団地小説短編集を歩く

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小説キャナルタウン 36 兵庫運河の可動橋 兵庫運河五橋+新川橋

2019-03-08 05:59:32 | 日記


  小説キャナルタウン 7 兵庫運河5橋の不都合な真実 第1号橋は第五橋で開運橋(2017.2.24)の続きとなりますので併

 せてお読み頂きますようお願いします。重なりますが「土木学会綱構造委員会出版物 鉄の橋百選ー近代日本のランドマーク 

 謎をかかえる現存最古の可動橋 和田旋回橋」を引用します。原本はネットで公開されています。

  和田旋回橋は、明治期につくられた現存最古の可動橋である。しかし、今は動かない。和田旋回橋のかかる兵庫運河には、運

 河の開削とともに5つもの可動橋が架設された。戦前・戦後を通じ、これだけ沢山の可動橋が集中的に架設された地域は他にな

 い。

  兵庫運河の開削は、民間会社のおこなった地元振興策である。慶応3年(1866)の開港以来、急ピッチで発展する神戸地

 区に対し、古くからの港町兵庫はとり残されていた。兵庫港には小型船舶の避難場所がなく、西からくる和田岬の迂回には不便

 をきわめた。さらに小型船は、潮流と風に悩まされ、遭難するものが多かった。計画が具体化するには年月を要したが、明治

 33年(1900)、運河が完成すると、船は安全でしかも短時間で兵庫港に到着できるようになった。

  運河の本川には可動橋が5つ、浮橋が1つ、支川には3つの固定橋が架設された。ここで一気に、5つの可動橋が架設された

 のである。タイプはいずれも、棒磁石のように回転する旋回橋である。和田旋回橋は、この中のひとつであり、わが国最初の鉄

 道可動橋である。

  このようにギネス的に価値の高い和田旋回橋であり、また兵庫運河の可動橋群であるのに、詳細はわからぬ点が多い。

                                                  以下略

    注  兵庫運河五橋には通常、和田旋回橋を含みません。


       浜山プロムナードの案内板の地図

  現在の地図で概要を説明します。

  

  西から④付近に髙松橋(第1橋)  ②付近に御崎橋(第2橋)  ③付近に材木橋(第3橋) JR線路部分が和田旋回橋

  住吉橋(第4橋)  清盛橋(第5橋)古くは開運橋   船橋(現在はありません)  電車(地下鉄)線路部分が新川橋  

  
     昔の地図で時代順に見てみます。      

       兵庫運河計画図  兵庫運河株式会社 明治30年6月

  

  計画図に記された橋は、高松橋付近に回転橋、御崎橋付近に回転橋、和田旋回橋、船橋、新川橋部分は判読不可


     神戸市全図  明治28年12月31日

  

  兵庫運河の着工が明治29年1月ですが地図上では「運河工事中」となっています。色々の準備は始まっていたと思います。

  この時点で決まっていた橋?は和田旋回橋と船橋(浮橋)のみです。

       最新神戸地図 明治41年11月

  

  髙松橋部分に舟橋(絵としては渡し船)、材木橋部分に舟橋、清盛橋部分に開運橋、船橋部分に舟橋、新川橋付近に橋

  同じ舟橋でも渡し舟と舟を連ねて浮かべた橋を描き分けているのかも知れません。

       神戸今昔対照地図  大正4年

  

  髙松橋付近に橋、開運橋、船橋付近に橋、新川橋付近に橋。

       商工地図  大正12年

  

  髙松橋付近に橋、御崎橋付近に橋、材木橋付近に橋、住吉橋、運河第五橋、浮橋、新川橋が記載されている。

  兵庫運河株式会社の経営悪化と運河や橋の維持管理面から、大正8年、神戸市が運河を60万円で買収します。御崎・材木・

 住吉橋が出来ることにより、五橋が揃います。御崎・材木・住吉の三橋を架橋したのは神戸市で、第一橋から第五橋の呼び名も

 この時から始まったと思われます。

       大神戸市景観図  昭和10年頃 未出版

  

  単なる鳥瞰図ではなく、地理・地図を越えた景観を表現するものとして計画された。住吉川から須磨間が作成されたがあまり

 にも詳しすぎるため、空襲の資料となることを恐れた軍の意向により発行されなかった。川崎重工や三菱重工部分は意図的に雑

 に描かれているが国際情勢の悪化と共についに発行されることはありませんでした。新聞社が企画し企業等を細かく書き込み広

 告料収入を計画していた。

  髙松橋は図の外になります。御崎橋付近に橋、第三橋、住吉橋、第五橋、浮橋、新川橋が記載されています。

       兵庫運河を渡るには渡し船?      

