申し訳ありませんが
小説キャナルタウン 1 兵庫運河祭 回転橋の謎(2016.11.14)
小説キャナルタウン 2 謎の回転橋はどこ?兵庫運河5橋巡りしかし新たな謎が(2016.11.19)
小説キャナルタウン 3 兵庫運河住吉橋の謎(2016.12.24)
の続きとなります。少し古くなりますのでバックナンバーからお読みください。
その1 住吉橋が運河第四橋
市民のグラフこうべ 昭和55年4月 神戸史学会の落合重信氏の「神戸・橋と歴史」によれば
‥‥明治9年の新川運河、明治32年の兵庫運河が開通したことによって、いくつかの橋がつくられた。西から
第一・第二と数えた。高松橋・御崎橋・材木橋・住吉橋・第五橋(磁石橋)である。高松橋は一葉式跳躍橋であった
が、陸上の交通が多くなり、昭和12年固定橋となった。第五橋も磁石橋といわれるように、船が通るときは、ま
ん中の石台を中心に回転していたものであった。‥‥
第一・第三・第五橋について地図や本で確認出来ましたが第二・第四橋は確認出来ませんでした。住吉橋は地図で
見る限り大正4年から大正12年の間に建設された思われるので運河五橋には含まれず和田旋回橋を第四橋と考えて
いました。生活の不便さや、水を入れる前に橋を建設すえれば効率的です。運河五橋が当然運河開通と同時に出来た
と考えていましたがこれも違っていたようです。
その2 橋の建設は遅れる。第二・第三・第四橋は回転橋ではなかった?
鉄の橋百選ー近代日本のランドマーク
土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会 平成6年
謎をかかせる現存最古の可動橋 和田旋回橋
和田旋回橋は、明治期に作られた現存最古の可動橋である。しかし今は動かない。和田旋回橋のかかる兵庫運河
には、運河の開削とともに5つもの可動橋が架設された。戦前・戦後を通じ、これだけ沢山可動橋が集中的に架設さ
れた地域は他にまいない。‥‥中略‥‥
運河の本川には可動橋が5つ、浮橋が1つ、支川には3つの固定橋が架設された。ここで一気に、5つの可動橋が
が架設されたのである。タイプはいずれも、棒磁石のように回転する旋回橋である。和田旋回橋は、この中のひとつ
であり、我が国最初の鉄道可動橋である。このようなギネス的に価値の高い和田旋回橋であり、また兵庫運河の可動橋
群であるのに、詳細はわからぬ点が多い。 ‥‥後略
土木学会付属土木図書館 デジタルアーカイブス 鋼構造委員会出版物で公開されています。
「土木学会の鋼構造委員会」名前からしてこれ以上堅い所はない所から出た立派な本なのでついついそのまま信用
してしまったのですが検証する必要があるようです。
兵庫運河株式会社 第6回事業報告書付属地図 明治30年6月
明治30年の図面であるので兵庫運河の計画図とも言えるものであるが記載のある橋は
第一橋(高松橋)の位置に回転橋のマーク
第二橋(御崎橋)の位置に回転橋のマーク
第三橋(材木橋)記載なし
和田旋回橋 開いた状態で図示してある。(以後の地図では説明を省略します。)
第四橋(住吉橋)記載なし
第五橋(清盛橋)記載なし
舟橋 舟橋の図
当初から計画した橋は第一橋・第二橋・舟橋のみ?
最新神戸地図 明治41年11月15日
第一橋(高松橋) 舟橋 渡し船で対応?
