いのりむし日記

いのりむしの備忘録です。

Nakajima Hisae

環境保護の啓発、それとも自己啓発 動物写真のメッセージ

2012-05-15 | 動物

 動物写真展の入り口で、「順路に従って進んでいただくと、写真に添えられたメッセージがストーリーになっています。」と告げられ、嫌な予感がした。そしてすぐに、この写真展が野生動物保護や環境問題の啓発展示であることを理解した。
 『地球の宝石 PRICELESS』(ブラッドリー・トレバー・グリーヴ/文 岩合光昭/写真)という本の構成を、ほとんどそのまま使った写真展は、グリーヴと岩合の共同作品というべきだろう。
 しかし、選りすぐりの動物写真は、環境問題を啓発する申し分のないストーリーのための演出である。グリーヴは、大小さまざまな生き物の姿に賛辞を送り、多様性を愛で、動物を理解することは容易ではないけれど、人と動物はつながっているのだと指摘する。そして、メッセージは次のように結ばれている。  

この地球に暮らすかけがえのない生き物たちを守りたいと思ったら、まず自然の現状に目を向け、あるべき姿を思い描くことだ。そしてささやかな一歩を踏みだそう。
いますぐ行動を起こせばまだ希望はある 美と 喜びに満ちた 世界を守りぬくことができるだろう。(だってパンダのいない世界なんてつまらないもの)
              ブラッドリー・トレバー・グリーヴ/文 石田享/訳

 『地球の宝石』の巻末には、誰が書いたのか不明な解説があり、グリーヴと岩合の言葉を紹介している。
 岩合は「写真にはいろいろな見方があるのに、キャプションはそれをひとつの方向にしばるものだ」と危惧を示しながらも「ぼくの写真をどう見せてくれるのかそこに興味がある。彼と組む意味もそこにあるわけだから」と述べたという。
 グリーヴは、「自分の考えかたを他人に押しつけることはできないが、ひとつの見方を提示することで本人が問題点に気づくきっかけになればうれしい」と語っている。

 おそらく、この写真展に感動する人は少なくないのだろうし、今、地球上で起きている問題を知るきっかけにもなるのだろう。しかし、私は、グリーヴが岩合の写真のどれを選び、どれを選ばなかったかを含めて、写真に添えられたメッセージがつくり上げる世界に違和感を抱いた。
 直接的には野生動物の保護を訴えているが、むしろ人間賛歌に彩られた自己啓発である。自然保護とは、とどのつまりが人間のためであると考えれば、人間賛歌が基調にあることも合点がいく。とはいえ、その違和感の理由を確認するため、岩合の写真集『おきて』(1986年)を開いてみた。『おきて』で、岩合は「人間と野生動物との折り合いのつけ方がいかに困難なこと」であるか、そして、生きようとする限り逃れられないことがらに思いをめぐらす。

 「啓発」を目的とした語りが、ものごとを単純化しがちであることの功罪については置く。
ここでは、異なる個性の共同作業によって見える彼我の認識の違いについて、注目しておきたい。

 かつてグレゴリー・コルベールの動物写真に接した時、強い戸惑い感じたことを思い出す。
神々しいほどの「擬人化」に、嫌悪に近い違和感を持った。私が動物に見出す「美しさ」とは全く異なるものだった。私が感じた違和感とは、コルベールと一緒に仕事をした中村宏治が、コルベールと自分との違いを次のように語っていることと、おそらくつながっている。

僕は写真家で、生物と接して、生物と折り合って撮らせてもらうのが仕事。彼は芸術家で、しかも欧米人だから、生物と折り合うんじゃなくて、生物を自分の意のままに動かしたいと思っているんです。(日経サイエンス2010年5月号)


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