和田岬砲台は三菱重工神戸造船所の構内にあり三菱重工の所有となっています。このため見学には事前の申し込みが必要で
す。第2木曜日の午前が見学日となっていますが、詳しくは「和田岬砲台見学」で検索してみて下さい。
三菱重工神戸造船所は現在は一般の船舶は建造しておらず、潜水艦の建造に特化した造船所となっています。延び延びにな
っていますがMRJ三菱リージョナルジェットの量産化に当たっては主翼の製造を担当する予定だそうです。そんなわけで工
場内は一切撮影禁止です。砲台の写真はパンフレットからお借りしました。正門横の受付が集合場所となっており、砲台までは
マイクロバスで移動します。
厚さ1.5mの分厚い花崗岩の入口です。ここから撮影可です。階段があります。内部は2階建ですが見学は1階のみです。
2階を支える4本の太い柱の真ん中に深さ5.2mの井戸があります。井戸の真上の天井に穴があり、2階から水を汲める
構造になっています。砲身の冷却用と言われています。写真左は砲弾を置く棚です。 後編に続く。
摂海防備令(大阪湾の防衛)
幕府は安政5年(1858)日米修好日米修好通商条約等(安政5ヵ国条約)の締結に前後し「摂海防備令」を出し大阪湾
一帯の防備を始めます。江戸湾警備兵力の中から鳥取・岡山・柳川・長州の4藩の兵を大阪方面に移します。このうち長州の兵
3000人・砲116門が武庫川以西、西須磨までの30kmの警備に付きます。各大名領でも戦備を整えます。
しかし朝廷はこの程度では全く不安で文久3年(1863)3月22日上洛中の将軍家茂の後見人徳川慶喜を呼び出して摂海
防備12箇条を突きつけます。
① 大坂城を拡張、淀川を城内に取り込み大砲数千門を配置する。
② 近江、丹波などの内陸部の兵力を大坂に集中する。
③ 尼崎、岸和田両城を強化籠城に備える。
④ 淀川の中間点、八幡山に要塞を作る。
⑤ 堺に大砲二・三百門を備えた要塞を造り大和の兵に守らす。
⑥ 兵庫和田岬に八稜城を築き、内陸部各藩兵に守備させる。
⑦ 安治川、木津川の川筋から八幡まで砲台を造る。
⑧ 兵庫、堺の町人は大至急京都へ立ち退くよう命令を出す。
⑨ 紀伊、阿波、淡路には有力な公家を一人ずつ派遣、守備の状況を視察させる。
⑩ 兵庫、堺などの港には軍艦を常時配置する。
⑪ 海岸沿いの住民も戦闘に加わるようにする。
⑫ 将軍が江戸に帰る場合は尾張、紀伊、水戸の御三家の内一人が摂海防備の責任者として残る。
もはや無理難題に近いものがありますが、その後一般化したしたものもあります。朝廷の軍事ブレーンが誰であったかが気に
なるところであります。
幕府も武庫川から須磨の海岸線は水深が深く大型の外国船が接近しやすく、陸上は平地続きで攻めやすく守りにくい地域とし
て対策を急ぎます。幕府の直轄事業の和田岬・湊川・西宮・今津の4砲台と同じく勝海舟の監修になる明石藩舞子砲台について
簡単に紹介します。
今津・西宮から兵庫の地は尼崎藩領でしたが明和3年(1766)幕府はこの地の24村14000石を幕府領とし代替地と
して 播磨国で19000石を与えます。幕府もこの地の有用性に気が付いたのです。名目上は5000石増となりますが、灘
の酒造地帯と兵庫と西宮の港を失った尼崎藩の財政はこの後困難を極めます。
兵庫津の防備
地図は陸軍測量局2万分1迅速図・仮制図で上半分が「兵庫」明治19年測量、下半分が「須磨村」明治31年測量となり
ます。小説キャナルタウン 5 和田岬線 新川支線 新川(貨物)駅(兵庫臨港線)(2017.1.19)で使用した地図と同じで
す。内容は兵庫臨港線が出来る以前に新川貨物線があったが兵庫運河の開削により廃止になったと言うものです。
上が湊川砲台、下が和田岬砲台となります。その間の距離は約2.2kmです。
和田岬砲台
文久3年(1863)5月に着工し翌、元治元年8月に完成していますが星形の土塁が出来たのは慶応2年11月になりま
す。他の3砲台が円筒形の石堡塔に円形の土塁なのに対して和田岬砲台だけが8門の砲座を備えた星形の土塁となっています。
これは「摂海防備12箇条 ⑥兵庫和田岬に八稜城を築き、内陸部各藩兵に守備させる。」に対する江戸っ子勝海舟の洒落返し
ではないでしょうか。
4砲台とも実際に大砲が配備されることはありませんでしたが、和田岬砲台は西南戦争の時に一時弾薬庫として利用されて
いたそうです。兵庫津の警備は当初、長州藩が出在家町に大砲を備え、その後、湊川・須磨間は高松藩が警備に付きます。湊川