第二橋(御崎橋) 記載なし
第三橋(材木橋) 舟橋 舟を並べた舟橋。
第四橋(住吉橋) 記載なし
第五橋(清盛橋) 開運橋の表示がある。回転橋が縁起良く開運橋と呼ばれたらしい。
舟橋 舟橋 舟を並べた舟橋。舟橋の記号が2種類あり渡し船と書き分けたと思われる。
明治41年までに現実に架橋された橋は第五橋のみであったと思われる。
神戸市街全図 大正4年
第一橋(高松橋) この地図ではわかりにくいが同年の「神戸古今対照地図」では橋の記載がある。
第二橋(御崎橋) 記載なし
第三橋(材木橋) 舟橋
第四橋(住吉橋) 記載なし
第五橋(清盛橋) 橋名は判読不能(神戸古今対照地図では開運橋)
舟橋 舟橋
明治41年から大正4年の間に運河第一橋が架橋されたと思われる。
商工地図 大正12年
第一橋(高松橋) 記載あり
第二橋(御崎橋) 記載あり(昭和10年の地図には御崎橋と表示されている)
第三橋(材木橋) 記載あり(昭和12年の大神戸市景観図では第三橋と表示されている。)
第四橋(住吉橋) 住吉橋の表示がある。
第五橋(清盛橋) 運河第五橋の表示がある。
舟橋 浮橋
大正4年から大正12年の間に第二橋(御崎橋)第三橋(材木橋)第四橋(住吉橋)が架橋されたと思われます。
兵庫運河は経営が苦しくなり大正8年に神戸市に売却されます。この事を考え合わすとこの3橋は神戸市に売却後に
神戸市によって建設されたと思われます。また時代的に回転橋ではなく住吉橋と同じ固定橋であったと考えられます。
おそらく大正年間に建設された初代の住吉橋の写真(市民のグラフこうべ昭和46年10月号から)です。経営難で
延び延びになっていた3つの橋が神戸市によって架けられましたが、すでに帆船が海の難所、和田岬を迂回するバイパス
として兵庫運河を利用する時代ではなくなっていたので固定橋が建設されたと思われます。
初代住吉橋は昭和46年に現在の住吉橋になります。御崎橋はその後橋脚のある鋼鉄橋に架け替えられ平成12年現在
の橋になります。材木橋もその後橋脚のある鋼鉄橋に架け替えられ昭和56年現在の橋になります。第五橋は昭和62年
清盛橋になります。第一橋は道路の拡張と市電の開通のため昭和3年鋼鉄製の跳ね橋、高松橋となります。(交通量の
増大により昭和12年に橋の開閉は中止)さらに道路の拡張のため平成6年固定された高松橋となります。
交通量の差が橋の運命を決めたようです。兵庫運河に架けられた第一号橋が第五橋であってなお且つ、修理改修はあった
にせよ昭和62年まで残っていた。それぞれの地域の変遷がうかがえます。
そもそも、第一橋・第二橋‥‥第五橋の呼び名は兵庫運河株式会社の時代からあったのでしょうか、もしかしたら神戸市
の買収後の名前かも知れません。わからないことが次々と出てきます。私は地元の人間ではなく、また限れた資料しかあり
ません。出来るだけ合理的に検証したつもりですが、その点はお含み置き下さい。
その3この写真はどちらの橋でしょう
このシリーズ?は昨年の兵庫運河祭で配られたこの一枚の絵葉書から始まりまし。
兵庫運河のありし日の風景 神戸市文書館提供 裏に 旋回橋(明治45) 現在は固定されており、動くことはないが
今も残る橋脚にかっての姿がしのばれる。と和田旋回橋の説明がありました。
しかしそれは違うのではないかと言うことで。
写真 左 キャナルレガッタにある説明板の写真 写真 右 冒頭の「神戸・橋と歴史」の写真
「大正十三年ごろの兵庫運河の回転橋・第5橋」の説明
写真 左 を発見、運河第一橋であると結論が出たところでありますが、写真右と同じ写真では?
写真右が大正13年の第五橋とするとには大きな矛盾があります。当時すでに、新川橋は市電が走っており(大正
12年とされる商工地図には少し不自然なかたちで路線が記入されていますが中之島~今出在家町町2丁目の開通は
大正14年3月7日されていますのでこの部分は訂正します。大正12年の陸軍の実測図では道路の拡張は終わって
いますが橋は、現在の橋の西側に橋があります。)兵庫運河にも固定橋があり多くの帆船(千石船の時代は帆柱を倒
すことが出来、嵐をやり過ごしたり橋の下を通ることが出来たようですが)が写ることは考えにくく、船のことは分か
りませんが船の形から見ても明治期ではないかと思います。