  

  橋の架橋は運河の開通よりも相当に遅れたようです。場所・時代は不明ですが兵庫運河の渡し船の絵葉書です。

  
     橋ごとに検討してみます。

       高松橋(運河第一橋)  

  

  運河第一橋と思われる絵葉書です。当初は和田旋回橋とありましたが高松橋に訂正されました。

  明治41年から大正4年の間に兵庫運河株式会社によって架橋されたと思われます。

        後出の土木学会誌に書かれた形状

  旧橋は運河第一橋と称したるものにして、径間60尺の回転橋なりしも、其の幅員僅かに11尺に過ぎず、且構造極めて簡素

 なる仮橋にて、交通上甚だしき不便を感ずるのみならず、重量物の運搬亦不可能の状態に在り、‥‥  以下略

  旧橋の写真の掲載があればすべては解決するのですが旧橋の写真はありませんでした。

       グラフこうべ  昭和55年3月号 特集兵庫運河の記事  神戸市史料室 陸井敏子

  まだ、この橋が運河第一橋といわれたころには木造手動式回旋橋だった。船頭が声をかけると、橋の番人が浮き桟橋を押すよ

 うにカイで押して水路を開けてくれた。‥‥  以下略

  カイで押して回るとは当時の技術の精巧さに驚きます。しかし橋の上に人がいませんのでハンドルで歯車を回すのではないよ

 うです。 

          運河第一橋説?                  運河第五橋説?                

   

  写真 左 浜山プロムナードの案内板の高松橋の写真。

  写真 右 「市民のグラフ こうべ」昭和55年4月号で「神戸・橋と歴史」落合重信氏に第五橋として紹介された写真。

  落合重信氏は大正元年生まれ、平成7年82歳で亡くなられましたが、神戸市史編纂室勤務で定年、神戸史学会の代表を務め

 られた郷土史の専門家で年齢的にも第五橋の現物を見ておられて間違われることは無いとは思うのですが、神戸市説によりま

 す。詳しくは第五橋で説明します。

       高松橋の跳開橋の説明板 

  

  旧高松橋は、昭和3年に架けられ、橋の完成により市道『髙松線」が開通した。橋は東側の可動橋部分、27.889メートル

 がはね上げられる、「一葉式跳開橋」とよばれるはね橋であった。

  跳開橋といわれる形式の橋は、17世紀のオランダを原点とし、19世紀後半から20世紀前半にかけて、欧米で発展した。

 日本では、髙松橋のほか、東京の隅田川に架かる「勝鬨橋」など、数例しかない。

  歯車を使って大きな橋が跳ね上がる景色は、壮観なものがあり、多くの人々の目をたのしませた。

  新「髙松橋」は平成元年より道路拡幅計画にあわせて掛換工事に着手し、平成6年に完成した。橋の畔に設置された「親柱」

 は旧髙松橋のものを修理復元するとともに、高欄も「はね橋」を模倣した形状とした。     

                                       平成6年8月

 主要寸法

  可動橋:全長22.889メートル               

  固定橋:全長10.820メートル

  橋 桁:全幅19.482メートル

  車 道:14.545メートル

  歩 道:1.818メートル

  トラニオン ガーダー:全長17.545メートル

  カウンターウェイトガーダー:全長15.132メートル

  全カウンターウェイト:521.316トン

  鋼材重量  可動橋 284.630トン

  鋼材重量  固定橋 48.271トン

  床版木製

  開閉用主機関:75HPモーター2台

  80度全開に要する時間:1分20分

  せっかくの跳開橋でしたが、機帆船の減少と、交通量の増加により昭和12年には開閉を中止します。固定化することにより

 木製の床版を強化したのかもしてません。
  
       土木学会誌 第16巻第五号 昭和5年5月 に掲載された写真です。

  

