団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説タウンハウス 9 ポンプ池と神出発電所 淡河川・山田川疏水(淡山疏水)

2018-03-09 05:59:12 | 日記
     末尾に出動団及び神出発電所に関する資料を追加しましたのでご覧下さい。(H30.4.21)

  小説タウンハウス 5 再録小説タウンハウス 第4回岩岡観光ぶどう園(2017.8.28)の国立播州葡萄園と山田川疏水の話の

 なかで、仮題「岩岡の地図では池だらけなのに池のない不思議な風景」を予告しましたが今回はその第1回となります。ジグソ

 ーパズルの1ピースのような話ですので簡単に全体像をお話しします。(今後もバラバラな1ピースずつ掲載する予定です。)

  国立播州葡萄園のあったいなみ野台地と、隣り合う岩岡の地は瀬戸内海性気候で雨が少ない上に川の無い台地で水の確保に苦

 労をしてきました。すでに江戸時代から六甲山の北を流れる山田川から用水計画がありました。いなみ野台地は姫路藩の時代か

 ら水が少なくても栽培できる綿を作ってましたが明治になり安い綿花が輸入され壊滅します。明治19年播磨国加古郡印南新村

 他二十箇村関係水利土功会を設立、明治21年淡河川疏水に着工明治24年4月、3年4ヶ月の難工事の末、26キロ離れた淡

 河川からいなみ野台地に淡河川疏水を完成させます。山田川より淡河川が工事が容易であった為です。しかしさらなる水田化の

 希望に応えるべく淡河川山田川普通水利組合を結成、明治44年2月山田川疏水の工事に着手します。大正4年1月山田川疏水

 幹線水路が完成、大正8年2月、支線及び溜池の全てがが完成します。淡河川疏水の着工から実に31年の歳月が経っていまし

 た。合わせて淡山疏水と呼ばれています。岩岡に水が来たのはこの時になります。

  いずれも、地元で水をあまり使わない期間(淡河川は9月20日~5月20日・山田川10月1日~5月31日)のみ水を貰

 う約束ですのでいなみ野や岩岡には多くの溜池が作られました。淡山疏水事業ははその後、国営東播用水に引き継がれます。

     平成15年  残すべき文化的景観    文化庁

     平成18年  疏水100選       農林水産省    

     平成18年  兵庫県の近代遺産     兵庫県教育委員会

     平成21年  近代産業遺産       経済産業省

     平成22年  ため池100選      農林水産省
  
     平成22年  推奨土木遺産       土木学会

     平成26年  かんがい施設遺産     国際かんがい排水委員会  に選定されました。

       神出発電所とポンプ池の位置関係 地図は「いなみの台地を潤す水の路淡河川山田川疏水」から   

       

  神出発電所は稲美町に向かう合流幹線にありました。直線距離で約4㎞あり電線が張られました。

       ポンプ池(6号池)

   

  ポンプ池記念碑(昭和38年5月)と記念碑(昭和54年以後と思われる)  ポンプ池の看板

   

  写真 左 ポンプ池記念碑碑文  写真 右 記念碑碑文

       

  山田疏水完成に伴い作られた溜池です。岩岡地域部分。 

       

  青色の棒グラフが淡河川からの通水量。赤色の棒グラフが山田川からの通水量です。山田川の方が通水量が多いことが分かり

 ます。単位は坪立法です。  坪立法=1間(1.81818m)×1間×1間=約6立方メートルです。

  50坪立法の水で一町(約10000㎡)の田に一寸(約3㎝)の水を入れることが出来ます。尺貫法では計算しやすい単位

 です。

    ポンプ池記念碑 の碑文

  ポンプ池構築

   起工  大正三年四月吉日

   竣工  大正五年四月吉日

   関係面積 四拾町三反歩

   工事費  三万一千九百圓也

  さく井構築

   起工  昭和三十四年七月三十日

   竣工  昭和三十五年六月三日

   工事費 三百一万圓也

  碑建設   昭和三十八年五月吉日

   関係者氏名    12名(1名は重複で標示)