第一橋と考えた場合、対岸は現在の川崎重工(車両)となりますが明治43年測量の2万正式図ではこんなに建物が
建て込んでいるとは思えない。 国土地理院 図歴(旧版地図)から閲覧できます。
第五橋と考えた場合、清盛橋から考えて橋が長すぎる様な気がする。
その他、色々ありますが確定することは出来ませんでした。全く振り出しに戻ったわけです。
私なりのある程度の答が出ました。
小説キャナルタウン 36 兵庫運河の可動橋 運河五橋十新川橋(2019.3.8)をご覧下さい。
キャナルタウンクイズの答です。
小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語 2 能福寺 平清盛公837回忌追善法要
問題 キャナルタウンウエストと言えば色々な美しい橋を思い浮かべますが橋の数はいくつあるでしょうか。
西から 高松橋 御崎橋
材木橋 和田旋回橋
住吉橋 清盛橋
の6橋です。 もちろん橋に名前はありませんが、奇しくも兵庫運河と同じ6橋です。
小説キャナルタウン 1 兵庫運河祭 回転橋の謎(2016.11.14)
小説キャナルタウン 2 謎の回転橋はどこ?兵庫運河5橋巡りしかし新たな謎が(2016.11.19)
小説キャナルタウン 3 兵庫運河住吉橋の謎(2016.12.24)
の続きとなります。少し古くなりますのでバックナンバーからお読みください。
その1 住吉橋が運河第四橋
市民のグラフこうべ 昭和55年4月 神戸史学会の落合重信氏の「神戸・橋と歴史」によれば
‥‥明治9年の新川運河、明治32年の兵庫運河が開通したことによって、いくつかの橋がつくられた。西から
第一・第二と数えた。高松橋・御崎橋・材木橋・住吉橋・第五橋(磁石橋)である。高松橋は一葉式跳躍橋であった
が、陸上の交通が多くなり、昭和12年固定橋となった。第五橋も磁石橋といわれるように、船が通るときは、ま
ん中の石台を中心に回転していたものであった。‥‥
第一・第三・第五橋について地図や本で確認出来ましたが第二・第四橋は確認出来ませんでした。住吉橋は地図で
見る限り大正4年から大正12年の間に建設された思われるので運河五橋には含まれず和田旋回橋を第四橋と考えて
いました。生活の不便さや、水を入れる前に橋を建設すえれば効率的です。運河五橋が当然運河開通と同時に出来た
と考えていましたがこれも違っていたようです。
その2 橋の建設は遅れる。第二・第三・第四橋は回転橋ではなかった?
鉄の橋百選ー近代日本のランドマーク
土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会 平成6年
謎をかかせる現存最古の可動橋 和田旋回橋
和田旋回橋は、明治期に作られた現存最古の可動橋である。しかし今は動かない。和田旋回橋のかかる兵庫運河
には、運河の開削とともに5つもの可動橋が架設された。戦前・戦後を通じ、これだけ沢山可動橋が集中的に架設さ
れた地域は他にまいない。‥‥中略‥‥
運河の本川には可動橋が5つ、浮橋が1つ、支川には3つの固定橋が架設された。ここで一気に、5つの可動橋が
が架設されたのである。タイプはいずれも、棒磁石のように回転する旋回橋である。和田旋回橋は、この中のひとつ
であり、我が国最初の鉄道可動橋である。このようなギネス的に価値の高い和田旋回橋であり、また兵庫運河の可動橋
群であるのに、詳細はわからぬ点が多い。 ‥‥後略
土木学会付属土木図書館 デジタルアーカイブス 鋼構造委員会出版物で公開されています。
「土木学会の鋼構造委員会」名前からしてこれ以上堅い所はない所から出た立派な本なのでついついそのまま信用
してしまったのですが検証する必要があるようです。
兵庫運河株式会社 第6回事業報告書付属地図 明治30年6月
明治30年の図面であるので兵庫運河の計画図とも言えるものであるが記載のある橋は
第一橋(高松橋)の位置に回転橋のマーク
第二橋(御崎橋)の位置に回転橋のマーク
第三橋(材木橋)記載なし
和田旋回橋 開いた状態で図示してある。(以後の地図では説明を省略します。)
第四橋(住吉橋)記載なし
第五橋(清盛橋)記載なし
舟橋 舟橋の図
当初から計画した橋は第一橋・第二橋・舟橋のみ?
最新神戸地図 明治41年11月15日
第一橋(高松橋) 舟橋 渡し船で対応?
