参議院選挙は与党大敗して終った。当然のこととはいえ、国民の見識は健在と見るべきか、はたまた、安部政権の失政に対する一過性の「腹いせ」なのか、因果は定かではない。
すでに8月、「原爆慰霊の日」も近いが、久しぶりに“氷焔”(『週刊エコノミスト』巻頭コラム:筆者・故須田禎一)を引いてみる。いつみても引き締まった文に魅せられる。
<“わが軍は1968年に南アラブ(アデンなど)から完全に撤退する。
1970年代のなかごろまでにシンガポールおよびマレーシアからも撤退する。
ただし、香港の駐留部隊は維持する”
“七つの海”を支配したユニオンジャック、斜陽のなかを“名誉ある退場”へのプログラム。
香港だけは維持したい、というのは感傷か、虚栄か、それともソロバンか。
耳をすますと、地軸のきしるような、世界史のあしおとが聞こえる。
歌人ウノノサララ姫(のちの持統女帝)は父の天智と夫君の天武とのあいだに立って苦しんだが、彼女のきずいた藤原京の址に立ったとき、律令国家の草創期の“草いきれ”を感じることができる。
人間の歴史は、つねに鋭角に旋回する。
“富士は冷たく旅人を拒絶したが、筑波は暖かくねぎらった。それで筑波にはみどりの樹々がしげり、富士は氷雪に閉ざされるようになった”(常陸風土記)。
いま富士は山頂を一神社に占拠され(名古屋高裁は神社側に軍配をあげた)、中腹を星条旗の影で穴だらけにされている。
そして筑波は“研究学園都市”とやらに。
滄海は桑田となり、スズメはハマグリとなるたぐいか。
炭鉱の主婦たち、まなじりを決しての座りこみ。
CO(一酸化炭素)中毒対策の立法は未来を志向する。
過去になずむ引揚者補償や農地報償に熱心な議員諸君が、COに冷淡なのはなぜか。
化学記号に弱いからのみではあるまい。
アメノウズメのしりふりダンスも“歴史教育”でおしえたいそうな(教育課程審議会ちかく中間報告)。
なるほど、アカカガチ(引用者注:ほうずき)のような眼をしたお歴々によって“皇国史観”を復活なさるおつもりか。
英国のジャーナリストのアンドルー・ロスら三人、ボリビア共和国の政府軍に捕われ、アンデス山中で消息を絶つ。
このリベラルな文筆家がチェ・ゲバラとどの程度の連絡をもっていたのかは知らない。
しかしラテンアメリカの支配層(およびその背後にいる“北方の巨人”)にとっては、いまや枯尾花さえゲバラの影に見えるらしい。
武智鉄二の『黒い雪』が“精神生理学的に”法解釈される日本は、その点でまだ“ぬるま湯”なのだろう。
ともあれ、東京地裁の無罪判決を支持したい。
風紀上の“しめあげ”をゆるすならば、すべてに自己検閲の風潮を生み、風霜にめげぬ士気が地をはらうにいたるであろうから。
魂の自由を、瞳のように大切にしたい。
(1967年8月1日)>
いつもながら、時代がかさなって見えはしないか。
すでに8月、「原爆慰霊の日」も近いが、久しぶりに“氷焔”(『週刊エコノミスト』巻頭コラム:筆者・故須田禎一)を引いてみる。いつみても引き締まった文に魅せられる。
<“わが軍は1968年に南アラブ(アデンなど)から完全に撤退する。
1970年代のなかごろまでにシンガポールおよびマレーシアからも撤退する。
ただし、香港の駐留部隊は維持する”
“七つの海”を支配したユニオンジャック、斜陽のなかを“名誉ある退場”へのプログラム。
香港だけは維持したい、というのは感傷か、虚栄か、それともソロバンか。
耳をすますと、地軸のきしるような、世界史のあしおとが聞こえる。
歌人ウノノサララ姫(のちの持統女帝)は父の天智と夫君の天武とのあいだに立って苦しんだが、彼女のきずいた藤原京の址に立ったとき、律令国家の草創期の“草いきれ”を感じることができる。
人間の歴史は、つねに鋭角に旋回する。
“富士は冷たく旅人を拒絶したが、筑波は暖かくねぎらった。それで筑波にはみどりの樹々がしげり、富士は氷雪に閉ざされるようになった”(常陸風土記)。
いま富士は山頂を一神社に占拠され(名古屋高裁は神社側に軍配をあげた)、中腹を星条旗の影で穴だらけにされている。
そして筑波は“研究学園都市”とやらに。
滄海は桑田となり、スズメはハマグリとなるたぐいか。
炭鉱の主婦たち、まなじりを決しての座りこみ。
CO(一酸化炭素)中毒対策の立法は未来を志向する。
過去になずむ引揚者補償や農地報償に熱心な議員諸君が、COに冷淡なのはなぜか。
化学記号に弱いからのみではあるまい。
アメノウズメのしりふりダンスも“歴史教育”でおしえたいそうな(教育課程審議会ちかく中間報告)。
なるほど、アカカガチ(引用者注:ほうずき)のような眼をしたお歴々によって“皇国史観”を復活なさるおつもりか。
英国のジャーナリストのアンドルー・ロスら三人、ボリビア共和国の政府軍に捕われ、アンデス山中で消息を絶つ。
このリベラルな文筆家がチェ・ゲバラとどの程度の連絡をもっていたのかは知らない。
しかしラテンアメリカの支配層(およびその背後にいる“北方の巨人”)にとっては、いまや枯尾花さえゲバラの影に見えるらしい。
武智鉄二の『黒い雪』が“精神生理学的に”法解釈される日本は、その点でまだ“ぬるま湯”なのだろう。
ともあれ、東京地裁の無罪判決を支持したい。
風紀上の“しめあげ”をゆるすならば、すべてに自己検閲の風潮を生み、風霜にめげぬ士気が地をはらうにいたるであろうから。
魂の自由を、瞳のように大切にしたい。
(1967年8月1日)>
いつもながら、時代がかさなって見えはしないか。