     出動団   

  関係者氏名の初めにポンプ池初代団長・ポンプ池二代目団長の氏名があります。池の築造は各村ごとに「出動団」を作り

 村民総出で作ったと伝わっています。出動団の団長でしょうか。

  さく井構築は地下水をくみ上げて利用したのでしょうか。池の漏水で地下水が増えたとも考えられます。

     記念碑 の碑文

  元禄時代明石城主の開拓に依り入植せしめたのが近代岩岡歴史の始まりであった。丘陵痩地の上、水利の便を持たない此地の

 農業経営が如何に困難なものであったかわは想像に余りあるものであった。幸い此地の人々をして水利を開発する画期的大事業

 を立上らしめるに至った。貧困から解放される途は此以外には見いだし得なかったのである。加古川の支流淡河川山田川水利組

 合を結成神戸の北六甲山系流れの水運延々二拾粁に及ぶ用水運河と一号から一七号を数える溜池が構築され岩岡の地が一変して

 百年の夢であった黄金の波打つ美田に化したのである。

  ポンプ池もこうして大正三年四月起工同五年五月竣工完成した溜池であるが数多い溜池の中で丘陵高所に築造された溜池とし

 て疏水の水路は溜池より遙かに低い処を流れ溜池えの流水溝は無く貯水はポンプ電力にたよる為め本当は六号池なるも人々はポ

 ンプ池と云う様になった。此の様に水利に恵まれぬ溜池故、歴代の代表者は灌漑事業の改善改修溜池の管理等に付き家を忘れ身

 命懸けて努力している感謝の念新たにする時溜池の老朽化に伴い漏水激しく此度び国県市の助成を得て大規模な改修工事を行

 なう事に成りポンプ池を近代的な姿に衣替えしている此時に当り関係者相寄り創始の精神に返り何時何時迠も先輩者の想いを致

 し感謝の念深くする事はやがて新時代が文化を吸収して輝かしい未来を建設する意味において記念碑を建設する次第である。

       今回の改修

  昭和五十一年十一月起工

  昭和五十四年三月竣工

  総工費 六千四百五拾円

  面 積 四〇町壱反

  人 員 八拾七名

     関係者氏名

  いなみ野・岩岡の地には水利に関する数多くの石碑がありますがいずれも先人の苦労を偲び感謝の念にあふれたものです。

  ポンプ池の歴史と概要は碑文の通りであります。まだ「観光地化」していないので看板にも面積等の記載はありません。

   

  岩岡支線は県道377(野村明石線)号線の手前「岩岡5号サイフォン」(写真 左)で地下に潜りポンプ池の下(写真 右

 の遊水池の奥に見えるコンクリートの溝)で地上に現れます。コンクリートの建物がポンプ室で後ろに見える堰堤がポンプ池

 です。都市計画図で拾った大まかな海抜ですが、岩岡5号サイホンが95.7m、遊水池が95m、ポンプ池の堰堤の上が

 100mです。

       サイフォン(噴水管)・逆サイフォン・伏せ越し

  サイフォンの原理とは灯油タンクから石油ストーブに灯油を移す場合や、魚の水槽の水をホースを使って排水する場合など

 液体が一度高い所を通って流れ落ちる現象を言います。この逆に一度低い所を通った水が再び上がってくることは理科的には

 「連通管の原理」であります。しかし土木技術としては「サイフォン」(日本語訳は「噴水管」)と呼ばれています。理科的

 な間違いを正すため「逆サイフォン」と表示される場合もあります。昔は「伏越」と呼ばれ少なくとも江戸時代からある技術

 です。
     小説タウンハウス 13 御坂サイフォンと御坂神社 淡山川・山田川疏水(淡山疏水)5(2018.9.14)

      「サイフォンの誤用の始まりもここ?」があります。


   

  ポンプ池の巨大な堰堤です。南側が一番高いので見栄えのする南側を西(写真 左)と東(写真 右)から撮った写真になって

 しまいました。(東西の堰堤は長くて一部しか写らない事情もあります。)写真右の森は岩岡神社です。

       妄想 巨大古墳は溜池だった?