第二橋(御崎橋) 記載なし
第三橋(材木橋) 舟橋 舟を並べた舟橋。
第四橋(住吉橋) 記載なし
第五橋(清盛橋) 開運橋の表示がある。回転橋が縁起良く開運橋と呼ばれたらしい。
舟橋 舟橋 舟を並べた舟橋。舟橋の記号が2種類あり渡し船と書き分けたと思われる。
明治41年までに現実に架橋された橋は第五橋のみであったと思われる。
神戸市街全図 大正4年
第一橋(高松橋) この地図ではわかりにくいが同年の「神戸古今対照地図」では橋の記載がある。
第二橋(御崎橋) 記載なし
第三橋(材木橋) 舟橋
第四橋(住吉橋) 記載なし
第五橋(清盛橋) 橋名は判読不能(神戸古今対照地図では開運橋)
舟橋 舟橋
明治41年から大正4年の間に運河第一橋が架橋されたと思われる。
商工地図 大正12年
第一橋(高松橋) 記載あり
第二橋(御崎橋) 記載あり(昭和10年の地図には御崎橋と表示されている)
第三橋(材木橋) 記載あり(昭和12年の大神戸市景観図では第三橋と表示されている。)
第四橋(住吉橋) 住吉橋の表示がある。
第五橋(清盛橋) 運河第五橋の表示がある。
舟橋 浮橋
大正4年から大正12年の間に第二橋(御崎橋)第三橋(材木橋)第四橋(住吉橋)が架橋されたと思われます。
兵庫運河は経営が苦しくなり大正8年に神戸市に売却されます。この事を考え合わすとこの3橋は神戸市に売却後に
神戸市によって建設されたと思われます。また時代的に回転橋ではなく住吉橋と同じ固定橋であったと考えられます。
おそらく大正年間に建設された初代の住吉橋の写真(市民のグラフこうべ昭和46年10月号から)です。経営難で
延び延びになっていた3つの橋が神戸市によって架けられましたが、すでに帆船が海の難所、和田岬を迂回するバイパス
として兵庫運河を利用する時代ではなくなっていたので固定橋が建設されたと思われます。
初代住吉橋は昭和46年に現在の住吉橋になります。御崎橋はその後橋脚のある鋼鉄橋に架け替えられ平成12年現在
の橋になります。材木橋もその後橋脚のある鋼鉄橋に架け替えられ昭和56年現在の橋になります。第五橋は昭和62年
清盛橋になります。第一橋は道路の拡張と市電の開通のため昭和3年鋼鉄製の跳ね橋、高松橋となります。(交通量の
増大により昭和12年に橋の開閉は中止)さらに道路の拡張のため平成6年固定された高松橋となります。
交通量の差が橋の運命を決めたようです。兵庫運河に架けられた第一号橋が第五橋であってなお且つ、修理改修はあった
にせよ昭和62年まで残っていた。それぞれの地域の変遷がうかがえます。
そもそも、第一橋・第二橋‥‥第五橋の呼び名は兵庫運河株式会社の時代からあったのでしょうか、もしかしたら神戸市
の買収後の名前かも知れません。わからないことが次々と出てきます。私は地元の人間ではなく、また限れた資料しかあり
ません。出来るだけ合理的に検証したつもりですが、その点はお含み置き下さい。
その3この写真はどちらの橋でしょう
このシリーズ?は昨年の兵庫運河祭で配られたこの一枚の絵葉書から始まりまし。
兵庫運河のありし日の風景 神戸市文書館提供 裏に 旋回橋(明治45) 現在は固定されており、動くことはないが
今も残る橋脚にかっての姿がしのばれる。と和田旋回橋の説明がありました。
しかしそれは違うのではないかと言うことで。
写真 左 キャナルレガッタにある説明板の写真 写真 右 冒頭の「神戸・橋と歴史」の写真
「大正十三年ごろの兵庫運河の回転橋・第5橋」の説明
写真 左 を発見、運河第一橋であると結論が出たところでありますが、写真右と同じ写真では?
写真右が大正13年の第五橋とするとには大きな矛盾があります。当時すでに、新川橋は市電が走っており(大正
12年とされる商工地図には少し不自然なかたちで路線が記入されていますが中之島~今出在家町町2丁目の開通は
大正14年3月7日されていますのでこの部分は訂正します。大正12年の陸軍の実測図では道路の拡張は終わって
いますが橋は、現在の橋の西側に橋があります。)兵庫運河にも固定橋があり多くの帆船(千石船の時代は帆柱を倒
すことが出来、嵐をやり過ごしたり橋の下を通ることが出来たようですが)が写ることは考えにくく、船のことは分か
りませんが船の形から見ても明治期ではないかと思います。
第一橋と考えた場合、対岸は現在の川崎重工(車両)となりますが明治43年測量の2万正式図ではこんなに建物が
建て込んでいるとは思えない。 国土地理院 図歴(旧版地図)から閲覧できます。
第五橋と考えた場合、清盛橋から考えて橋が長すぎる様な気がする。
その他、色々ありますが確定することは出来ませんでした。全く振り出しに戻ったわけです。
私なりのある程度の答が出ました。
小説キャナルタウン 36 兵庫運河の可動橋 運河五橋十新川橋(2019.3.8)をご覧下さい。
キャナルタウンクイズの答です。
小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語 2 能福寺 平清盛公837回忌追善法要
問題 キャナルタウンウエストと言えば色々な美しい橋を思い浮かべますが橋の数はいくつあるでしょうか。
西から 高松橋 御崎橋
材木橋 和田旋回橋
住吉橋 清盛橋
の6橋です。 もちろん橋に名前はありませんが、奇しくも兵庫運河と同じ6橋です。