  橋の全景と機械室、工事中の光景です。

  

  橋のたもとに旧高松橋の説明板があります。

  

  新幹線の車両は大潮の時期の干潮時を利用して高松橋の下をくぐります。開かないのが恨めしい限りであります。満州鉄道

 のアジア号の機関車もこうして運ばれたのでしょうか。その頃は橋は開いていましたが。

          
       御崎橋(運河第二橋)

  地図上では「運河第二橋」の表示は見つかりませんが落合重信氏の「神戸・橋と歴史」に説明があります。

  

  あくまでも推測ですが、初代の御崎橋は兵庫運河の市有化のあと旧住吉橋のような太鼓橋形の木造橋が架けられ、次に中間

 に橋脚のある絵葉書の鋼鉄橋が架けられたと思います。

  

  現在の御崎橋は平成12年の竣工です。


       材木橋(運河第三橋)         

  

  付近は今も、材木町と呼ばれていますが多くは製材工場の多くは苅藻島の材木団地に移転しました。

  あくまで推測ですが、御崎橋と同様に、木造橋→橋脚のある鋼鉄橋→橋脚の無い鋼鉄橋と変わったのでないかと思います。

  現在の材木橋は昭和56年の竣工です。


       和田旋回橋         

  

  和田岬線は明治21年に山陽鉄道の資材運搬のために敷設されました。明治23年から一般の貨物輸送も行なっていま

 す。兵庫運河の建設時はすでに運行していましたので、線路に平行に仮設線路を造り和田旋回橋の築造、運河の開削とな

 りますので完成時期は微妙ですが、兵庫運河が一部使用を始めた明治32年でしょうか。髙松橋が固定化された昭和12年

 には開閉を中止します。昭和38年に回転装置が撤去されます。手でハンドルを回し歯車で回転させました。

  当時に運河クルーズの構想があれば残っていたかも知れませんが残念なことでした。公害で思いもしなかったのでしょう。


       住吉橋(運河第四橋)

  地図上では運河第四橋の表示は見つかりませんが落合重信氏の「神戸・橋と歴史」のなかに説明があります。

  

  市民のグラフこうべ昭和46年10月号「こうべの橋」で「兵庫運河の住吉橋 老朽化のため新しいコンクリート橋が建設中

 で、この橋の消え去る日も近い」と紹介されています。

  大正8年の兵庫運河の市有化の後、御崎橋・材木橋・住吉橋がほぼ同時期に同じような同形橋として建設されたと思います。

 御崎橋・材木橋・住吉橋がつくられた頃は兵庫運河は海のバイパスの役目を終えて、工場への艀による原料や製品の輸送の時代

 に移っており当初から固定橋であったと思われます。運河は貯木場を兼ねて、橋の向こうには製材所が見えます。

  

  現在の住吉橋は昭和47年12月の開通です。ではなぜ当初の木造橋が残っていたのでしょうか。それは橋の北に有った新川

 貨物駅の影響であったと思われます。駅が障害となり車の利用が少なかったのでしょう。高度成長期に南北交通を確保するため

 道路の拡幅とともに駅を飛び越える陸橋をかねて大型橋が造られました。しかし今はこの高さが歩行者にとって障害となってい

 ます。

   小説キャナルタウン 3 兵庫運河 住吉橋の謎(2016.12.24)

   小説キャナルタウン 5 和田岬線 新川支川 新川(貨物)駅(兵庫臨港線)(2017.1.19)
をご覧下さい。



       清盛橋(運河第五橋)磁石橋・開運橋   

  明治41年の地図に開運橋として登場します。明治32年から41年の地図がありませんので完成時期は不明ですが兵庫運河

 株式会社の計画図に無く船橋と近すぎることから運河開通同時ではないと思います。

  

  絵葉書資料館で見つけた開運橋と思われる絵葉書です。橋が開くことを開運にかけて命名されたのでしょう。(神戸名所)兵

 庫運河磁石橋と説明があります。磁石橋はコンパスの針のように回ることから付けられた名前です。「開運橋」の名が忘れ去ら

 れたのに対し「磁石橋」の名は「第五橋」とともに人々の記憶に残っていました。カラーの絵葉書のように見えますが日本人の

 手先の器用さで白黒写真に彩色したものでお土産として人気がありました。「開運橋」より「磁石橋」の名が一般的だったので

 しょうか。開運橋と書いてあればすべてが解決するのですが、運河第一橋も運河第五橋も磁石橋です。

   

