いのりむし日記

いのりむしの備忘録です。

Nakajima Hisae

ハンス・ケルゼン『民主主義の擁護』1932年

2016-08-07 | 歴史
第3次安倍再改造内閣のニュースを聞きながら、岩波文庫で2015年1月に刊行されたハンス・ケルゼン『民主主義の擁護』(岩波文庫『民主主義の本質と価値』)を読んでいる。

現代的で読みやすい訳で、1932年のドイツと、80年以上を経た今、民主主義を標榜する国々で次々に起きていることが重なる。私たちは、1930年代からドイツとヨーロッパで起きたことを知っているという点では、ことの深刻さを理解できるはずなのだが、ケルゼンの指摘する民主主義をめぐる葛藤に、いったい有権者のいかほどが興味を示すだろうか。とりわけ気になるのは、民主主義をひときわ高く掲げる人たちの、同じ政治的主張を共有する者の間でしか通用しないような物言いが、民主主義への冷笑や揶揄や苛立ちに燃料を投じているのではないかということである。

恐らく、これから先幾度と読み返すであろうケルゼンの言葉をメモっておく。


「何が社会的正当性か、何が善か、何が最善か」という問題に、客観的正当性をもった絶対的回答、万人にとって直接的に明証的で、直接的拘束力をもつ回答が可能であるならば、民主主義などというものはそもそも不可能である。疑問の余地なく正しい行動について、投票し、決を採ることことが何の意味をもちうるか。絶対善の権威の恩恵を受けるすべての者は、その権威に感謝をもって無限の服従を捧げる以外の何をなし得るか。


最後に考察さるべきは、ボルシェヴィストでもファシストでなく、他ならぬ民主主義者たちによってなされ得る次のような民主主義批判である。
民主主義は、その敵に対する防衛を最も怠る国家形態である。民主主義の悲劇的運命は、その最悪の敵をも自らの乳房で養わねばならないところにあるようだ。民主主義が自らに忠実であろうとすれば、民主主義の否定を目的とする運動をも容認し、反民主主義者を含めたあらゆる政治信条に平等の発展可能性を保障しなければならない。我々の前で展開しているのは奇妙な劇だ。民主主義は、最も民主的な方法で廃棄されようとし、民衆はかつて自らに与えた権利を奪ってくれと要求している。彼らは、自分たちの最大の不幸は自分たちの権利だと信じ込まされているからだ。このような情景を眼にするとき、我々はルソーのあの悲劇的な言葉を信じたくなる。「このような完璧な国家は人間には立派過ぎる。神々の国のみが民主的統治を永続させ得るであろう」と(『社会契約論』第三編四章)。
さらにこの情景を前にして、「もはや民主主義の擁護も理論的擁護にとどめるべきか」という問題が起こる。「民衆がもはや民主主義を欲しなくなり、多数者が他ならぬ民主主義破壊の意志において結集している場合、民主主義はその民衆、その多数者に抗して自らを防衛すべきか」。この問いを設定すること自体、「否」と答えることに他ならない。多数者の意志に抗して、実力行使に訴えてまで自己主張する民主主義なるものは、もはや民主主義ではない。民衆(Demos)の支配(Kratos)である民主主義が民衆に敵対して存立し得るはずがないし、そのようなことは試みるべきでもない。民主主義者はこの不吉な矛盾に身を委ね、民主主義救済のための独裁など求めるべきではない。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう」という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである。
(ハンス・ケルゼン『民主主義の擁護』 長尾龍一・植田俊太郎訳)
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