  まるで巨大な古墳のようなポンプ池を見上げていると、「巨大古墳溜池説」を思い出しました。水を汲上げるポンプが有れば

 掘った土を周囲に積み上げたより多くの水を貯める池を作りますが、ポンプの無い古代は掘った土は真ん中に積み上げ周囲の堀

 に水を貯めました。真ん中の島をお墓にしたのは指導者に対する感謝の気持ちでしょう。

  ポンプ池の堰堤の下の大きさは、幅約140m長さ約210m位、形もなぜか前方後円墳に似ています。逆に作れば30位ぐ

 らいの巨大古墳となります。どちらにしてもほぼ人力で作りあげた先人の力に驚くばかりです。
  

       岩岡の展望台

  ポンプ池は岩岡の最も高い岡の上に大きな堰堤が築かれた、岩岡の展望台と言えるでしょう。

       

  ポンプ池から見る雄岡山、雌岡山です。山田川疏水は山の裏側を回ってきます。山田川の頭首工(取水口)はさらに2倍以上

 の距離があります。

   

  写真 左 岩岡神社方面、写真 右 明石海峡大橋です。明石海峡大橋は林の影になって一部しか見ることが出来ません。

       ポンプ池遊歩道の整備  

  お隣の稲美町においては、花火大会の行なわれる加古大池公園や天満大池公園の他にも葡萄園池他多数の溜池の堰堤に遊歩道

 が整備されて溜池の生活の中での活用が進んでいますが、一方同じく水不足で苦しみ多数のため池を作った神戸市西区において

 は(たぶん)遊歩道が整備された溜池も無い対照的な状況にあります。池の管理方針の違いでしょうか。神戸市においてはレク

 レーション・健康施設は他にいくらでもあると言うことでしょうか。

  岩岡で一番高い、岩岡の展望台、そして歴史的価値の高いポンプ池の整備を期待します。

   (従って現在は冬の野焼きの後一時期以外は毒ヘビ注意の状態となりますのでご注意下さい。)

  
       神出発電所

  山田川疏水事業において驚くべき事はポンプ池で必要な電力をまかなうために水力発電所まで作ったことです。

  規模は違いますがアメリカのルーズベルト大統領のニューディール政策のテネシー川総合開発事業の20年以上前の事です。

       電力事情  

  明石郡での電気供給は明治36年明石電灯株式会社による明石町588戸の供給から始まります。岩岡村にいつ電気が来たか

 の判りませんが以下は推理のヒントになるかも知れません。(矛盾する内容もあり正確ではありません。)

  明石電灯の明治42・43年頃の供給戸数 明石町・塩屋村間 996戸   

  石炭火力発電 1キロワットの発電コスト4銭9厘    (本邦電気事業統計及び景況に関する調査報告書 明治44年)

  加古川市(当時は加古川町)に電気が来たのは明治30年代と言われてますが詳しいことは判っていません。明石電灯から電

 気を買うことについて「月々膨大な電気代を明石に取られることは困る」の反対意見も有ったそうです。電灯誘致に積極的だっ

 た伊藤運送店が「明石電灯加古川出張所」看板を掲げ加古川に電灯をつけました。当初は60灯。(加古川の昔と今から)

     電車の開通

  明治43年3月15日 兵庫電気軌道 兵庫ー須磨間開通

  大正6年4月12日  兵庫電気軌道 兵庫ー明石間全通

  大正12年8月19日 明姫電気鉄道 明石ー姫路開通

     大正6年8月16日大阪毎日新聞の記事  (新聞記事文庫 神戸大学付属図書館 から)

  播州の電灯電力戦(1~4)の中から拾いました。記事の大意は多数ある電灯会社が統合されていくであろうと云うものです。

  ◯ 電灯会社は各郡割拠の状態 各郡ごとに地域免許を持った電灯会社がある。

     明石電灯  明石郡 加古郡

  ◯ 播州一円で町村と称せられている町村の中で電灯設備が無いのは室津(現在たつの市室津町)のみであるが播磨水電から

    出願中である。その他の町村は僻遠の土地を除きいずれも電灯電力設備が普及している。

      大正7年3月 松下電気器具製作所が創業 祝 創業100周年

  現在のパナソニック(元松下電気産業)が創業し間もなく二股ソケットを発売大ヒットを飛ばします。話のパターンは色々

 あるそうですが「電灯をつけて本を読みたい弟と、電気ごてを使いたい姉」が困っているところを見て思いついたと云われてい

 ますが都会においては電灯以外にすでに電化製品も使われていたようです。(二股ソケットの発明はもっと昔ですが松下幸之助

 は切れた電球の金具を再利用することにより安く、改良することにより故障の少ない製品を作りました。)
       
