犬にはいろいろの想い出がある。
幼い頃、家には馬、山羊、闘鶏、鶏、犬、兎、小鳥などいろんな動物がいた。裏庭の泉水には鯉や鮒やハヤ、ウナギが棲み、湧き水の井戸のそばには大きなガマ蛙も鎮座していた。生活がさまざまな動植物に囲まれた環境にあったことは、いまにして思えがまことにありがたいことだった。とくに父が動物が好きで、生まれたての鶯に笛の音だけを聴かせて育ててみたり、闘鶏に熱中したり、陶磁器運搬の荷馬車用として飼っていた馬を草競馬に出走させたり(常勝馬だった!)、動物は家族に欠かせぬ存在で、犬も家を出る18歳まで、二代続いてずっと一緒だった。不思議と猫だけは飼われなかったが、多分、母の里に有名な「化け猫騒動」のお寺があって、猫は「魔物」と信じられていたのかも知れない。
そんなわけで、父に似た私もかつて二匹の犬を飼っていた。職場の先輩にもらったマルチーズと専門店の店先で衝動買いしたミニチュアピンシャーである。両方とも一応血統書付の牡犬だった。マルチーズは“ポピー”、ミニチュアピンシャーを“エル”と名づけた。“ポピー”はいつも飼い主の顔を窺いながら行動する繊細な犬で、真夜中にかかりつけの獣医院に連れ込んだこともあった。一方“エル”は、
ドーベルマンを祖先とする(実はミニチュアピンシャーが先ともいう)だけあって、機嫌が悪いと飼い主をも咬むほど気性が荒く、ある時、ちょっとの間に家を飛び出し、探しにいったら背中を血だらけにして帰ってきた。近所の人の話では、自分より何倍も大きな犬と喧嘩していたという。書き出せば、犬に関する想い出は悲喜こもごも尽きない。
さて、犬が自殺することがあるのだろうか。吉村昭著の短編集『天に遊ぶ』(新潮文庫)にこんな話がある。獣医師の磯貝のところに、近くに住む旧家の当主で大企業の石油会社を定年退職した保坂が、飼っている犬、磯貝が世話した牝のヨークシャーテリアを連れてくる。
<…磯貝は、助手から渡されたカルテに視線を走らせ、犬のかたわらにしゃがみこむと、
「クッキー、どうした」
と、犬の頭をなぜ、聴診器を体にふれさせた。
かれは、胸部に入念に聴診器をあてた。呼吸のたびに、一ヵ月前にはしなかった濁音がきこえる。…>
磯貝は「レントゲンをとってみますか」と言って、結果は午後に報(しら)せるから三時半過ぎに来てくれと言っていったん保坂を帰す。午後の手術の仕事を終って、磯貝は助手にレントゲン写真を持ってこさせ、丹念に見つめながら言う。
<「珍しい。肺癌だよ」
と、のぞき込んでいる助手に言った。…
かれは、珍しいと言った意味を助手に説明した。犬の肺癌は他から転移したものが大半で、原発癌は極めて少ない。剖検で眼にすることはあっても検査で発見する例は稀で、アメリカの学会誌に十万匹に五匹の割合だと記されていたのを読んだことがある。…>
磯貝が助手に説明していると保坂がやって来る。磯貝はシャーカステンにさし込んだフィルムを保坂に示しながら肺癌であることを告げる。
<保坂が、落胆したようにかたわらに坐る犬を見下した。
犬は、磯貝に眼をむけている。
「今すぐにというわけではありませんが、いずれは死ぬと覚悟して下さい。これから呼吸が困難になってきますが、見ているのが辛いほど苦しがるようになった時に安楽死させるかどうか、考えましょう。ともかく、犬の様子を注意していて下さい」
磯貝は、犬に眼をむけながら言った。
「そうですか、わかりました」
保坂は立ち上り、礼を言って犬とともにドアの外に出ていった。>
そのあと客はなく、磯貝は二階の居間にあがり、ソファーに横になった。いつの間にかまどろんでいると助手が、保坂が来ていることを告げる。
<保坂が、ドアーのかたわらに立っていた。犬は連れていなかった。
「犬が死にました」
保坂の顔には、血の気が失われていた。
「死んだ? おかしいですね。どうしたんでしょう」
