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耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

「伝わらぬ“他力本願”」~真宗教団の嘆きは解消されるか?

2008-06-22 13:44:36 | Weblog
 昨日の『中外日報』は、「伝わらぬ“他力本願” 本願寺派が布教使大会」との見出しで次のように伝えた。

 <浄土真宗本願寺派(不二川公勝総長)の第十二回全国布教使大会が17,18の両日、本山本願寺で開かれた。「往生浄土」「他力本願」など浄土真宗の教えの根幹にかかわる言葉が現代人に伝わりにくくなっているとされる中、五百人余りの布教使らが「どうすれば僧侶と門信徒、現代人との溝を埋めることができるか」などの課題をめぐり討論を重ねた。>(「中外日報」:http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0806/news080621/news080621_01.html
 
 いやはや、なんとも情けない話である。本願寺派に関しては先月17日の記事(『巨大教団の宗教行事~目のくらむ金集め』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080517)で、「こんなことでいいのですか?」と書いたばかりだが、ゆかりの本願寺の現状を知れば“親鸞”の歎きはいかばかりであろうか。「親鸞聖人750回大遠忌」などと大仰な行事にかこつけて大金をかき集める暇があったら、“親鸞”と真摯に対峙し、“親鸞”の声に耳を傾けるべきではないか。

 “親鸞”は弟子唯円房が、「念仏を称えますが、踊りあがって喜ぶような気持ちにはなれません。また、一刻も早く浄土へまいりたいという気持ちになりませんが、これは一体どうしたことでしょう」と尋ねたことにこう語っている。

 <親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこゝろにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまふべきなり。よろこぶべきこゝろをおさへてよろこばせざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよ頼もしくおぼゆるなり。…>(『歎異抄』第九章)

 唯円の問いに、「おゝ、お前さんもそうだったか。このオレもまったくおなじ気持ちじゃよ」と、親鸞が身を乗り出して応じている姿が、この文面からありありと読み取れる。こうして「他力本願」が本物であることを、親鸞は弟子とともに再認識していくのである。体ごとぶつけてくる師の言葉から、唯円は仏法開眼の喜びを『歎異抄』に残した。今の坊主が、果たして体ごとぶつけて門徒と対峙しているのかどうかが問われているのではないか。さらに『歎異抄』をみてみよう。

 <…親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。…>(『歎異抄』第二章)

 「ひとすじにただ念仏をとなえて、弥陀にたすけて頂け」という法然上人のお言葉そのままを信じているだけで、そのほかに格別いいたてるようなことはない。念仏をとなえていれば、本当に浄土へいけるのか、それでも地獄に落ちてしまうことになるのかわからないが、万一、法然上人の言葉にだまされて地獄に落ちたとしても、なんら後悔することはない、と親鸞は語る。

 師に対するこの絶対不撓の信従こそが親鸞の“安心(あんじん)”のタネであった。こんにちの寺僧たちと信徒の間にこんな信頼関係があるだろうか。私の知人の家に来る東本願寺派(浅草)の坊主は、とっかえひっかえした外車で法要に来て、なんとも知れない話をしてお布施を懐に帰るが、情けないというか、哀れというか、お寺の先が見えているとしか言いようがない。

 
 (法然上人と親鸞の浄土教理解の相違については改めて書いてみたい。)




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