      大正15年3月 小部(現在の神戸市北区鈴蘭台)に電気供給

  播州ではありませんが「小説 君影小唄」舞台となった鈴蘭台に山田電灯株式会社により山田村1600戸に電灯が灯りまし

 た。神戸電鉄(神戸有馬電気鉄道)の開通は昭和3年11月になります。

  当時は電気が急速に普及している時期であり計画・着工時とポンプ池の運用開始時期では電力事情はかなり変わっていると思

 われますが、現在に比べると電気料金は相当高かったようで、自家発電所の建設となったと思われます。

  昭和34・35年に用水路の改修が行なわれた時に、発電所の管理費より電力の購入費が安いので廃止されました。
  
       

  住宅地図が古いですが西濃運輸神明支店があります。西濃運輸の南側の合流幹線から取水して、田の下の導水路を経て二十番

 池の窪地の落差を利用して発電します。

   

  写真 左 の短いガードレールの少し左ぐらいに取水口がありました。

  写真 右 現在は何もありません。発電用の水は分水し写真の手前まで落下せずに導水されていたと思われます。

   

  写真ではわかりにくいのですが、ガードレールに沿って高いネットフェンスがあります。フェットフェンスの端から左下を見

 ると、半分土に埋まったヒューム管が見えます。

   

  神出発電所の水圧管路と思われるヒューム管です。外径約60㎝内径約45㎝で落差は5mぐらいです。

  淡山疏水・東播用水博物館の方のお話では、最終確認はまだのようです。しかし最近は、神出発電所に関する問い合わせが増

 えているそうです。

  淡山疏水の輝かしい受賞曆から考えると、雑木・下草が切られて道路に面して「淡山疏水神出発電所跡」の案内板が立つのも

 そう遠くないことと思います。

   

  写真 左 谷底の神出発電所の建物があったと思われる平場です。

  写真 右 神出発電所の写真はありませんが山田川疏水のもう一つの広野発電所の写真です。(淡山疏水・東播用水博物館)
  
  山田川疏水にはポンプ池の他に、広野揚水機場がありそれぞれに対応する合計二カ所の発電所が作られました。



        小説タウンハウスは再録小説タウンハウスとしてブログに収録されています。

        第1回 アカシザウルス(2017.4.7)   第2回 明石中央体育会館(2017.5.12)
        
        第3回 遊び放題(2017.6.30)      第4回 岩岡観光ぶどう園(2017.8.25)

        第5回 タウンハウス岩岡(2017.9.22)  第6回 岩岡神社秋祭り(2017.10.20)


       追加資料

  図書館で「淡河川・山田川疏水50年史」を見つけました。関係部分を紹介します。本のコピーが図書館に寄贈されたため

 写真は非常に見にくくなっています。

       出動団

  大正2年3月に、日本勧業銀行から資金貸し出しの条件の1つとして示されました。

  溜池潅漑地域ごとに出動団を作り、溜池潅漑工事で得た賃金の一部(10%)を貯金し通帳を団長が管理し、承認が無ければ

 引き出させないようにする。一体となり工事の成功を期すると共に、各組合員も借り入れの担保を提供?するとするものです。

 (貯金は農家負担金の返済に充てられました。普通水利組合は山田川疏水の建設費の85%を日本勧業銀行からの借り入れで

 建設しました。返済は農家負担金として各農家が負担しました。H31.3.16追記)

       神出発電所

   

   写真 左 は大正11年  写真 右 は昭和15年10月のものです。ずいぶん木が大きくなっています。今は木に埋も

 れた状態です。

   大正10年7月2日大阪逓信局長より自家用電気工作物施設認可

   大正11年3月6日使用許可

   ポンプ池が完成後しばらく経ってから発電所が出来たようです。

     発電所位置  明石郡神出村北字谷ノ北995

     発電所出力  12キロワット

     使用水量   許可水量7立方尺(毎秒)

            水車1基の所要水量7立方尺(毎秒)

     落   差  取入口放水路間の高低差39尺3寸2分

            有効落差       38尺

     水力工事   水圧管  内径1尺5寸、厚4寸鉄筋コンクリート管、長さ76尺8寸

            水 車  横軸型反動タービン23馬力、回転数1200回(毎分)

     電気工事   発電機  直結型3相交流3300V、60サイクル、15KVA、力率0.8


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