と和田岬に砲を配置します。射撃訓練があるので大きな音がすすが驚かないようにとのお触れも出ました。
この部分に重大な訂正があります。
小説キャナルタウン 26 新兵庫運河物語 10 和田岬砲台(後編)マーテロー塔(2018.6.22)をご覧下さい。
少なくとの和田岬・湊川砲台には大砲が配備されていました。
湊川砲台
和田岬砲台とほぼ同じ工期です。和田岬がその後水族館や遊園地が出来、観光地化して写真や絵が残っているのに対して湊川
砲台は1枚か2枚の写真しか残っていないそうです。三角の屋根が付けられています。当時珍しいアスファルトも使用されされ
たようですが雨の多い日本では平屋根の砲台では雨漏りが大変だったのでしょう。湊川砲台は、修理中の軍艦の弾薬の保管場所
として利用されたそうで、それ故屋根も必要だったのでしょう。
明治24年に内部が焼失、翌年取壊されています。
湊川砲台は石堡塔の完成自体が慶応年間までずれ込んだとも言われています。西宮・今津の砲台は石堡塔と土塁の内訳は分か
りませんが慶応2年までかかっています。同じように地盤の悪い砂浜に同じ石堡塔を建てながら大きな差が出ています。工事の
困難さや熟練した職人の不足が言われていますが、資金不足もあるのではないかと思います。幕府が造ったと言われますがお金
は地元負担です。警備の強化費や砲台の建設費が地元の負担の限界を超えていたのかも知れません。
西宮の防備
西宮も交通の要衝としてまた防衛上も重要なところでです。事実、幕末長州藩は西宮に上陸して京に向かいます。
地図は明治42年のものです。左が西宮砲台、右が今津砲台となります。この間の距離は約1.3kmです。
両砲台とも文久3年(1863)年の着工で慶応2年(1866)の完成です。
西宮砲台は明治17年内部を焼失、明治40年代に阪神電鉄に払い下げられ、香櫨園遊園の一部として利用されました。現在
も阪神電鉄の所有です。
今津砲台は明治43年海軍省から民間に払い下げられ大正4年解体されました。砲台の石を使った石碑があります。
西宮砲台
地図は大正12年のものです。円形の土塁は台風の高波で徐々に浸食されていったもので、戦後間もないの頃の地図では残
っています。砲塔の左に見える台形の土が土塁であると思われます。すぐ前が海で4砲台ともこんな感じであったのでしょう。
もともと和田岬砲台と同じように「石」でしたが、昭和53年の補修に合わせて、外側の漆喰(9cmほどの西洋漆喰「石
灰に砂とスサを混ぜたも」の上に鼠色の漆喰で仕上げ)を文化財として忠実に復元しましたがこれが「ガスタンク・石油タンク
・ドラム缶・グロテスク」と悪評プンプンの罵辞雑言、市民や文化人を巻き込んだ大騒ぎとなりましたが最近は見慣れたのでし
ょうか受け入れられているようです。和田岬砲台はこの事件を教訓に漆喰は復元されなかったとも言われています。
明石藩舞子台場
「連載小説AKB」の「明石海峡安全日記シリーズ」のAKBの秘密基地となっている、明石藩舞子砲台です。
明石藩舞子台場については 連載小説AKB 10 第13話 明石舞子砲台ではなくて明石藩舞子台場だった。(2017.2.3)
徳島藩松帆の浦台場については 連載小説AKB 12 第15話 徳島藩松帆の裏台場を調査せよ(前編)2017.5.5)
をご覧下さい。
将軍家茂は上洛に合わせて大阪城を拠点に紀淡海峡から明石海峡まで軍艦奉行勝海舟の案内で「順動丸」で精力的に視察を続
けます。舞子浜にはすでに台場がありましたが文久3年(1863)4月21日幕府は改修を命じ一万両を貸与します。現在は
地上面までしか石垣が残っていませんが、完成時は更に4mの石の壁があり壁に開いた砲門から射撃するまさに要塞でした。2
年後に完成、大砲15門が配備される予定でしたが配備されることはありませんでした。
淡路島側には松帆の浦台場を主砲台とする6カ所の台場がありました。艦上からから視察した将軍家茂は「防御も行き届き、
出兵調練も熱心に行なわれているので阿波守家来どもまで褒美をさしつかわすつもり」と5月18日の朝廷への報告書に書いて
います。徳島藩による幕府の軍艦朝陽丸の誤射事件(勝海舟が乗艦しており見事命中。見れば分かるはず。標的代わりにしたと
怒っていたそうですが内心はそうでもなかったのかも知れません。砲台司令長坂三知は切腹しました。)が起こったのは7月
20日です。張り切りすぎていたのでしょう。
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