磯貝は、保坂の顔を見つめた。急変するような状態ではなく、少なくとも一年近くは生きていると予測していた。
「車にはねられまして」
保坂は、うわずった声で言った。>
家に戻って十分ほどして突然、犬が家の外に走り出し、疾走してきた車にはねられ即死したという。座敷で飼っていた犬は、戸が開いていても決して外に出たことはなかった。その犬が驚くような速さで飛び出したというのだ。言葉もなく突っ立っている磯貝に保坂は口を開く。
<「家内が、まるで自殺したようだ、と言うのです。先生が私に肺癌でいずれ死ぬだろうと言ったのを犬がきいていて、絶望して死んだのではないか、と」
磯貝は、椅子に腰をおろし、保坂に顔をむけると、
「ワンちゃんが人の言葉を理解できるはずはありません。しかし、私と保坂さんの言葉の様子や表情を見て、不吉なものを感じたことは想像できます」
と、言った。
保坂は、うなずいた。
決して家の外に出ることのなかった犬が、家にもどってすぐに飛び出し、車にはねられたというのは、自分が診断結果を犬の前で口にしたから、としか思えない。
かれは、症状を説明する自分の顔を見つめていたヨークシャーテリアの光った眼を思い起した。
犬の前で重病であることを口にするのは、控えるべきであったのか。言葉を理解できぬ犬でも、敏感に事情を察知したのかも知れない。
「やはり自殺なのでしょうかね」
保坂が、弱々しい口調で言った。
磯貝は、無言で椅子に坐っていた。>
子どもの頃、近くの農家の馬が病気になって、トラックに寝かされて場に運ばれていく別れぎわに、飼い主のおばさんが泣きながら馬の顔を撫でていた。馬の目からも涙が流れ出るのが見えた。
「馬が泣いている!」
見送った人みんなが、口をそろえて言った。
馬も、犬も、かわりはなかろう。常識に反するようだが、これまで動物に親しく接してきた私には、この犬の異常な行動はやはり「自殺」としか思えない。
幼い頃、家には馬、山羊、闘鶏、鶏、犬、兎、小鳥などいろんな動物がいた。裏庭の泉水には鯉や鮒やハヤ、ウナギが棲み、湧き水の井戸のそばには大きなガマ蛙も鎮座していた。生活がさまざまな動植物に囲まれた環境にあったことは、いまにして思えがまことにありがたいことだった。とくに父が動物が好きで、生まれたての鶯に笛の音だけを聴かせて育ててみたり、闘鶏に熱中したり、陶磁器運搬の荷馬車用として飼っていた馬を草競馬に出走させたり(常勝馬だった!)、動物は家族に欠かせぬ存在で、犬も家を出る18歳まで、二代続いてずっと一緒だった。不思議と猫だけは飼われなかったが、多分、母の里に有名な「化け猫騒動」のお寺があって、猫は「魔物」と信じられていたのかも知れない。
そんなわけで、父に似た私もかつて二匹の犬を飼っていた。職場の先輩にもらったマルチーズと専門店の店先で衝動買いしたミニチュアピンシャーである。両方とも一応血統書付の牡犬だった。マルチーズは“ポピー”、ミニチュアピンシャーを“エル”と名づけた。“ポピー”はいつも飼い主の顔を窺いながら行動する繊細な犬で、真夜中にかかりつけの獣医院に連れ込んだこともあった。一方“エル”は、
ドーベルマンを祖先とする(実はミニチュアピンシャーが先ともいう)だけあって、機嫌が悪いと飼い主をも咬むほど気性が荒く、ある時、ちょっとの間に家を飛び出し、探しにいったら背中を血だらけにして帰ってきた。近所の人の話では、自分より何倍も大きな犬と喧嘩していたという。書き出せば、犬に関する想い出は悲喜こもごも尽きない。
さて、犬が自殺することがあるのだろうか。吉村昭著の短編集『天に遊ぶ』(新潮文庫)にこんな話がある。獣医師の磯貝のところに、近くに住む旧家の当主で大企業の石油会社を定年退職した保坂が、飼っている犬、磯貝が世話した牝のヨークシャーテリアを連れてくる。