  写真 左 髙松橋で一度出ましたが落合重信氏氏によって「大正13年ごろの兵庫運河の回転橋・第5橋」として紹介された

       写真です。

  写真 右 市民のグラフこうべ昭和55年3月号兵庫運河で紹介された「活気のある朝の出勤風景(第五橋)」の写真です。

       正面からの写真で橋の形状は分かりませんが、影から欄干の形状はわかります。トラスト構造ではなくて縦に並ぶ

       鉄筋だと思います。この点は絵葉書と合いませんが修理改修されたのかも知れません。正面に見える橋のようなも

       のが兵庫臨港貨物線の低いガードです。これが自動車交通の障害となって第五橋が奇跡的に残ったのでしょう。

  写真の磁石橋が運河第一橋でない検証です。遠くに山が見えます。運河第一橋と考えた場合、南側の西岸から撮ったことにな

 りますので、右側の橋より奥の建物は運河の形から写真に写ることはありません。写ったとしてもかなり斜めの写真になりま

 す。この写真が運河第一橋でなければ、必然的の運河第五橋となり、残りの写真が運河第一橋となります。

  私も、この絵葉書を見つけるまでは、髙松橋の回転橋が運河第五橋ではないかと思っていました。2枚の写真が実は時代が違

 う同じ橋の可能性も否定できません。私は郷土史の専門家でもなければ、橋の専門家でもありません。そもそも地元の人間です

 らありません。私の単なる推測です。

  

  現在の清盛橋です。昭和59年に兵庫臨港貨物線が廃止され、道路が拡幅され昭和62年に第五橋の東隣に架けられました。

  橋の欄干に平家に関する絵物語のレリーフが沢山あります。清盛塚に近いことから公募により清盛橋と命名されました。道路

 には和風の並木が植えられ神社仏閣が並びます。兵庫大仏能の福寺に通じます。

  小説キャナルタウン 34 兵庫大仏能福寺 鐘楼落慶法要 住職晋山式(2018.12.7)で稚児行列の行なわれた道路です。


       船橋(浮橋)

  

  おそらく、和田旋回橋以外では兵庫運河完成時に有った唯一の橋で船を繋いだ船橋であったと思います。

  すべての戦前の地図で確認されますが現在はありません。開運橋からは大して離れていないので本当に浮橋であれば危ない目

 をして渡る必要が無いと思いますが全く謎の橋です。兵庫運河は昭和21年から昭和32年の改修で本川部分と新川運河の一部

 が拡幅されます。当時のは幅は清盛橋の長さ程度でした。


       新川橋

  新川運河部分ににありますので、兵庫運河五橋には含まれませんが、兵庫運河の橋です。

            明治19年                  明治31年

   

  新川運河は、北半分は当初から橋が架けられ、南半分は橋がありませんでした。南の端には渡し船のが有ります。これにより

 北は小型船、南は帆のある大型船と使い分けられていたと思っていたら明治31年の地図に橋が現れます。

  これでは兵庫運河が和田岬のバイパスの役目をが果たすことが出来ません。千石船は帆柱を倒すことが出来ますが面倒すぎま

 すし洋式帆船は無理です。しかし兵庫運河の工事が始まればここに橋は必要です。

  

  絵葉書資料館で見つけた「新川橋」と思われる絵葉書です。「兵庫運河つり橋」と説明があります。ロープで「つる」にして

 も支柱となるべき柱がありません。開き方に謎は残りますが、新川橋は可動橋だったのです。個人的には目から鱗の大発見でし

 た。

  

  反対側から撮した新川橋です。

   

  写真 左 運河の北半分は橋が架けられ小型船が利用していました。

  写真 右 大正14年、新川橋の海側に固定式のコンクリート橋の新川橋が架けられて市電が走ります。これで帆船の航行

       は出来なくなります。

  

  現在の新川橋は平成25年に耐震改修されたのものです。(工事内容としては架替えです。)


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