから「男舞」と呼ばれ、女性の男装姿という点、物狂いの芸能であった点に興趣があったと考えられる。寺院では女装姿の児(ちご)が舞ったが、これは女人禁制の寺院の中で僧侶の賞翫(しょうがん)に供されたものである。
(『日本歴史大事典』「白拍子」松尾恒一)>
もう、わけわかんね。
(5310終)