<…磯貝は、助手から渡されたカルテに視線を走らせ、犬のかたわらにしゃがみこむと、
「クッキー、どうした」
と、犬の頭をなぜ、聴診器を体にふれさせた。
かれは、胸部に入念に聴診器をあてた。呼吸のたびに、一ヵ月前にはしなかった濁音がきこえる。…>
磯貝は「レントゲンをとってみますか」と言って、結果は午後に報(しら)せるから三時半過ぎに来てくれと言っていったん保坂を帰す。午後の手術の仕事を終って、磯貝は助手にレントゲン写真を持ってこさせ、丹念に見つめながら言う。
<「珍しい。肺癌だよ」
と、のぞき込んでいる助手に言った。…
かれは、珍しいと言った意味を助手に説明した。犬の肺癌は他から転移したものが大半で、原発癌は極めて少ない。剖検で眼にすることはあっても検査で発見する例は稀で、アメリカの学会誌に十万匹に五匹の割合だと記されていたのを読んだことがある。…>
磯貝が助手に説明していると保坂がやって来る。磯貝はシャーカステンにさし込んだフィルムを保坂に示しながら肺癌であることを告げる。
<保坂が、落胆したようにかたわらに坐る犬を見下した。
犬は、磯貝に眼をむけている。
「今すぐにというわけではありませんが、いずれは死ぬと覚悟して下さい。これから呼吸が困難になってきますが、見ているのが辛いほど苦しがるようになった時に安楽死させるかどうか、考えましょう。ともかく、犬の様子を注意していて下さい」
磯貝は、犬に眼をむけながら言った。
「そうですか、わかりました」
保坂は立ち上り、礼を言って犬とともにドアの外に出ていった。>
そのあと客はなく、磯貝は二階の居間にあがり、ソファーに横になった。いつの間にかまどろんでいると助手が、保坂が来ていることを告げる。
<保坂が、ドアーのかたわらに立っていた。犬は連れていなかった。
「犬が死にました」
保坂の顔には、血の気が失われていた。
「死んだ? おかしいですね。どうしたんでしょう」
磯貝は、保坂の顔を見つめた。急変するような状態ではなく、少なくとも一年近くは生きていると予測していた。
「車にはねられまして」
保坂は、うわずった声で言った。>
家に戻って十分ほどして突然、犬が家の外に走り出し、疾走してきた車にはねられ即死したという。座敷で飼っていた犬は、戸が開いていても決して外に出たことはなかった。その犬が驚くような速さで飛び出したというのだ。言葉もなく突っ立っている磯貝に保坂は口を開く。
<「家内が、まるで自殺したようだ、と言うのです。先生が私に肺癌でいずれ死ぬだろうと言ったのを犬がきいていて、絶望して死んだのではないか、と」
磯貝は、椅子に腰をおろし、保坂に顔をむけると、
「ワンちゃんが人の言葉を理解できるはずはありません。しかし、私と保坂さんの言葉の様子や表情を見て、不吉なものを感じたことは想像できます」
と、言った。
保坂は、うなずいた。
決して家の外に出ることのなかった犬が、家にもどってすぐに飛び出し、車にはねられたというのは、自分が診断結果を犬の前で口にしたから、としか思えない。
かれは、症状を説明する自分の顔を見つめていたヨークシャーテリアの光った眼を思い起した。
犬の前で重病であることを口にするのは、控えるべきであったのか。言葉を理解できぬ犬でも、敏感に事情を察知したのかも知れない。
「やはり自殺なのでしょうかね」
保坂が、弱々しい口調で言った。
磯貝は、無言で椅子に坐っていた。>
子どもの頃、近くの農家の馬が病気になって、トラックに寝かされて場に運ばれていく別れぎわに、飼い主のおばさんが泣きながら馬の顔を撫でていた。馬の目からも涙が流れ出るのが見えた。
「馬が泣いている!」
見送った人みんなが、口をそろえて言った。
馬も、犬も、かわりはなかろう。常識に反するようだが、これまで動物に親しく接してきた私には、この犬の異常な行動はやはり「自殺」としか思えない。
悲しい結末です。